生年月日 |
1661年3月5日 |
出生地 |
エルノ エルナート公国 |
出身校 |
共和国中央大学 コムレニ共和国 |
通称 |
革命の母 |
称号 |
エルナート公 グライニア調和国初代主席 チャンタRSC政権RSC学術シンクタンク政治局高等諮問官 グライニア調和国亡命政府主席 リスヒューメ王国n代目総督 |
配偶者 |
なし |
親族 |
なし |
サイン |
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ユリーナ・アトルシェルト・フェル・エルナートは思想家、及び複数国の政治家。
調和主義を考案し惑星ユリーナで調和主義革命を起こし、
グライニア調和国を建国するが三代目主席により、国外追放される。
その後、複数国で政治活動を行い、2000年時点で
リスヒューメ王国総督である
経歴
革命まで
惑星ユリーナ(当時は○○)の小国であるエルナート公国の公家に生まれる。公位継承者として厳しい教育を受け同年代と関わることはなかったが、親の期待に応えるように優秀であり様々な本に読みふける生活であった。
10歳の頃に単身でユリーナの大国であったコムレニ共和国に留学。飛び級で15歳の頃名門中の名門である共和国中央大学に入学する。
コムレニでは比較的自由な行動ができたため、格差を目の当たりにする。
社会の矛盾に気が付きそれを解消しようとコムレニ人民党青年団に入るも党内のエリート意識にやられ分派である人民調和戦線を形成する。当初は自分はリーダーになるつもりは無かったが周りに推される形でリーダとなる
革命
そのころエルナートでは父の豪遊による経済難、そして格差の拡大が進んでいた。
この状況に憤慨したユリーナは真に国民すべてが活躍できる国家を目指し父に提言するが無視される。
そこで困窮していた市民たちに調和主義(初期調和主義)を宣伝。国民とともに立ち上がり革命を起こす。
初期のそれぞれの長所が活かせる調和主義体制は単純作業の機械化も相まって高い経済成長を実現した。不景気にあえぐ他国でも調和主義への羨望が高まり、調和主義反政府組織ができる。
1682年、全ユリーナの反政府組織に対し決起を呼びかけ調和主義革命を起こす。
新たに生まれた統一国家の名前を惑星名からグライニア調和国と名付ける
首席に
革命後、当初は○○を後継者として首席にする予定であったが、○○が固辞したことや、他のメンバーに推されたことにより自分が首席に就任。
プルスティアに発見され、外宇宙の存在を知り、外宇宙の可能性を信じ、プルスティアと共に歩むことを決断。調停者に加盟する。
内政面では技術力を宇宙水準に持っていく事を目標とし、研究に投資をした。この投資は功を奏し、グライニアが技術的に外国に追いつくことに成功する。
氷月事変
1690年、グライニアの2つの主星の一つである。△△が突如として輝きを失う。
惑星が凍結したため、産業が一時的に死んだ。
これに対し、ユリーナは短期的対策として
アンドロイドの積極導入、プルスティアからの援助の受け入れ。中期的には国内にパラテラフォーミングに用いられるドームの大量建設。長期的プロジェクトとして他星系のテラフォーミングを指示する。
辞任と亡命
1697年、国家の国家の再安定化に伴い、議長を辞任する。後継に○○を指名した。
辞任後は隠居生活を送っており、政治に関わることはあまり無かった。
1705年、急進的調和主義を唱える、カノーラ将軍がクーデターを起こし全権掌握。
命の危機を感じたユリーナは○○と共に在任時の友好国であったプルスティアに亡命
最終更新:2022年06月23日 00:32