knu^je-beng-geru^je-'n-ile-tarnou
		| 生年月日 | - | 
		| 出生地 | ジャフーグ クラフナン地方
 ニブレン
 | 
		| 没年月日 | - | 
		| 死没地 | ジャフーグ サナル地方
 ニャルカスナウ
 | 
		| 所属政党 | ナイユシ=ハウム党 | 
		| 次代 | ニャンクタルヒュ | 
		| 前代 | ファムイ | 
		| 出身校 | 大シャプチ大学グニール分校 | 
		| 前職 | ナイユス=ハウム党党首 | 
		| 称号 | 星衛主席、評議会議員、 国際社会ハウム化の開祖
 | 
		| 配偶者 | 未定 | 
		| 親族 | 未定 | 
 
 クヌージェ=イレ=タルノー、または
クヌージェ=ベン=ゲルージェ=ン=イレ=タルノー(
檀語:
knu^je-geru-je'n-ile-tarnou)は17世紀の
ニーネン=シャプチの政治家、政治活動家。1622年から1637年まで第37代ニーネン=シャプチ星衛主席、評議会議員、その後は元老院議員、元老院議長、終身タイユ=ウェグナ政治官を歴任。
 初の知的生命体による星間国家
ジエール帝国連邦と接触。後に軍事衝突である
シ=ギーラム事変が発生するもケルスト合意で
ケルスト・ユガウトラ・ウュス主席との対談で対外戦争を未然に防いだ人物として知られており、後の1623年に
ニーネン=シャプチが
大宇宙連合会議に加盟する国際社会参加の礎を築き上げた人物とされる。
 
概要
 ニーネン=シャプチはシ=ギーラム事変からレーウス星の存在を認知し、「星系外知的生命体は間違いなく存在する」という状態に至った。しかし、シ=ギーラム事変での国防の危機は、ニーネン=シャプチ人民の生命と財産の安全を脅かすものであった。
 当時のニーネン=シャプチ世論及び評議会は、歴史学者の著作「
海賊的銀河」の影響を受け、国際社会の参加について懸念されていた。しかし、シ=ギーラム事変の時に編成された使節団
「和解委員会」のメンバーとして実際にレーウス星やヒェルニエ星を見て回っていたこともあり、
ジエール帝国連邦のことを良く知っていたタルノーは、国際協力に関して感心を抱いている人物だった。彼は周囲の反対を押しのけて当時設立されたばかりの
大宇宙連合会議に加盟すべきと主張。1625年に加盟した。結果的に、ニーネン=シャプチは大宇宙連合会議の創設時のメンバーとほぼ同じレベルの発言権を獲得することに成功した。
 また、当時
チャグマ=ダプラ星系で生命体がいると思われる星系を発見。これが後の
ロフィルナ連邦共同体の領土であることが明らかになると、艦隊を派遣して国交を樹立した。
 ロフィルナと国交を樹立した功績は大きく、現在のニーネン=シャプチにおいてもなお最重要友好国としてニーネン=シャプチ外交の重要な起点となっている。
 しかし、その後1633年のサラティム騒動に始まる一連の事件は、ロフィルナとの関係を悪化させる非常に重大な事案となったが、同じくナイユス=ハウム党の第39代星衛主席デーチェーの下でケルジャーナ人和解委員会を結成し関係悪化に歯止めをかけた。
 星衛主席の任期満了後にも国際化に向けての運動に精力的に取り組み、国歌の制定や初の大民族祭の開催を推薦した人物として知られている。また、国歌
愛国シャプチ行進曲-いざ大いなるスワーシャカーチェよ-を作曲した
ライヴァイ=スムラナールとは終生親交を交わす友人同士の間柄だった。
生涯
生い立ち
 タルノーは
ジャフーグの中規模都市ニブレンの中流階級の家に生まれた。ニブレンは様々な人種が集まる個性豊かな街だったため、タルノーは幼少期からセタウ人、新世界人、ガールン人などの友達を持った。
 物心ついた頃から引っ込み思案な子になった。数人の友達以外とはあまり喋らず、物静かな子であったとされる。成績も素行も平凡で良くも悪くもない人物だったが、地球年齢約16歳頃に後のニーネン=シャプチ
国歌を作曲した有名な作曲家ライヴァイ=スムラナールと出会う。当時のスムラナールは自由奔放で活動的な青年で、タルノーとは対照的な性格だった。スムラナールはある日、親戚からもらったオンボロ宇宙船でニーネン=シャプチ一周旅行を計画していた。「タルノーも一緒に来てくれ」とスムラナールは誘ったが、当然タルノーは断った。しかし、出発当日、スムラナールは強引にタルノーを説得し一周旅行に付き合わせた。
 旅先では紆余曲折あったが、この経験がタルノーの転機となった。彼は異文化交流の面白さに目覚め、ニーネン=シャプチの少数民族に興味を持ち、大学進学を決意した。
 大学では少数言語や少数文化についての研究やフィールドワークに没頭した。両親がそこまで裕福でもなかったために、土レンガを運んだり、深い森で狩猟の手伝いをしたりして、行く先々で学費や生活費を稼いでいた。
星衛主席として
 タルノーは師と仰ぐ
ダロン=ファムイ星衛主席の換任にも似た形で星衛参事会選挙に当選した。当時のナイユシ=ハウム党は飛ぶ鳥を落とす勢いで融和党や平民のための団結党の有力候補に差をつけたと言われている。
 タルノーは「
ファムイ師匠の期待に応えなくてはならなかったため、最後まで気を抜けなかった」と当選時のコメントを残した。
 星衛主席就任直後からファムイの業務を引き継ぎ、来たるべくファーストコンタクトに向けて法整備を急いだ。
 平和的に解結できたとはいえ、ジエールとの関係はシ=ギーラム事変の影響でナイユシ=ハウム党やその支持者たちにとっては好ましいものとは言えず、厳しい批判もあった。
 しかし、任期満了が近づいた1624年には
大宇宙連合会議加盟の是非を問い国民投票の結果、賛成票70%以上を占めたため加盟に向けて動き出した。国家承認され、ニーネン=シャプチは大宇宙の仲間入りを果たした。この時のタルノーの熱意は半端ではなく、関係各所との調整に奔走し通常では2年かかるところを加盟申請まで8ヶ月という異例のスピードで成し遂げた。
 1625年の大宇宙連合総会では壇上でタルノーがニーネン=シャプチの代表者として大宇宙の加盟国に挨拶し、銀河(ナイユシ)間を繋ぐ手(ハウム)の重要性を訴え、それに参加できる機会を与えられたことに対して謝意を述べた。この演説は当時のニーネン=シャプチ国民にとって時代を象徴する名演説として記憶された。
元老院議員時代
 星衛主席任期終了後は元老院議員となり、ニーネン=シャプチの政治を裏から支える人物となった。主に連合会議時代の伝統や文化を色濃く残す活動に尽力した。社会人時代の
ヴェーグファダ=ツァニェーと議論を交わし、彼女の意見が政界にも通用することを見出す。その後、ツァニェーが狐の目党を設立した暁には政党アドバイザーとして辣腕を振るい、わずか3年で有力政党にのし上がらせた。
 1630年、ニャンクタルヒュ政権時代に国歌選定プロジェクトの一員となり、友人ライヴァイ=スムラナールの作曲した
愛国シャプチ行進曲-いざ大いなるスワーシャカーチェよ-を推薦し国歌に選ばれる。
 ニーネン=シャプチ初の大民族祭の開催に尽力した。当時の星衛主席だった狐の目党党首
ヴェーグファダ=ツァニェーに惜しみない支援を行い、大民族祭実行委員長を努め、1636年に第1回大民族祭を開催する。
評価
 タルノーはジエールとの関係強化を模索していたものの、警戒心を解くことはできず辞任したため、当時は厳しい批判もあった。
 特に
シ=ギーラム事変を起こしてしまったことに対する責任を問われたが、それに対してタルノーは「
偶発的な出来事に対しては前線の兵士であっても私であっても、それに対処することは不可能だった。 なぜならこれから我々が経験することは未だかつてない出来事だからだ」と釈明しつつも、シ=ギーラム事変のような偶発的な軍事衝突への想定が甘かったことを認めた。
 その間にもレーウスの他の三国(
ヴァルエルク、
サーヴァリア、
エルトリア王国)とファーストコンタクトし、それらは比較的うまくいったため、一般的には外交的接触に腐心しある一定の成果を挙げた星衛主席として評価されている。
 特に
大宇宙連合会議の加盟に関しては肯定的な意見が多い。
人間関係
名言
- 「世界は開けた。銀河は一つになった。宇宙世紀が始まった」―大宇宙連合会議加盟時の演説
- 「良い曲だ…。私は輝かしいこの国の未来を見たよ」―友人ライヴァイ=スムラナールの作曲した国歌を聴いて
トリビア
 愛国シャプチ行進曲-いざ大いなるスワーシャカーチェよ-のAメロ「イプカは見ている、どうか子供たちの涙が乾きますようにと…」のフレーズはタルノーが即興で替え歌して作詞したものである。これを気に入ったタルノーはライヴァイに歌詞に含むよう頼んだが、既に2番の歌詞が出来上がっている状態だったためにライヴァイはそれを認めず喧嘩になった。しばらくして、「ライヴァイ、許して欲しい。新しい歌詞のことは気にしないでくれ」と謝罪に行ったところ、ライヴァイは「俺は君の歌詞を気に入ったよ。だったらAメロを2回やればいいじゃないか」と言って組み入れた。そのため2番だけAメロが2回になった。
 
関連項目
最終更新:2022年04月11日 18:44