ファルトクノア文学(理:Krantie fon faltknoa、淮:daisvedrois faltknoaut)とはファルトクノア共和国で書かれた文学の総称である。


概要

基本的にファルトクノア文学はリパラオネ文学近現代の潮流を継承しつつ、それを克服しようとしてきた文学だということができる。
一方で戦前ファルトクノアの圧政機構的政府の下ではファルトクノア文学にはさらなる明確な特徴が植え付けられた。
まず、ファルトクノア文学はほぼリパライン語を用いた文学である。ファルトクノア政府が連邦化政策を実行して以降、国内でのリパライン語の公的な地位も固定化された。このため文学のための文章語としてはリパライン語のみが用いられることになった。
また、政府による厳しい検閲による影響もある。政治的な作品や連邦本土政府寄りの作品は発禁処分を受け、作者は投獄・処刑された。このように表現の対象に制限が加えられたものの、その代わりにファルトクノア文学ではフラン・クランティエ的な文学の方向性が明確になり、これが無菌状態のように発展していった。戦前ファルトクノア文学は戦後から「弾圧の文学」「旧政府派を囃し立てる笛」とのレッテルを貼られることが多いがこのような文芸としての価値を独自に育てていったことは特筆すべきことである。
戦後ファルトクノア以降、国の開放化とルーナ・モデルをはじめとする多くの言語保障政策によってファルトクノア文学は多言語化・多様化をなし、アルファル・クランティエ的な文学が復活することになった。

潮流

新イェスカ主義的批評理論

それまでファルトクノアの元となるファイクレオネにおけるリパラオネ文学批評の中心的な観点を担っていた論争に詩学の形式主義・創造主義論争というものがある。言語表現に形式を課すことによって言語表現が修辞的表現を得て更に文学的な価値を得て前進するとする形式主義(akrapsverlergera)と詩人の感性による創造性が詩の形式を呼び寄せることによって形式は成立するだけであり形式自体が先にあるわけではないとする創造主義(lojera)による論争であったが、一般的には20世紀に入るとターフ・ヴィール・イェスカによるイェスカ主義詩学が提唱され、前述の論争自体がナンセンスなものとして解決されてしまったと考えられていた。18世紀ごろには詩学の形式主義・創造主義からは散文文学の潮流である「純文学」と「大衆文学」が生まれており、それらに対する文学批評理論はイェスカ主義詩学を地盤としたイェスカ主義的文学批評理論が主流となっていた。
しかし、ファルトクノアではクローディア・デーリエ・クローリッド(klaudia*1d'Ailie klaulid)やフィリン・エス・ラーシアルス(Filine Esse lashials)などの文学批評家がこの見方に反対した。デーリエは新イェスカ主義に基づいてこれまでの「イェスカ主義詩学」はユエスレオネ社会党政治的維持思考を反映した不適当な文学批評理論であるとし、形式主義・創造主義論争がそれまでのイェスカ主義的文学批評理論によって打ち消されたわけではないと主張した。ラーシアルスはデーリエの主張を具体的に推し進め、レクタール・ド・シャーシュアンハルティア・ド・ヴェアンらの憶理学(la asvieulyr fon zifoscur)を応用して「永遠の連続性を求める憶えへの自主性の痕跡を辿ることが文学であり、これを批評することは自らの倫理の補強となる」とする筆評理論(inelnesel kuhanteerl)*2を提唱した。ラブレイ=デシ・ミリア・ミスウィ・ヘルツァーヴィヤは更にこの筆物(kuhanteerl)の分析を進めている。

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最終更新:2020年07月29日 00:23

*1 ちなみにこの名前はリパラオネ祖語*klu「来る」と属格語尾(リパラオネ語族の名前は属格に由来することが多い;現代標準リパライン語では分かりづらいが、ヴェフィス語派では分かりやすく、スキュリオーティエの語源はskylieでこれの属格形はskyliaut)-æɳdiəに由来する「来たるもの」という意味の名前である。現世名のクラウディアとは何の関係もない。

*2 kranteerl「書物、エクリチュール」と憶理学の用語kuhaを掛けている(詳しくはヴェアンのページを参照のこと)。日本語訳はkuhaの元ネタである燐字の「筆」と「批評」の「批」を掛けている。