作品別用語集 - くされ戦記 Part.2

「作品別用語集 - くされ戦記 Part.2」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

作品別用語集 - くされ戦記 Part.2 - (2008/10/14 (火) 11:05:36) の編集履歴(バックアップ)





 ここは登場人物:戦国武将編です。
 アイマスキャラ&ちびキャラはPart.1、タグやコメント解説に関してはPart.3をご参照ください。


伊達軍

伊達政宗

 ご存知奥州伊達家の若き当主にして、このシリーズの中心人物。名前は『正宗』ではなく『政宗』であるのでお間違えの無いよう。
 「伊達男」の語源となった、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての勇将。
 天下統一の野望に燃え、奥州を統一したが時既に遅く、豊臣による天下統一がほぼ完成に入っていた。
 また、世界貿易を志すも、徳川幕府により鎖国が行われ、挫折。生まれるのが遅すぎたと言われる。
 しかし、隙あらば天下を狙っていたようで、打倒豊臣・徳川を企てる事も度々あったようだ。
 徳川幕府においては外様大名の最大勢力となり、特に3代将軍・徳川家光には実の父のように慕われた。
 史実では料理が趣味。元々は兵糧開発のために行っていたのだが、戦国が終わり太平の世になると
 美食を極めるために料理の研究をしていた。
 政宗はその著書で「客人の接待は家の主みずから厨房に入り、膳を運ぶのが『もてなし』という
 ものである」という旨を記しており、また、珍味馳走の類いよりもさりげない物を旬に出すが
 良し、とも言っておるため、あふぅにおにぎりを振る舞った場面は非常に政宗らしいと言えよう。
 仙台発祥の料理が多いのは、政宗の影響と思われる。

 作中では巨乳派。というか年上(包容力のあるお姉さん系?)好きらしい。
 下心からあずささん・律子を伊達家に迎え入れるが、言動は意外とまともで誠実的。
 あふぅたちにも優しく接しているが、出会ってしばらくするまではコミュニケーション能力で難航している。
 ちなみに20匹目にてようやくまこちーと完璧なコミュニケーションを見せるも、本人は全くの無自覚。
 同じく20匹目にて『奥州探題』と名乗る事を決める。
 ちなみに史実でも政宗はこの役職を自称している。(室町幕府が滅んでおり、任命する人間がいなかったため)
 史実と同様、くされ戦記でも料理に関して色々と発言しており、8匹目では政宗自らが昼飯の支度をしていた。
 また、10匹目では餌付けを習得している。政宗本人にとって餌付けの自覚はなさそうである。
 14匹目では出陣に臨む謙信に大してもその腕を振るってみせた。また、その後であふぅ達にも
 作ってあげるなどの心遣いを見せている。
 ちなみに、あふぅ達に振舞った分はあずささんと協力して作っていたようである。
 当時から考えると、男子禁制とまで言われていた台所で料理を作る戦国大名は、後にも先にも
 この人以外には絶対にありえないと思う。
 おまけに料理に使った食材の分量はこまめに計算しているようで、かなり家庭的な大名である。
 なお、彼は酒に弱く、あまり呑めない体質であったようだ。そのため、15匹目には逆に酒好きな
 謙信から呑み方を教わろうとする場面が見られる。
 ……どうやらこの二人、なんだかんだで仲良くなったようだ。
 コメントからも架空戦記では珍しい「アイドルとカップル成立してほしい男」の筆頭格。
 普段は無双の中の人仕様で、酔うとBASARA仕様が混ざるようである・・・33匹目からの新OPで益々BASARA仕様になったのではと思うのは多分視聴者の殆どだろう・・・
 架空戦記のお約束に違わず、その隻眼はアイドルの3サイズを正確に見抜く。
 28匹目でこあみこまみに寝込みを襲われ、兜をどこかへ隠されてしまった。後に取り返したが、以降は政務の時には兜を外すことも多くなった。

伊達成実

 政宗の従兄弟(母方)であり、輝宗の従兄弟(父方)。伊達家三傑の1人で、「知の景綱」に対して「武の成実」と呼ばれる。
 無口だが優しい性格の持ち主で、「ふいんき」であふぅたちの感情や表現を理解できる程度の能力を持っている。
 史実では二階堂盛義(KOEIのグラで口を大きく開けている人。閣下の野望・愚民PKの特別編参照)
 の娘を妻として迎えている。
 三戸城攻略後には「ごまえー」とか口走ったりしてるので無口だけどノリは誰よりもいいかもしれないお茶目さん。
 そして可愛い小動物系が大好き。(10匹目にて判明)あふぅ達に結構気に入られている様子。
 くされ戦記の中でまともな分類に入る希有な存在。手先も何気に器用である。
 かなりの酒豪にして静かに湛える泣き上戸。

 その武勇が特に評価されるが、その著書である「成実記」が政宗研究の一級資料とされており、
 教養も豊かだったと推測される。
 それを受けてか、「本なら大抵は読める」とは本人の弁。

片倉景綱

 一般的に「片倉小十郎」の名で知られる人物。伊達家三傑の1人で、「知の景綱」と呼ばれる。
 ちなみに代々小十郎を名乗り、息子の重長は武勇の誉れ高く「鬼の小十郎」と称され、孫の景長は伊達騒動の際に活躍した。
 まさに伊達家の屋台骨の一族、家臣の鑑といえる……が、本作品ではかなりはっちゃけたツッコミ役として活躍する。
 言動に関しては容赦なく、輝宗に対しても銃を暴発させまくるという行為をやった。ちなみに銃が暴発した場所は屋内。
 11匹目では国人衆を「叩き潰してわからせましょう」とまで言ってしまった。どこの戦技教導官ですか、貴方は。
 14匹目では宇佐美に『きちんと当てて(殺って)くださいね』とまで言ってしまった。
 また、21匹目では遠路はるばる同盟の打診に訪れた徳川家康に、政宗と主従揃って散々な扱いをしてのけた。
 TPOを弁えない場合主君であっても容赦なく罵り殴り飛ばす出来た大人である。
 隠れキリシタン(後藤寿庵)、仙台真田家等、政宗の陰謀、隠し事を調べていると大体(表向き、名前だけだとしても)
 責任者は景綱もしくは片倉家という事になっている(ごめん、ちょっと記憶曖昧)。政宗の信頼の厚い反面、相当な苦労人である事が伺える。 
 ……多少主家筋にキレたところで、誰が文句を言おうものか。
 主政宗と違いBASARA要素は少ないが、丁寧な物言いで容赦のなさは同じナムコ作品の「独眼竜政宗」の影響かも知れない(東北統一を目標とするファミコンSLG。景綱はチュートリアル・進行役で政宗相手に普通に怒るし割と気安い感じ)
 なお全くの余談であるが、伊達家三傑の残りの1人は「能吏」と呼ばれた茂庭石見綱元。景綱とは親戚筋にあたる。

伊達輝宗

 政宗の父、第16代伊達家当主。いつにまでもなく変態。本人は変態と言う名の武士と言い張っている。
 あふぅやあずささんだけでなく伊達家の面々にも厄介者扱いを受けている人物。
 某国の紳士と似たりよったりである。しかし、まだあちらのほうが扱い的にマシ。
 それだけこの自称変態紳士がひどいのかが窺える。まともな言動はほぼないに等しい。
 身勝手なところは融通が聞かない様子。政宗の言うとおり、こういった輩に銃弾は勿体無い。
 散々危ない目に遭っているにも関わらず、厄介者扱いを受けている黒い虫の如く相も変わらず
 生き残っている。ある程度の危険回避アビリティーだけは習得している模様。
 (それでもこあみこまみのダブルキックは回避できなかったが)

 史実では当代随一の僧を政宗(&成実ら)の教育係に招くなど、スーパー子煩悩。
 政宗の才覚を見出し、当時若干18歳の政宗に家督を譲る。本人は男盛りの41歳だった。
 平均寿命が低い戦国時代としても異例である。同年齢で家督を継いだ人物として上杉謙信・織田信長等がいるが、大なり小なり内乱が起きており円満な形で相続されたのは政宗が殆ど唯一。
 その死の際には多くの重臣が追い腹を切ったから、そうとう人徳があったものと思われる。
 どうしてあんな変態に……だがそれがいい。
 ……何だかんだいって政宗の父親であるためか見るべき所はしっかり見ており、謙信の悩みにも何とはなしに気づいていた。
 飛び加藤と共に、18匹目以降の第1期OP、21匹目以降の第2期OPに出演。
 なぜか第2期では目線を入れられた。ちょっとは自重しろということなのだろうか。
 27匹目の第3期OPではアイドル陣を差し置いて何と3番目の紹介になった。愛称は「ジェシー」

伊達稙宗

 政宗の曽祖父であり、第14代伊達家当主。
 あまりにも個性が豊か過ぎるメンバーの中で数少ない常識人
 ……だったのだが、ちひゃーと将棋を打つようになってから精神年齢が下がってしまったご様子。
 将棋でちひゃーに挑むが最近はことごとく惨敗している様子。
 あふぅやちひゃー達に兵法を教え、結果として無断出撃を招いてしまった元凶でもある。
 この人に代表される伊達家の姻戚外交のおかげで、政宗は東北中が親戚だらけ。
 ついでに伊達家臣団もえらい関係が複雑。
 いうなれば擬似オーバーフロー家系図。むしろオーバーフローが擬似伊達家家系図と言うべきか。

 史実においては169条に及ぶ有名な分国法『塵芥集』(じんかいしゅう)を制定し
 (武田家の『甲州法度』・今川家の『仮名目録』よりも二十年近く早い)、
 政宗の奥州筆頭への道を切り拓いた伊達氏発展の基礎を築き上げた人である。
 だが、政略的に勢力を拡大するため、三男伊達実元(成実の父)を越後守護・上杉定実に
 養子に出そうとしたことや親戚筋に領地を割譲しようとしたことが元で家中を割り、

 息子・晴宗と内乱を引き起こすこととなってしまった。

伊達晴宗

 政宗の祖父であり、第15代伊達家当主。
 息子・輝宗、父・稙宗がコレでもかと目立ってるのに今まで何故か出なかった
 (プレイ画面にも)不憫な人。
 27匹目でようやく初登場となった。ぷちどる達を避難させている。

 史実では、稙宗と内乱(天文の乱)の末に家督を継いだが家臣団の動揺は激しく、
 統制に追われてしまう。戦国大名の基礎を築いた父と劇的な生涯を送った息子の影に隠れる
 地味な印象になった。とはいえ当時名が知られた群雄であることには変わりなく
 室町幕府により認可された全国大名衆50余名の中で、
 奥州では蘆名家と晴宗だけが奥州の大名として認められるという成果を遺している。
 ちなみに戦国大名としての伊達家の居城である、米沢に移したのは晴宗である。
 晩年は輝宗とも険悪になるが、自分の轍は踏むまいとあっさりと隠居した。
 隠居後は悠々自適な生活を送り歌の席をよく設けてその席で幼少時の政宗が和歌を披露したという。

奥平信昌

 19匹目で相手の計略をガードした副将として登場。元の名は奥平貞昌。
 実は初登場は2匹目と意外に古参。10:04で伊達家に士官を求めてやってきた。
 7匹目では出陣メンバーにも加わっているが、存在感は皆無。9:10前後を確認してみるべし。
 史実では元今川氏の家臣から武田氏→徳川氏と鞍替えし、家康からかなり重用されるほどの有能な
 人物。家康から名刀・大般若長光を賜るだけでなく、信昌の籠城を支えた奥平の重臣12名に対して
 一人一人に労いの言葉を掛け、彼らの知行地に関する約束事など子々孫々に至るまでその待遇を
 保障するという特異な御墨付きまで与えた。
 あまり知られていないことだが、史実では武田勝頼率いる1万5千の武田軍団相手にわずか500の手勢で長篠城を守りきり、それが長篠の戦いにおいて勝利をもたらした所謂キーパーソンとも言える人物であり、信長から「信」の字を賜るほどの貢献をなしている。
 余談だがその篭城の折、タニシを食べて飢えをしのいだといわれ、現在でもタニシ祭りとして地元に伝わっている。要するに「縁の下の力持ち」的な立場の武将。19匹目でなぜか副将として登場。おそらく春香さんの津波に巻き込まれてやむなく出陣したのだと思われる。
 本当にお疲れ様です。

斯波経詮

 奥州斯波氏の全盛期を父親の代から受け継ぎ、弟の雫石詮貞や猪去詮義らと共に共同統治を行った、高水寺斯波氏当主。居城の高水寺城を「斯波御所」と名付けた人物。
 くされ戦記では出番が少ないことに定評があり、「鬱じゃ死のう」が口癖になっている。
 通称「ウッツー」。日々鬱カウンセラーちひゃーのお世話になっている。

最上軍

最上義光

 政宗の母方の伯父(義光の妹の義姫が政宗の母親)出羽大名。
 某シリーズで顔グラが陰陽師に似ていると言われるが、彼は決してそういう人間ではない。
 ゲーム中のデータなどは、武将別解説 - 戦国編を参照のこと。
 政宗や上杉景勝といった超メジャー武将の敵役になることが多いため
 軍記物や大河ドラマではゼノグラ千早並にキャラが改悪されている。
 でも実際は政宗や景勝と戦いながら最上家を発展させた名君なんですよ。
 義光死後に後継者争いで改易の憂き目にあっていることからしても、良くも悪くも最上家の大黒柱であった事は間違いない。

 くされ戦記では7匹目より伊達家に仕官。
 伊達家では稙宗に続く対計略要員であり、敵からの罵倒はほぼ無効化。
 籠絡の計でチビキャラを餌に南部兵を寝返らせるなど、Sランク計略の実力を余すところ無く発揮中である。
 いつも冷静な態度を崩さない、シリーズの中でも数少ない良識派かつまともな人。暴走する伊達ファミリーを抑える貴重なツッコミ役でもある。
 最近は内政の勘定計算を担当しているご様子で戦場にはあまり見かけなくなっていたが、26匹目であずささんの副将として出陣。
 相変わらずのSランク計略を披露……していたが、同じタイプのチートクラス真田昌幸には分が悪かった模様。

上杉軍

上杉謙信

 史実において、武田信玄と川中島で幾度となく争ったことで知られる武将。「軍神」の異名を持つ。旧名、長尾景虎。謙信の名前は法号であり、諱は輝虎である。
 自らを毘沙門天の転生であると称し、旗印にも「毘」の文字を使っていた。その一方で天罰と称して戦をしたり、短気な一面も持っていた。
 晩年は織田信長との戦いに武田勝頼・顕如(石山本願寺)と結び信長包囲網を築いた。
 しかし遠征の準備中春日山城で倒れ、出陣6日前に急死した。遠征先がどこであったかは不明だが、織田信長と戦うつもりであったとも、
 生前幾度となく行った関東遠征であるともいわれている。
 「信長の野望」において公式チート扱いとされている一人。ゲーム中のデータなどは、武将別解説 - 戦国編を参照のこと。
 作者が上杉謙信女性説を採用したらしく、このシリーズの謙信は女性であるようだ。
 しかし、公式チートの強さは受け継がれたようで2倍差の兵力のあった安東家を破ったほど。
 あずささん曰く「繊細」で「和歌が上手」であり、「達筆」であるらしい。なお、これはそのまんま史実上の謙信に対する評価でもある。
 ちなみに、本作では仇敵・武田信玄とは川中島で幾度も戦っているものの、互いに顔を知らないらしい。
+ 以下ネタバレ注意
 10匹目でその正体が千早であることが判明。謙信の名を名乗ることになった経緯については不明。
 出陣前に必ずご飯を食べる。しかも、3人前分も食べているようだ。歌に関してはそのままで、伊達家の兵を5万人寝返らせた。
 なお、史実上においても謙信は健啖家であったとの事。某エロゲも史実を参考にしたと言う事なのだろう。
 本作では21匹目で武田信玄が春香であると明かされたが、22匹目で信玄の本陣へと単騎での突撃を敢行し、
 偶然にも春香と邂逅を果たすまでその事実は知らなかった。
 ちなみにこの一幕、第四次川中島合戦で行われたとされる信玄と謙信の「両将一騎打ち」伝説の再現。一枚絵は明音氏書き下ろし。
 この一瞬を再現した銅像が、古戦場跡にある八幡原史跡公園(長野市)に建っている。
 少々ややこしいが、「如月千早」として「天海春香」との面識はあったが、「上杉謙信」として「武田信玄」との面識はなかった。
 26匹目以降、名実共に「如月千早」としての道を歩む。

宇佐美定満

 上杉謙信の家臣。謙信の父・長尾為景の頃より三代に渡って長尾家(=後の上杉家)に仕えた老将である。謙信の軍師にして越後流軍学の祖とも。
 常に謙信の傍に控える、恐らくは彼女のよき理解者。伊達家に仕官して以降、
 再び謙信が笑顔を見せるようになった事を他の旧上杉家家臣団と共に喜んでいた。
 現在は伊達稙宗と共に、政宗や謙信ら若き当主たちを微笑ましく見守っている。
 当作品中、一二を争う良識派……と思われたが、輝宗の暴走を見た際には小十郎と息の合った連携を見せ、
 「ああ、やっぱりくされ戦記だ」と妙な所で納得させてくれる。
 上杉や伊達家というより謙信個人に忠誠を誓っており、彼女の幸せに立ちはだかる対象は全て「糞喰らえで御座います」と言い切る生粋の武士(もののふ)
 別名うさみみアーマー。ほとんどの計略を無効化する頼りになる存在。

加藤段蔵

 上杉謙信に仕える忍者。その能力の高さから「飛び加藤」と通称される。
 史実では余りにも忍者としての技術が高すぎたために謙信から暗殺されかけ、上杉家を逃れる。
 しかし逃れた先に辿り着いた武田信玄の下でもその能力を警戒され、暗殺されてしまった。
 (裏で織田信長に通じていた為、とする説もある)
 本作では上杉家家臣として登場し、謙信が政宗に仕官する際、宇佐美らと共に彼も伊達家に仕官することになる。
 戦場でもその能力を如何なく発揮する傍ら、13匹目では政宗にこっそり同行し彼の道中に
 仕掛けられた罠を解除……しようとするも、余計な事を口走ったせいで脱落第一号となった。南無。
 16匹目でも某男ネタを持ち出しぴよぴよのピンチに登場するが、一撃で撃破されてしまった。南無。
 どうやら、すっかりいいギャグキャラ・やられ役として定着しつつある模様。

 とりあえず24匹目で忍者として仕事はしているらしいことが語られたのだが、なぜか某男の面で仕事をしている。
 どうやらこれが仕事装束になったようだが、30匹目では忘れてきていた。
 その後、31匹目では新しくののワさんや馬のマスクまで用意したが、またしても誰かにノックアウトされた。うまどるっ!!
 ……上杉家にいた当時からこんな調子だったんだろうか、この男。

 最近では例の某男の面を被っていると春香さんに懐かれる様になった。
 某男として18匹目以降のOPにも登場している。

徳川軍

徳川家康

 江戸幕府を開いた天下人としてその名を知らない者はまずいない超有名武将。
 日光東照宮をはじめとする東照宮に祀られていることでも有名。タヌキオヤジのあだ名やホトトギスの句でも知られるが、ホトトギスの句は天下人の性格を表す為後に作られたもの。
 21匹目で政宗の元を訪問する。
 作中では伊達家に同盟を持ちかけ、天下を二分する計を持ちかけるが、政宗には「だが断る!」と即答される。
 そしてこっそり小十郎引き抜きも考えていたようで裏工作も行っていたが、その小十郎本人に「はいはいタヌキタヌキ」とあしらわれる始末(おそらく史実の秀吉による小十郎勧誘を元にしていると思われる)
 これだけの為に600キロ以上にも及ぶ道を岡崎城(愛知県岡崎市)から遠路はるばるやってきた。お疲れ様です。
 足労してもらった礼に天ぷらにでもして食べてくれと傷んだ鯛を小十郎から土産にもらい、退散した。
 本人もそれが原因で死ぬ気がするとコメント。それなんて嫌がらせ?

 我慢強いように見せかけて、実はかなりの(というより「ものすごい」?)ドM。
 政宗には親父殿と同類とまで言い切られた。つまりは変態紳士。三河紳士とも言われる。
 一応、清洲同盟は存在しているらしい。

 俗説で鯛の天ぷらに当たって死んだと言われているが、鯛の天ぷらを食べてから死ぬまで3ヶ月の開きがあるため疑わしいとされる。
 症状の研究から、家康の死因は近年では梅毒(性病の一種)もしくは胃ガンではないかといわれている。

本多忠勝

 蜻蛉切でおなじみ槍の名手。21匹目に登場。
 ホンダムと通称されるが、これは戦国BASARAでのキャラに対して付けられた通称。
 猛将として知られ、「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と落書きされたほど。
(ちなみに「唐のかしら」とは、ヤクの尾毛で飾られた家康の兜のことである)
 生涯五十七度の戦に赴き、全て無傷で帰ってきたと言われ、その類稀な武力は織田信長をして「花実兼備の将」「日本の関羽」、更に豊臣秀吉にも「天下無双の大将」と言わしめた。
 徳川四天王・十六神将・徳川三傑のいずれにも数えられ、その武勇を称えられている。
 また、並外れた武勇のみならず、知略も兼ね備えた名将であり、政治家としても優れていたと言われる。
 関ヶ原で敗戦した真田昌幸・幸村親子の助命を嘆願したのも忠勝である。この際嘆願を聞き入れない徳川家康に対し「ならば殿と一戦仕る」と啖呵を切り、家康を唖然とさせた。
 なお、忠勝と真田親子の3名は偶然なのか、皆21匹目が初出である。
 長篠の戦いや小牧長久手の戦いなどで戦果を挙げ、本能寺の変の際は信長の後を追おうとする家康を諫め、「伊賀越え」を敢行させたという。

 作中では家康の護衛役として同行してきたが、家康曰く待たせておくと小うるさい。
 家康と政宗の会談中に待たされていた忠勝が怒って暴れ出したと小鳥さんの報告を受けた家康が「それはまずい」と即答したほど。

+ 以下ネタバレ注意
 21匹目で初登場と当時に、その正体が伊織であることが判明。
 待たせると機嫌が悪くなるのは相変わらずであるが、伊織が忠勝の名を名乗ることになった理由は不明。
 ドM家康を完全に尻に敷いている。恐らくは史実上で幾度か忠勝が家康を諌める場面があった事に由来するのだろうが、
 傍目にはどっちが主君なのかさっぱりわからなく、笑いを誘う。
 あずささん達は元気らしいと語ったところから、あずささん達が伊達家に仕官したことを知っていると思われ、
 おそらくはあずささん達との面識もあるものと推測される。
 忠勝の兜(鹿角脇立兜=かづのわきだてかぶと)の鹿の角がヘアバンド(?)として再現されている。
 伊織のトレードマークとも言えるうさちゃんは鎧にくくりつけられている。

 ちなみに、関ヶ原のエピソードは26匹目で再現され、伊織忠勝がドM家康に対し史実通りの啖呵を切って見せた。
 しかし相手がドMなので、史実同様に締まった展開…というわけにはいかなかった。そこがくされ戦記らしい。

 なお、MAP上では伊織として登録されている。

服部正成

 服部半蔵の通称で知られる武将。ちなみに「半蔵」の名前は代々服部家の当主の通称である。
(片倉景綱の「小十郎」と同じ意味)
 一般的には伊賀忍者の首領として有名であり、小説、時代劇、漫画、ゲームなどの影響で自身が凄腕の忍者として描かれることが多い。本作でもそれは踏襲されており、忍者としての登場。
 しかし実際は鬼半蔵の異名で知られた槍の名手であり、本多忠勝同様徳川十六神将に列挙されている。
 「半蔵=忍者」の根拠としては、父保長が伊賀の豪族出身(=忍者)であったのが縁で、天正伊賀の乱で追われた伊賀や甲賀衆を家康が保護し、彼等の統率を一任されたのが要因である。

+ 以下ネタバレ注意
 その正体は第3期OPで予想されていたとおり、やよい。
 31匹目で伊達家に潜入。小鳥さんの追跡を振り切り、伊達家から鉄砲技術を盗み出した。
 小鳥さん同様に式神を扱うことができる(やよいクリーチャー)。本編での表記は「服部半蔵」。

武田軍・真田軍

武田信玄

 21匹目で初登場。武田家19代目当主。
 風林火山の旗印で広く知られる武将。川中島で幾度となく上杉謙信と刃を交えたが、遂に決着はつかなかった。
 分国法、甲州法度之次第を定めたことでも知られている。
 上杉謙信との抗争の間に織田信長の上洛を許すも、信長と対立した義昭の呼びかけで三河に侵攻。
 足助城(愛知県足助町→豊田市)、野田城(新城市)といった城を次々に攻め落とし、家康の拠点である岡崎城、吉田城(豊橋市)を危機に晒すも、
 その途上で持病の結核が悪化。甲斐への撤退途上で病死した。もっとも、信玄が結核だった確証はなく真偽は不明。最後の城攻めは、野田城だった。
 信玄亡き後の武田家は、跡を継いだ勝頼が長篠合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫し、以後急激に勢力を縮小。1582年に滅亡の運命を辿る。
 その能力はコーエー補正がかかっており、軍神上杉謙信同様、公式チート扱いされている。

+ 以下ネタバレ注意
 登場と同時に、その正体は春香であると明かされた。
 武田家ではなく、なんと真田家に所属してしまっている。
 その為か、「御館様」とかしこまった名で呼ばれることを嫌い、「天海春香」と呼ぶよう真田幸村に頼んでいる。
 しかし幸村は相変わらず「御館様」と呼んでしまい、その度に春香に怒られているようだ。
 お菓子作りが趣味なのは相変わらず。幸村らにも好評だが、幸村の脳内では南蛮菓子>パパ上の模様。
 春香が信玄のポストに収まっている理由は不明。おなじみリボンは鬼の意匠をあしらったものに。元ネタはおそらく革新の信玄の顔グラ。
 22匹目、本陣に単騎で斬り込んできた上杉謙信こと千早と邂逅。春香も千早やあずさ達と幼い頃から過ごしていたと思われ、
 図らずも千早と再会するという形となった。そして彼女は、ある人物の名を呟くが――。
 「春香」として「千早」とは面識があるが、「信玄」として「謙信」とは面識がない(ああややこしい)。

真田幸村

 本名、真田信繁。幸村は後世の創作で名付けられた通称。
 真田家当主・真田昌幸の息子である。
 大坂冬の陣にて大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、
 鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃を与えた。
 その後の大坂夏の陣においては徳川家康の本陣に突撃、一時は家康に切腹を覚悟させる程の奮闘を見せた。また、政宗の騎馬鉄砲隊戦法を撃退もしている。
 江戸期以降は、講談や小説等で「真田十勇士を集め徳川に挑んだ天才軍師」として描かれ、有名になった。

 本作においては革新の顔グラながら、信玄を「御館様」と呼び(叫び)慕うなど、戦国BASARAチックな言動を見せる。
 とは言え、女性に免疫がない点まではBASARAを再現してはいない模様。
 父親と違って、城マニアではないようだ。
 真田・武田家が伊達家に降伏してからというものめっきり出番を失っていたが、31匹目では信玄の買い物の荷物持ちを担当している。しかし、フラグ一級建築士の成実と違ってどうにも「いい雰囲気」とは行かない模様。

 史実において後の伊達藩とは意外な接点があるが、本編において伊達家とどのような関わりを見せるのかわからないのでここでは記述をを控えさせていただく。
が、非常にロマンのある話なので、ご存じなく且つ興味がある方は「仙台真田家」でググる事をお勧めします。

真田昌幸

 真田家当主。元は武田家家臣で晩年の信玄の小姓を務め、信玄亡き後も息子勝頼を支え、「小信玄」と言われるほどの智謀の士だった。武田家滅亡後独立し、徳川・上杉・北条といった群雄の渦中で謀略を駆使して巧みに生き残る。真田幸村(信繁)の父。自称パパ上。
 上田合戦にて二度にわたり徳川家を撃退したことからも戦国きっての知将・謀将として語られる。
 その智謀と武力は石田三成に「表裏比興の者」(食わせ者・老獪な者)と評され、病没後の大阪冬の陣で息子の信繁が大阪城に入城すると、彼の病死を疑う徳川家康ら諸将は「親の方か?息子の方か?」と尋ねたとされる。また死の目前で家康の大坂城攻めを三年以内と予測し、事実大坂冬の陣は起こっている。
 信長の野望シリーズではチートクラスの知力に設定されている。

 本作では真田家当主のはずなのだが、城マニアで語りだすと止まらない性格が幸村や同僚に大不評。城マニアが高じて最近では禁断症状を起こしており、最上義光に「取り押さえろ」と言われる始末である。
 伊達軍の出陣の兆候を知った幸村は、昌幸をスルーして信玄に申告した。
 ……伊達輝宗といいこの人といい、親世代はこんなんばっかりか。

真田信幸

 真田昌幸の長男にして史実の信州上田藩→松代藩初代藩主。関が原以降は名を信之に改めている。
 関が原合戦の前に父昌幸、弟信繁(幸村)と袂を分かつ苦渋の決断をし、真田の名跡を後世に残した実績に反して、チート能力者目白押しの真田家にあって地味極まりない不憫な人。一応能力は一流なのだが…
 本多忠勝の娘小松姫(ゲームなどだと「稲姫」の名が有名)を娶っていた関係で忠勝とは義理の親子だった。
 26匹目での忠勝の真田親子助命嘆願は本来、史実の彼からの申し出に起因している。
 寡勢で徳川軍を翻弄した父昌幸・弟幸村と比べれば確かに華に欠けるが、彼自身も第一次上田合戦では昌幸・幸村と共に奮戦し「板東(東国)武勇に比類なし」と奨された忠勝に認められている事実からみても決して劣っているという訳ではなく、判官贔屓な日本人の心理に影響して歴史に埋もれてしまったが故の悲劇かもしれない。

 本作では昌幸・幸村双方とも会話が無く、箕輪城の攻防戦で篭城組として待機している……やっぱり地味である。

羽柴軍

石田三成

 秀吉子飼いの武将として知られる。秀吉が長浜城主だった頃に召し抱えられた。その際の「三杯の茶」の故事は有名。
 織田信長が本能寺の変で死亡した後に台頭していった豊臣秀吉の元で三成も台頭していき、豊臣政権の政治を取り仕切る執政官としての地位を確立。秀吉の死後は五奉行の一人に任じられたが、五大老の中で台頭してきた徳川家康と対立。
 1600年、毛利輝元を西軍の総大将に据え、徳川家康と関ヶ原で雌雄を決した。有名な関ヶ原の合戦である。一般的に知られるように小早川秀秋らの裏切りをきっかけに東軍有利に戦況は傾き、西軍は潰走。三成は伊吹山に逃れるも家康の追っ手に捕縛され、大津城の門前に生き晒しにされた後、六条河原で斬首された。
+ 以下ネタバレ注意
 28匹目でドM家康に続く面倒な来客その2として羽柴家から派遣されてきた。
 その正体は雪歩。男性相手にしどろもどろになるところは相変わらず。さらに穴掘って埋まりたがる癖も直っておらず、畳を破壊して埋まろうとし、政宗に悲鳴を上げさせた。
 伊達家に集ったアイドル組とは面識があり、昔からこんな感じだったらしい。
 史実では秀吉は信長の部下だが、「くされ戦記」の舞台であるシナリオ「群雄集結」では独立した勢力になっており(他にも明智光秀・柴田勝家も独立した勢力)、雪歩が派遣されたのも対清洲同盟を目的としていた。
 竹中半兵衛こと真同様、親しい人物からは本名である雪歩で呼ばれている(秀吉や義輝、久秀など)

竹中重治

 その智謀から「今孔明」の名高い戦国随一の名軍師。「半兵衛」は竹中家当主の通称。
 当初、美濃斉藤家に仕えていたが義龍の跡を継いだ龍興の放蕩ぶりに苦言を呈するためわずか17人で稲葉山城を占拠したという伝説的なエピソードがある。その後家臣としての筋目を通すため一旦隠棲するが、当時墨俣城代の木下藤吉郎の三顧の礼に感銘を受け秀吉に仕えたとされるのは「太閤記」の創作で、実際には織田信長の美濃国人の招聘に従い、その後秀吉の与力(直属ではない)になったというのが真相のようだ。
 容姿の想像も二転三転しており早くに病死したことから「色白の背の高い細面」だというのが一般的な見解だが(実際ゲームや小説では殆どこのイメージ)「牛を駆って大身の槍を振り回した」や「実は女性だったのでは?」という説まである。
+ 以下ネタバレ注意
 33匹目で帰還した石田三成(雪歩)を出迎える。
 正体は真。当初は三成=雪歩の友人で架空戦記の真→猛将のイメージから大谷刑部吉継や島左近清興を予想していた視聴者も居た中、戦国時代の軍師の代名詞である半兵衛だったのは意外性がある。雪歩と仲が良いのは相変わらずの様子。ちなみに「半兵衛」は対外的な呼び方、近しい中の人物からは「真」と呼ばれているようだ(雪歩や小烏が呼んでおり、伊織と家康の前例から観て秀吉たちも呼んでいる事が予想できる)

羽柴秀吉

 ご存知三大天下人豊臣秀吉。「羽柴」の姓は織田家の宿老格柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつ貰ったもの。ありとあらゆるメディアで論じられている通り、前代未聞の出世人の代名詞であり、大出世した人を指す「今太閤」という言葉ももちろん秀吉からの由来である。
 尾張国中村の百姓の子として生まれ(これには異説がある)流浪の末、若き日の織田信長に仕え、以後出生街道をひた走った。本能寺の変で信長が非業の最期を遂げた後に「中国大返し」で明智光秀を討ち取ってからわずか8年で天下統一を成し遂げた。
 信長同様人材を見る目は確かで石田三成・竹中半兵衛をはじめ、加藤清正、福島正則、黒田官兵衛、小西行長等猛将・知将が綺羅星のごとく集結した。それだけでは飽き足らず、他家の人材を引き抜く荒業も行っており、片倉小十郎景綱や本多忠勝、小早川隆景も声を掛けられた。
+ 以下ネタバレ注意
 33匹目で初登場、伊達家への使者として赴いていた雪歩(三成)を出迎える。が、雪歩にベタ惚れな様子。日ごろ仕事をしろと小烏さんにせっつかれるも、締めるところはきっちり締めており史実らしいといえばらしい。

松永久秀

 下克上を体現した典型的な戦国武将で、第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者と伝えられ、狡猾で傲慢不遜の「乱世の梟雄」であり、北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とされる。通称の「ボンバーマン」は最期が爆死したため(実は日本初の爆死者)「ギリワン」は信長シリーズのステータスで「義理」が例外なく「1」であるため。
+ 以下ネタバレ注意
 33匹目で初登場、秀吉同様、使者として赴いていた雪歩(三成)を出迎える。「群雄集結」だと秀吉に降伏するのは割と定番だが、なんと仇役ともいえる足利義輝と同じ場所に居たのは視聴者を驚愕させた。
 その正体は雪歩に「ぱぱ」と呼んでもらいたい筋金入りの紳士。ある意味「親父殿」輝宗や「パパ上」昌幸と並ぶ。所蔵の名茶器「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」を餌に迫るが、直後につぶらな瞳で見つめるゆきぽにあっさり陥落、同じく名茶器「九十九茄子」(国宝)を譲ってしまう。信長涙目・・・でもこっちの信長は美希なのでソレはないだろう(笑)




増田長盛

 秀吉が信長の家臣であった頃からの部下。秀吉の死後は三成同様五奉行の一人に任じられた。
 関ヶ原の合戦時には西国の武将達に三成らに呼応して蜂起するよう働きかける一方で家康に挙兵を知らせる。三成の資金要請も渋り、大阪城守備部隊として毛利輝元らと共に駐屯。戦闘に参加しなかった。
 戦後は所領を没収されて高野山に身柄を預けられたが、徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が大坂の陣で出奔し豊臣側に与したことを咎められ、切腹を命じられた。
 彼の立ち回り方次第では、歴史の流れが大きく変わっていたかもしれない。
+ 以下ネタバレ注意
 30匹目、羽柴家から技術交換の使者として戦闘中の政宗の元を訪問する。
 残念ながら彼はアイドル武将ではなかったので、面会した伊達家の武将一同は雪歩三成が来なかったことを一様に残念がった。

長野軍

長野業正

 29匹目で初登場。30匹目で登場した勢力図などから、高木社長を軍師として迎えている模様。謙信・信玄の戦いを高木社長に報告するなど、積極的に物語には関わらず静観している。
 史実では関東管領・山内上杉家(のちに上杉謙信こと長尾景虎がその跡を継いでいる)の重臣として仕え、後世に「上州の黄班」と呼ばれるほどの猛将。その勇猛ぶりは信玄による計6回の上州攻撃をことごとく防ぎ、彼の上州制圧の野望を完膚無きまでに打ち砕いたほど。そのせいか「チート爺」などとも呼ばれ、親しまれている。実際信長の野望・太閤立志伝シリーズでの戦闘能力もトップクラスに位置している。部下に「剣聖」上泉信綱がいる(「信綱」の名は信玄から贈られた名で当時は「秀綱」)
 なお、史実ではかつて真田幸綱(幸隆とも。つまりパパ上の父、信幸・幸村兄弟の祖父)を家臣とし、幸綱が信玄の元に出奔した後もその身を案じ手紙を送った……などと懐の深い人物でもある。

織田軍

織田吉法師

 もはや説明不要、のちの織田信長。織田家当主、通称・第六天魔王。「信長の野望」のタイトルに冠されるほどの超VIP級武将。あまりにもメジャーなため、プレイ動画ではどちらかというとラスボス的な役割を与えられるが、今作もまた例外ではない。
 本作では信長ではなく幼名の「吉法師」を名乗っているが、史実上の息子である信忠などが元服後の名を名乗っている(28匹目合戦シーンより)などその関係は不明。

 幼い頃はその破天荒な行動から「尾張のうつけ」とも呼ばれ、内部でもゴタゴタを持つことも少なくなかったが(家内だけでなく、信長の出身である織田弾正忠家は織田宗家よりも格下の状態にあった)、圧倒的な武力で家内統一・尾張統一を成し遂げ、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、天下にその名を轟かせる。
 その後も室町幕府十五代将軍・足利義昭を担いで上洛すると、その名はさらに畏怖を持って称えられるようになる。後に自らに反旗を翻した足利義昭を追放して室町幕府を事実上消滅させると、「天下布武」のキャッチコピーのもとに、朝倉氏、浅井氏、武田氏を次々に滅ぼし、畿内・北陸・中国・四国・関東に及ぶ大勢力圏を築きあげた(これがいわゆる「織田政権」)。徳川家康とは清洲同盟を結び、固い結束で結ばれている。しかし1582年、天下統一を目前にして明智光秀の裏切りにあい、本能寺の炎の中に消えた。

 本作ではかなり早い段階で存在が示唆されていたが、29匹目で満を持して登場。
+ 以下ネタバレ注意
 21匹目OPで既に暗示されていたが、その正体はやはり美希。しかも「星井」ではなく「織田美希」と称している。「なの」「はにぃ」などの特徴的な口癖も健在。既に「第六天あふぅ」「あふぅれるカリスマ」などのコメントやタグが付与されている。実際丹羽長秀との会話でも畏怖を与える印象がきわめて強い。

 史実では信長は自らに対抗した勢力は、例え無抵抗であっても殲滅するという非情な面を持つことで有名であるが、本作では「無抵抗な人間には手を出すな」と長秀に厳命するなどの慈悲深い面を見せている。

丹羽長秀

 織田家家臣で、柴田勝家と並び称されるほどの猛将。
 史実では信長の少年時代からの家臣で、美濃制圧、長篠の戦い、越前一向一揆征伐と各地を転戦して武功をあげる。信長の信任も厚く『刈かれ柴田(勝家)に退き佐久間(信盛)米五郎佐(長秀)に木綿藤吉(秀吉)』と謂われる程織田家では必要不可欠な存在感があり京洛の街道整備や堺衆からの鉄砲の調達、安土城の普請奉行や京都御馬揃えなどを兵站・能吏としての多大な実績があった。だが、それらの器用さ、猛将の評価などとは対照的に情報分析能力、統率力の欠如から軍事的には他の家臣よりも一段下と見なされたとも言われている。
 信長死後は勝家への対抗心からか秀吉に近づき、結果として秀吉の天下統一への足がかりを作った人物とも言える。

 なお、織田四天王と呼ばれる柴田勝家、滝川一益、明智光秀、そして丹羽長秀のうち、江戸時代を大名家として全うしたのは(羽柴秀吉を五大将として加えたとしても)彼のみである。
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。