男は柄になく戸惑った。
孤高に生きてきた自分がよりによって、たかだか女子数人の視線に音をあげ、料理などを賄う羽目になったことに対して───ではない。
確かに、飯を拵える役割を半ば強制的に押し付けられた事へは、若干小癪に感じてはいる。自分は過去、輝夜へと敗北を喫したのは事実であるし、決闘の立会いを務めてもらったのも借りと言えば借りではある。
だが断じて彼女への召使いに志願した訳でもなく、ここから先もしも輝夜が言いたい放題やりたい放題やろうものなら、躊躇わず袂を分かつつもりでいる。
それでもリンゴォは確かに言った。「飯を作ってくる」と、渋々ではあるが、そう発言した。つまり、そのことに関しては既にどうこう言うつもりもなく、自分の中で了承済みの事案でしかない。
男が戸惑った理由は、そんな終わってしまった話題にはない。
目の前。眼前に広がる未知なる空間に、戸惑いを隠せずにはいられないというのが、現状の彼を襲う目下の問題だ。
「……随分、小綺麗な厨房だ」
ツツーと、男は銀面に光るキッチンシンクの縁を指でなぞらえながら、独り言を呟いた。
蛇口を捻る。これで水が止められていたとなるとお笑い草だが、残念ながら想像以上の勢いを放出しながら冷水が湧いて現れた。
右を見ても左を見ても、ついぞ見たことないような設備・機械類。これには流石のリンゴォも閉口した。
彼は孤高のガンマン。生涯孤独の男だった。当然とも言えるが、口にする食事は大抵彼自ら作るものが多く、それ故に料理自体は慣れたものである。が、このような近代的な設備を取り入れた厨房に入るのは生まれて初めてであった。
レストラン・トラサルディーはコックがイタリアの人間という事もあり、店内も極力本場の雰囲気を再現した、所謂本格派の店である。とはいえここの料理は、最新鋭の設備に頼り切った、つまり物頼りの料理を出したりはしない。あくまで店長が生涯賭して磨き上げた究極の技術体系を料理に反映させた、完全実力派のレストランである。すなわち厨房に備えた設備自体は実際のところ、大した物ではないと言えた。
それでも世間の狭いリンゴォにとって見ればそれらは、全てが未来の技術進化が生んだ賜物。彼は普段レストランやバーに赴くことはあっても、裏の厨房内に入る用事などない。それが余計に、この場が未知の領域だという空気を、一歩踏み入れた瞬間に肌へと鋭敏に伝えてくれた。
勿論、リンゴォの住処にもこんな立派な備えなどあるわけもなく。
「これは……『冷蔵庫』という奴か」
狭い厨房内の真奥。壁に埋まるようにしてドッシリ構えた銀色の巨大な箱を、物珍しそうに眺める。
リンゴォの住む19世紀末の時代には、既に冷蔵庫は開発されている。しかし家庭用に広く普及したのはそれより少し後で、只でさえ裕福な暮らしとは言えない彼の環境に冷蔵庫など登場する筈もなく、こうして現物を目にするのは初めてのことであった。
「……寒いな。確かにこれならば、肉や魚の保存も容易に行えるだろう。大した発明だ」
取っ手を握り、恐る恐ると言った感じで扉を開いた彼の目に飛び込んだ光景は、様々な素材が放つ鮮やかな光彩と、初めて体験する電気冷蔵庫の肌を刺すような冷気。
リンゴォもこれには素直に賞賛を覚える。利便のみを追求し、物の本質を見失いがちになっている近年の大衆発明品に対してはどちらかといえば否定的な彼だが、食の保存に一喜一憂せざるを得なかった環境に住まうのも事実。
これ一台で冬の蓄えもグンと楽になるのであれば、健康さを損なうリスクも格段に減る。
「こっちの丸い……箱のような機械は何だろうか」
感動も程々に、次に男は横の引き出しに備わった白い丸型の機械に目を付けた。冷蔵庫と違い、こちらは少し難関だ。
何やら大小様々なボタンがこれみよがしにくっ付いている。それらの中から適当に一つ、押してみると。
「! ……これは米、か。既に炊き上がっているようだが」
勢いよく開いた箱の上部に現れたのは、今炊き上がったばかりのように神々しい光を放つ純の白米。まるで僕らを食べてくださいと言わんばかりの充分な水気と風味が、これでもかと主張していた。
イタリアは欧州一の米どころであり、料理ごとに最適な種類の米を使い分ける。とりわけ有名なのはリゾットだが、米を小型のパスタと同様に扱うことも多く、デザートにも用いられていた。ここのレストランの主人も相当にこだわりのある気質なのだということが、幾つにも並んだ炊飯器から察せるというもの。
「なるほど。奴らなりに最低限のお膳立てはしてある、ということらしい」
熱く湯気立つ炊飯器をそっと閉め、男は主催の二人に対しそんな感想を漏らした。勿論彼にはギャグを言った自覚などない。
素材は充分。これで幾らでも栄養満点な料理を作って、これからの長い戦いに備えてほしい、というメッセージのつもりなのか。
まあ、奴らの真意についてはこの際どうだって良い。
「……やると言ったのだからな。オレも半端な仕事をやるつもりは無い」
謎のやる気をふつふつと見せつつあるリンゴォの目に、ふと壁際に貼られたメモ書き……注意事項のような紙が映る。
『ここでは石鹸で手を洗いなサイ!!』
このレストランの店長か誰かの書置きだろうか。まさかコイツも主催からのメッセージという訳ではあるまい。
そして来る者を試すように静かに鎮座する、レンガの如き大きな石鹸。厨房のしきたりには明るくないリンゴォも、細菌が起こし得る衛生面での危険性は理解しているつもりだ。まして振る舞う立場を任されたのでは尚更。
黙々と手に、指の隙間に、腕まで泡を良くにじませて。
「───よし。……始めるとしよう」
スタートラインを走り出した。
お誂え向きに壁に掛かった、純白のエプロンを着付けて。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
『
八意永琳』
【午後】D-4 レストラン・トラサルディー
心なしか、肩が重く感じた。ドロドロに溶かした鉛が少しずつ少しずつ身に注入されていくような、意識を揺らす困憊が堆積していくのが自覚できる。
自分は疲れた顔をしてないだろうか。時間は随分遅れてしまったが、永遠亭の住民との待ち合わせは目と鼻の先に構えていた。
太田から伝えられた参加者の現在地を見るに、輝夜は既に到着していると予想できる。
輝夜さえ。彼女さえ無事であるなら、肩の荷はすっかり下りる。それは他の何を置いても第一に確認すべき事柄で、永琳の全てを決定付ける超重要な転機になる。
そして恐らく、輝夜は九割九分無事だろう。店内に入ればきっと、いつもの彼女の華々しく屈託ない笑顔が満面に咲き誇り、長い着物の裾を引っ張りながら駆け寄ってくる。
待ち望んでいた未来。だというのに、何故だか永琳の中には、主である輝夜に対してどこか恐れを抱いていた。
あってはならない憂い。明確な知覚すら出来ているか怪しい、針先のように小さな……漠然とした不安。恐れ。
永遠亭という家で共に過ごしてきた鈴仙。てゐ。記憶の中の二人の姿が、ふとした時にぼやけてしまう。過去の遺物だとでもいうかのように、ノイズを混じらせ歪んでしまう。
私の知らないところで『変化』を起こし、成長してしまう。それだけなら良い。歓迎すべき事柄だ。
『恐れ』とは。
変化を受け入れ成長を始めた彼女らが、無変の儘に時を止めた私を置いてどこか遠くの地へ行ってしまう。
そんな遠くない未来の幻視の事である。
遠い昔、同胞である月の使者を殺害した永琳。そんな自分には全く相応しくない平凡な女々しさを、驚きつつも自覚する。
「輝夜…………」
木製のドアノブに手を掛け力を込める前に、ポツリと呟いた。
自分の中にある輝夜の表情と、これから出逢う輝夜の表情に『ズレ』が生じてはならない。願わくば、そうあって欲しいと祈りを込めて。
チリンチリンと、来店を知らせる玄関の鈴が鳴り響いた。
「永琳!」
「! ……姫」
店内に二卓しかないテーブル。その奥側の卓に座った三人の人物の内一人。
蓬莱山輝夜のなんら変わりない姿が、永琳のよく知る笑顔と共に映り、こちらへ駆け寄ろうとしていた。
一瞬の安堵の後、永琳は───
「動かないで。……立たなくていい。そのままゆっくり、椅子に座り直しなさい」
水で濡らした刃物のように冷たく輝く瞳を向け、牽制した。
右手には、銃口こそ向いていないものの、拳銃が下げられている。
「ちょ、永琳!?」
「姫は私の後ろに。“すぐに終わりますので”、それまで辛抱を」
月の賢者・八意永琳。
彼女は店内に踏み入り、輝夜と───幽々子、阿求の姿を認識するや、隼をも凌駕する速度ですぐさま輝夜を保護。自らの背後に隠した。
敵意を添えた視線を、目の前の彼女ら……主に
西行寺幽々子へと放つ。この亡霊姫がピクリとでも動けば、その手に握った拳銃が容易に火を噴くだろう。
この場の誰もが永琳の迫力に押され、彼女のそんな無言の警告を受け取った。
「……不躾ね。挨拶のひとつも無かったわ」
幽々子は中途半端に浮かせた腰をゆっくり椅子に戻しながら、慎重に言葉を選んだ。
永琳とは元々、幽々子からすれば微妙なラインだったのだ。“白”か“黒”かの、見極めが。
もしも“黒”なら……ジャイロの到着がまだの今、阿求を庇いながらの闘いとなりかねない。迂闊だった。
「貴方達とは二度目ね。そういえば幽々子さん……私の作ってあげた『ホットミルク』のお味、如何でしたか?」
輝夜の盾のまま、永琳は幽々子との対峙を維持する。挑発のような台詞までも織り交ぜながら、相手の出方を待った。
それ次第では、本当にすぐさまの攻撃を仕掛けかねない態勢。導火線に火が点くかどうかは、幽々子の対応次第。
「二度と忘れられない味になりそうよ。
つまり永琳……貴方は、私達を殺す気なのね?」
じわりと、幽々子の手に汗が滲む。永琳が輝夜を庇うと同じに、幽々子もまた無力な阿求を庇っている。庇われた本人達は駆け巡る展開の早さに足を絡まれ、青い顔で完全に硬直していた。
「……『貴方は』? 哀しい誤解があるようだけど、それは寧ろ逆なのでは?」
「逆?」
永琳の発した意味不明な返答に、幽々子はその細く肌白い首を傾げる。相手の理解が及んでない事を察した永琳は要らぬ波紋を呼ばない為、やれやれと自らの台詞に補佐を加えて説明した。
「この店に入ってすぐ、私は最悪の可能性を考慮したのよ。ちょっと、貴方達と輝夜の距離が近すぎたように見えたから」
「最悪ですって? 今がまさに、その最悪の可能性に足を半歩入れた修羅場だと私は思うのだけど」
「貴方達に、輝夜が『人質』にされるっていう危惧よ」
人質。物騒な単語が飛び出したものだと、幽々子は虚を突かれる。その上、これまた意味不明だ。そんなことをする理由が何処にある?
これ以上ないくらい、幽々子の表情に無数の疑問符が浮かぶ。そんな彼女に一筋の答えを導き出す役目を担ったのは、意外な事に背後の阿求であった。
「あ」
「どうかしたの? 阿求」
「あ、いや……そう言えば幽々子さん、さっき永琳さんへ思い切り攻撃してたような」
恐る恐るといった仕草で、阿求は自分を守ってくれている幽々子へと痛い一撃を言い放つ。
確かに阿求の記憶では、幽々子の美しい弾幕が永琳へと華麗に炸裂していたような気がする。ついさっきの事だ。
幽々子も顎に指を当て、ほんの少しの逡巡の末に「あっ」と小さな声を漏らし、思い当たる節へと辿り着く。
「…………いや、それは阿求の記憶違いじゃないかしら」
まさかの言い訳。阿求の幽々子に対する目顔までもが細く、刺々しく変貌していく。身内から食い逃げ犯でも出た時のような情けない失望が、その瞳にはバッチリと含まれていた。
「いま、『あっ』って言いませんでしたか?」
「そう? それも多分、記憶違いじゃないかしら」
「幽々子さん。今更説明するのも馬鹿馬鹿しいですが、私は一度見た光景は忘れないのですよ?」
「…………えっ、と」
あれ? 何故だか私だけが急に悪者っぽい空気になってない?
サトリ妖怪でなくとも幽々子のそんな心の声が目に見えるような、あからさまな狼狽だった。
「私から見れば、幽々子さん。貴方も充分“黒”に見えるわよ?」
「ぐ……う、うぅ……っ」
永琳の駄目押しに、いよいよ幽々子の後がなくなる。この場で唯一の味方である阿求の応援なき今、ここは白玉楼御殿の当主である西行寺嬢の力の見せ所である。
額に浮かんだ冷や汗を拭い、ひと呼吸置いた幽々子は懸命に自らの無実を説かんと、身振り手振りで自己弁護を開始した。
「おほん。……お恥ずかしながら、あの時の私は随分と取り乱していたみたいね。そんな醜態を見せるまでに至った経緯は、貴方にも既にお話したと思うわ」
最初の放送で妖夢の死を、そしてそれを起こした者が友人の紫らしい事を知った時から、幽々子に起こったパニックは見てはいられないものであった。
亡霊のようにフラフラと歩き回った末、永遠亭に辿り着き。そこには既に八意永琳がおり、彼女の見せた優しげな空気や言葉に寄せられ、全てを吐いてしまったのだ。
それだけに終わらず、問題はここからだ。度重なる疲労もあって凡そ信頼しかけていた永琳は、何食わぬ顔で一服を盛ってきた。幽々子の暴走に拍車をかけるトドメを起こしたのは、胡乱である記憶が正しければ永琳の側からである。
「確かに、私の用意したミルクには薬を盛っていた。それは認めましょう」
「でしょ? でしょ!? さあ阿求。悪いのはどっちかしら?」
勝訴の気配を嗅ぎとった幽々子は、何故か阿求へとジャッジを任せた。腰に手まで当てて、気持ちふんぞり返っているように見える。
変な所で子供なお人だ。阿求は口には出さなかったが、せめて腫れ上がった顔でそんな感想を精一杯に表現した。
「とはいえ、私は別に誰彼構わず……そんな後先考えずに貴方を眠らせたわけじゃないわ」
ところが、流石に月の賢者はこういった口論の鉄火場でも手強いらしく。幽々子の、一見まともに聞こえる一丁前の証言は、間髪入れずに異議が申し立てられることとなる。
「正直言って、貴方の状態は物凄く危険だった。周囲にとっては、という意味で」
ぴしり。そんな乾いた音がどこからともなく響いた。
幽々子が一番突かれたくないと思っていたウィークポイントだ。少しでも隙を見せれば、この女は盲点を容赦なく攻めてくる。まこと敵には回したくない曲者だと、洋服の袖でも噛み千切りたい気持ちをやっとの思いで抑えながら永琳の言い分を受け続ける。
「貴方をあのまま野放しにしていたら、きっと死人が出る。私がそう判断したのは、果たして早計かしら」
「う、うぅ……で、でも…………でも…………」
普段の西行寺幽々子が見る影もない。彼女は今や完璧に言い負かされ、孤立の存在として小さくなっている。
こんな場面を従者である半霊剣士が目撃すれば、さぞや大事にされて一生の恥になっていたのは間違いない。
「そっちの……阿求さんだったわね。貴方に全て押し付けてしまったのは申し訳なく思ってるわ。
こっちとしても急いでいたから。だから貴方が生きて、こうしてまた会えた事自体は安心してるの。あの時はごめんなさいね」
「え……あ、いえいえこちらこそ」
場の主導権を掌握している永琳も、阿求に対しては素直に頭を下げる。こうなっては阿求とて、無遠慮に怒りなど向けられない。そもそもあの件に関しては、幽々子の非が大きいというのが客観的に見た現実だ。
「今の私には貴方達───特に幽々子の危険性が判断付かなかった。そういう理由で、“万が一”を考えずにはいられない」
「だから、輝夜さんと一緒に居る私達が彼女を『人質』にでも取って、何かしらの優位性を得ようとしていた、とまで思考に及んだのですね」
すっかり花弁を散らした桜のような幽々子に代わって、阿求が音頭を取る。
なるほど、永琳の説明に不自然さは一見見当たらず、正当性はあちら側に味方している。今でこそこうして何ともなく接している幽々子だが、彼女が陥っていたかつての状態は笑い事では済まされない。
一歩間違えれば、阿求とて殺されていたかもしれないのだから。顔面を犠牲に彼女の友愛を得られたのであれば、安い出費というものだ。
「それでも、眠った幽々子さんを禁止エリアに放置するというのは……ちょっとやりすぎなのでは、とも思いますが」
「疑わしきは罰せず。そんな平和ボケした裁定は、地上の罪深き無知らが安全圏で喚くだけの、欺瞞に満ちた似非言葉。
それを人は『偽善』と呼ぶわ。この世界では特に、そういう半端者から故意・過失関係なく人を殺めてしまう。決まって厄介なのは、彼らは無自覚の罪を犯した後に口を揃えて吐き捨てるの。
『自分は、ただ恐ろしかっただけ』ってね。体を捨てた保身に走ればもう、破滅への道は免れない」
一理ある、と阿求は思う。
事実、幽々子の陥った状況を見ればどのような猛者であろうと慄然とする。彼女が『死を操る亡霊嬢』だと知る者なら尚更。想定よりも遥かに甚大な被害が出ていてもなんの不思議もない。
疑わしきは爆する、と。眠りについた幽々子を禁止エリアに置いたのは、彼女がこれから齎し得る悲劇を事前に防ぐ意図も多少なりとあった。
永琳の取った行動に倫理性は欠けていたが、論理性は存在した。彼女らしい、とも阿求は理解を得る。
「えと……幽々子? なにか、ちょっと話が違ってない?」
今まで口を閉ざし、永琳の背に押しやられていた輝夜がひょこっと顔を覗かせ疑問を呈す。
彼女の疑惑も尤もだ。なにせ輝夜は、幽々子が永琳に殺されかけたのだという事柄を一方的に、端的にしか伝えられていない。
そこに虚偽は無かろうが、事の背景には幽々子自身の無法な振る舞い、暴走行為が根源にあったのだという。そしてその裏背景を、幽々子は黙秘していた。自身のどうしようもない失態を隠蔽し、永琳を言外に悪と囃し立てた。
それは幽々子の、言うなればいつも通りの遊び心の延長線だ。本人には悪意も無ければ永琳側への怒りも然程無い。だが、受け取った側の輝夜は従者の素行を想像以上に重く見た。ここを蔑ろにしてしまえば、両勢に不和が生じかねないと予測を立てたのだ。
永琳が幽々子にやった行いは決して褒められるものでもないが、己の立場を悪くしない為、全ての事情を開示しなかった幽々子にも責はある。
まして半端に伝えられた真実は巡り回って、不本意とはいえあの蓬莱山輝夜の頭を床へと下げさせた。
話が違う。星空に浮かぶ満月の様な丸みを帯びた輝夜の瞳は、そんな言葉を含んで汗だくの幽々子へと突き刺さる。
程なくして輝夜は、兼ねてより疑問に思っていた光景を阿求へと投げ掛けた。
「ねえ、阿求」
「は、はい……っ」
その目はひどく据わっている。ここからの問答は、言葉遊びでは済まされない。
ゴクリと、唾を飲む音が阿求の喉元から響いた。
「その『顔』、誰にやられたの?」
疑惑の矛先は、阿求の腫れた顔面に向けられた。
しまった。阿求は既に先程、この生傷が永琳による暴行だという偽りを述べている。正確にはそれは、幽々子に促された戯言の様なものであったが。
「ねえ、本当の事を言って欲しいの。永琳が果たしてそんな、粗末な暴力を振るうような人だとは私にはずっと思えなかった」
一度答えた筈の問い掛けを、再び問われる。すなわちそれは、返した答えを確実に疑われているという勘繰りに他ならない。
これに限っては阿求に非はない。幽々子の茶目っ気が起こした飛び火。それが今、思わぬ形で阿求に降り掛かっているだけ。
「…………この顔の傷を付けたのは───幽々子さん、です」
予想通りの返答。輝夜は小さな怒りが湧いた。
嘘を吐かれた事へもそうだが、それ以上に“幽々子が仲間に対して手を下した”という事実に。
共に行動する上で見逃せる道理が無い幽々子の危険性を、彼女らは黙っていた。黙秘していながら、さながら悪者は永琳であり被害者こそが自分達であるかのように話したのだから。
土下座という恥辱を背負い、額を擦ろうとしたは自らの選択だ。幽々子らの方から強制したのでは決してなく、寧ろ行為を取り下げたのは向こう側である。
そこまでしなくてもいい。
我々が望むのはあくまで対話であり、穏健な協定だ。
そんな生易しい本音も、幽々子や阿求の頭にはあったろう。
輝夜は彼女らの根にある慈心や甘さを好意的に捉えていた。だから誠心誠意謝罪し、頭まで下げたのに。
これでは、馬鹿を見たのはこっちではないか。
(……少し、話が見えてきたわね)
輝夜の投げた問答を傍から聞きながら永琳は、得心がいったとばかりに心中頷く。
大方、目の前の阿求のいたいけな童顔をああも腫らした下手人は私の仕業だと、適当ほざいた。そんな所だろう。
阿求と最後に会った時点ではまだ傷一つなかったのだから、その時の状況を顧みれば真相など容易に導き出せる。
なるほど。私は彼女らにとって都合の良い展開に持っていけるよう、あること無いこと創造された。罪を押し付けられたのだ。
そして恐らく、従者の不始末は主である輝夜へと責任が問われる。何かしらのケジメを付けさせられる、といった形で。
果たしてそれは、何か。
親愛する主にはとても不相応な、泥土を払った跡。
穢れを知らぬ両の掌と、世に二つと生まれないだろう流麗の黒髪に僅か混ざったそれらを、永琳は目敏く発見する。
意図して遠ざけられていた真実。月の英傑は瞬きをほんの二度ほど繰り返された数秒の間に、難なく其処へ到達した。
瞬間、次に湧くは怒り。握り締めた左手を固く震わせるような、静かな怒り。
取るに足らぬ些細な罪を押し付けられた事自体は、致し方ないと割り切れることも出来る。元より永琳も、幽々子に対してやった行為は確実に“黒”といえるのだから。
しかし、輝夜。
最も大切に思う彼女に、よりにもよって頭を付けさせるとは。
これだけは、見逃せない。
そして、もしも。
もしも永琳の予想した事実が……輝夜を跪かせるなどという、在ってはならない黒歴史であったのなら。
自分の知る『蓬莱山輝夜』は、果たしてそんな薄汚い行為を人目の前で行うだろうか?
やりはしない。
少なくとも“永琳の知る”輝夜であれば、行わない。
意にも介さず、とまではいかないが、欲深な地上の民の戯言だと、いつも通り華麗に受け流していただろう。
輝夜は別に高飛車でもプライドが高いという訳でもないが、地上民と月の民の間に聳え立つ格差が絶対的だという自覚は持っている。穢い相手の目線の更に下方にまで、わざわざ自分から降りていく御方でもない。
では、無理矢理?
それもきっと、正しくない。
目前の二人。幽々子と阿求の人間性は、僅かに触れ合ってきた永琳でさえも、片鱗以上には理解出来ている。
彼女らは無理強いはしない。輝夜の頭を強引に床に付けさせるなどという野蛮は行わない人種というのは察せる。
となればもう、一つしかない。
自らの意思で以て、輝夜は低頭平身に跪いた。
それはどれほどに恐ろしい事だろう。永琳は胸中の怒りとは裏腹に、元々冷たかった血相を更に青ざめさせる。
輝夜をそこまでに追い詰めたのは、誰だ。
膝を付ける他ないとまで、選択肢を失わせたのは誰だ。
それは敢えて不修多羅な真相を隠していた西行寺幽々子であり。
同罪でしかない他力本願の象徴、
稗田阿求であり。
そして軽率な判断でその状況を作り上げてしまった一因、八意永琳自身である。
(馬鹿……! 私は一体、何を焦っていた……!?)
実験に扱う対象として幽々子を選んだのは、些かな軽はずみと言える。
これまでの流れで永琳は、幽々子を半危険人物だと言外に非難してきた。その通りなのだが、最初に永遠亭で邂逅を遂げた時点での幽々子は、狂乱というよりも消沈と示した方が近い。
友を信じられず自暴自棄とはなっていたが、少なくとも客間に座らせまともな話をかろうじて交わせる程度には、落ち着きを取り戻していたのだ。
それを踏まえてなお、彼女に一服を盛った。謀るデメリットを考慮して、このような事態が起こり得ることも覚悟してなお、最終的に幽々子を『実験動物』として扱った。
結局の所それは、焦っていたのだろう。
これは永琳の失敗だ。彼女の起こした通常考えられない、あまりに軽率なミスなのだ。
巡り巡ってその代償を払ったのは、輝夜だったというだけの話。
前代未聞、だ。
心臓を直接握られたかのような、抗い難い苦痛が永琳を襲った。
“あの”輝夜が、“自ら”土下座を選んだという事実。
これはもう、永琳の知る輝夜とは僅かに。そして決定的に逸れている。
(……いえ。逆、ね)
本来を辿るルートを逸れているのは、輝夜ではない。鈴仙でも、てゐでもない。
永琳。八意永琳のみが、針が歩みだした世界に置いていかれていた。
恐れていたことが起き始めている。全ては太田順也の一計だろう。
彼女はとうとう自覚した。
永遠亭という家族の輪から、自分の存在のみがぽっかりと穴を開けているような孤独感。
どうあっても取り戻せない『失われた時間』が、この胸に渦巻き、永久の呪いに絡め取られている。
私の知らない『鈴仙』が。
私の知らない『てゐ』が。
私の知らない『輝夜』が。
不変のままで在りたいと願うあの『家』から。
そっと、巣立っていくのだ。
空白の後に残るは、私のみ。
永遠亭に自分が知るモノなど、刻と心を凍てつかせた私というもぬけの殻だけ。
永琳はこの期に及んで、『永遠』へと畏怖を抱き始めた。
永遠の孤独。蓬莱人が真に恐れる、究極の苦痛であった。
かつて蓬莱人へ身を落とすという大罪を犯した、輝夜。
永琳は、彼女を救う為に。そして唯一の理解者となって隣に居続ける為に、自らも蓬莱の薬を飲んだ。
蓬莱人の理解者と成れる存在は、同じ蓬莱人だけだから。
それを信じて永琳は、あまりに途方もない『幸福』を望んだ。
永遠の先に転がっているような、輪郭のぼけた幻想の幸せを。
ここに居る輝夜は。いや、ここに居る輝夜“も”。
永琳の知らない『未来』より呼ばれた、蓬莱山輝夜なのだろう。
鈴仙やてゐの前例からすればそれは、『永遠』を歩き終えた世界線の輝夜と考えられる。
そうでなければ高貴なる輝夜が、地上の民などに跪くわけがないのだから。
では、この輝夜はこの先どのような選択を取っていくのか。
自分の知らない輝夜。それだけで永琳は、身を掻き毟りたくなる巨大な不安感に苛まれる。
もしも彼女までが私の傍を離れるという選択を取るなら、私は──────。
「──────この通りよ」
暗礁に乗り上げかけた永琳の思考を、静かに遮った声があった。
白玉楼当主・西行寺幽々子の明白な謝罪である。
「ゆ、幽々子さん!」
「私の暴走が、そもそもの始まりだもの。阿求を傷付けたのも、永琳を傷付けたのも、輝夜に辱めを与えたのも、全て私のせい。これが真実よ」
今や立場は完全に逆転している。高貴である身分を顧みず、トレードマークである天冠を装飾した帽子をも取り払い、普段のおっとりとした気質はそこには無い。
おどおどと慌てふためていた阿求も、彼女に倣ってすぐに頭を下げる。腫れ上がったその顔はとても見られたものではないが、幽々子一人に責任を負わせようとする恥知らずに勝る赤っ恥なども無いだろう。
「申し訳ありませんでした。ご察しの通り、幽々子さんはつい先程まで正気にはなかった───つまり、少々タガの外れた暴走状態のようなものでした」
稗田家九代目当主・稗田阿求。少女の身でありながらも人里においては随一に位が高い彼女は、幽々子の隣で同じく頭を下げ続けた。
今や戸惑われずに口から漏れていく言葉は、恩人でもある幽々子の心証が悪くなる一方の真実だ。何を今更、と思われようが、偽らぬことが今の彼女らに出来る最大の罪滅ぼしであった。
「本来なら率先してお伝えすべきこの事実を隠蔽してしまっただけでなく、正当性の様なモノを振り翳し、笠に着て、永琳さんを不当に咎めてしまいました。
挙句、輝夜さんにまで辛い気持ちをさせてしまった。恥ずべくは、全て我々の怠慢。稗田の女として、不徳の致す所……この場を借りて詫びを入れさせて頂きます」
今度こそは、二人共誠心誠意を込めた。幽々子も阿求も、先程同じように頭を下げた輝夜も、皆が皆、高位の生まれである。
温室育ちの箱入り娘が揃いも揃って頭を垂れる。元より、受け継いだ肩書きに意味など無いのだ。このバトルロワイヤルにおいては。
秩序も体裁も無法の下に埋もれたこんな世界で、肩書きやら主従やらを持ち出して何になるというのか。
それでも彼女達は、最も大事な物だけは捨てたりしない。名実とは、誠実さだ。生まれながらに受け継いだ誇りを敢えて下げることで、切り拓ける道もあると信じて。
何が正しいか。正しくないか。
何が大切か。大切でないか。
輝夜は永琳を大切に想うからこそ、頭を下げたのであり。
幽々子も阿求も、虚飾なき誠意の下に頭を下げている。
「う…………む、むぅ~」
こうなっては素直に怒れないのは、輝夜の方だ。
幽々子らが真実を述べず、結果本来の正しい過程を経ずに輝夜の頭を下げさせたのは、確かに憤りも感じている。
とは言ったものの、幽々子にしろ阿求にしろ胸に一物あっての虚言ではなかった事など、彼女らの懸命な謝罪を見れば分かる。
不幸なすれ違いが連続して起こってしまった。言ってしまえばその程度の些事、だとも言える。
永琳にも頭を下げさせると先程約束した手前だったが、少し状況が複雑化してしまった。ここから更に永琳にまで謝罪を行わせるとなると、どうにもチグハグな事になる。
元々人当たりの良い輝夜としては、やはり許してあげたいと思う。それは当事者でもある永琳次第になるが、果たして彼女はどう思っているか。
輝夜は信頼を寄せる従者の次なる言葉を待つ事とした。汚れ役の烙印を押されかけた永琳こそに、全ての決定権があるのだから。
「───もういいわ。頭を上げて下さい」
賢者の答えは予想よりも早く、あっさりと告げられた。
言葉通りに二人は、ゆっくりと頭を上げる。
「一つだけ、確認しておきたいの」
「何でも。今度こそ、偽りは申しません」
永琳の矛先には、幽々子である。
目線と立場の違いか、どうしたって永琳の言葉は高圧的にも聴こえる。それを受けてなお、幽々子の瞳は真っ直ぐだった。
「幽々子さん。貴方は、もう『大丈夫』なのね?
何があろうと周囲の人間は傷付けない。それだけは誓えるのね?」
幽々子は既に、永琳と阿求に手を上げているという払拭できない過去がある。
もし仮に彼女が輝夜を傷付けようものなら、今度は仮死状態で済ませるつもりは永琳にはない。
「誓えるわ。私は友達を、そして友達を信じる自分を信じているもの」
フゥ、と永琳は小さく息を吐いた。その言葉さえ聞けるなら、ひとまず話は丸く収まるのだろう。
怒りは簡単に消えるものではない。しかしそれは、己の失敗を他人に押し付ける事と同義でもある。
永琳が真に苛立っている相手は、誰と問われれば……己自身なのだから。
「───私も、貴方に対して大変な事をしたというのは事実よ。こんな謝罪で帳消しにしてなどとは言えないけど、やり過ぎたわ。御免なさい」
頭を下げないわけには行かない。彼女らにここまでさせておいて、自分だけがのうのうと偉そうに言える立場でないのも認めよう。
輝夜の顔を立てる意味でも、これ以上不要ないざこざを起こしては呆れられるばかりだ。
なればこそ、ここで初めて永琳の謝罪にも結果が生まれ出る。
信頼を寄せる従者の物珍しい謝罪を見て、輝夜も安心を覚えた。
根付いたわだかまりが全て、後腐れなく消化された訳では無い。何もかもが納得済みという訳でも無い。
(でもまあ、きっとこれでいいのよ)
人間関係に一喜一憂するようなキャラでもないのだ、自分は元々。
為せば成る。為さねば成らぬ、何事も。
故に輝夜は、取り敢えずは胸を撫で下ろし、一歩歩み寄れた実感を噛み締めながら、にへらと笑みを零した。
そして、輝夜の問題はここからなのだ。
対等な関係をどうにか築き上げたというのがここまでならば。
ここからは、輝夜自身の課題を解決に持っていかなければならない分野の話となる。
するとそこに、狙い済ましたかのような丁度のタイミングで男は現れた。
「オレはこの幻想郷という土地をよく知らない。だからオレの認識が間違っていたのなら申し訳ないのだが」
出来上がった料理を載せた二つのトレンチを、その両手に添えながら。
「───レストランとは、メシを食う場所だ。幻想郷は違うのか?」
無愛想で、特徴的な髭。こんな素っ気のなさそうな男がレストランに居れば、それだけで飯が不味くもなりそうだ。
リンゴォ・ロードアゲイン。男は物腰だけは丁重に、身近な丸テーブルの上へとトレンチを置きながら喋くる。
「邪魔になるかとも思い、少し様子を見ていたのだがな。頃合いを見て割り込ませてもらった。食事が冷めるばかりだと、良いことなど無い」
女四人の空間では、少々異質であった。彼をより異質足らしめんとするは無論、卓に置かれた手料理だろう。男はどう見てもキッチンに向かうような風貌には見えない。
「オレは貧困の出だ。女手一つで育ててくれた母からは『食事には常に感謝の心を抱きなさい』と教えこまれた。
お前らもそのうち子を育む女ならば、出された器の前ではしたなく争う様なみっともない真似は控えた方がいい」
正論である。輝夜も永琳も、幽々子も阿求も、何を言えばいいのか言葉を探しあぐねている、といった様子だ。
とは言っても、話は概ね解決の方向へ向かっていた流れだ。ここらで何かを口に入れるには、ベストタイミングの切り口だったに違いない。
そうだ。ここはレストラン。熱々の料理を前にこれ以上足を棒にしていては、作ってくれた彼にも申し訳が立たない。積もる話もあるだろうが、ひとまずはテーブルに着くべきだ。
リンゴォは一人、少女達からは離れたテーブルに椅子を寄せると、自身の食事をそこに置き……
「頂きます」
軽く両掌を合わせ、料理を黙々と口へ運び始めた。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
二頭の馬を表に繋ぎ、集合の場としているレストランへやや警戒混じりに入ると、既に顔ぶれは揃っていた。
ジャイロと文は、肩や帽子に掛かった雪を玄関で軽く落とし、室内に充満した胃を刺激するイイ匂いに思わず顔が綻んだ。
「あややや。お食事中でしたか」
「お、『チリ』か。レース中にジョニィとよく作ったぜ」
文が上着を脱ぎながら、一風変わった食事風景を目に入れる。時刻としては少し遅めの昼食だったが、いい加減何か口に入れないと戦えるものも戦えない。
見れば、メンバーの中にしっかりと八意永琳も混ざっている。どうやら円滑な合流は果たせたらしく、和気あいあいとまではいかないにしても、滞りのない交流が成されているのはこの会食を眺めれば理解出来た。
実際には一波乱起こった出会い頭であったが、共に顔を合わせ卓を囲んでいる様子を見るに、危惧するような事態は起こってないのだろうと文もジャイロも安堵する。
「結構な大所帯ね」
朱色のスープを口にしながら、永琳が顔色一つ変えずに言った。ジャイロと文の二名も程なくここへ到着するというのは食事中既に聞いた事柄だ。故に、この来客には何の驚くこともない。
「新聞屋さんとツェペリの分もあるわよ。こっちのテーブルはもういっぱいいっぱいだから、二人はそっちで食べてね」
真鍮器の上でふんだんに盛られた赤い豆を掬いながら輝夜が言う。首を軽く回した方向には先客であるリンゴォの姿があった。
「げっ……」とジャイロの顔に、あからさまに嫌そうな色が浮かんだ。よりによってこの男と卓を共にするなど、それだけで美味いメシの質も下がりかねない。
「まさかだよな。まさかこの料理、お前が作ったの?」
「……」
目を丸くしながらのジャイロの問い掛けにも、リンゴォはただスプーンを口に運ぶのみで見向きもしない。
リンゴォが黙々と掬っている朱色の料理は、ジャイロが一目で判別できたようにアメリカの国民食とまで言える代表的な豆料理で、正式な名称を『チリコンカーン』としている。
旧メキシコのカウボーイが起源とされているその料理は、今日ではアメリカ国内の至る家庭やレストランでも広く愛される食事の一つ。
牛肉と玉ねぎを炒め、トマト、チリパウダー、ピントビーンズを加えて煮込み、更に唐辛子や香辛料を混ぜたチリソースで味付けをした物が、目の前の真鍮の器に盛り付けられた代物の正体だ。
チリのレシピは多岐に渡り、料理する家庭それぞれに特別なレシピが存在すると言ってもいい。ジャイロはレース中、傾き始める夕陽の下での野外キャンプでこれをよく作ったものだ。
「また豆料理かい? ジャイロ、ぼくはもう飽きたよ」と何様目線で不満を垂らすジョニィは、その口癖とは裏腹に随分と美味そうにチリを胃に掻き込んでいた。
そんなレースの最中にある他愛のない日常が、ついさっきの事のように思い出される。今はもう戻らぬ想い出を、よりによって決闘まで交わしたこの男の手料理によって想起させられるとは。
「意外だなリンゴォ。いや、そうでもねぇか。常日頃から修行を求めるお前の事だ、健康管理の作法としてマトモな料理くれぇ作れなきゃな」
「……しつこいぞジャイロ・ツェペリ。食うつもりがないのなら馬にでも食わせてこい。別にお前の為に作ったわけではないのだからな」
「あ、はいはーい! 私、これ食べてみたいです! 外の世界の料理なんて滅多に食べられませんからねえ」
ニヤニヤと鬱陶しい視線を授けるばかりのジャイロとは対照的に、まるで子供──少女そのものの笑顔を向けたのは
射命丸文だ。
彼女はジャイロを差し置き、すかさず席について手を合わせた。どうも腹を空かせたから、というより異国の料理を食レポしたいが為に目を輝かせているような、形式的な態勢を感じるが。
天狗の超スピードが果たして食事にも適用されるかは知らないが、早速ハキハキと箸を進める文を見ていれば必然、こちらの胃を突く刺激も肥大化していくもの。
かつての敵と正面向き合いながら飯を食すというのも筆舌に尽くし難しそうだが、流石に食事のひとつでも取らねばキツい時間帯である。
仕方ないと一言零しながら、ジャイロは観念した様子で席に着いた。
「うわ、むさっ。私、あっちのテーブルに移ろうかしら」
既に器の半分を虚無とさせた文が、失礼なことを言いながら輝夜らのテーブルを羨ましそうに眺める。彼女のすぐ横では、いい歳した大の男二人が妙な距離感で頬を動かしているのだからさもありなん。
美女の集うテーブル側から輝夜が、若干の違和感を口にした。そう言えばホル・ホースの姿がさっきからなく、あのカウボーイまでがジャイロ達の空間に入れば流石に文が不憫だと思った次第だ。
「ホル・ホースさんとは別れました。彼には彼の、やるべき事があるらしいですので」
チリの芳醇なソースを炊けたご飯にうっとり掛けながら、文はキッパリ言い切った。その言葉の中に感じ取れる一抹の清々しさは、彼女と彼の間に後を引かないサバサバした決別があったのだと輝夜にも予想させる。
ホル・ホースの人材も面白そうではあっただけに、輝夜の中に若干の無念さが残る。だが輝夜の興味欲に勝るものは、現在のところ食欲である。蓬莱人と言えど腹はしっかり減るのだ。ポテチとピザとコーラのコンボを経験した身で言うのも何だが。
「───で、そろそろ話を進めたいのだけど」
和やかに向かいつつあるムードを斬り伏せるかの如く、永琳が唐突に口を開く。
元を辿ればこの集合は、永琳が永遠亭住民を呼び寄せ明確な方針を提示させる為に催したグループである。レストランを集合地としたのも決して昼食を楽しむ為ではないし、更に言えばここまで人を呼ぶつもりもなかった。
「そうね。色々話しときたい事もあるし……永琳、お願いするわね?」
永琳の意図を察した輝夜も、彼女に倣ってひとまず食事を中断した。
八意永琳とは実質的に永遠亭を取りまとめる代表人物だ。輝夜も鈴仙もてゐも、基本的には永琳の助言や命令に従ってきた。立場の上では蓬莱山輝夜が最上であるが、部下のイナバ達まで含めればそれなりの組織力を持つ永遠亭の中核と呼べる人物は完全に永琳である。
当然、位が上である輝夜とて第一に信頼するは永琳の判断。専ら頭を動かす役割なのは優秀な参謀であり、姫の仕事はと言えばここ一番の事態での鶴の一声くらいである。もっとも、その“ここ一番”というのが実際には中々来なかったりするが。
「まずは、各々の情報を整理しましょうか。このゲームが始まって半日以上……きっと様々な体験を過ごした事でしょう。手始めに姫から宜しいですか?」
「え゛っ」
進行を司る永琳の振りに、尻尾を踏まれた兎のようなダミ声で返す輝夜。至極当然の内容を当たり前に訊かれた彼女が動揺した理由はひとつしかない。
(どうしよう……とても言えないわ。「私はまず初めの6時間を漫画見て過ごしました」なんて)
マイペースな性格とはいえ、流石に人並みの羞恥心程度は持ち合わせる彼女は、神経を疑うこのロクでもないスタートダッシュについてどう言い訳すべきかを猛烈な勢いで考える。
必然生まれる、数瞬の沈黙。周囲の視線が一斉に輝夜へと飛ぶ。本人は至って真面目に異変解決を望んでいただけに、真実をありのままに話すというのは自らのイメージを損ねる。それはもう、壊滅的に。
「…………まあ、姫は後からでもいいでしょう。では、幽々子さんからどうかしら?」
唸る輝夜の様子に何か察するものでもあったのか。永琳は意を汲み取る為、ひとまず輝夜は後回しにする。
永琳が選んだ相手は幽々子だ。彼女には図らずも頭を下げさせた経歴もあり、少々複雑な因果を築いてしまっている。
故に、食事中も幽々子・阿求らと永琳・輝夜らはどこか壁を感じていた。過去のわだかまりも双方の謝罪で水に流すとし、表面層では手を取り合った様に見えている。
しかし人の感情とはまことに厄介で、心の深層においては未だ両者打ち解けるはずもなく。
無意識下にあるかもしれなかったが、永琳の幽々子を指名する視線や言葉の奥には、極微小な毒が混ざっていたのかもしれない。
「構わないわよ。私はゲーム最初から殆どの時間、阿求と一緒だったから彼女の分もついでに話しておくわね。あまり食事中に聞かせるような内容でもないけど」
幽々子の攻略していた器が丁度空となり、三杯目のおかわりへ突入するかどうかというタイミングで、彼女は取り敢えず箸を置いた。
今度こそ全て、幽々子は一から十までを全開に開示した。自らの未熟な心の持ちようが仇となり、永琳含む傍に居る者を不用に傷付けたこと。幽々子自身は殆ど素知らぬ、邪仙らの襲撃戦については阿求も補足を加えつつ。
その結果、癒えぬ痛みを背負わされたことも。
「……私、食事なんかしていていいんでしょうか。こうしてる間にもメリーの身に恐ろしいことが起こってるような気がして……」
阿求が下を向き、本音を吐く。ジャイロも予想していた事だが、メリー救出の優先度は直ちに急を要するものでは無いとはいえ、あれからかなりの時間が経過しているのも事実。
敵の拠点地に見当がついていない事に加え、幽々子に起こったゴタゴタもあったので、メリー奪還作戦についてはまるで進行の兆しが見えていないというのが現実だった。
「───貴方達は、これからどうしたいの?」
阿求の悲痛な様子を見て永琳も訊ねる。
その問いは彼女の表情を見かねて口に出したという気遣いよりかは、あくまで話を前に進めたいが為に急かしたのだというような。大した情など含まない冷たさを感じる声色だった。
「メリーを助けるわ。ポルナレフともすぐに合流して、一度態勢を整えてから」
永琳の問いに代わりに答えたのは幽々子。対する者に淀みを読み取らせない、極めて前向きな瞳を宿しながら。
「あ、そういや花京院の奴を忘れてた」
「あ、そういえば早苗さんも」
ポルナレフの名が出たことで連想されたのか。ジャイロと阿求が太陽の畑にて休ませていた男女の名を連ねた。
「カキョーイン?」
キョトンとしながら幽々子は、聞き慣れぬ名前を復唱する。早苗というのは山の巫女の
東風谷早苗であろうが、花京院という名前は幽々子は知らない。彼と彼女がジャイロ達の前へ隕石の如く降って現れたのは、幽々子脱却後であったのだから当然だ。
その過程をジャイロが軽く説明し、超凶悪スタンド『ノトーリアス・B・I・G』を撃退した功労者に花京院と早苗の名が挙げられる。当然最後のトドメというオイシイ役回りを買って出たのはこのオレだという華々しい終幕までを、鼻高々で。
「要は、仲間を集めてそのメリーを救出する。そういう方針でいいわけね」
多少脱線しつつあった話題のレールを、永琳の一言で本筋に戻す。
彼らの目的は消え去った幽々子の捜索。それが完了した今、ポルナレフや花京院、東風谷早苗といった面々を再集結させ、奪われたメリーを奪還しに向かう。それを永琳も今一度確認すると、ジャイロは淀みなく肯定した。
はて。そんな重要な任務を控えていながら、じゃあ何故彼らはこの自分にわざわざ接触しようとしたのだろうか。永琳は抱いて当然の疑問を口にすると、今度は阿求がそれへと返答する。
曰く、幽々子を完全に見失った地点は永遠亭からである。もしもその時、その場所に由縁ある人物が共に居た場合、その人物こそが幽々子の生死を握っている可能性が少なからずあった。
阿求の推測では、その人こそが八意永琳なのではないかというもの。更に、月の天才永琳であればおかしくなった幽々子を実験体として扱い、禁止エリアに連れ込む程度はしかねないといったズバリな推理が炸裂したのだ。(流石にその部分までをこの場では口が裂けても言えなかったが)
「じゃあ幽々子とも会えた今、こうして共に食卓を囲む意味など無いんではなくて?」
「いえ、永琳さんに会いに来たのは幽々子さん絡みの目的だけではありません」
永琳の疑問にも阿求はすかさず回答を用意した。何の為に二人して頭を下げたのか、当然ながらそこにも理由はある。
多少なり、下心のような気持ちがあったのは認めるしかない。
「此度の異変解決に必要な知識……それを拝借したく、私共は貴方の元を訪ねたというのもあります」
「……なるほどね。まあ、そんなとこだろうとは思ってたけど」
「おこがましい態度なのは重々承知しております。ついては、まず一番の問題点である脳の中の『爆弾』……これを外さない事には何の進歩も見出せないと存じますが」
核心とも言うべき難題を、阿求は物怖じひとつ見せず問い質してみせる。永琳とリンゴォを除く全員の空気に僅かな緊張が走った。
人体については参加者の誰よりも抜きん出た知識と、扱いに長けた技量を秘める薬師だと名高い賢女である。不死をも屠る未知なる呪いとあれど、月の叡智であれば解除までは行かなくとも、糸口くらい掴めていても不思議ではない。
「……当然、件の爆弾については現在、全力で調査している最中よ。解除法について宛がなくも、ない」
「ほ、本当ですかっ!」
真鍮のスプーンがカチンと鳴った。思わずその身を乗り出した阿求の表情は、腫れ上がっていながらも晴れ上がる。
「肉体を一度捨てる。調査中ゆえに確実な手段とはとても断言出来ないのだけど……私はそれを考えているわ」
「肉体を……捨てる?」
大雑把かつ大胆な説明に、阿求含む全員が首を傾げた。生き残る為の方法として提示された爆弾解除法がそれでは、逆に死ねと言ってるようなものではないのか。
「死ぬのよ。肉体的な死……擬似的なモノではあるけど、あの主催を誤魔化すには一度死体を経ての偽装工作を連ねる必要があると私は考えている」
「オイオイオイ。言ってる意味はよく分からねーが、そりゃ後々蘇生出来る前提っつー絶対条件があんだろ? 大丈夫なのかよ、そこんトコ」
胡散臭そうな視線を隠そうともしないジャイロは、予想斜め上の解答に不安を露わにする。一度死ぬ、と実に平坦な口調で説明された所で、あまりに漠然としている説明だ。
ジャイロもこれで医者。同じ医業としての役職同士、八意永琳という女とは出来るだけ足並みを揃え、爆弾解除の手助けを行えるようにはしていきたい。
が、彼女の言う『死』というのがどのラインかにもよる。幻想郷特有の呪術的な概念が差し込まれれば、そこに外界の医者の出番は途端に消え去る。
「より『大丈夫』へと近づく為に、今は積み重ねの段階よ。これに限っては、石橋を叩き過ぎるなんて事はない」
不満げなジャイロにも、永琳はあくまで慎重策を辿っての結果を出すのだと。わざわざ積み重ねなどという無難な言葉を選んだのは、幽々子の手前『実験』という単語を使うのに躊躇が生じたからだろうか。
「肉体を一度捨てる、と言いましたね。それは例えば……尸解する、と考えても良いのでしょうか?」
ほら出た。早速オレには意味不明の言葉が飛び出したぞ。
阿求の発言にジャイロは心中で毒づき、子供のように不貞腐れる。予想通り、永琳の目指す爆弾解除に一般的な医療技術はお呼びでないらしい。
「考え方としてはそういう方向性でしょうね。現段階ではまだ何も言えないけど、魂を弄る必要も出てきたかしら」
尸解(しかい)とは一般に、仙術を心得た者が肉体を残して一度死に、魂魄だけ抜け出る術をいう。つまり砕いて言えば、高度な死んだフリである。
人が仙人へと至る比較的下位の手段であり、この方法で仙人と成った者は『尸解仙』と類される。幻想郷においてこれに属する仙人は、阿求の知る限りでは
豊聡耳神子、物部布都、
霍青娥あたりだ。
当たり前であるが、口で言うほど容易な手段ではない。仙術の心得など皆無の阿求並びにこの場の全員が「さあ尸解を始めましょう」と手を叩かれてすぐに成功できる訳がないのだ。
永琳とて仙術についてなど流石に門外漢だろう。教えを乞うべきは仙人本人からである事が望ましいが、頼りになるチームリーダー的存在だった神子も居ない。
物部布都は参加者に居ない以上、頼みの綱はよりによって青娥のみを残す所となったが、神子を殺害したその張本人こそがあの邪仙である。当然、恥を捨てて懇願するという選択は、如何な一度頭を下げた阿求や幽々子であってもまず有り得ない。そもそもジャイロがキレる。
永琳はどのような手段を用いて肉体を切り離すと言うのだろうか。
「一度死ぬ……って、少なくとも蓬莱人や亡霊である皆さんが言うのでは、説得力があるのか無いのか分かりませんねえ」
食器をぺろりと空にせしめた文が、周囲の面々を見回しながら言った。蓬莱人は本来、死から最も遠大な対極に立つ種族であり、亡霊の幽々子に至っては実際に一度死んだ身ですらある。
そんな異彩を放つ集団が、仮初とはいえ死に躍起にならざるを得ないというのでは、千年を生きる長命の文をして皮肉というか、タチの悪い頓智物語のような話だ。
(……亡霊?)
文がサラッと述べた、あまりに取り留めのない単語。危うく流しかけたそれを、永琳の思考のみが拾った。
視線から言って、文の“亡霊”という言葉は幽々子その人に当て嵌る台詞だろう。
瞬時に導き出される、しかし永琳にとってはあまりに今更ながらの新事実。
西行寺幽々子とは───亡霊である。
それはきっと、周知の事実。脈動を産み、己が意思で行動する彼女を一目見て「幽霊だ」などと想像を働かせる無礼者は居ないだろう。
だが永琳は。永琳にだけは分からなかった。そうだと知り得る機会が今までに来なかったからだ。
思い起こせば確かに、初対面の邂逅においてこの幽々子の様子は尋常とは言えず、死人のようだと感想を浮かべたのも記憶には新しい。
が、まさか本当に死人そのものだとは思わなかった。情けない事だが、気付けなかった。これは致命的とまでは言わずとも、大きな見落としだ。
例えば……普段の幻想郷であれば、幽々子の振る舞う雰囲気を一目見れば自ずと察せたかもしれない。通常の人間や妖怪共とは一風変わった、現世の者との境を違える異次元的な空気を肌で感じ取れたろう。
そもそも亡霊とは幽霊と違い、傍目には人間との区別も付かない。西行寺幽々子を素知らぬ者であれば、少々ネジの緩い良家のお嬢様か何かと勘違いしても全くおかしくないのだ。
永琳は我が右腕を掲げ、天井の照明に照らしてみせた。心臓から絶えず送られる血脈は、生の証明。不死人である肉体も、これを絶たれれば呆気なく朽ち果てると主催はぬかしていた。
それもこれも、このバトルロワイヤルの環境があってこそ。永琳と同じに幽々子だって今この時、亡霊という名の殻を剥がされ、人間並みの脆き肉体へと封じ込められているに過ぎない。
つまりは永琳が幽々子を亡霊だと見抜けなかった理由の一つに、現在の我々の肉体には如何なる呪術かによって改変が加えられているというものがあった。
単に爆破の施しが与えられてるだけではなく、いわゆる制限といった根本的な改変だ。
幽々子を亡霊としたクラスのままにゲームへ参加させていれば、成仏以外の方法で殺しようがない。死んでいるのだから。
どちらかと言えば、今の彼女は人間寄りに構築された肉体の筈であり、永琳本人も自己再生機能は何とか保持されているとはいえ、恐らく“死ねる”身体なのだ。
(それにしては彼女……気のせいか『活力』に満ちている気もするのよね)
いつの間にか四杯目のおかわりをも完食し終えた幽々子の食べっぷりを見ながら、しかし決してその食べ盛りの様子を比喩して『活力』などと表現した訳ではない永琳が、静かに眉をひそめる。
何となくだが、幽々子からは微弱な生命力を感じる。不可視のオーラとでも言おうか。彼女本人とはまた別の根元を源にした、出所不明のエネルギー。
初めて出会った時点では全く感じ取れなかった、漲るような力。今ではそれが、本当に僅かな電磁波ほどの微小さで感じられるような。
この『生命力』とも呼べる感覚の発生が、永琳が幽々子を亡霊だと見抜けなかった理由の二つ目だ。死人に生命力等という言葉は、如何にも似つかわしくない。
とはいえこれはあくまで永琳の誤差レベルの体感であり、そもそも西行寺幽々子とはそういった存在なのかもしれない。彼女とは殆ど初対面の永琳に、その僅かな差異を証明できる術はない。
(…………いや、待って。亡霊、って事は)
埃ほどの極小から生まれた違和感は、永琳に天啓をもたらした。
「───魂は」
「ん?」
「魂は、貴方の専門分野の筈よね? 幽々子さん」
餅は餅屋。都合良く目の前には、魂の扱いにかけては永琳の上をゆく存在が腰掛けているではないか。
ここで永琳は、幽々子が亡霊であるという事実をあたかも既知であったかのように問い掛ける。自分が周囲よりも遥か過去から呼ばれた不憫な参加者だと、知らせる必要など無い。
「専門も専門。むしろ魂そのものの存在が、この私なのよ」
「訊きたいことがあるわ」
「私に答えられる事であれば、なんなりと」
「幽々子さん。貴方は、例えば他人の魂が見えるのかしら?」
投げ掛けた問いは、常人であれば軽く鼻を鳴らされる程度には素っ頓狂な内容。無論、この場にそういった常人が紛れ込んでいる事などあろう筈もなく。
誰しもが、その会話に今更リアクションを挟むことなく、じっと聞き入っていた。
「見えるわよ。普通に」
さも堂々と幽々子が答える。永琳もそれを予期していたらしく、ならばと次の質問を即座に放つ。
「じゃあ、今は? 貴方から見て、今私達全員の魂はどう見えるの? 通常通りかしら」
言われて幽々子は、穢れなど一切知らぬ愛くるしいその唇を少しの間閉じ、ゆっくりと全員を見渡した。
僅かばかりの無言の中、割って入る言葉が漏らされた。射命丸文の、ハッとした音声である。
「あっ、それ私も訊きたいと思ってたんですよ」
片手を挙げ、発言権を我がものとした新聞記者が場を借りて質問に同調した。
遡ること数時間も前。あのモンスターハウスで
古明地こいしの遺体を発見した際のやり取りが、文の口から軽く説明される。
要点を述べると、本来死体と会話できる筈の
火焔猫燐の力が、ここでは一切通じなかったのだという。こいしの遺体からは反応が完全に無かったのだ。
これを単に主催からお燐への制限による結果か、それとも参加者の肉体及び魂へと何らかの手が入っているのか。その区別がつかないといった次第だ。お燐はこいしの遺体に対し「完全に空っぽ」だと心苦しく漏らしていた。
「成程ね。……まず、亡霊の立場である私からは確実な事が一つ、言えるわ」
一通り文の話を聞き終えた幽々子は、ふむと唸った後に至極真面目な表情を作り、ハッキリと言葉に出した。
「少なくとも現在の所は、ここに居る全員漏れなく『魂』が見えているわ。みんな健康的な色艶だから安心してね」
魂には一人一人の形状があり、色彩がある。
生きている人間のそれを、本来は見通すことなど出来やしない。
だが例外も存在する。亡霊や死神といった、『境界のあちら側』に属した者達だ。幻想郷には、そういった特性の人物も幾らか居たりする。
「私自身は……あの時、ツェペリの最期には立ち会えなかった。でもあの人を弔うシーンには目を覚ましていたから……確かに彼の遺体には、魂はもちろん、残り香すら無かった」
語る幽々子の顔に影が曇る。命の恩人、と言うには亡霊が表現するにはおかしなものだが、とにかくウィル・A・ツェペリは幽々子の命の恩人である。
その男の誇りある最期に幽々子は立ち会えていない。神子の最期の場にも弔えたのはジャイロのみだし、後は精々が男の世界による『決闘』でのジャイロ、ホル・ホースの死だが、あのコンマを動く刹那の狭間で魂の確認など不可能であったし、すぐさま時が戻されたのだから最早確認不能に等しかった。
つまり幽々子は誰かの死に直接立ち会った事実上の経験など、この会場においてはない。肉体から魂魄が剥がれた瞬間は一つとして目撃していないのだった。
通常、生物が死ぬと魂が肉体から剥がれる。よく「天に昇る」などと比喩されるが、実際には死んだ魂魄は河を渡ったり、冥界や地獄に連れられる。
幽々子の様な亡霊といった類は成仏出来ずにそのまま顕界に留まるのだが、ひとまずその魂は肉体からは剥がれ落ち、浮遊・徘徊を始めたり地縛霊としてその土地に居着いたりする。
このバトルロワイヤルが特殊な状況下とはいえ、全ての参加者は一旦死亡すれば魂は通常通り抜け落ちる、という裏付けを幽々子本人はまだ取れていない。
文の言うお燐が肉体は空っぽだと言ったり、実際にツェペリの肉体はもぬけの殻だったのだから、十中八九そうなるのだろうが。
「永琳ったら何が言いたいの?」
要領を得ない問答に、輝夜がいい加減ヤキモキして本命を急かした。幽々子の能力の程を訊いて、永琳は一体何をしたいのか。
「再度確認するけど、幽々子さん。貴方はこの場の全員をもう一度見回して、本当に『通常通り』の魂が見える?」
不要な程に確認を取る永琳。この質問が、幽々子のこの能力が、永琳の目的に如何なる形かで関わってくるのだ。本人の真面目な表情を見やれば、その程度の事情などすぐに察せるというもの。
幽々子はもう一度周囲を見回し、今度はやや緊張気味に首肯。『通常通り』の意味する所はよく分からないが、見た目ここに居る者達の魂は、幽々子が普段日常で見るような魂とそう変わらないように思える。
「見える、けど」
「目を凝らしてみても? 以前と全く変わりない、ありのままの魂かしら?」
「ねえ、永琳。通常通りの魂と言っても、そもそも魂には一つとして同じモノはないわ。
ここに居る皆の魂だってそれぞれ違う形や色をしている。貴方は何をもって、魂の違和感などを知りたがってるの?」
こうまでくどく訊かれるのは、何やら自分の能力が疑われている気になって。
つい、幽々子の口調に苛立ちが混ざり始める。
「そうね。じゃあ、少し違う方向から訊いてみましょう」
死を操る亡霊姫へと相対し、芥ほどの萎縮も躊躇いも生じず、気後れなく永琳は言い直した。
「ほんの少しでもその魂に『違和感』……つまりこのゲーム以前とは異なる箇所が見て取れると自信満々に断言出来る程、貴方と親密な関係にある人物はこの場に居る?」
幽々子の口が閉ざされた。彼女の言わんとしてる疑問視の意味を理解し、その上で正答を手繰り寄せる為への逡巡が生じる。
魂とは───その者の気質を映し出す服である。
幽々子の性質は、日常的にその『服』という第二の容姿を可視するといったもので、これは幽体である彼女ならではの特技と言ってもいい。
そしてその魂なる服は、実際の服飾と違って基本的には唐突に変化したりはしない。
永琳の言う『魂の違和感』とは、その人間の気質を飾るいつもの服が、今日──つまりこのゲーム中に限っては様子が違わないか、という疑問を含んでいるのだ。
幽々子は隣に座る阿求をもう一度覗く。この娘とは以前にも会ったことがあるし、当然ながら魂が変化しているなどという異質な事態は見られない。
永琳は言った。微細な魂の変化に気付ける程に親密な者が、この場に居るかと。
新顔のジャイロ達外の人間は勿論、阿求や新聞屋、永琳や輝夜という存在は、幽々子にとって親密だったとは言えない。
西行寺幽々子とは、どちらかと言えば出不精だ。大抵の雑事・使いは従者の妖夢に任せているし、住処の白玉楼そのものが俗世からは大きく離れた、この世ならざる幻想的な場所である。
従って幽々子の交友関係とは、お世辞にも広く深くとは言い難い。どう見栄を張ったとして、新密度筆頭の
魂魄妖夢、
八雲紫の二人が一番に出てきて、後はその他大勢という悲惨な二極化となってしまう。
毎日同じ服を着ているような相手の、ほんの些細な変化。今日はリボンの色がいつもより派手だとか、石鹸の香りが少し爽やかだとか、その程度の差異。
永琳が先程からしつこく訊いているのは、この僅かな魂の変化の違いに気付けるような親しい間柄がここに居るか、或いは心当たりがあるかという内容である。
流石と言うべきか、魂の支配者である幽々子をして永琳には敬服せざるを得ない。肉体でなく魂そのものを弄られている可能性へ至るに終わらず、その立証と手段をこうもあっさり提唱できる、発想の飛躍。頭脳面にかけては何者よりも一歩二歩抜きん出る参加者はやはり八意永琳だろう。
期待の眼差しというには程遠い彼女の眼を受け、幽々子は答え辛そうに返答した。
「…………居ない、わ。少なくとも、此処には」
漏れ出たトーンが著しく低い理由は、既にこの世にもあの世にも居ない最愛の従者の影が幽々子の脳裏を過ぎった事にある。
問う側の永琳とて、その程度の心遣いに気が回らなかったとは思えない。幽々子が妖夢を喪った事実により激しい愁傷を経たことは、永遠亭での一件からとうに知れたことであるのだから。
それを分かって質問するという事は、求められる返答にそれだけの重要性が含まれる可能性がある事に他ならない。
そしてゆっくりと聞かされる幽々子の期待外れの答えに、永琳は落胆も苛立ちも見せずに短い言葉を放った。
「そう」
とだけ。
「……一人、心当たりは居るわ。もしも参加者全員の魂そのものに手が加えられたとして。そしてその改変という名の『糸のほつれ』が、どれほどに小さな歪を服の上に生んだとしても。
『彼女』であれば、私には……私だけには、分かるかもしれない。そんな人が」
妖夢とは自分なりに決別を果たしたつもりだ。然らば残る相手は一人しかいない。
幽々子にとって最も大切な友であり。
幽々子にとって最も大切な家族を奪ってしまったのかもしれない、そんな悲縁を結んでしまった相手。
「紫に会うわ」
会いたい、ではなく、会う。一言であったが、強い決起の意思を秘めた台詞だった。
元より幽々子はそのつもりである。出会わなければならない理由が増えたことは、彼女の意思をより強固にさせた。
純真に求めていたものは言葉でなく、幻想を現へと変える意志なのだと。
永琳が薄く微笑んだ理由が、幽々子の瞳の中に在った。
◆
「阿求。この通信媒体には私との連絡手段……『電話番号』が既に記されている。もし八雲紫の現在地が分かったなら連絡するから、手元から離さないでね」
そう言って永琳は、阿求の支給品『スマートフォン』を本人の手に返す。阿求の所持品に小型通信機器がある事を永琳が知ったと見るや、殆ど一方的に奪われ、何やら弄られて戻されたのだった。
その片手間ついでに腫れ上がった阿求の顔面を手持ちの救急道具で治療しているのも、流石にその惨状を見兼ねての厚意である。
抗議の声を上げようにも、外界の精密機械にはとんと無知である自分にその資格はないと悟った阿求は、諦めて永遠亭印の薬品の恩恵を授かりながら別の疑問を投げかける。
「永琳さんはこれからどちらへ?」
「爆弾解除の手掛かり集めついでに……ちょっと『寄り道』をね」
それきり彼女の口から台詞の続きは出てこない。どうやら『寄り道』についてはこれ以上の詮索は無駄らしい。
それは同時に、阿求らに対して「付いて来なくていい」と言外に制しているようなものだった。
「貴方達にはメリーを救い出すって使命があるんでしょ? だったらまず、何よりそれを優先させるべき」
正論を盾にし、加勢は無用だという姿勢をあくまで崩さない。
それは自身の力を過信してか。阿求らの力など信頼に値しないか。
きっとそのどちらでもないのだろうなと、説かれた阿求は内心思う。
(一人に、なりたいのかな)
漠然と、今の永琳に対しそんな気持ちが湧き上がる。
根拠などまるでありはしないが、彼女の薄氷のような表情を眺めて、ふと思ってしまっただけ。
「姫。……少し、宜しいでしょうか?」
阿求の治療を終え間もなく、従者は月姫へと声を掛けた。その物静かな雰囲気は二人だけでの会話を望んでいるようだと、輝夜はすぐに察する。
「ええ、もちろん」
一瞬、永琳が卓のリンゴォを横目に入れた気がする。その理由も、輝夜には何となく分かってしまう。
今までずっと、同じ刻を歩んできた家族なのだから。
そうして二人は誰に声掛けるまでもなく、静かにレストランを出た。どこか重苦しい雰囲気を背負う月の民の二人が出ていった事で、部屋にはちょっとした解放感が生まれる。
「んじゃ、ちっとポルナレフの奴と、あの緑女緑男を呼んでくるわ。文、お前も付いて来い」
その空気感を狙ってか、ジャイロが自分の荷を整理しながら文へと声掛けた。
彼らの最優先はメリーの救出。否応にでも戦闘になるだろう事を予想して、こちらも相応の戦力を補強しなければならない。
ひとまず足のない幽々子や阿求らはここへ残し、ジャイロと文が馬を使って迷える子羊達を連れてくることには誰も反対しなかった。(リンゴォを残すことに対してはジャイロも大いに不満げであったが)
「あの山の巫女さんですか。彼女、というか守矢神社は悪い意味で新聞一面の常連ですので、果たして頼りになるやら」
幻想郷において天狗社会と守矢神社の両組織は持ちつ持たれつの関係である筈だが。本人の居ない所で相手を褒めるか貶すか、射命丸文はどちらかと言えばその後者の特性だ。
従ってノトーリアス・B・I・Gに一矢報いた早苗の活躍を目にしていない文は、息をするように彼女を小馬鹿にする。
良くも悪くも普段の射命丸文と言える。出会った時より若干、憑き物が取れた印象を阿求も感じる。やはりジャイロとの邂逅により、彼女に新たな道が拓かれたのだろう。
そしてそれは、文だけではない。
ここに立つ幽々子も。リンゴォですら。
未知との交わりによって、自分だけが歩める光の道を見出したのだ。
(じゃあ、私の道って……何処にあるのかしらね)
無力。周囲がそれを言葉にせずとも、本人だけが痛切に噛み締める我が身の力の無さ。
阿求は、混迷の中から未だ抜け出せない。
帰る場所。或いは至れる処。悩めば悩む程に、阿求にはそのどちらの道すらも見つけられない。
しかし。そうであっても。
彼女が西行寺幽々子を正気へと導いた、という紛れもない事実がある限り……誰一人として阿求を不要とは思わないだろう。
今わかっているのは、メリーを助け出す為の唯一なる頼みの綱。道と呼ぶにもおこがましい、暗闇の細道のみだった。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
【D-4 レストラン・トラサルディー/午後】
【稗田阿求@東方求聞史紀】
[状態]:全身打撲、顔がパンパン
[装備]:なし
[道具]:スマートフォン、生命探知機、エイジャの残りカス、稗田阿求の手記、基本支給品
[思考・状況]
基本行動方針:殺し合いはしたくない。
1:レストラン内でジャイロ達の帰宅を待つ。
2:メリーを追わなきゃ…!
3:主催に抗えるかは解らないが、それでも自分が出来る限りやれることを頑張りたい。
4:手記に名前を付けたい。
[備考]
※参戦時期は『東方求聞口授』の三者会談以降です。
※はたての新聞を読みました。
※今の自分の在り方に自信を持ちました。
※西行寺幽々子の攻撃のタイミングを掴みました。
※八意永琳の『電話番号』を知りました。
【西行寺幽々子@東方妖々夢】
[状態]:満腹
[装備]:白楼剣
[道具]:なし
[思考・状況]
基本行動方針:妖夢が誇れる主である為に異変を解決する。
1:レストラン内でジャイロ達の帰宅を待つ。
2:紫に会う。その際、彼女の『魂』に変容がないかも調べる。
[備考]
※参戦時期は神霊廟以降です。
※『死を操る程度の能力』について彼女なりに調べていました。
※波紋の力が継承されたかどうかは後の書き手の方に任せます。
※左腕に負った傷は治りましたが、何らかの後遺症が残るかもしれません。
※稗田阿求が自らの友達であることを認めました。
※友達を信じることに、微塵の迷いもありません。
【ジャイロ・ツェペリ@第7部 スティール・ボール・ラン】
[状態]:身体の数箇所に酸による火傷(永琳により治療済み)、右手人差し指と中指の欠損、左手欠損
[装備]:
ナズーリンのペンデュラム、ヴァルキリー、月の鋼球×2
[道具]:太陽の花、基本支給品
[思考・状況]
基本行動方針:主催者を倒す。
1:文に『技術』を叩き込み、面倒を見る。
2:花京院や早苗、ポルナレフと合流し、レストランへ戻る。
3:メリーの救出。
4:青娥をブッ飛ばし神子の仇はとる。バックにDioか大統領?
5:DIOは必ずブッ倒す。ツェペリのおっさんとジョニィの仇だ。
6:博麗の巫女らを探し出す。
7:あれが……の回転?
[備考]
※参戦時期はSBR19巻、ジョニィと秘密を共有した直後です。
※豊聡耳神子と
博麗霊夢、
八坂神奈子、
聖白蓮、霍青娥の情報を共有しました。
※はたての新聞を読みました。
※未完成ながら『騎兵の回転』に成功しました。
【射命丸文@東方風神録】
[状態]:鈴奈庵衣装、漆黒の意思、少し晴れやかな気分、胸に銃痕(浅い)、片翼、牙(タスク)Act.1に覚醒
[装備]:スローダンサー
[道具]:基本支給品(ホル・ホース)、スレッジハンマー
[思考・状況]
基本行動方針:ゼロに向かって“生きたい”。マイナスを帳消しにしたい。
1:ジャイロについてゆき、黄金の回転を習得する。
2:遺体を奪い返して揃え、失った『誇り』を取り戻したい。
3:花京院や早苗、ポルナレフと合流し、レストランへ戻る。
4:
姫海棠はたての記事を読む。今のところ軽蔑する要素しかない。
5:柱の男は要警戒。ヴァレンタインは殺す。
6:なりゆき上、DIOも倒さなければならない……。
[備考]
※参戦時期は東方神霊廟以降です。
※文、ジョニィから呼び出された場所と時代、および参加者の情報を得ています。
※参加者は幻想郷の者とジョースター家に縁のある者で構成されていると考えています。
※ジョニィから大統領の能力の概要、SBRレースでやってきた行いについて断片的に聞いています。
※右の翼を失いました。現在は左の翼だけなので、思うように飛行も出来ません。しかし、腐っても鴉天狗。慣れればそれなりに使い物にはなるかもしれません。
※鈴奈庵衣装に着替えました。元から着ていたブラウスとスカートはD-5に捨てました。
【リンゴォ・ロードアゲイン@第7部 スティール・ボール・ラン】
[状態]:左腕に銃創(処置済み)、胴体に打撲
[装備]:一八七四年製コルト(5/6)
[道具]:コルトの予備弾薬(13発)、基本支給品
[思考・状況]
基本行動方針:『生長』するために生きる。
1:自身の生長の範囲内で輝夜に協力する。
[備考]
※幻想郷について大まかに知りました。
※永琳から『
第二回放送前後にレストラン・トラサルディーで待つ』という輝夜、鈴仙、てゐに向けた伝言を託されました。
※男の世界の呪いから脱しました。それに応じてスタンドや銃の扱いにマイナスを受けるかもしれません。
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輝夜と永琳がレストランの外に足を運ぶと、先程よりも更にしんしんとした小雪が視界を覆い始めていた。同時に二人の間に漂う空気も、幾分かは緩和する。
「……リンゴォには聞かれたくない話ね」
開口一番、輝夜は永琳の憂心を当ててみせた。リンゴォが既に永琳と出会い、一悶着あった話はとっくに知っている。
となれば永琳の側から見て、リンゴォという男がどういう人間なのかは彼女も深く理解しているだろう。
故に、面倒を避けるため密談を選ぶ。
「ご明察。私が今から『姫海棠はたて』に会いに行く事を知れば、彼なら確実に同行を強制してくるでしょうから」
姫海棠はたて。確かリンゴォの決闘を新聞によって侮辱したとかいう、傍迷惑な鴉天狗の名だったか。
彼女が今現在どこでシャッターを翳しているかは知る由もないが、会いに行くとなればリンゴォも必ず付いてくるに決まってる。
「その天狗とやらはウド……鈴仙によると『念写』の能力を持つと、断片ながら聞かされている。これを活かさない手はないからね」
「あら、脅迫でもするの?」
「まさか。あくまで『友好的』に協力を仰ぐつもりよ」
その薄っぺらい笑いが輝夜の耳朶を打つように響き渡る。ご愁傷様……と、心の中でせめてもの同情を掛けながら。
はたての行いはともかく、彼女のその能力は確かにこういった限定的な会場においては魅力的だ。永琳ではないが、これを活かさない手はない。
はたてを上手く使えば、メリーの行方は容易に知れるかもしれない。しかし、永琳がそれのみを目的に天狗へ会いに行くとは輝夜にはどうしても思えない。
「で、本音は?」
「何のことでしょう?」
「とぼけちゃって。メリー捜索の為に永琳も一肌脱ごう!って、まさかそんな慈善事業100%で動かないでしょ?」
「輝夜には隠し事出来ないわねぇ」
「普段からしまくってるくせに」
二人きりで居ることに建前を必要としなくなったのか。彼女たちの間には、『彼女たちの空気』がいつの間にか流れ始めている。
永遠亭ではよく見られる、素の二人であった。
「まあ悪いようにはしないわ、天狗にも。あくまで寄り道だしね」
「そう? 永琳がそれでいいなら、私に異論はないけど」
いつもの、蓬莱山輝夜のいつもの笑顔だ。
あははとほんの少しだけ笑い、そして会話は途切れた。
途切れたその会話に、永琳は僅か違和感を覚えた。
その違和感が思わず顔に出るかという間際を狙ったように、輝夜が言葉を差し込む。
「不思議に思った? 『私がどうして妹紅の居場所を突き止めてくるように頼んでこないんだろう』って」
ハッとする。虚を突かれたのは永琳の方であった。
「確かにその天狗なら妹紅の現在地も分かるかもしれないわね。私も本音ってやつを言うとね、貴方にはそれを突き止めて欲しかった。
妹紅の今居る場所はどこか、ってね」
永琳も当然、輝夜がそれを知りたがっている事には気付いていた。だからはたて捜索の際、妹紅の現在地を調べて欲しいという催促が来るだろうと予想していたが。
実際には、輝夜からその『お願い』は飛んでこなかった。
いや、その理由については永琳も瞬時に感じ取ってしまう。だから動揺したのは、永琳の方なのだ。
あろうことか輝夜は、永琳に気を遣っているのではないかと。
輝夜がリンゴォと共に居る理由。少し考えれば、永琳には見当がつく。
認めたくない。輝夜には選んで欲しくなかった選択肢が。
「……ああなってしまった妹紅を『理解』する為に、死ぬつもりなのね。貴方は」
「うん」
藤原妹紅が陥った悲劇については、永琳もよく知っている。
トリガーが引かれた一因に、永琳自身が関わっている事も両者は承知なのだから。
「私を……恨まないの? 私は既に……妹紅に会ってるわ。今の彼女には記憶が無い。というより破壊されている」
恨まれたって不思議ではない。妹紅を『あんな風』に変えたのは永琳のせいでもある。
輝夜はしかし、即答した。
「恨むですって? 永琳には感謝したいくらいよ。
これで“やっと”……止まっていたアイツの針を先へと進める事が出来るんだもの。他ならぬ“私”の手によってね」
輝夜の言う“やっと”という言葉については、今の永琳には理解出来ずにいる。
以前より互いに殺し合う関係であった輝夜と妹紅。永遠に停滞していたその関係性を、先に進めるというのであれば。
それは一体、どのような過程を経て。
「永遠に止まった刻を先へと進めるには、針を一度戻さなければならない。
それを教えてくれたのは他ならぬ永琳と……リンゴォよ」
「じゃあ、尚更妹紅の居場所を知りたいんじゃなくて?」
「そうなんだけどね。貴方、どうもあまりそれを望んでないみたいだから」
あっけらかんと言い放った輝夜の言葉は、今の永琳にとってあまりに鋭い棘であった。
リンゴォとの同行も、一度死を経て妹紅と同調する事も、輝夜のその行動は永琳にとって当然忌むべき行動とも言える。リスクの高すぎる行為なのだから。
それを見透かされていたという事実だけではない。
恐らく輝夜は、何となく分かっていたのだろう。
「今の永琳と私……なんだか壁を感じてるから。ちょっぴりだけど、ね」
違う。
それは断じて、有り得ないこと。あってはならないこと。
そう思いたくとも。否定したくとも。
輝夜の口からそれが出てしまった現実に、永琳は打ちひしがれてしまう。
「……ごめん永琳。私、気付かない内に貴方を傷付けてるかもしれないわ」
「………………貴方のせいじゃ、ないの。これは、私自身の問題、だから」
気を遣わせてしまった。傍目には通常どおり振る舞えていると、過信してしまっていたかもしれない。
自分の現在に、途方もない難題がのしかかっているのだと、輝夜に気付かれてしまっていたのだ。
太田から受け取った参加者現在地リストを通じ、輝夜とリンゴォが同行している事を知ったその瞬間から、こんな未来がやってくる予感はしていた。
輝夜は今、死に体である妹紅の存在へと自ら歩み寄ろうとしている。必要なのはリンゴォの能力。
そんな可能性が、僅かに。
鈴仙、てゐに続いてとうとう輝夜まで。
彼女までもが、永遠の明けたどこかへと。
不明瞭な未来へと、足を駆け出していたのだから。
起こってしまったその未来は、今や永琳個人のエゴで引き留めていい歩みではなく。
そして厄介な事にその難題は、時間が解決してくれる類の問題でもないのだ。
凍り付いた時の中で四肢を絡め取られているのは、永琳だけなのだから。
唯一出来る足掻きといえば、巣立っていく家族達の背中をその匣の中から眺めること。それくらいだった。
永琳には翔けだす為の羽も、駆けだす為の足さえも与えられていない。
鈴仙もてゐも、永琳には引き留めることが出来なかった。
最も大事にしている輝夜の瞳の中には、今や“あの”妹紅が広く占めている。
永遠亭の家族の誰も彼もが、永琳の助けを真には必要としていないのではないか。
地の底から溢れ出る被害妄想のような。子供のようなくだらない感情が、脳裏に渦巻く。
僅かながらも直感的に、輝夜本人からそれを見抜かれた事実も、輪をかけて惨めな気持ちを上塗りしていく。
「前に永琳から言われた言葉があるの。
『輝夜は自分のやりたい事だけをやりなさい』って」
言葉を詰まらせた永琳をどう思ったか。唐突に輝夜は話題を切り替えた。
その言葉ですら、永琳にはとんと記憶が無い。自分の知らない『未来』の永琳が、輝夜へと語ったのだろう。
自分の知らない自分の言葉を認めるというチグハグさは、我が事ながら苛立ちを覚える。だが今は、感情など抑えて輝夜の話を聞くことしか出来ない。
「『やりたい事』と『やらなきゃいけない事』って全然違うと思う。
今は『やらなきゃいけない事』を優先するけど、全部終わったら私だって『やりたい事』、やるつもりよ」
やらなきゃいけない事、というのは妹紅を指しているのだろう。
やりたい事、というのは月の頭脳を以てしても見当がつかない。あてが多すぎて。
「永琳もね、自分の『やりたい事』くらい見つけて欲しいの。私なんかが上から目線で言う台詞じゃないのも理解してるけど。
義務感や使命感で動く事が殆どだったもんね。『昔』の永琳って」
殊更な程に強調された『昔』。それはつまり、『今』の永琳を示している。
言葉の裏に含まれた情が、尚も永琳の心を揺れ動かす。
ただ。
「これだけは心に刻んでおいて。
私はこの先も、何があってもずっと、永琳の味方で在り続けるって」
嗚呼。刻の溝が生んだすれ違いがどれだけ深くとも。
変化を認め。地上に足を付けようと、額を付けようと。
結局の所、このお嬢様の曇りひとつ無いスマイルは永遠に変わらず在り続けるのだ。
この天空に浮かぶ、不変の月みたいに。
「───私も同じ気持ちよ。輝夜」
どうやら自分には、救いがまだあるらしい。
兼ねてより『コレ』は渡すまいと、秘を通すつもりであったが。
「輝夜。手、出しなさい」
「……? はい」
気が変わった。今の私などより、『コレ』が必要な人物は他にいるようだから。
「───蓬莱の薬」
「おまじないよ。この薬が貴方の『やらなきゃいけない事』を手伝ってくれる……っていう、願いを込めて」
人々の祈りを乗せて宇宙を流れる綺羅星のように。
この呪われた薬もまた、人々の手を移り渡ってきた。
絶対禁断の秘薬。使うも使わぬも、良しも悪しきも、全ては使い手次第。
こんなにも純白の笑顔を向けられる輝夜なら。
きっとこの呪いすらも、誰かを笑顔にしてあげられる力へと変える。
(私じゃあ、お役御免ね)
自嘲の言葉を飲み込み、永琳は愛しき姫君に背を向ける。輝夜の決意を留める愚行は、もう出来そうにない。
あの時、妹紅を殺しておくべきだったかもしれないと、悔恨を浮かべる気力すらどうでも良くなった。
誰であっても毒気を抜かれてしまうのだ。うちのわんぱく姫の笑顔には。
「えーりん! 全部終わったら……私たち、あの『家』で待ってるからね! 絶対来なさいよっ!」
溌剌な、穢れなき言葉が永琳の背中を押し出す。
『全部』で、『私たち』で、『あの家』ときた。輝夜は未だに全てが上手くいくハッピーエンドを信じてるらしい。
永琳の苦悩を知ってか知らずか。
いや、それは恐らく知った上で。永琳を信じている上で、彼女は自らの足で歩み始めている。自らの羽で羽ばたこうとしている。
巣立ちを終えても、また同じ家に舞い戻ってくるツバメと一緒で。永遠亭の家族が再びあの家へと集う奇跡を、なんの疑いもせずに信じ切っているのだ。
(あの子達を信じていなかったのは私の方……か)
親心、という奴なのだろう。
何のことはない。ただ自分が、信じ抜くことを放棄していただけ。
今までが過保護すぎたのか。少し距離を置くことも、大事なのかもしれない。
後はもう、自分の問題。
永遠の呪いから抜け出す試練。太田順也から与えられたこの難題に、どう向き合っていくかだ。
重なりゆく新雪の層に自らの歩いた証を残しながら、八意永琳は見送る家族の前から再び姿を消した。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
【D-4 レストラン・トラサルディー/午後】
【八意永琳@東方永夜抄】
[状態]:精神的疲労(中)
[装備]:ミスタの拳銃(5/6)、携帯電話、雨傘、タオル
[道具]:ミスタの拳銃予備弾薬(残り15発)、DIOのノート、永琳の実験メモ、
幽谷響子と
アリス・マーガトロイドの死体、
永遠亭で回収した医療道具、基本支給品×4(永琳、芳香、幽々子、藍)、カメラの予備フィルム5パック、シュトロハイムの鉄製右腕
[思考・状況]
基本行動方針:輝夜、ウドンゲ、てゐと一応自分自身の生還と、主催の能力の奪取。 他参加者の生命やゲームの早期破壊は優先しない。表面上は穏健な対主催を装う。
1:姫海棠はたてに接触し、主催者との繋がりを探る。
2:頃合いを見て阿求らに連絡。八雲紫の現在地を伝える。
3:しばらく経ったら、ウドンゲに謝る。
4:全てが終わったら、家へと帰る。
[備考]
※参戦時期は永夜異変中、自機組対面前です。
※シュトロハイムからジョセフ、シーザー、
リサリサ、スピードワゴン、柱の男達の情報を得ました。
※『現在の』幻想郷の仕組みについて、鈴仙から大まかな説明を受けました。鈴仙との時間軸のズレを把握しました
※制限は掛けられていますが、その度合いは不明です。
※『
広瀬康一の家』、『太田順也の携帯電話』『稗田阿求のスマートフォン』の電話番号を知りました。
※DIOのノートにより、DIOの人柄、目的、能力などを大まかに知りました。現在読み進めている途中です。
※『妹紅と芳香の写真』が、『妹紅の写真』、『芳香の写真』の二組に破かれ会場のどこかに飛んでいきました。
※リンゴォから大まかにスタンドの事は聞きました。
※真昼の時間帯における全参加者の現在地を把握しました。
○永琳の実験メモ
禁止エリアに赴き、実験動物(モルモット)を放置。
→その後、モルモットは回収。レストラン・トラサルディーへ向かう。
→放送を迎えた後、その内容に応じてその後の対応を考える。
→仲間と今後の行動を話し合い、問題が出たらその都度、適応に処理していく。
→はたてへの連絡。主催者と通じているかどうかを何とか聞き出す。
→主催が参加者の動向を見張る方法を見極めても見極めなくても、それに応じてこちらも細心の注意を払いながら行動。
→『魂を取り出す方法』の調査(DIOと接触?)
→爆弾の無効化。
【蓬莱山輝夜@東方永夜抄】
[状態]:健康
[装備]:なし
[道具]:A.FのM.M号、蓬莱の薬、基本支給品
[思考・状況]
基本行動方針:皆と協力して異変を解決する。妹紅を救う。
1:妹紅と同じ『死』を体験する。
2:勝者の権限一回分余ったけど、どうしよう?
3:全てが終わったら、家へと帰る。
[備考]
※
第一回放送及びリンゴォからの情報を入手しました。
※A.FのM.M号にあった食料の1/3は輝夜が消費しました。
※A.FのM.M号の鏡の部分にヒビが入っています。
※支給された少年ジャンプは全て読破しました。
※黄金期の少年ジャンプ一年分はC-5 竹林に山積みとなっています。
※干渉できる時間は、現実時間に換算して5秒前後です。
※生きることとは、足掻くことだという考えに到達しました。
最終更新:2020年10月25日 15:54