先人の言葉

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チョモランマ単独行  ラインホルト・メスナー


ぼくはトランシーバーを持っていない。
《下》との連絡はまったくなしで登りたいのだ。
エヴェレストへの単独行は、《上》と《下》のあいだにいかなる橋もかかっていない場合、
つまりいつでも待機している地上部隊による安全対策が講じられていない場合のみ、
真の単独行といえるのである。

記者
「チョモランマ単独行のテレビ映画は放映されますか」
メスナー
「まだ自分で単独登攀の映画は撮ったことはありませんから、お答えする必要はないでしょう。
もし映画に撮られた単独行というものがあれば、それ自体矛盾といえるでしょう。
2、3枚を写すだけでも、たいへんな努力の要することだったのです。
撮影できたのは、ただぼくのピッケルを三脚として使えるように加工してもらったからです。
従って、今回の登攀ではごくわずかな写真しか撮れませんでした。」

1978年エベレスト無酸素初登頂 R・メスナー、P・ハーベラー
1980年チョモランマ無酸素単独初登頂 R・メスナー
(※)山と渓谷社「チョモランマ単独行」 ラインホルト・メスナー(著), 横川文雄(訳) より

『K2非情の頂 : 5人の女性サミッターの生と死』 ジェニファー ジョーダン (著)


アリスン・ハーグリーブス(イギリス人女性)

チョモランマ北稜-無酸素・無支援登頂 1995年5月13日登頂

登山中は他の隊から紅茶を勧められても断った。
ルートを共有する他隊の張った固定ロープを何かの加減で掴んだだけでも、
人は純粋な単独登頂(ソロ・クライム)とは呼ばない、とアリスンは知っていた。
それでも彼女には何の差し支えもなく、固定ロープは使用しなかった。

BCまでは装備・食料をジープで運んでもらい、そこから少し先までヤクに
頼むが、前進BCから上部は完全に自立した形で登ることになる。
アリスンは数週間にわたって各高所キャンプへ荷揚げを繰り返した。
荷物を運び上げては、自分で食事を作り、テントを張るための平地を
切りだした。

8300M地点のそれは、這いつくばってアックスを振るい、45度の氷の
斜面に手狭な棚を削りだしたのだった。
彼女は、「エベレストをなるべく難しくしたかった」とまで言っている。
「私は成功の可能性をどんどん狭めていって、ほんの数%まで落とした。
でも、私にとってはそれが面白いのだ。もし、成功が保証されていたら、
そんなものには惹かれない」

キャンプの設営と高所順応に一ヶ月掛けて、ようやく頂上攻撃の段取りが
整い、1995年5月11日、アリスンはBCを出発した。
BCとの交信で---
同時に登っている他隊の紅茶を断り、隣り合うテントのいびきに対して、
愛嬌たっぷりにクライマーの鼻を小突き、さらに自分の研究不足からルート
上の各部の名称に馴染みがなく、混乱していると素直に認めている。

頂上間近になると、巨大なメレンゲのようなものがアリスンの頭上へのしか
かってきた。
白く滑らかで、信じられないくらい美しいそれを回り込んで、最後にひとしきり
登ると、地表に存在するいかなる生き物より高みにいて、多くの登頂者と
同じように反応し、アリスンは泣いた。
5月13日登頂。
素直な、喜びに満ちた感涙だった。
イギリス人独特の冷めた自制が解けてなくなり、笑って、泣いて、周りの
クライマーたちと抱き合った。
BCで無線機の周りに集まっていた人たちも涙を流していた。

心底からの勝利に背を向けて、アリスンは長い長い下降にかかった。
頂上そのものより下降のほうがどれだけ大切か、自覚していた。
頂上に到達してもそれは闘いの半分に過ぎない。
真の勝利は山から無事下りたときにもたらされる。
疲れきっていて、8300MのC3で横になってひと眠りしたい気持ちと闘い
ながらも下りつづけたのは、死の地帯でもう一晩泊まるまいと心に決めて
いたからだった。
人間が無酸素で行けるぎりぎりの高さへの登高において、8000Mを越える
必殺の希薄な空気の中にいるあいだは、一秒一秒が桁外れな危険を冒して
いることになるのだと自覚していた。
アリスンはC2で一晩過ごしたあとBCへ下り、テントから出てきた人々と
万歳の声に迎えられながら最後の歩をすすめた。

アリスンは成功した。
世界最高峰を無酸素・無支援で登った世界最初の女性になった。

そして3ヵ月後、1995年8月13日 K2登頂.。
登頂後、下山に入ったところで嵐に襲われる。
上部に固定ロープはなく、頂稜には体を隠せるような氷の段差もない。
固定ロープに達せないうちに6人は一人、また一人、山から吹き払われ、
まるで緩んだ屋根瓦のように南壁へ投げ落とされた。

その一人がアリスン・ハーグリーブスだった。

ラインホルト・メスナー トモ・チェセンに対する見解(1992年発表)


チェセンはいっそう自己矛盾に陥っていた。そこで披露されたスライドや話は、
当初彼が発表した記録の内容と一致しなかった。講演に続いて行われたディスカッションで、
わたしは通訳と共同司会を務めたが、矛盾は答えられないままに終わった。
わたしは、なるほど彼の返答を通訳したものの、理解に苦しむことが何度もあった。
(彼の登攀能力を示すために)だれかパートナーと組んで同じような初登攀を
やってみては、というわたしの忠告を、彼は一笑に付した。
(中略)
わたしは、チェセンがローツェ南壁を登らなかったと主張しているのではない。
ただ、この件について彼の言うことにもはや信用がおけないのだ。
ひとつには、パイオニア・ワークの実践に際してつねに単独でしか行わない
クライマーは信用できないからであり、いまひとつには、90年から92年にかけて
チェセンのローツェ南壁について一連の矛盾を発見したからである。
(中略)
もし、彼がこれからも、他人の発言に対する否認のみで自分の登攀を
立証しようとするなら、わたしは自分の登山史の本から彼の名前を抹消するだろう。
彼が、ただ彼だけが、1990年の4月にローツェ南壁にいたのである。
彼だけが、この登攀が真実か否かを知っているのだ。

(※)山と溪谷社 『孤独の山―ローツェ南壁単独登攀への軌跡』 「疑惑の系譜」より

ドゥーガル・ハストン


もし、何か一点でも悪いことが起きれば、戦いは底なし沼に陥る。そのときトレーニングが適切だったら生き延びられるし、適切でなかったら自然から罰金を要求されるのだ。

エベレスト南西壁、アンナプルナ南壁初登攀のイギリス人登山家
(※)「疑念の瞬間」ディヴィッド・ロバーツ より

谷川太郎(東京農業大学山岳部)


 ポーターとは単なる荷物運搬人を指すのであるが、彼らの能力や仕事はもはやその範疇には収まらない。事実、最近の傾向としては、ハイポーターではなく、マウンテンガイドというべき立場で、登山隊の物資の運搬をはじめ、ルート工作やテント設営など肉体的なサポートをこなしつつ、毎年、毎シーズン、ヒマラヤ登山を実践しているプロフェッショナルとして、登山隊によっては高度順化を踏まえた行動計画の作成やヒマラヤ特有の天候判断へのアドバイスなど、登山全般にわたるコンサルタント的な活躍を見せている。
  今シーズンBCに入山した30数隊の登山隊いずれもが5名から10名あるいはそれ以上のハイポーターを雇用しており、「良いハイポーターを雇うことが成功への必須条件だ」とする考えは半ば常識化している。

 ここまで書くと、じゃあ登山隊の隊員とはなんだ?隊長とは何をする人だ?と、呆れるような感想を持つ方も少なくないだろう。1から10までオンブに抱っこではないか?と見られても無理はない。近年ヒマラヤ登山は益々そのような傾向を強めている。
 その中で、ハイポーターの雇用者である我々登山者がもっとも心を砕くべき事柄は何か?それは、「主体性を持つ」ということに尽きる。
 多くの貴重な時間をやりくりし、文字どおり資金をかき集め、周囲の暖かいご支援と、時には心痛める顰蹙を買いながらも、ここベースキャンプまでたどり着き、さらに高みを目指そうというその行為の根源は我々自身の意思に他ならないと強く自覚することが重要である。
 「当たり前のことでじゃないか!」と一喝されそうであるが、人間は往々にして、弱い立場にあって他人の力を頼るようになると、いつしか主体性を無くし、責任さえも放棄してしまうことは珍しくない。
 私自身は登攀隊長という立場もあり、シェルパ達には大いに期待し、計算もしている。親近感も信頼感もあり、感謝と尊敬の念を常に忘れないようにこころしている。
 しかし、もしものとき、いざというときには、ひとり残らずいなくなったとしても仕方がない、と冷めた見方も忘れない。
 「金の切れ目が縁の切れ目」、と言うとあまりにさびしいが、金銭による雇用関係が成立している以上、的外れな格言とはいえない。

 私達登山隊員が最後の最後まで当てに出来るもの、よりどころとなるものは、同じ方向を目指している隊員同士しかない。そのことを肝に銘じるべきだ。その信頼に答えるべく、一人一人が強い個人を目指し、ギリギリの状況で自分に何が出来るかを常に問いかけるべきだろう。
 今朝方、サーダーのプラチリは、シェルパ族特有の幼稚なともいえる人懐っこい笑顔とともに、仕事の危険性と重要性を表すような力強い握手をして出発して行った。うっすらと新雪が辺りを覆い、張り詰めるような冷たい空気の中で彼らを見送りながら、私は改めて、私や私達を戒めなくてはならない様な、気を引き締めなくてはならない様な、強い緊張感を覚えた。それは、主体性が希薄になるのでは、という漠とした不安である。

8000m峰6座登頂 アルパインスタイル偏重に異を唱え、新人育成システムとして極地法を擁護する代表的登山家
(※)東京農大山岳部エベレスト・ローツェ環境登山隊2003 ベースキャンプだより 4/7 より

「単独行」 加藤文太郎


世には往々ほんの僅かな苦しみにもたえず周章狼狽、意気泪喪して敗北しながら、
意思の薄弱なのを棚に上げ、山の脅威や退却の困難を説き、
適当な時期に引揚げたなどと自賛し、登山に成功したのよりも偉大なことごとく言う人がいる。
しかし山を征服しようとする我々は、こんな敗軍の将のいうことなどには
いささかも耳を貸さず、登頂しないうちは倒れてもなお止まないのである。

(※)「単独行」 加藤文太郎  前穂高北尾根(昭和九・四・三)より

川村晴一(山学同志会)


遭難防止策ですか。とにかく山では決してズルをしたり楽をしようとしてはいけない。苦しいだろうけれど楽をしないでがんばれと

8000m峰上位三峰に無酸素登頂
(※)『岳人備忘録―登山界47人の「山」』より

木本哲

そして、通常、登山隊は、ガイドとクライアント(顧客)という関係が成り立つ隊員で構成されていることである。世界最高峰エベレストやチョーオユー、シシャパンマのような商業登山が盛んな山では、クライアントばかりかガイドも積極的にルート工作に従事しないというのが普通で、ルート工作の仕方にも端的に違いが現れる。これは登山対象となる山が大きくなればなるほど顕著で、一つの山、一つのルートに複数の登山隊の入山が許可されるようになって急速に発達した登り方である。

こんなことを書くと、それではいったい誰がルート工作を行うのか、という疑問を抱くかもしれない。でも、この答えは簡単である。ルート工作を行うのは、大きな商業登山隊に雇われている高所ポーター、すなわちシェルパである。このような山でルート工作を行うのは、強いシェルパを抱える大きな商業登山隊が率先して行うのが普通で、他の登山隊はその登山隊にルート工作とルートの維持を依存し、ルートを作り、維持するのに見合うだけの装備や通行料を支払ってルートを共用するのが普通なのである。

こういったシステムは極地法と呼ばれる方法を用いた「遠征登山」の長期にわたる経験の上に成り立っているもので、特別なものではない。しかも、商業登山隊が活躍しているこれらの山では、今では麓から山頂まで固定ロープが張られるのが普通だから、このような山の一般ルートを登る登山を企てている限り、単独登山かあるいはチーム登山かといった登山隊の構成の違いによる差は生じない。逆に、そのような山で活動する小さな登山隊は、大きな商業登山隊の力に依存するしかなく、彼らが作ったルートに張られた固定ロープを積極的に利用して登山を行うのが一般的である。たとえ目的の山で単独登山を企てていたとしても、登山者本人がその山を登るためにルート工作に参加することはまず考えられない。つまり、そのような山のそのようなルートでは、すでに単独登山そのものが成り立たない現状があるのだ。

フリークライミング草創期から活躍するビッグウォールクライマー
(※)本人HP巻頭コラムNo.4より

山本篤(明治大学炉辺会)


規律と言うと大自然の中で自由に行う山登りのイメージからは相反するように聞こえ、またその言葉自体にアレルギーを覚える人もいるかもしれません。しかし、登山の特殊性は、細かくルールが決められている他のスポーツと違い、ルールは自分で決めなければならないところにあります。自分で決めるルールとは、何時に出発するとか、どのようなルートにどのような方法で登るかといったことです。それが守れなくなった時、計画と実際の間にずれが生じてしまいます。そしてその状態こそが登山において事故の起りやすい状況なのです。
8000m峰7座登頂、ナムチャバルワ初登頂
(※)千葉県医師会での講演

平井一正(京都大学学士山岳会)


 リーダはいざというときの決断ができるかどうかで真価が問われる。とっさのときの決断は、それまでの経験、知識に基づき、隊員の現況と気象条件、おかれている環境など状況を正しく判断する力がなければならない。

そのために行動中の一瞬一瞬に起こりうる可能性を常に予測して、頭に中にその状況をイメージして考えておくことが必要である。リーダの決断、判断が全員を救った例が,南極横断の途中、船が難破したシャックルトン隊 (1915年)であり、多くの死者を出した例は、北海道岳連のミニヤコンガ隊(1981年)や日中合同の梅里雪山隊(1991年)など非常に多い。

 経験豊かなリーダも、成功の栄光がそこに見えているときに、引き返すという判断は出しにくい。そこに成功と無事故安全の天秤がゆれる。むつかしい判断である。多くの人の援助を受けている場合は特にむつかしい。

京大隊隊員として未踏峰サルトロカンリ、チョゴリザ初登頂
神戸大隊隊長としても3度の遠征で一人の死者も出すことなく2つの未踏峰に登頂成功。
(※)本人ブログより

堀田弥一(立教大学山岳部)

 僕らがナンダ・コートに行く時、「ヨーロッパの氷河も知らんでヒマラヤヘ行くって」 と言われた。しかし違うことがあるんです。ヨーロッパの山は、僕に言わせりゃ岩山です。日本には雪の山がある。ヒマラヤヘ行くと、雪山で育った人と雪山の方が通用するんです。あまり岩はないし、雪でかぶさっているし、積雪量は立山よりはるかに少ない。そしてね、見てごらんなさい、冬の黒部を登るとスノーブリッジがあるでしょう。あれが氷河のクレバスと同じことなんです。だから日本の冬山で十分経験することもできる。今、日本では夏山が主で、冬山の悪いところ、困難なところを経験することがあまりない。登山というのは頭の中で抽象的に考えるんじゃなくて、自分で具体的に計画し体験して、そして体で覚えていく、それが大事じゃないかと思うんです。
立教大山岳部OBとして、日本で初めてヒマラヤ海外遠征。未踏峰ナンダ・コートに初登頂
(※)日本山岳会での講演より

松本龍雄(第二次RCC)

 とにかくトレーニングしない山ヤなんて、山ヤの風上にも置けない。本物のクライマーなら、一日でもトレーニングを欠かすとなんか体が重くなったり不安になると思います。スポーツ選手を見習わないといけない。継続は力なんです。きょうの私よりあしたの私のほうが1ミリでもなにかしらよくなっている、そういう可能性を信じたいんです。今日できたトレーニングは明日もやるし、同じトレーニングを続けるのでも、ほんのわずかでも伸びやかさ、軽やかさ、しなやかさを肉体の快感として感じられたら、今日もいい日だなと。
(※)「岳人備忘録 登山界47人の〝山″」より

遠藤由加

 「危ない人、多すぎるからなあ。クライミングや山が好きというより、登ったという実績や結果だけをほしがる、そういう純粋じゃない人ってとても危ない」

日本人女性初の8000m峰無酸素登頂。チョー・オユー南西壁ロレタンルート第二登。
(※)「岳人備忘録 登山界47人の〝山″」より
最終更新:2016年01月03日 19:23