『
続・日本の貞操』(ぞく・にほんのていそう)は、1953年に蒼樹社から刊行された
五島勉の編著書。彼が「五島勉」という名義で出版した最初の文献である。
目次
基本的な書誌
 蒼樹社からは、同じ年に水野浩・編『日本の貞操 外国兵に犯された女性の手記』が刊行されている。以下、こちらを「正編」、五島の『続・日本の貞操』を「続編」と呼ぶことがある。
日本の貞操
蒼樹社、1953年。
- 当「大事典」で所蔵している第8版には、第8版が4月30日印刷、5月5日発行とあるが、初版の日付はない。すぐ下で触れる新聞広告からすれば、3月12日には「忽ち重版」していたというのだから、2月ないし3月初旬の刊行だろうか(それ以前なら「忽ち」とは付けない気がする)。
- 第8版のオビには「新映プロ映画化」とあり、平塚らいてうの推薦文などがあり、推薦者として野間宏や安部公房が名を連ねている。平塚、野間、安部らは『読売新聞』1953年3月12日朝刊に掲載された『日本の貞操』の広告(「忽ち重版」とある)にも名を連ねている。
- なお、第8版には「読後感」と題する折り込みが挟まれており、平塚らいてうのコメントもオビよりも長い。
 『日本の貞操』は4人の女性の手記をまとめたもので、順に、小野年子「死に臨んで訴える」(pp.5-143)、河辺さと子「私は誰に抗議すればいいのか」(pp.144-184)、杉田朋江「妻となった私の苦悩を超えて」(pp.185-224)、浜田三枝子「私の生涯を踏みにじつたもの」(pp.225-256)の4篇が収録されている(巻末に経歴をまとめた表もあるが、名前はいずれも仮名との断り書きがある)。ページ割りを見れば明らかなように、圧倒的に小野年子の手記の占める割合が大きい。
 後書き代わりに編著者の水野浩の文章、「日本の貞操は奪われている」(pp.257-287)で締めくくられている。
 なお、手記についてはそのままではなく、
- 比較的よく整つた四篇を公表する運びになつたのであるが、内容的に一篇のなかでも重複した箇所、その他不備な点は、私が一通り整理したものの、そのために、かえつて、不統一、或は話のつながりが切れてしまつたような点もでてきたことを了承せられたい
とも断られている。
続・日本の貞操
蒼樹社、1953年。
- 当「大事典」で所蔵している2冊のうち、第2版には11月1日印刷、11月5日発行とあり、第6版には11月20日印刷、11月25日発行とあるが、いずれにも初版の日付はない。2版と6版の間隔が短い点と、正編がヒットしていて続編の売れ行きも期待できたであろう点などからすると、第2版からそれ程離れていない時期、すなわち10月に初版が刊行されていたものと思われる。初版を販売しているネット古書店の書誌などには、1953年10月初版としているものがあり、この推論を裏付ける(少なくとも前書きが1953年9月25日となっているので、これ以前ということはありえない)。
- 初期の刷本の帯には「外国兵による貞操の完全占領/日本政府の性的無條件降伏の実態」という惹句がある。
 『続・日本の貞操』の構成は、五島が8割ほどを執筆し、残り2割ほど、すなわち266ページまである本文のうち、213ページ以降は北林余志子の報告書になっている。北林は外務省外局の終戦連絡委員会横浜事務局に勤務していた元・臨時タイピストとして寄稿しており、作家・北林透馬の妻でもある。
再版
 『日本の貞操』は『死に臨んでうったえる』として1982年に、『続・日本の貞操』は『黒い春』として1985年に、それぞれ再版された。版元はいずれも倒語社である。
 また、『性暴力問題資料集成 : 編集復刻版』(不二出版)の第5巻に『日本の貞操』、第6巻に『続・日本の貞操』が再録されることになる(2004年)。この叢書がどのような趣旨でどのような資料を集めたのかについては、公式サイトでカタログをダウンロードできる。
映画化計画
 『日本の貞操』のオビに映画化とあったように、映画の企画が存在した。『近代映画』1953年10月号によると、
- この≪日本の貞操≫なる告白ものがセンセーションを呼ぶや、新東宝や東映、藤本プロなど、七社に及ぶ映画会社が、その映画化を著者のもとに申入れたが、遂に新映プロがその権利を得たものらしい。
 同誌には監督に決まっていた家城己代治のインタビューも載せているが、実際に映画化されることはなかったらしい。
評価
 すでに言及したように、平塚らいてうは『日本の貞操』を高く評価しており、第8版の折り込みでこう述べていた。
- よくこれだけ書いてくれたと思う。私たち婦人はこの問題について怠慢であつたことを反省させられる。今度こそ共に起つて世論に訴えたい。人権尊重の立場からも、常にそれを口にしている国の兵隊のこの暴行を一日も捨ててはおけぬ。まして日本は「獨立」した筈なのだ。
 上記映画化の話にもあるように、当時はかなりのセンセーションを巻き起こしたらしい。
 売れ行きも上々で、正編・続編あわせて1955年の段階で約7万2千部、これは蒼樹社の長年の赤字を払拭するに十分な売り上げだったという。また、ジャーナリストの山崎安雄は、1955年に受容のされ方をこう語った。
- 折からバカヤロウ解散による総選挙(28年4月)になつたので、革新勢力の演説に「日本の貞操」はさかんに使われた。また基地反対闘争のバイブルともなつたのである。
 五島の続編の方の評価にかんしては、のちに五島とともに女性誌三大ルポライターの一人とされた竹中労が五島について評した際に、「バクロものルポでは一流。基地の女の問題を扱った『日本の貞操』など、後世に残る本だ」と言及していた。
『日本の貞操』に関する疑惑
 日本文学で博士(シカゴ大学)の学位を取得したマイク・モラスキーは、
- 論文「戦後日本の表象としての売春2――『日本の貞操』を読む」(坂元昌樹・鈴木直子 訳、『みすず』1999年12月号、pp.35-45)- 『占領の記憶/記憶の占領 戦後沖縄・日本とアメリカ』 青土社/岩波現代文庫 に再録
 
において、本人も主張するように日本で初めて、『日本の貞操』に収録された手記がフィクションにすぎないことを指摘した。
【画像】『新版 占領の記憶 記憶の占領――戦後沖縄・日本とアメリカ』 (岩波現代文庫) 
 モラスキーは、まずテクストそのものを俎上に載せ、もっともらしく女性自身の手記であることを再三強調する構成でありながら、ところどころに男性の視点が介在し、女性みずからによって書かれたものとは考えられないことを指摘した。
 そのうえで、刊行当時の蒼樹社の元社員(ここでは名前を伏せるが、論文には明記されている)を特定して電話取材した結果として、以下のように説明している。
- 電話インタビューにおいて彼は、この四つの物語が「水野浩」という実体のよくわからない人物によって書かれたことを認めた。水野は日本共産党と関係していたらしく、横須賀の基地で働いて情報を集め、「パンパンの世界」にも通じていたらしい。その編集者によれば、蒼樹社は内部での激しい論争の上、この本の出版を決意するに至ったということだ。社内の左翼編集者たちは出版が会社の評判に及ぼす影響を懸念するのと同時に、GHQがどういう反応を示すかを気にかけていた。〔略〕社から何人かの編集者がGHQの意向を探るために共産党本部を訪問し、蒼樹社は共産党のゴーサインを受けてはじめて本書の出版に乗り出したのであった。ただしこのことは単に、この書物の制作にまつわる不透明な逸話にすぎず、蒼樹社が共産党となんらかの関係があったということを示唆するわけではない。
 モラスキーの主張を検討する前に、別の証言も見ておこう。水野浩に関する言及は本当に少ない。しかし、そのわずかな紹介の一つが山崎安雄の『著者と出版社・第二』(1955年)にある。その「蒼樹社と水野浩」という章から、いくらか引用しておこう。
- 水野浩というのは、「日本の貞操」の編者である。立川基地で通訳をやつていた人で、もちろん本名ではない。本名が何んというのか、それは大して重要なことではない。
- これ〔引用者註:日本の貞操〕がはじめて載つたのは雑誌「人民文学」で、その時は小説の形式がとられていた。これを読んだ蒼樹社の奈切哲夫氏は、「小説としては全然成功していなかつた。こういうものはなまじ小説などにすることなく、娘たちの書いた生のままがいいと思つた」といつている。
- ところが程経て、こんどは奈切さんの望む手記の形で、“日本の貞操は奪われている”という題下に、池袋の職安から出ているガリバン刷りのパンフレットにその一部が発表された。
 当時の『人民文学』を調べてみたが、当「大事典」の調査の範囲ではそれらしい作品を見つけられなかった。職安のパンフレットに至っては、特定はほぼ絶望的であろう。
 ただ、ここに書かれていることで注目すべき点がいくつかある。まず、蒼樹社の奈切哲夫(蒼樹社の設立者)にインタビューしたらしいその内容でさえも、水野浩について、本名不詳で「立川基地の元通訳」以上の情報が示されていない点である。
 2つ目は、『人民文学』に載ったという話が事実なら、これは最初「手記」でなく、「手記を基にした小説」として現れ、「手記」が後から出てきているという点である。モラスキーの調査と突き合せれば、そもそもそれはそういう設定で書かれた小説にすぎず、「手記」は小説から再構成されて後から捏造されたのではないか、という疑いを持たせる。
 水野浩に関するあと一つの証言は、復刻版である『死に臨んでうったえる』の巻末に収録された、復刻版の版元である倒語社の吉林勲三の言葉である。
- 本書を自らの手で重刻したいと希った私は、八方手を尽くして編者水野浩氏を捜索したのであるが、力及ばず、目見えてご許可いただくことができなかった。無断で重刻するのは私の罪である。
 そう、本の内容に感銘を受けて復刻した出版社でさえ、「水野浩」がどこの誰か、突き止められなかったのである。
 さて、まとめておこう。『日本の貞操』は、最初小説として発表され、後からオリジナルの「手記」が登場したとされている。しかし、その手記を書いた小野年子らはそもそも実在せず、「手記」自体が、実態不明の「水野浩」が捏造した小説でしかなかった、ということになる。
 こうなってくると、横須賀の通訳とも立川の通訳ともいわれるその経歴自体が、疑わしいものに思えてくる。
 では一体だれが「水野浩」なのか。
 モラスキーはその正体について一切考察していないが、『日本の貞操』について「特筆すべきなのは、ここで流された血が本物であるとほぼすべての読者に信じさせたこの本の力量である」と指摘している。
 つまり「水野浩」という人物は、フィクションを事実であるかのように仕立て上げて多くの人々に信じ込ませ、その作品を瞬く間にベストセラーにのし上がらせるだけの圧倒的筆力の持ち主だったということである。
 さて、我々は知っている。
 史実に反するフィクションで塗り固めていたにもかかわらず、多くの人々に真実として受け止めさせ、瞬く間にベストセラーにのしあがった『
ノストラダムスの大予言』という作品と、その著者である
五島勉のことを。
 そう、『日本の貞操』をまとめた「水野浩」と、『続・日本の貞操』をまとめた
五島勉は、実は同一人物だったのではないのだろうか。
 『日本の貞操』が刊行された1953年は、五島が大学を卒業した年である。大学を卒業したばかりの若手ルポライターが、全篇フィクションの作品を実在の人物の手記として出版するというのは、かなりのリスクがあったはずである。批判にさらされた場合に、ルポライターとしての今後がどうなるのか、という不安が頭をよぎって当然だからである。そういう場合に備えて、1回限りの切り捨ててもよい名義を使っておくというのは、ありえない話ではないように思われる。
 しかし、実際には真実の手記として受け止められ、瞬く間にベストセラーとなったため、続編では別の名義「
五島勉」を使うことにしたのではないだろうか。
 そういう目線で見直してみれば、『日本の貞操』と『
ノストラダムスの大予言』には似た構造が隠れている。
 ここで参考になるのは、文芸評論家の許光俊が、五島の著作群を踏まえて、五島が自らを「弱者」と位置付けていることを指摘した件である。
 『
ノストラダムスの大予言』にしても、一介のルポライターの立場から、大企業や国家が作り上げてきた軍拡競争や公害問題を糾弾する図式を見ることができ、内容への批判が高まっても、五島はそれを軍拡や環境問題にすり替えてきた。つまり、『大予言』の内容に問題があるかないかよりも、目の前の軍拡や環境問題をどうにかする方が先ではないか、と。
 『日本の貞操』でも似たような構造を指摘できる。占領期の米兵らによって、日本の女性が性犯罪の被害に遭う事例があったこと自体を否定する者は、おそらくいないだろう。そして、この本は性犯罪被害者という「弱者」による手記という体裁をとっているからこそ、その虚構性に踏み込もうとする者がいれば、作品が虚偽かどうかよりも性犯罪が頻発していた(している)実態こそ問題にすべきだ、という方向に話を持っていける図式になっているのである。
 もうひとつ、注目すべき構造は、五島の描く女性像である。許光俊は、それをこのように紹介している。
- たしかに女性が凌辱されるシーンは、通俗小説において決まり文句のように繰り返されるとはいえ、五島氏のこだわりはあまりにも執拗である。五島氏の小説に頻出する強姦とは、女性が弱者であることを確認するための儀式のようものなの[原文ママ]であり、女性の弱さを示す象徴的な行為、さらには弱者が強者によって踏みにじられることを示す象徴的な行為なのである。〔略〕にもかかわらず、五島作品の女性たちは、ねばり強く勝利をもぎとろうとする。〔略〕そして、ほとんど例外なく男の暴力に滅ぼされながら、未来を夢見ることを忘れない。
 『日本の貞操』は前述したように性被害に遭い、「パンパン」となった女性たちの手記を標榜している。そして、その性や暴力の描写は執拗である。小野年子の手記の前半を大まかにまとめたモラスキーは、残りの部分をこう説明する。
- 残り六〇ページを読む読者にはさらに大量の強姦や死が待ち受けているのである。読者にまだ忍耐と好奇心と、吐き気に耐える強靭な胃袋とがありさえすれば、もちろんあと三つの似たりよったりの物語が用意されている。/この書物を、あまりにも意図の見え透いたくだらない低俗小説として片づけてしまいたくなるのは当然であろう。実際表紙カバーまで含めて注意深く読めば、これがとてもドキュメンタリーとは呼べないシロモノであることがわかる。
 小野年子の手記は、強姦に遭い、性病に罹患し、死を前に人生を回顧した女性の「遺書」として提示されている。そして女性の視点で描かれたはずのその手記に、(モラスキーが指摘するところの)男性的な視点が介在する性的描写が執拗に描かれている。こうした点に、五島の小説における女性像との共通性を見出すことは、それほど的外れではないように思われる。
 さて、今度は水野浩が実在したという前提で、水野の側から問題を再構成してみよう。
 水野浩が実在の人物であるなら、その人物は五島とは別の、圧倒的な筆力の持ち主ということになる。それに対して五島は、実績があまりない大卒まもないルポライターにすぎなかったわけで、続編を出そうという企画が持ち上がった時に、その企画を五島に譲ってやる理由があるだろうか。
 出版社としても、大当たりした作品の続編に、わざわざ水野浩以外を起用する理由があるだろうか。
 続編の前書きや後書きを見ても、水野の消息は書かれていない。もしも、水野が急死するなどして引き継がざるをえなかったなら、そのような断り書きの一つや二つ、あって当然だろう。そうした言及(に限らず、正編とのつながりを具体的に説明する記述自体)が、続編にはないという事実は、これが何らかの不測の事態による交代ではないことを思わせる。
 もしも「水野浩」が
五島勉なら、自分が書いたものの続編なのだから、断る必要などまったく考えなかっただろう。
 不可解な状況証拠はまだある。『戦後残酷物語』である。
 五島は大和書房から『戦後残酷物語』(1963年)を刊行し、1965年と1968年に再版、さらに『戦後の暴力史』と改題して、都合4度、この本を出している(
五島勉の著書一覧参照)。
 この『戦後残酷物語』には、正編で最も分量が多く評価の高い小野年子の手記がまるごと再録されているのである。
 一応、まえがきで水野への言及はある。
- 水野浩氏が、27年の春、ある基地で病み疲れた若い売春婦と知りあいました。彼女が水野氏に託したボロボロの何冊かのノート。それがこの本の“第一の証言―小野年子の遺書”です。
 これだけである。これは入手の経緯を説明しているだけで、水野(小野年子の手記にしても、水野が出版用に手直ししたことになっているのだから、水野に二次的著作権が発生していたはず)に許諾を得たとか、使わせてもらうことに謝辞を示すとか、そういったものではない。
 五島が真の著者であったならば、それは何の疑問もない。自分が別名義で発表したものを使いまわして何が悪いという話に過ぎないからである。
 しかし、水野浩が実在する場合はどうか。
 水野から見れば、かつて自分の続編を引き継いだ若手ルポライターが、こんどは特段の謝辞もなしに、自分の著書の素材を何度も使い回していることになる。黙っている理由があるだろうか。
 五島は再版のたびに前書きや後書きを微調整しているので、もしもどこかの段階で水野からの抗議があれば、謝辞をつけ足すくらいはしたはずである。それがないということは、4度も再版される中で、いっさい抗議をしていなかったことになる。これは不自然ではないだろうか。
 しかも『戦後残酷物語』は、1968年に武智鉄二が監督を務めて映画化されている。そして、当時の映画雑誌などを見ると、『黒い雪』事件でわいせつ性が裁判になっていた武智の、裁判後初の監督作品ということで、相応に注目されていたことが分かる。
 ところが、この映画の原作者は「小野年子」と
五島勉になっており、小野年子の手記を世に出した水野の名前はどこにも出てこないのである。
 モラスキーの指摘が正しいなら、「小野年子の手記」は水野浩の小説に過ぎないはずである。ところが、(小野年子は死去したことになっているので)映画原作者として注目されるのは五島一人であり、小野の手記が何度再版されようとも、それはあくまでも五島の編著の一部として、なのである。
 水野浩が実在するのなら、このような状況をどうして大人しく受け入れたのだろうか。
 かつて多大な衝撃を社会に与えたほどの筆力を持つ人物が、あれ1作のみで姿を消し、その後に使い回されようともいっさい何の意見も発信しないというのは、いかにも不自然なことに思われる。
 なお、そうした状況証拠に比べるとささいなことだが、五島の著作である『禁じられた地帯』、『小説 死のF104』、『BGスパイ』の著者略歴欄では、五島の作品として『日本の貞操』が挙げられている。他の五島の作品では、『サラリーマン研究』略歴で『日本の貞操・続編』と書かれているので、『禁じられた地帯』などで「続」が抜けているのは単純な誤植かもしれない。
 しかし、そうでないのだとしたら、これはこれで興味深い。というのは、「倉田英乃介」にしても「木村敏夫」にしてもそうだが、五島は別名義で発表した著作も、「
五島勉」名義の著者略歴に書くことがあるからだ(実際、倉田や木村は五島自身の著書の略歴で触れられていなかったら、完全に忘れ去られていただろう)。
 また、『東京の貞操』(1958年)の前書きにはこうある。
- 私は六年前、一部の米軍の暴行によって転落していった女性たちのことを、彼女たちの手記や実際の資料にもとづいて、『日本の貞操』(蒼樹社、一九五二年)という本の中でくわしくえがいた。
 ここではっきり(『続・日本の貞操』ではなく)『日本の貞操』を書いた、と述べている。
 そして、後述の通り、五島は『続・日本の貞操』では当事者らとの「面接」に基づいて再構成したと主張していて、「転落していった女性たち」の「手記」は前面に押し出されてはいなかった。手記をまとめたと主張していたのは水野浩の『日本の貞操』の方である。
 また、1953年の第1四半期には出ていたらしい『日本の貞操』を「1952年」と誤認するのなら、まだありえなくもない(原稿を脱稿したのは1952年のうちだったのかもしれない。実際、『日本の貞操』の水野の報告部分には、「一昨年(廿五年)」とか「終戦後ここに七年」などとあり、昭和27年=1952年に書いていたことが分かる)。
 しかし、『続・日本の貞操』は、『日本の貞操』の成功を受けて1953年春以降に制作が決まったはずで、しかも1953年の第4四半期に出ていたのだから、1952年と誤認するのは不自然である(五島と水野が同一人物でないなら、五島にとって『続・日本の貞操』がデビュー作になるのだし、その年に大学を卒業し上京するという生活環境の激変を経験していたのだから、たった5年程度でいつ出たのかも分からなくなるほどに印象が薄かった、などというのは不自然である。「6年前」とも明記しているので、「1952」が「1953」の誤植だったという可能性もない)。
 邪推のしすぎかもしれないが、五島の記述や略歴の書きようからは、ことによると、『日本の貞操』も自身の著作として認めていたのではないか、と思えなくもないのである。
 五島が正編も書いていたとしたらどういうことになるか。
 それはつまり、デビュー作の時点で、「弱者」の立場から「ノンフィクション」の皮をかぶせたフィクションを発表し、それを事実として世間に受け入れさせることに成功し、ベストセラーになっていたことを意味する。
 『
ノストラダムスの大予言』の成功は五島にとって突然変異ではなく、デビュー作以来磨いてきた手法を結実させたものだったということになるのだ。
 以上の推論が全く的外れなものであった場合、五島にも水野にも大変失礼な物言いをしていることになるが、『
ノストラダムスの大予言』の手法を考えるとき、このデビュー作の問題をどう位置づけるかや、「小野年子の手記」の真の著者は誰かという点は、無視することができないように思われる。
 もっともこの点は、五島のデビュー作が通説通り『続・日本の貞操』だった場合にも大差がない。五島が『続・日本の貞操』で聞き書きを基にして再構成したという体験談の数々を額面通りに受け取ってよいのかどうかは、慎重に検討されるべきだからだ。それらも創作の色合いが強いとなれば、上で指摘した『大予言』との関係は、ほぼそのまま当てはまることになる。
 そこで以下、少々蛇足になるかもしれないが、『続・日本の貞操』についても若干の検討を加えておこう。
『続・日本の貞操』に関する疑問
 まず、巻末に収録されている北林の手記だが、北林の夫である北林透馬は名の知れた作家であり、そのような人物の妻の手記を、五島が(北林夫妻が存命中に)創作した可能性はまずないであろう。ただ、五島が単独でまとめた残りの部分には疑問がある。
 五島自身による構成説明を引用しておこう。
- この報告は、敗戦以来現在までの基地の女性たちの変遷にしたがつて六つの部に分れ、各々の部はそれぞれⅠとⅡに分れている。Ⅰはそれぞれの時期におこつたいくつかの典型的な事件や基地の女性たちの生活の代表的な例などを、本人やその家族・友人・事件の目撃者などとの面接にもとづいてできるだけ正確につたえたものであり、Ⅱはそうした具体例を基礎にして、各々の時期における彼女たちについてのいろいろな問題を、資料や統計の力を借りて分析してみたものである。
- わたしがこの報告のための調査を意識的に開始したのは、1948年9月、つまり敗戦後3年たつたときからである。したがつて、敗戦から1948年9月までの部分の報告は、実地調査や事件と時間的に平行した[原文ママ]面接がおこなわれていないため、何となく印象のうすいものになり、集めた資料の数もそれからあとの部分に比べればずつと少くなつてしまつた。
 1948年9月というと、1929年11月生まれの五島はまだ18歳である。この時期から調査を始めたところで、新聞記事を探す程度ならまだしも、「面接」をできたのかどうか、できたとしても本人や家族が、そんな「若造」に性的被害の詳細を正直に洗いざらい教えてくれたのかどうか、相当に疑問である。
 そして実際、微妙な例がいくつも見られるのである。
 まず、五島が『続・日本の貞操』で最初に挙げたのが、旧制高校生だったという沢田楊子・倉持利惠子(ともに18歳)の事例である。
 彼女たちは1945年8月29日午後5時ごろに新宿駅付近を歩いているときに、ジープに乗った米兵に拉致され、ひとけのない草原で強姦され、利惠子は事後すぐに姿を消した。楊子は自殺しに行ったのだろうと利惠子を探すことはせず、かといって家に帰る気になれずに駅のベンチに座っていたところ、声をかけてきた日本人男性に騙され、「焼ビル」(戦災で焼けたビルのことらしい)に連れ込まれて強姦された。その後、米兵を客にとる建物に押し込まれ、脱走などは厳しく監視された。利惠子・楊子の家族は警察に届け出たが、担当の警官は名前をメモしただけで何もせず、その後の行方は分からなかったが、利惠子の水死体が20日後に多摩川で発見された。
 さて、これはいったい、どういう調査をした結果なのだろうか。ひとけのない草原での強姦の様子など、当事者以外には知りえないが、利惠子は自殺(水死)しており、楊子は消息不明になったという。しかも、五島は48年以前の事件の調査では、事件と並行した面接をしていなかったという。この時点で、草原や焼ビルでの描写の真実性には、疑問がわいてしまう。
 五島は雑誌記事「米軍性犯罪史」(『真相』第64号、1954年所収)でこの話を使い回しているが、そこでは「楊子自身の証言によった」と明記されている(『真相』では強姦されたところまでしか書かれておらず、監禁された話や水死体の話は出てこない)。
 事件に並行した面接はしていなくても、後から面接をしたということかもしれないが、記事では8月29日だったはずの事件日が8月31日、2人の年齢が17歳と、ディティールが異なっている。たとえば、面接をできたのが『続・日本の貞操』の刊行と『真相』の記事を執筆する間のことで、それによって細部を訂正したのかというと、そういうことでもなさそうである。
 というのは、のちの『戦後残酷物語』(1963/1965/1968)や『戦後の暴力史』(1970)で使い回す際には、再び「29日」「18歳」となっているからである。
 ではそちらが正しいのかと思いきや、『続・日本の貞操』の再版のはずの『黒い春』(1985)では、「9月9日午後5時ごろ」と1週間以上ズレてしまっている。そう、五島の著書によくある、媒体によってディティールが食い違う怪しげなエピソードの例になってしまっているのである。
 『ブリタニカ国際大百科事典』では連合軍による対日占領の開始が1945年8月28日とされている。そこで8月29日に、いきなり派手な事件(上では略したが、利惠子らを拉致して走り去る際に、米兵たちはジープから「群衆にむかつて機関銃(または拳銃)を乱射」したという)があったというのは不自然に感じられて、修正するなどしたのかもしれない。
 また、本当に楊子と面接したのだとしても、彼女は監禁されて客を取らされていたので、利惠子の水死体発見の話など知るはずはない。そもそも警察が何も調査をしなかったのなら、水死体が発見されたときに、いったい誰がそれを利惠子と特定できたのだろうか。名前しか書き留めなかったという警察が特定できたはずもないので、家族が立ち会ったとしか考えられないが、それなら家族が彼女らの消息を全くつかめなかったという話と矛盾する。
 …と、出だしからしてこんな調子である。ちなみに『真相』には、ほかにも『続・日本の貞操』とディティールが異なる例が複数見られる。また、『続・日本の貞操』と『真相』が一致しているのに、『黒い春』が違っている例もある(1945年9月1日が9月11日に改変された真野与喜子らの例など)。
 五島は本人が特に望んだ場合以外はすべて実名であると断っているので、本人や家族が読む可能性のある本や雑誌で、わざわざ勇気をもって実名を出すことに同意してくれた女性なり家族なりの話の細部をあれこれ弄っていることになる。本当に事実を扱っているのだとすれば、ずいぶんと杜撰ではないだろうか。
 特に、楊子自身の証言による、と明言していた『真相』での日付(8月31日)と後の『黒い春』での日付(9月9日)が大きく食い違っていることなどには、強い不信感を持たざるを得ない。
 楊子の記憶違いを、後に出てきた何らかの第三者的証言などによって修正できたのだろうか?
 いや、そうは思えない。上で言及した真野与喜子の例もそうだが、『黒い春』では、特に1945年8月から9月の被害状況の証言や、五島がまとめた政府などの対応についてのルポで、10日前後、日にちをズラしている例がいくつも見られるからである。ちょうどそのころ事件状況も場所も年齢も異なる被害女性たち(あるいは目撃者や家族)が揃いも揃って10日前後の記憶違いをしていたなどと、そんな話があるだろうか。
 それらは、終戦直後の状況に合わせて五島自身が改変した、つまり、全部五島が作り上げたものを、あとで辻褄合わせをしたと疑われても仕方ないのではないだろうか。
 さて、事件と並行した面接が始まったと主張する48年9月以降の事件なら説得力が増すのかと言えば、それも疑問である。
 たとえば、1949年夏に大阪であったという「狩りこみ」(街娼らの一斉取り締まり)に巻き込まれた熊谷友子(26歳)は米兵のキャンプで働いていたが、売春はしていなかったという。しかし、仕事が長引き終電を逃してしまい、徒歩で帰るところを街娼と間違われて逮捕され、警官たちから屈辱的な取り調べの数々を2日ほど受けた後、釈放された4日後にキャンプ内で服毒自殺したという。
 これは一体、誰に面接した結果に基づいているのだろうか。屈辱的な取り調べの詳細まで知りうるのは本人の可能性が高いが、亡くなったというのだから、もちろん違う。だからといって、よもや取り調べをした警官から聞き取ったわけでもないだろう。
 となると、死ぬ前に知人ないし家族に打ち明けたということになるはずだが、打ち明けられた人物は、ショックを受けている友子を療養させるでもなく放置して死なせたことになり、不可解である(そういうすさんだ時代なのだ、と言いたいのだとすれば、その家族なり知人なりがどう対応したのかにも一定の分量が割かれているはずで、一言も言及がないのはおかしい)。
 友子が手紙に詳細を書き記していて、死後、家族などの元に届いた、ということならばありえなくもない。しかし、仙台の大学に通っていた五島が、いったいどのような伝手でそんな手紙を受け取った家族が大阪にいることを知り、面接の約束を取り付けることができたのか(家族がマスコミに告発したかったのだとしても、学生に過ぎなかった当時の五島を選ぶだろうか)と、疑問は次々に浮かんでくる。
 しかも、この五島による事例集は、事件ごとに類似の事件が何件あったかをその都度書いてあるのだが、この熊谷友子の事件の類似例は15件もあったという。1件を偶然知ったというのならまだしも、さらに15件も似たような事件を調べたとなると、不自然さはさらに増す(ちなみに前掲の利惠子・楊子の事件の類例は17件である)。
 このように、五島が挙げている事例は「できるだけ正確に」と標榜している割には「誰から聞いたのか」とか、(大学生ないし大卒まもない新人ルポライターが)「どうやって調べたのか」といった視点に注意して読んでみると、疑問のある事例が少なくない。仮に事実に立脚しているとしても、かなり脚色されている可能性がある。
 なお、類似事件数の紹介は、一見すると調査の真実味を増すかのようだが、各事件ごとの類似事件数を合計していくと、なんとその数は650以上になってしまい、かえって疑問がわく。
 全部が面接ではないにせよ、(新聞のバックナンバーをキーワード検索できる現在と違い、新聞を調べるだけでも相当に苦労したはずなので)仙台で暮らしていた学生が、学業の傍らで調べた数字としての650件という数字が、現実味のある数字と言えるのかどうか、判断に迷う。
 そして何より、650件以上の事例を調査・分類したうえで書いているのが真実なら、なぜその中から上のような不自然な例を代表例として紹介しているかも疑問である(ちなみに利惠子・楊子の例も、熊谷友子の例も、後年の五島の著書『戦後残酷物語』や『戦後の暴力史』でもほぼそのまま使い回されることになる)。
 『続・日本の貞操』(および再版の『黒い春』)は保守・革新のいずれの側からも、それぞれの視点に基づいて引き合いに出されてきた。
 戦後間もないころに不当な性暴力の被害を受けた女性たちが相当数いたことは確かであろうし、当「大事典」はそうした事案に対して立ち入って論じられるだけの調査はしていないので、この本の証言を事実として紹介している論者たちについて、軽々しく論評する気にはなれない。
 しかし、従軍慰安婦問題における吉田証言を挙げるまでもなく、この種の事件で怪しい証言を無条件に受け入れることは、問題の解明に寄与するどころか、話をややこしくするだけにしかならないことは当然であろう。
 だから、戦後まもない時期の性犯罪の証言として五島のこの本を用いることには、慎重な対応が求められるのではないか、という点には注意を喚起しておきたい。
 たとえば楊子と利惠子の事例などは、銃の乱射事件を伴っていた以上、事実であれば(事件直後に報道規制がかかっていたのだとしても、後年に)、そういうひどい真似をされたと証人が名乗り出ることは普通にあるだろうから、そうした第三者の証言と突き合せて事実と確定されたもののみ使う、といった対応をとることは可能だろうし、またそうすべきだろう。
- (1)『ノストラダムスの大予言』以降の予言・オカルト関連の著作には創作が多く混ざっているけれど、それ以前のルポでは、そういうことはなかった
- (2)『ノストラダムスの大予言』以前からもそういう創作が普通に混ざっていた
のいずれが正しいのか、きちんと検証した研究はなかったように思う。それなのに、当たり前のように(1)の立場を前提としてこの本の証言を用いるのは、やはり危ういと思うのだ。
 なお、最後に、佐木隆三が挙げている、駆け出しのころの五島の取材に関するエピソードを挙げておこう。
- また、深夜喫茶ルポで、次のような文章で物議をかもしたというゴシップもある。/――暗くてなにもみえないけど、好きなことをやっているらしい。一組はペッティング、一組は本番直前である……。/物議をかもしたといっても、警視庁に呼ばれたのではない。或る人が、「暗くてなにも見えないのに、なんでペッティングとか本番とかわかるのか?」と指摘したからで、それを言ったのは梶山季之さんだった。周知のとおり、梶山さんは、トップ屋と呼ばれるルポライターだったから、まず事実を正確に書け、とうるさかったというのである。
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最終更新:2019年06月16日 13:15