「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああ!!!」
悲鳴が聞こえる。そこは広い野原。白い石や中程度の大きさの木がぽつぽつと地面から顔を出していて、一部分は旅道用に整備されていて、こじんまりとした村へと続いている。
その町から五百メートルほど離れた地面の上で、一人の男の子が恐怖し、涙し、腰を抜かして後ずさりしていた。まだ幼く、見かけは十歳をやっとすぎたばかりのよう。人畜無害のような平々凡々とした顔立ちに、大きな黒縁眼鏡。レンズの奥では暗緑色の大きな瞳が潤み、目尻に涙が溜まっている。体躯は小さく、身長百三十辺り。全体的にも華奢な体つきなので、若干少女のようにも見える。下は茶色のハーフパンツに、上は白のシャツ。その上には黒いマントという、あまりに地味な格好をしていた。
だが、人間ではないことを断っておく。
彼の頭には、大きな犬の耳が二つ付いている。そして、腰の辺りからはぶるぶると震えているふさふさとした大きな尻尾が生えている。総合的に見れば、それが『犬』であると判断できる、そんな外見だった。
彼は、彼の人生史における最大の危機に直面していた。あくまで、彼の主観だが。
「あ、あぁああっち行けよぉ!どっか行けって…!?ご、ごめんなさいごめんなさい命令なんてしてすいません!だからお願いですからこっち来ないで下さいーーーー!!」
「…………」
『それ』は、彼の必死の嘆願にも嘲笑で返し、じりじりとにじり寄る。悪質なほどにゆっくりで、いやらしいほどにそろそろと。『それ』が近づくにつれて、少年も必死に後ずさりをするが、手にも足にも上手く力が入らない。
「お、お姉ちゃん?お願いだよぉこいつ追っ払ってよぉ!」
「…………………………」
少年の口から放たれる代名詞。しかし、それに反応する人影は無かった。
もっとも、反応しない影ならば、三白眼で少年を睨みつつ後方に鎮座しているが。
そんな様を、『それ』は満足そうに眺めながら爪をキラリと光らせる。
「あ…あぁ……おね」
少年の精神が限界に近づき、意識も失ってしまうかと思われ。
『それ』がダメ押しとばかりに、長く鋭く、人間など軽々と切り裂ける爪を高々と掲げ挙げた瞬間。
少年の後方から、呆れたような溜息の音が聞こえ、
「うがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああ!!!」
咆哮。
若い女性の声が、獣の如き唸りを上げた。
可愛いウサギの体躯をした『それ』、ソードラビは体をビクリと震わせ、百八十度方向転換した後に一目散に走り出す。先程までの陰湿な笑みは何処へやら。弱者をいたぶることを至上の喜びとするモンスターは、『危機』を感知した瞬間に逃げる意思を固めた。その間、コンマ一秒。
先程まで自分を襲っていた、臆病なウサギが去っていく様を少年が見止めると、涙を流しながらその場に寝転がった。その顔は喜びと緊張に満ち満ちていて、今ある生を喜んでいる、という些か大袈裟な幸福を感じていた。
大袈裟、という感想は。
後方に控えていた《フェイ・ゼフィランサス》という女性の物だったりする。彼女はその場で安堵の心持を満喫している少年、《アレックス・ゼフィランサス》を見下ろし、深々と溜息をついた。
情けない
もう何回目とも分からない、彼女が延々と少年に抱いた、印象である。
#
「恥を知りなさい!恥を!」
「………ごめんなさい」
先程の旅道に従うと辿り着く、長閑な農村の中にある小さな宿屋。その食堂で、フェイとアレックスはテーブル越しに向かい合っていた。手と口をもぐもぐと動かしながら。
食堂は何人かの旅人と、村の住人達が何人かで埋まっており、農村の宿屋とは思えない盛況さを誇っている。それもこれも、この宿の女主人の作る食事がかなり美味しく、一部のコアなグルメがわざわざ訪れるほどの物だからだ。その事実を、二人は今正に体感している所なのだが。
「大体からして、あんな雑魚一匹にどれだけ怯えてるのよ!…もぐもぐ…んぐ………あいつはねぇ、ちょっとこっちが脅かしさえすれば、一目散に逃げていくような雑魚中の雑魚なの…もぐ……よ!そんな相手に腰抜かして助けを求めてくるなんて……あぁ美味しい」
「………ご、ごめんなさい…」
少年を叱り付けながら目下食事に勤しみ堪能するというある意味荒業を披露する女性と、その剣幕に尻尾を、しゅん、と下ろしながら俯いている獣人少年を、周りの旅人や村人は時折ちらちらと眺める。好奇と、それ以外の感情も加えつつ。
彼等の容姿は少々人目を惹きつける。
獣人少年・アレックスの容姿は前述したとおりで、その見た目たるや平凡であっても少女的な可憐さを持っており、その小柄な体躯が暗色の少々大きいマントの所為で更に小さく見える。ある特殊な趣味層の人にとってはそれなりにそそる物があるのだろう。
「まったく……男の子なら、もうちょっと気合を見せなくちゃ、気合を!」
しかしそんな桃色の妄想も、女性の発言で脆くも崩れ去る。二・三人の男性はその発言後にぽかん、と呆け、すぐに溜息をつきながら食事に戻る。期待というものが割りと直ぐに裏切られる、その典型である。
そして、数人の男性の期待を崩壊させたフェイ自身も、いろんな意味で人目を惹いた。
まずはその容姿がかなり整っていることにある。髪の毛先の部分だけが黒へと変色していく金色の長髪はうなじの辺りで二本に絞っている。少々切れ長だが二重瞼の暗黄色の瞳。整った顔のライン。少し長く尖った耳は彼女がハーフエルフであることを指している。身長百八十に加えてすらりと長い足。十人の男が見て、七人は美人と称する、それほどのものだった。
が、ただの美女でないことは彼女の服装…及び、その装備の類を見れば一目瞭然である。
服装はといえば動きやすさを重視させており、上は裾が短く腹部をさらしている黒色のシャツに、防刃繊維を束ねて作った短めのジャケット。下はハーフパンツにこれまた防刃繊維質の足首まであるパレオ。
加えて。
パレオの上にベルトを通す部分があり…そこには、計十二本もの小型投擲ナイフが納められているナイフショルダーが通されている。それらのナイフはすべて魔具であり、風・火・氷・雷・地・光の補助魔法がかけられたものだ。
更に、ナイフショルダーの前部分には二つの中型パック。かなりの重量を帯びており、見る人が見ればその中には更に多くの魔具類が入っていることを察することが出来る。女性のジャケットのポケットも、何かが入っているかのように膨らんでいた。
そして最後に、今はテーブルに立てかけられている一本の剣。刃渡りは六十㎝ほどと小型の部類だが、それは速さと小手先の切り返しを突き詰めるため軽く作られている。特徴的な装飾を施されたそれは、持つ人が持てば、反撃の隙を与えない高速戦闘を可能にする。
総重量二十五キログラム。
素人が持って移動するには動きを大幅に制限され、同時に違う武器を扱うことはかなりの熟達が必要。場を見極め、その場の応じた戦闘手段を講じることが出来なければ、いざ戦う際に待っているのは死のみ。
つまり、それを平然と持ち歩くという事は…。
数人の男性は、僅かに唾を飲み込んだ。
「こらこら貴女……他人が口を出すようで悪いけどね、怒る事と叱る事は違うのよ?」
僅かな緊張が漂う食堂を、一人の中年女性の声が晴らした。この宿の女主人であり、実力ある料理人でもある女性だ。
フェイはその声にむっと反応し、視線を女性へと移す。座った状況なので、上目遣いで睨むような形になるが、女性は気にしたそぶりを見せない。
「なんだかこの男の子に教えようとしているみたいだけど、物を教えるということは『~~をしてはだめ』とか『~~じゃいけない』というのでは逆効果よ?その子の成長を望んでいるんだったら、それをするには『どう心がけるべき』なのか、『どういう風にすれば良いのか』を教えなくちゃ、ね」
貴女よりは長く生きた女からの教訓よ、と、最後に付け加え、にこやかに微笑む。
するとフェイは、
「………ま、それもそうね」
自嘲気味の、それでいて柔らかな笑みを零す。
横目で見ていた他の客等はその笑顔に時間を止められる。実力者であろうことを差し引けば、彼女はかなりの美人であることに代わりは無いのだ。未だ知れない彼女の実力に慄く前に、桃色の期待がよぎる。
アレックスはフェイのオーラが一気に優しくなったのを察したのか、俯いていた顔をフェイに向ける。その視線に気づき、さらにはアレックスがまだ食事に手をつけていないことを見ると、「早く食べないと冷めるわよ」と忠告して食事を促した。口元には更なる微笑み。
「う…うん!」
若干元気を取り戻したアレックスはスプーンを手に取ると、ゆっくり食事を味わい始めた。フェイの言うとおり、少しだけ冷めてはいたけれども、女主人の腕の良さにより味は殆ど衰えてはいなかった。
「ゆっくり食べて良いからね?アタシは待っててあげるから……だって、食べて元気をつけないとね~…」
コクリ、と頷きながらアレックスは食事を続ける。その料理のおいしさに、自然と笑みが零れるようになり………
不意に、寒気を感じる。
「なんたって、明日まで馬車は休むわけだしね。時間はた~~っぷり、あるわけだしね。
『どう心がけるべきなのか』、『どう言う風にすればいいのか』………みっちり実戦で叩き込んであげるから。
手取り、足取り……つきっきりで、ね?」
冷や汗と、震え。
アレックスは食事に落とした視線を上げることが出来ず、震えるスプーンを口元までもって行くことができない。その視線を上げれば、絶対零度の微笑みを向けてくるフェイがいることを確信していた。
食堂の中は一気に冷たいオーラで満たされていき、少年の怖気は他の客にまで伝染していく。そんな中、女主人だけは景気良くフライパンを動かしながら…
「……まずいこと、言っちゃったかしら?」
弱気な獣人少年の、明日を按じた。
最終更新:2007年07月22日 18:38