波間に漂う一艘の船。
見渡す限りの青い海に、千切れ雲が浮かぶ蒼い空。そよぐ潮風は髪を揺らし、服をはためかせ、乗客の心を安らがせる。渡り鳴くカモメの声が、凛と輝く太陽の日差しが、航海者達の旅の安全を保障していうるように感じさせる。
が。
一人だけ、デッキで海を眺める乗客たちに混じって、土気色の顔色と先行きの絶望感を感じさせるかのような表情をした人影が、文字通り『干されていた』。
「うぅ…あぅ……あぅ……うっ!…………ゔゔ……死ぬぅ……」
「だ、大丈夫、お姉ちゃん…?」
客が誤って海に落ちないように設けられた柵に上半身を引っ掛けるかのごとく、フェイは力なく垂れ下がっている。視線の先には確かに白波を立てる海が見えるのだが、究極の気分の悪さゆえか、脳が視覚情報を処理する事さえ忘れている。ぼんやりとした青が見えるだけだ。
「やっぱり……いくら乗っても………無理だわ………かと言って…飛行船は……高いし…うっっぷ」
「船……苦手だったんだね…」
然も以外、とアレックスは苦笑いしながらフェイの背中を摩る。数瞬後に聞こえてくるのは当然の如く逆流の音で、憧れていた女性がよもや船酔いでそんな境遇に陥るとは思ってもいないので現実が辛い。それでも心配な物は心配であるし、僅か一日で起き上がり、
『治った!さぁ、時間もないし、さっさと行くわよ!!』
と言うフェイの、まだ疲れが残る表情を見た後であるため、まだ心配は残る。
あの事件の後、騎士団からの聴取や治療などを受けていたために一行は【アルセラの村】で一泊し、半日をかけて〔プトゥナ王国〕の首都、【リドヴィア】に到着した。フェイ自身は村で一泊した後の朝には目を覚ましており、溌溂とした表情で――しかし、どこか影が見える――例の台詞をはいている。フリードやアレックス自身が何度も様子を見るように言ったが頑として聞き入れず、半ば強制的に馬車を出発させた。
周りの人間は、その驚異的な回復力に舌を巻いていた。
だが、よく観察すれば完全に回復などしていないことが容易に分かる。
声をかけても返事をするまでに数秒の間が空き、数歩歩くと足元がふらつく。【リドヴィア】では途中フリードに肩を支えられる事が数度あった。「治った」などと、虚言も甚だしい。
でも。
「ま、まぁ……船旅も…あと少しよ…………あとちょっとで……
魔法都市。………ふぅ…っとと、そろそろね…アッレクス…寒くない………?」
「だ、だいじょうぶだよ?お姉ちゃんが防寒着持ってきてくれてたし……準備いいよね…」
「そりゃあ……ねぇ。住んでたから、程度は……………知ってるし…ぅぷ!」
「あ……あぁ~…大丈夫?」
「……げほっ……だ、だいじょう…ぶぅ…」
かれこれ、似たようなやり取りが三日ほど続いていたりする。
だけど、それももう終わる。
終わってしまう。
前方に見え始めたのは、今までの青空とは打って変わる灰色の厚い雲と、薄暗い中空に白い氷の切片が漂っている別世界。程無くして、この船は『世界の中心』の領海に入る。
魔法大陸…そこにある魔法都市。
旅の終わりが、近づいている。
#
行商人相手の四日間にわたる護衛を終えて、フェイが【ゼフィランサス】の自宅で惰眠を貪っていたある日。
「こんこんこん、っと口で言ってみながら勝手にお邪魔するです」
「ふぇ!?…あ、アイーシャ?それともイリーナ?」
「イリーナです…いい加減見分けやがれです」
突然現れたのは孤児院の『保護者』の一人である、双子の片割れ《イリーナ=ゼフィランサス》。服装は『保護者』の制服で、特徴的なのは大きな丸眼鏡の下に隠れた知性的な眼と、鍛え上げた男の腕ほどの太さを持った若葉色の長い髪。但し、これと全く瓜二つな女性がもう一人いるので正直見分けはつかない。見分けられるのはこの町に二人と、今は出張中の奴が一人。
主観的には理不尽にしか聞こえない命令に生返事をしつつ、要件を受け取る。
「院長が呼んでるです。寝てる暇あるならさっさときやがれです」
院内の一番奥、小さな山を背にする建物の端っこに、この孤児院の二代目院長《アイヴェメイン=ギルフォード》の仕事部屋がある。
「しっつれいしまーす」
「ん、仕事お疲れ様、フェイ。わざわざすまないね」
大きな窓から差し込む光をその背に受けて、まるで光を背負っているようにも見える、長身の男性だ。いつも柔和な笑顔を絶やさないためにより一層そんな風に見えるのだが、見た目とは裏腹にフェイに剣技を教えたのがこの人だ。強さと優しさを兼ね備えた、院長としてふさわしい人だとだれもが思っている。フェイが最も尊敬する人物だ。
「どうしたんですかぁ?また短期間『講師』が必要とかですか?アタシは別にかまいませんよ、昨日で依頼は全部消化してますし」
「いや、『講師』は足りているよ、ありがとう。僕が頼みたいのは護衛でね、アレックス君を魔法都市まで連れて行ってほしい」
「アレックス…あぁ、あの『臆病虫クン』ですね」
私の頭にパッと浮かんだイメージは、いかにも気が弱そうな表情で人に怯え、人の影に隠れている一人の獣人の男の子。院に来てもう二年になろうとしているのに、未だに仲の良い子は少ない。事情が事情だからと多くの『保護者』は言うが、悲惨な事情を抱えてこの院に来た子供はたくさんいるのだから、そんなのは理由にならない。精神的に成長しようという気概がないように感じてならないのだ。
「こらこら、そういう言い方はいけないよ、フェイ」
「事実なんだから仕方ないじゃないですか。いつまでも過去を引きずっているようじゃあ、いくらここで生活していても成長しようがないですよ。
…でもまぁ、【学校】の試験に合格したっていうんであれば、そっち方面では成長しているみたいですけど」
「やれやれ…まぁ説明は不要のようだね。そう、アレックス君は見事に魔法学校の奨学生試験に合格した」
「で、無事に入学できるように道中護衛ですね。いいですけど、トーマスはどうしたんです?そういうことだったらあいつが率先していくんじゃないですか?」
トーマスとはアレックスが院に来るきっかけになった人物、つまりはアレックスを保護した人物で、そこそこの腕を持った便利屋だ。人一倍正義感が強い人間で、まだ幼いころはよく院内のいじめの仲裁に入ったりしていたことを思い出す。というのも、自分もまた仲裁に入られたことが多少…というか、頻繁にあったのだ。
アレックスの件についても、あの男がいかにも行動を起こしそうな事例だったと思う。だからと言って考え無しに行動をしたのは褒められたものではないが、一応、彼の行動について角の反感を持った者は院内にはいない。アタシも含め。
アレックスを保護してから一年程の間、トーマスは『講師』の依頼以外をすべて蹴って院内に留まり、アレックスの精神的な面を治療した。希望する子供に武術の基本を教える傍ら、部屋に閉じこもりがちだったアレックスに語りかけ、徐々に彼の心を解きほぐそうとしたのだ。そのおかげで、多少はマシになった。
だからこそ、ここは是が非でもトーマスが自ら護衛役を買って出るだろう。
では、なぜ?
言ってからフェイは気づいた。
「……まさか」
「…トーマス君は、今、【エルブレナ】の医療施設にいる。意識不明の重体だ」
#
「そう…だったんですか…」
雪の中も賑わう港に降り、白銀の大地と世界の果てへの入口に立ったフェイは、アレックスに「今回自分が護衛を引き受けた理由」を説明した。
というよりも、「原因」と言えるかもしれない。
トーマスは『講師』の仕事の傍ら、隠れてアレックスの両親を探していたのだ。必要と感じたとはいえ、独断専行で行われた『保護』。自分が行ったことに対する責任という観点もあるだろうし、もしかしたら両親は考えを改めているかもしれない、という希望を抱いていたのかもしれない。しかし何故「探していたのか」と言えば、院長とフェイが三日後にアレックスの家に行った時、すでにそこはもぬけの殻だったからだ。更には家具などが破壊され、散乱し、中は荒れ放題だった。莫大な借金を抱えていたらしいアレックスの両親は夜逃げし、一足遅かった闇金業者が荒らした跡。
両親からしてみれば、トーマスの存在は「丁度よい捌け口」だったのかもしれないし、「唯一の罪滅ぼしの手段」だったのかもしれない、と院長は言った。借金取りの巻き添えを食らわないように、あえて突き放したのではないか、と。フェイとしては、それはお人好しの考え事だと思ったのが。
そしてその「跡」に着いた時、偶然にもその「取り立て屋」が来ていた。
彼らは、逃げた……そして、捕まえて絞れるだけ絞りとった客に子供がいることを知っていた。
動揺を露わにした彼が関係者でなく、「何」も知らないなどとは、思わなかった。
「……ぼく」
「『僕のせいですか?』、その答えはNOよ」
言葉を先取りし、真っ向から否定され、アレックスはフェイを見る。フェイの眼は彼を非難するでも、叱りつけるものでもなかった。
ただ純粋に、真っ向から向き合っている。
「なんでもかんでもマイナスに考えないで。それは、そう言う風に考えてしまったら、起きてしまったことの全てが無意味で、無価値で、報われないものになる。
そして、トーマスの意思も、決意も、無視してしまうことになるのよ」
町中での乱闘にその国の警邏が駆け付けた時、そこには重傷の人間だけしかいなかったようだ。
一人だけ、武器のロッドを支えにして立っていたトーマスも、瀕死の重体だった。その時には既に意識を失っていた。
しかし、近くの医療施設に搬送される際、小さな声でうわ言を繰り返していた。
「あの子は……俺が…護る…」
「白を切ればそれで助かるかもしれない状況で、それでもあいつはあんたを想って対峙したのよ。そこに、アレックスの意思は必要?必要なのはあいつがどうしたかったかという意志だけ。そんな中に、あんたの責任なんて、入る余地さえないのよ。
それは、この前あんた自身が体験し、感じたことのはず」
それに、と、フェイは微笑む。それは優しそうにも、皮肉そうにも見える。
「そしてアレックスが言ったあのセリフ…。『おねえちゃんは…ぼくがまもるんだ』って。あれに関しても、私の意志なんて度外視したものなのよ。まさか一日の特訓で泣きべそかいてた君に言われるとは思わなかったわ」
「え…っ」
聞かれていたのか、とアレックスは赤面する。少しだけ恥ずかしさがこみあげてくる。思えば大それたことを言ってしまったかもしれない。
至近距離にいた盗賊たちがかろうじて拾えたうわ言を、反気絶状態に加えて数メートル離れていたフェイが聞く術は無い筈なのだが、彼にそこまで思考を傾ける余裕はなかった。
「だけどね、アタシはうれしかったのよ」
「この私が素直に思った感情さえも、あんたが勝手に推測して、悩む必要も、権利もない。誰かがだれにどういう感情を持とうと、それは全てその人の中で完結すること。
じゃあ、その思いの向けられた人はどうするか、っていうのも、結局はその人次第なんだけど、さ」
「少なくとも、思いを向けた人間にとっては、喜んでほしいと思うわけね」
「……あぁ、あぁ、フェイ……じゃない?」
言葉の終りに、新たな声が二人の外から聞こえてくる。甘ったるくとろみを湛えたジャムのようにゆったりしていながら、その声は凄まじく気だるげな空気を匂わせる女性の声だ。フェイが視線を向けた先にいたのは、雪に負けじと白い衣装を纏い、物憂げ且つ眠たげな眼は鮮血色、髪は三つ編みに紡いだ鋼、加えて、フェイとはまた違った印象を与える超絶な美女。その髪と瞳の色、そして容貌の非凡さを総合した種族は、
ナイトウォーカーを置いて他に無い。
「お、リナじゃない!元気してた?会えてうれしいわ」
「えぇ、えぇ……私も、本当に……。
ところで、この子……かしら?アレックス、君、は?」
「え、あ、はいっ。ァ、アレックスです!は、……はじめましてっ」
「ふふ、ふふふ……初めまして。私は、リナーシャ。よろしく、ね?」
フェイの隣に歩み寄ったリナこと《リナーシャ=ゼフィランサス》は、アレックスから見ればまた長身だ。フェイほどではないが、それほどかけ離れているわけではない。せいぜいが五、六㎝違うだけであろう。優しげに、そして見様によっては妖艶に微笑む様に、アレックスが頬を朱に染める。
「……それ、じゃあ……いいかしら?名残惜しいけど……早めに、手続きを……」
「ちょっと待って。まだ聞いてないのよ」
リナーシャの質問にアレックスはハッとし、それを遮るかのようなフェイの答えが返される。
再びアレックスに向きなおったフェイが、真っ直ぐにその視線を注ぐ。一瞬もそらさず、寸分もずらさず、その眼でアレックスに訴えかける。
「アレックス。アタシは、まだ答えを聞いていないわ」
「……っあ……」
宿屋で交わされ、一度は否定した問い。
よく考えろ、と言われた。
意味が無いなどと言うな、と叱責された。
魔法を学ぶ上での、その意思の在り処を問いただされた。
「僕は……魔法を学びたいです」
「なんのために?理由はないなんて言ったら」
「僕は魔法を学んで!」
厳しいフェイの言葉を、アレックスの意気が呑む。
騒がしい港に駆け巡った少年の気迫は幾人かの足を止める。その視線が集中する中、フェイもアレックスもそれには目もくれない。二人とも、互いに目をそむけない。
「学んで、どうするの?」
「泣いている人を、助けたいです」
そのシンプルな答えは、スッと、聴衆の心に溶け込んだ。
隣で聞くリナーシャが薄笑みを浮かべる中、フェイの真剣な目に相対するアレックスはなおも続ける。
「望んでも力が得られない人もいます。望んでもない状況に追い込まれる人もいます。でも、それですべて終わりだなんて思わせたくないです。……トーマス兄さんが、僕を助けてくれたように、今度は僕が助けたい……その為に、魔法が必要ですっ」
「聞いたわよ?」
凛と立ち吠えたアレックスに、フェイは然と立ち言う。その目は笑わない、その声は喜ばない。
「誰かを助けるということは、そう決めた瞬間から、これから出逢うすべての人の命を背負い込むこととほとんど同じよ?妥協は許さない、諦めなんて以ての外。言ったからには、吠えたからには、あんたはそのために微塵も躊躇わずに自分を鍛えなさい。
その覚悟はあるわね?」
有無を言わせぬ気迫。
肌を打つ、その殺気とも取れる覚悟の問いを当てられ、アレックスの表情にも一瞬の迷いが。
しかし、数瞬の気遅れの後に、臆病な少年はその気質を乗り越える。
「僕はトーマスさんを失望させるわけにはいきません!」
その瞬間、臆病な魔術師志願は、一歩を踏み出した。
それはかつての自分からの脱却の一歩。
それはこれからの自分への成長の一歩。
アレックス=ゼフィランサスとしての、旅立ちの一歩だ。
「……よろしい!いい答えが聞けてアタシも護衛した甲斐があったってものね……。がんばりなさい、逃げてきたら樹海の奥地にでも放り投げるからね」
「っひ……わ、わかりましたっ……。
あ、あの……フェイお姉ちゃん、ありがとうございました!」
「お礼の言葉はいいの。態度と気合で示しなさい。
早速あんたは乗り越えないといけない試練を目の前にしてるんだから」
唐突に。
フェイの張りつめた気が解け、一気にしぼむ。
そしてその視線はアレックスの答えに満足したものから、
憐れみへ。
「え?」
「……ふふ……ふふふ……とてもいい『答え』が聞けて、私も……感心したわ……。とっても健気で……優しい坊や……がんばりましょうね……?うふふ……」
続いてアレックスの背後から漂い始める、凄まじい悪寒。それは周りの気温が低いからでは、決してない。
いつの間にかアレックスの背後にたたずんでいたリナーシャが、その腕を後ろから回して、アレックスを抱擁する。
がっちりと。
絡みつく。
「私も……あと二週間ほど、こっちにいるから……いろいろ、教えられるわ……仲良くしましょうね……?アレックスたん・・・・・・・はぁはぁ……」
「……え?」
自分の頭上、しかしほぼ耳元で囁かれる熱い吐息混じりの暗く妖艶な声色に、アレックスは背筋をぞくりと走る何かを感じる。決して、今駆け抜けた風の冷たさに、ではない。
絶対に振り向いてはいけない、という鉄の意志を働かせ、アレックスは何かを希うような視線をフェイに向けるが、いつも強気な彼女は目線をそむけて冷たく、同情込みで言い放った。
「リナは悪いやつではないのよ。うん。ただちっちゃい男の子と女の子が大好きっていう変態なだけ。うちの『保護者』みたいな『性格』って意味じゃなくて、『性癖』って意味だけど」
「お、おねえ……ちゃん……?」
「がんばれアレックス。あんたの挑戦はまだ始まったばかりよ!」
「お、ねえちゃああああああああああああああああああ――――――――――」
「さぁ……お姉さんと一緒に行きましょう……?とりあえずは手続きを済ませて、その後は……私の下宿先でいいかしら……?」
何事かをぶつぶつと呟くリナーシャにずるずると引きずられていくアレックスを遠い目で見送りつつ、フェイはアレックスの貞操が守られることをまず第一にいるかもしれない神とやらに祈ってみた。
先ほどの覚悟の言葉よりも遠くこだます少年の叫びは、一瞬だけ港を駆け抜けた後、その喧噪に呑まれていった。
最終更新:2008年10月03日 21:41