法然上人(円光大師)

登録日:2012/02/07(火) 23:54:06
更新日:2024/11/04 Mon 12:49:11
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法然房源空(円光大師)は長承2年4月7日~建暦2年1月25日(1133年5月13日~1212年2月29日)あたりに活躍した僧侶。

恐らく、法然上人の絵といえば「披講の御影」という藤原隆信の作品が有名か。
幼名は勢至丸(せいしまる)。
号を法然、また大師号を円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師などなど。

尊称 元祖法然上人
美作国(現・岡山県)で生まれ、洛東大谷…現在の知恩院あたりにて没する。
浄土宗を開くが、法然自身は寺院を建立しなかった。現代ではわかりにくいが、高名な僧としてはやや珍しいといえる。

師は源光・叡空。
弟子に弁長、証空、親鸞、蓮生、源智、 幸西、信空、隆寛、長西、湛空など。自身だけでなく、弟子もなかなか有名である。
著作『選択本願念仏集』『一枚起請文 』他。

…宿題は本家wikiに任せよう。


上記で述べたように彼は浄土宗、つまり物凄く端的に言えば「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽へいける」という宗派では「元祖」と称えられている。
これはこの南無阿弥陀仏の念仏を定めた、定義したのが彼だから。

つまりは浄土宗の開祖にあたるのだが、今なお存在する浄土宗という立派な宗派の元祖であられるのに、先述の通り自身では寺院を建てていない。

なのだが、彼の周りが彼にあやかり寺をいくつも建てられた。生誕された場所すらが誕生寺になっている。

また、相当な天才でありわずか二年ほどで師である源光に「もはや私に教えることはない」と言わせている。
ちなみに、当時15才との異説もあるが、わずか13才での弟子入り。20歳どころか高校卒業前の歳である。

…のち、18才で二人目の師すらも絶賛するほどの悟りっぷり。
それでも両師を見下さず、しっかり名前を一字頂き

法然房源空

を僧としての正式な名にしている。
※基本的に師の名前を一字とるのは確かによくあるのだが、全ての師ではなかったり、貰えなかったり、受け取らなかったりする。

僧として生きたとはいえ、18という若さで落ち着きと師への尊敬、謙虚さを持ち合わせていたともいえよう。

後鳥羽上皇に恨みを買い、念仏停止と島流しにあう。恨みの半分は誤解であったが刑は執行され、さらに還俗させられる。

流された場所は土佐の国…と、言うことにして讃岐の国。一部文献では土佐送りになっているままであるが、土佐の地は踏んでいない様だ。
(讃岐は高僧が多く、勉強熱心な法然上人的には果たして罰なのか)

既に75と高齢だったが、布教にと香川県を歩いて周り、空海の寺(善通寺)にも詣った。

この熱心な布教のため、京都以外にも香川県に法然寺がある。
無論、法然上人が建てたわけではない。

法然上人といえば、死後に広められた選択集(せんちゃくしゅう)が有名か。
専修念仏をよしとしたこの教えだが、真言や天台など、ほとんどの宗派はそれをよしとしていない。

何とこの教えに対し、今まで法然を素晴らしい!!と称えていた他の宗派の僧らは一斉に猛反発。
邪説邪教と叫び、なんと専修念仏者をみるや身ぐるみをはがす者すら現れてしまった。

さらにさらに、上人の遺体を鴨河に投げ捨てる計画すら出る始末。厳重な警護とすばやい対応により、きちんと火葬できた。

生きていても、また死しても周囲に影響を与え続け、さらに生前と死後直後、さらに死後時間がたってからで幾度も評価が変わる、目まぐるしい生き様である。

なお、空海と違って(そもそも宗派思想が違うしね)すでに「没して死んでいる」
80とかなりの高齢まで生き往生した。


なお、なくはないのだがあまり他の僧と違って超常現象的な話が少ない。
これは、あまりに生き様が激しすぎ、ちょっとくらいの超常現象が霞むから…なのかも知れない。



追記・修正は念仏唱えて極楽浄土についてからお願いします。




南無阿弥陀仏
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最終更新:2024年11月04日 12:49