金ヶ崎の戦い

登録日:2012/02/26 (日) 14:30:40
更新日:2025/01/14 Tue 13:22:37
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金ケ崎の戦いとは元亀元年(1570年)4月25日に越前国敦賀郡金ヶ崎(現在の福井県敦賀市)にて、第一次信長包囲網として発生した戦国時代の合戦の一つ。

本項目では戦国史上でも有名な撤退戦である、金ヶ崎の退き口についても記述する。


■背景
永禄11年(1568年)9月、織田信長足利義昭を擁して京に上洛、義昭を征夷大将軍に任命させ、後見人として権勢を振るう。
信長は征夷大将軍・足利義昭の名前を借りて各地の大名に上洛を促す。これを拒否したのが朝倉義景である。

この上洛要求は簡単に言えば信長に従う者とそうでない者を見極めるためのもので、拒否した義景と信長の関係は急速に悪化していった。

朝倉家は元を辿れば斯波氏直臣の被官で守護代でもあり、斯波氏に代わり三代に渡り越前の領主を務める名家。
対する信長は斯波氏の被官の陪臣止まりで、血筋の面では信長は遥かに下である。

更に、当初京を追われ亡命中の義昭を匿ったのは義景であった。
しかし京への帰還と将軍職奪還を望む義昭に対して義景は望みを叶えることが出来なかった為、義昭は義景を見限り信長の助力を得て上洛を果たす。
自らの力の無さはあるものの、田舎者に義昭を奪われ、更に上洛・将軍就任をも許してしまった義景が首を縦に振る事はありえなかったのである。

しかし義景の上洛要求無視は「将軍の命令」に背く行為であるため、信長は大義名分を持って越前に侵攻した。
金ヶ崎の戦いの始まりである。


■浅井の裏切り
いざ戦いが始まると織田優勢に進んでいった。4月25日に侵攻開始、同日に手筒山城が陥落、翌日には金ヶ崎城の朝倉景恒を下す。正に破竹の勢いである。
しかし、本拠地である一乗谷を目前にした所で一報が入る。

信長の義弟であり同盟関係にあった浅井長政の裏切りである。

信長はこれを虚偽の情報として信じようとしなかった。戦国一の美女・お市の方を嫁がせ、良好な関係を続けていた。
そんな長政が裏切る訳がないと思いたかったのか。

しかし続々と入る知らせを聞き、事実と認めざるを得ない状況になる。北近江を領する浅井が攻めて来ると、眼前の朝倉とで挟撃されてしまう。
勝利を目前としていた状況から一気に絶体絶命の危機に陥ったのである。
信長は目前の勝利を捨て、直ぐに京への撤退を決意。この時の信長の撤退は驚異的な早さで、信長について来られた部下は数人だったとか。

桶狭間の時と言いホントに足が速いものである。


信長は浅井の裏切りを信じなかったと書いたが、この裏切りは十分に考えられる話であった。
元々浅井長政の父と義景は盟友で知られ、更に浅井家と浅倉家は三代に渡る同盟関係である。
そのため織田家と同盟を結ぶ際には「朝倉には手を出さない」と言う条件が盛り込まれていた。
これを破ったのだから、裏切りがあっても不思議ではない。


■金ヶ崎の退き口
こうして越前攻略に失敗した織田軍であったが、この戦の撤退戦は後に金ヶ崎の退き口と言われ戦国史上でも有名な撤退戦になった。

見事な撤退戦で織田軍の危機を救い一躍名を上げたのが、後の天下人・羽柴秀吉である。
秀吉は状況からみて必死である殿役を自ら立候補し、見事完遂したのである。
秀吉の話をする上で欠かせないエピソードであるが、近年の研究では疑問視されている模様。
というのも、殿には秀吉の他にも明智光秀、池田勝正も参加しているため、未々地位が低かった秀吉が殿軍の大将を務めたとする疑問が残る。
更にこの撤退戦をどのルートで、どうやって逃げたのか、両軍の兵力差など、不明な点が多い。
現在の所、池田勝正が高い統率力を発揮して秀吉、光秀が命懸けで戦って撤退戦を成功させたのは事実のようである。

また、それ以外にも成功した要因として、追撃を行った朝倉軍の進軍が遅かった、朝倉家が一枚岩ではなかったなど様々な説が挙げられている。
これ以降の戦いでもわかるが、この時の朝倉家はほぼ常に分裂状態であった。

一方の信長は京へ撤退した岐阜へ戻った後、姉川の戦いへと繋がっていくが、同時期に浅井、朝倉と共に石山本願寺ら一向宗が立ち上がり、いわゆる信長包囲網が形成され、信長が浅井、朝倉との対峙は3年続くことになる。

不明な点は多いものの、関ヶ原の戦いでの島津の退き口と並び、戦国史上でも見事な撤退戦と言えるだろう。
また、不明な点が多い事から、様々な作家やメディアがこの撤退戦を取り上げ、アニヲタ達を魅了してきた。

■お市の小豆袋
この金ケ崎の撤退時の逸話として、お市が信長に陣中見舞いとして贈られた小豆袋が語られている。浅井長政の裏切りの知らせが入ったと同時に、陣内へ浅井に嫁いだお市から小豆袋が届けられる。その袋は両端を縄で括って縛られていることに違和感を覚え、しばらく考えこみ、その形状から自身らが袋の鼠になっていると察知。すぐさま撤退を決断したという逸話が残っている。お市の気遣いと信長の機転の判断のよさを上げる話だが、当時の戦局やお市と長政の関係も良好であったことから江戸時代以降に創作されたものともされている。

代表的な物を挙げるとすれば漫画「修羅の門」の外伝である「修羅の刻」であろうか。
信長の甥である陸奥の双子が、たった2人で追撃してきた朝倉軍を翻弄し、秀吉が率いる殿軍の逃げる猶予を稼いだエピソードは中々に熱くさせる。


追記・修正は殿を務めてからお願いします

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最終更新:2025年01月14日 13:22