銀閣寺

登録日:2014/01/24 Fri 06:18:34
更新日:2025/02/14 Fri 15:31:12
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【概要】

銀閣寺とは正式名称を慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つである。
山号を東山(とうざん)という。
ちなみに銀閣寺の名の由来は江戸時代、あの金箔野郎金閣寺』に対して銀閣寺と呼ばれるようになったという。

京都府京都市左京区銀閣寺町にある。

室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する質素ながらも美しい寺である。
ちなみに、重要文化財どまりの金閣寺を差し置いて国宝。両方とも世界遺産ではあるが。兄よりすぐれた弟など存在しねぇ!これは、金閣寺はこじらせたアホ坊主による放火で一度焼失しており、現存しているのは1955年に再建されたものであるため。



【銀閣寺の歴史】

時は現代をさかのぼり、室町幕府8代将軍足利義政の時代。
部下の対立や義政の妻日野富子の政治への口出し等で政局は混乱し、後継者争いから、かの有名な応仁の乱が起こった。

そんななかで義政は自らをかつて権勢を誇った義満に準え、自分の力を誇示すると共に実際に政を行う場として1482年から、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。
この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。

東山殿を築造するに当たり、当然にして義政は祖父である3代将軍義満の北山殿金閣に劣らぬ建築を意図した。

こうして完成したのが上述した山荘『東山殿』である。
とくに東求堂は義政が諸芸に優れた人々を集めた文化サロンとなり、東山文化の源となる。

ちなみに造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、
義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である1483年にはここに移り住んでいた。

義政の没後、去した義政の菩提を弔うため東山殿を相国寺の末寺に改め、
義政の法号慈照院に因み慈照寺と名付けられるのである。

その後、火災に遭い、東山殿当時からの遺構は観音殿(いわゆる銀閣)、東求堂及び庭園のみであるといわれている。




【境内】


【観音殿】
国宝。いわゆる『銀閣』と通称されるところである。金閣、飛雲閣とあわせて京の三閣とも呼ばれる。
銀閣寺ではないので入試問題だと実質のひっかけ問題。素直に銀閣と書くか慈照寺と書こう。

重層、宝形造、杮葺で、平面は長方形で正面8.2メートル、奥行7.0メートル。
初層の「心空殿」は住宅風、上層の「潮音閣」は方3間の禅宗様の仏堂で観音が安置されている。
書院造につながる和風の住宅風意匠が取り込まれており、東山文化の代表的建築物である。

実は屋根は約30年ごとに葺き替えられている。

2008年2月から2010年3月まで、杮葺の屋根の葺き替えや柱や壁など傷んだ部材の交換、耐震補強、
2階の潮音閣内部に黒漆を塗るといった、大正初期以来の大規模な修復作業が行われた。

ちなみに総事業費は約1億4,000万円。

余談だが、立て主は丁度この修復期にここ銀閣寺こと慈照寺を訪問したのだが、
普段知っている質素なものとは違う、真新しい雰囲気を醸し出す白い観音殿にある種の尊敬と美しさを感じていた。


東求堂(とうぐどう)
またしても国宝。1486年建立。
義政公の持仏堂で、一層の入母屋造り檜皮葺きの、現存する最古の『書院造』。

書斎の北側に設けられた付書院と違棚は現存最古の座敷飾りの遺構であり、特に有名。
南面に拭板敷、方二間の仏間が設けられ、北面には六畳と四畳半の二室がある。

北面東側の四畳半は、同仁斎とよばれ東山文化を生み出す舞台となり、
また書院造や草庵茶室の源流、四畳半の間取りの始まりといわれているとか。


【庭園】
特別史跡・特別名勝。錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園。
江戸時代に一度改修されており、原形をとどめていないらしい。


【銀閣寺垣】
慈照寺の門から庭園を結ぶ、長さ約50メートルの参道。
4mほどもある高い垣はこれからから訪れるすばらしい光景へと誘う期待感を実に高めてくれる。
雪が降り積もると、これまた美しい光景がこの時点で広がってくれる。


【お茶の井】
足利義政の茶の湯にも用いられた湧き水で、現在でもお茶会に用いられている。



うわさの銀箔について


金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、
銀閣と通称される慈照寺観音殿には外壁に黒漆は塗られているが銀箔は使用されていない。
金閣寺の方が名前通り金色ピカピカと知った後に、銀閣寺も銀色ピカピカ……ではなく、こちらは普通の色合いであることには誰しも一度位突っ込みを入れたことがあるだろう。

これに関しては様々な説があり、

「当初は名前のとおり銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」
「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」
「外壁の漆が日光の加減で銀色に輝いて見えたから」

など

なお「当初は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった」という説もあったが、
科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになっている。
ちなみに、義政の妻・日野富子は資金援助を一切しなかったらしい。


ぶっちゃけご先祖様(祖父)が作ったものを越えたいと思うかはともかくとして


銀箔金箔を越えようなどというナンセンスな考えを、わざわざあの足利義政がする必要性はないと思われる


九歳にして家督を、十五歳にして将軍職を継いだ義政は、
生涯をかけて自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げたのである。

まさに美の求道者なのだ。まぁ、銀閣は確かに金閣がモデルではあるのだが

ん? 言い過ぎ? …………そこらへんは毎回小学生あたりにフルボッコにされる銀閣の名誉挽回のためということで……



追記・修正は金閣寺、銀閣寺がともに相国寺の塔頭寺院であることを知っている人のみお願いします。

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最終更新:2025年02月14日 15:31