征夷大将軍(室町幕府)

登録日:2012/06/16 Sat 00:07:51
更新日:2025/04/20 Sun 19:30:32
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大和朝廷の昔より続く征夷大将軍の内、足利尊氏を初代とする15代の将軍。

鎌倉幕府はこちら→征夷大将軍(鎌倉幕府)
江戸幕府はこちら→征夷大将軍(江戸幕府)


【概要】

征夷大将軍とは、本来その名の通り『東夷を討つ軍の総指揮官』であったが、
源頼朝公以来『武家の棟梁』といった意味合いを持つようになっていた。

公方大樹とも呼ばれており、この呼称は徳川幕府にも受け継がれている。

尊氏の開いた幕府は三代将軍義満の御所である「室町殿」から取られ、室町幕府と呼ばれている。
鎌倉幕府や江戸幕府とは異なり、室町は京都市内にある。後期になると室町どころか京にもいない将軍が出てくるのは内緒。

将軍と言えば徳川幕府のような強権的なものがイメージされるが、この室町幕府は南北朝の動乱の最中に産まれ、始まりからして各陣営の思惑と尊氏のアレっぷりに振り回されており、義満が統一を果たしたあとも幕府一強という訳には行かなかった。

将軍位自体、各大名達に代表者兼調停者として立てて貰っている状態であり、義満の才能に依存しきった体制からアップデートしなかったため、彼らが持ち込む揉め事を裁きながら、どこか突出して力を持った大名が現れれば挑発や後継者争いに介入し内紛を起こさせ、征伐して力を削ぐことを繰り返すという、難易度の高い舵取りを任せられており、義満以降多くの将軍が挑んでは辛酸を嘗めてきた。
(もっとも「幕府体勢」はいわゆる「封建制」であり、その元首となる将軍の役割は常に「紛争の調停者」ではある。それは鎌倉幕府も江戸幕府も同様だし、何なら同じ「封建制」を敷いていた中国・周王朝やヨーロッパ諸国の君主も皆「諸侯間の調停に紛争する王者」として東奔西走していた。それでも傀儡にも空気にもなってない癖にここまで政権運営が難しいのも珍しいが

更に十代目将軍の義材が管領の細川政元を中心とする一派にクーデターを起こされ、京を追放される明応の政変が発生し将軍家自体が分裂、その政元も自身の養子に暗殺され細川京兆家も分裂する永正の錯乱が勃発すると、各大名やその家臣達の争いのために担ぎ出されるようになる。 そのおかげか鎌倉幕府のように完全にお飾りになることはなく、細川や三好といった自身を支える大名たちと政治闘争を繰り返すことになった。

そんな不安定な立場の中将軍に任命されたものは、尊氏の血のせいかどいつもこいつも周りを巻き込み台風の目になるようなバイタリティと権勢欲に溢れており、とにかくキャラが濃いためそれに惹かれた熱狂的なファンも一定数存在する。

余談だが、全員北条時政・義時の子孫である(尊氏の祖母が北条義時の曾孫であった他、尊氏自身も北条氏の姫を妻に娶り、その間の子が将軍を継承している)。


【一覧】

・初代将軍 足利 尊氏(たかうじ)

(在任:1338年~1358年)

室町幕府初代将軍。
もともとは鎌倉幕府の有力御家人。
当時の足利氏は源頼朝の血筋が絶えたあとの源氏代表として、他の御家人とは一線を隔した声望と財力を持っていた
ちなみにもともと同格であった新田氏は、失策を繰り返した*1結果どんどん家格が低下。分家の山名氏*2の方が格上扱いという有様だった。その後も失策を繰り返し、末期には無位無官となって足利氏の庇護下に入っていたと考えられている。

鎌倉幕府打倒後、夢見がちな後醍醐天皇に反旗を翻し「武士の武士による武士のための幕府」室町幕府を開いた。
もっぱらカリスマだけで生きていると評判。

三人いる各幕府の初代将軍には「一度大敗して命からがら逃げきっている」という共通点があるが、この人の絶体絶命からの復活っぷりは他を圧倒している。


功臣の粛清や民衆の虐殺が目立たないため腹黒や冷酷なイメージは薄いが、とにかく行動が行き当たりばったりで、
真面目な研究書にすら「支離滅裂である」などと書かれるほど*3
そもそも後醍醐天皇と対立した経緯からして、

中先代の乱の討伐に向かった弟の苦戦を聞いて、天皇の勅許がまだ出ないうちに見切り発車的に出陣

帰京命令を受けて「すぐ帰ります」と即答

しかし弟から「独断を咎められるからやめた方がいい」と聞くとあっさり帰京中止

結果、当然後醍醐天皇は激怒。新田義貞を尊氏追討に派遣

尊氏、目の前の問題から逃げるかのように寺に引きこもる

仕方なく代わりに戦いに行った弟の苦戦を聞き慌てて参戦

新田軍を打ち破ってしまい、結果的に朝敵に

という、どうしてそうなったとしか言いようがないものだったりする。
おまけにここまでして守ろうとした弟とも、後年似たようなルートを通って対立する羽目になっているあたり、もうなんと言うやら。

調子がいい時と悪い時の差が激しいため、躁鬱病だったという説もある。*4
それでも成功したのは桁外れの武勇と運を有していたことと、何より部下に愛されたためであろう。
戦場で功績を上げたものを見ると、即座に恩賞を約束する文書を出したとか。他にも身の回りのものをどんどん褒美としてあげている。
ただ、そうした鷹揚さに反して精密さには欠けており、他の権利者がいる土地を他者への「褒美」にあげちゃって100年先まで続く遺恨を残したり、
大盤振る舞いしすぎて足利家に直結する土地が少なくなり、傘下の大名家との力関係が歪になって求心力や強制力が低下してしまったりと、問題となった行動は多い。
そしてそれらの結果として室町幕府の政治基盤は脆弱化。
後世の子孫達にお世辞にも優秀とは言い難い人材が多かったというのもあるが、室町幕府はほぼ全期間通じて不安定なままであった。
「やっぱり粛清も必要だな」

物に執着しないどころか、自分自身の命すら軽く考えていた節がある。
創始者には向いていない性格じゃないかな……

天皇を神としていた明治時代~昭和時代前期では、天皇に叛いた逆賊にして悪人として扱われていた*5
そうした大人の事情や前述の支離滅裂さのせいか、そのビッグネームと英雄性に反して創作で題材にされることが少ないフィクション不遇の人物。それでも以下に並ぶ自身の子孫たちに比べればマシではある……マシでは。
題材になった貴重な作品はNHK大河ドラマの「太平記」、ジャンプ漫画逃げ上手の若君」(個人項目)などが挙げられる。
アシカゲ・タクジは関係ない、イイネ?

GODAIGO「銀河鉄道999の替え歌歌いたくもなるよこんなの相手にすると…」



・二代将軍 足利 義詮(よしあきら)

(在任:1358年~1367年)

尊氏の子にして太平記被害者。
遠征等でほとんど都にいない将軍に代わり、政治や都の防衛に走り回った苦労人。
その割には影が薄く、しかも太平記のせいで無能・暗愚扱いされることもしばしば。
どの幕府も二代目は影が薄いが、その中でも一番空気だろう。

ちなみに初陣はなんと3歳の時(鎌倉攻めの際脱出ついでにそのまま新田義貞と合流して戦に参加している)。これ故に鎌倉討伐の対象が義詮となり、新田の評判が芳しくなくなったと言われたとか・・・。


・三代将軍 足利 義満(よしみつ)

(在任:1368年~1394年)

義詮の子にして初代日本国王
なお二代目はいない。*6
勘合貿易」「金閣寺」「北山文化」と、恐らく教科書で一番記述の長い将軍。
政治関係ではマジでろくな逸話が残っていない室町幕府歴代将軍の中でも、例外的に安定して有能(だけど野心家)な政治家と評価されている人物。他が悲惨過ぎるとも言う。
前述の大名らが持ち込む揉め事を裁きながら、どこか突出して力を持った大名が現れれば挑発や後継者争いに介入し内紛を起こさせ、征伐して力を削ぐことを繰り返すというイカれた幕府体制をぶん回した男。
さらに日明貿易を利用して他大名を圧倒する財力を築き上げ、寺社勢力に何も言わせず、朝廷を利用して幕府権力の増大させ、そして何よりあれほど拗れに拗れまくった南北朝を合一させた
その政治手腕(特に政争に関わる能力)は日本史でも屈指と言う他ない。
室町幕府の全盛期を作り上げたがその治世はあまりにも義満個人の才能に依存しており、(後述の義持を除き)後の将軍たちも彼の幕政を理想化し出来もしないのにその方法をマネため、彼の死後幕府は混乱と衰退に向かっていくことになる。



アニメ「一休さん」で頓知比べをしている姿が有名だが、どうみても義まs……

小坊主「南無サンダー!!
アゴ「……」



・四代将軍 足利 義持(よしもち)

(在任:1394年~1423年)

義満の子。揉み上げが長い。
義満は彼を遠ざけ弟の義嗣を可愛がったため、親子の仲は壊滅的。一応初期は仲が良かったらしいのだが。
結果、勘合貿易など義満が進めていた政策を一部残して廃止した。
ついでに兄弟仲も最悪だった。

まあそもそも政治スタイルが、自分が積極的に主導する義満に対し、調整役をメインとする義持では違う上、前述の通り義満の政策は彼のカリスマありきで引き継げるようなものではなかったのだが。
残念ながら後の将軍たちに彼の政治方針が受け継がれることはなかった。


1423年、息子義量に将軍位を譲るも早世したため、再度「将軍代行」として政務に当たる。
義持・義量ともに子が無かった上、危篤になっても後継者を指名しなかったため、諸大名達の提案を受けて、
遺言として「次の将軍は弟四人の中から籤引きで決めろ」と残す。

なお、死因は
医者が止めたにも拘わらず尻の瘡蓋をかきむしり、そこから細菌が入って敗血症を起こしたため
である。痒かったのだろうが現代でもやってはいけないことである。

後継者の件を除くと、他の将軍に比べると彼の治世の間はさほど大きな問題は起こっておらず地味だが優秀である……のかもしれない。地味だが。
問題児が多すぎるとも言う。



・五代将軍 足利 義量(よしかず)

(在任:1423年~1425年)

義持の子。
体が弱く、大酒飲みだったため早世。*7
以上。


・六代将軍 足利 義教(よしのり)

(在任:1429年~1441年)

義持の弟。前述の籤引きで決まった将軍。実は籤には細工がされていたという噂も……
通称「籤引き将軍」「悪御所」。
中央集権のため、従わない守護大名や寺社勢力は容赦なく暗殺・討伐。
義持時代に悪化した鎌倉公方*8の足利持氏との関係は、持氏の個人的な恨みもあって完全に破綻。二度の討伐によって持氏とその子供2人、及び持氏一族は殺された*9(永享の乱・結城合戦)
比叡山延暦寺とも対立しており、焼き討ちをしている*10。実は信長以前にこの人が燃やしてた。
不手際があった者たちは少しの落ち度でも厳しく罰したため、彼の治世は「万人恐怖」と恐れられた。
結果、疑心暗鬼に陥った腹心の赤松満祐に暗殺される(嘉吉の乱)。

南北朝期から残っていた反幕府勢力をほぼ全滅させて全国を支配下においたため、下手したら日本史上最も権力があった将軍かもしれない*11

そもそも室町幕府は成立前後から将軍の権力が低く不安定であった*12
そのために権力を集中させようとし、実際に成功しかけていたのだが、最後は暗殺されてしまった。
取った手段が極端かつ過激だっただけで、足利将軍家の中では政治家としてわりと有能な部類に入る。
そもそも義満以外どんぐりの背比べだとか言ってはいけない。

此処まで安定期



・七代将軍 足利 義勝(よしかつ)

(在任:1442年~1443年)

義教の子。
義教が暗殺されたため幼くして急遽将軍位に付くも、下痢が止まらず早世。


こっから世紀末



・八代将軍 足利 義政(よしまさ)

(在任:1449年~1473年)

義勝の弟。そして正室はいろんな意味で有名なあの日野富子
我等が駄目将軍。
義勝の早世により8歳という若さで家督を継ぎ、14歳で将軍位に付く。
後継問題」や「応仁の乱」等で政治的な評価は最悪だが、
東山文化」「銀閣寺」や「わび・さび」等文化面での評価は高い。

以前は「後年は政治に無関心になっていった」と言われていたが、近年の研究ではむしろ政治には熱心であったとされている。
一部では「むしろ無関心だったらあんなに拗れてなかった」とも
加えて応仁の乱を引き起こした将軍とされるが、上記の通り室町幕府は不安定な政権であったためいずれ起こっても不思議ではなかったとも言われる。

父・義教と兄・義勝らが次々に亡くなり、しかも父の政治の影響で農民の土一揆や押さえつけられていた各領主たちの反発が相次ぐという状況に陥っていたので、将軍家の威信を回復すべく率先して様々な政治を行った。

が、そのやり方に問題が多かった。

例えば世継ぎのいない畠山家の後継者問題で起こった内紛に介入した時のこと。
自分の支持した畠山義就ではなく対立派にいた山名宗全&細川勝元の推す畠山弥三郎(政久)が勝利すると、あろうことが難癖付けて細川の有力武将を処刑させようとした。
細川はブチ切れて猛抗議。するとビビりちらした義政は即撤回。で、今度は代わりに細川の盟友である山名宗全を殺そうと軍を編成。
細川さん2度目のブチ切れ。当たり前だ。結局それも撤回する手のひらグルグルドリルで、威信の回復どころか幕府の株をどんどん急落させた。

また、弟の足利義視と自分の息子・足利義尚のどちらが次期将軍になるかで山名宗全と細川勝元が対立した際、将軍という中立の立場で騒動を納めようと和平に奔走するものの、
細川「山名も畠山も公方様の言うこと聞かないってことは、もう逆賊なのでは? そうでしょう!?」
義政「そうかな……そうかも…… じゃあ殺っちゃうか!
という感じの説得を受け、急に中立の立場をぶん投げて一方の肩を持つクソ采配を実行。
このわけわからん判断のせいで応仁の乱が中部から九州まで巻き込む大規模戦争へと発展した。


このようにがんばって政治に取り組んだ結果、むしろどんどん国を悪化させる要因になってしまい後世の評価は悪い。
(先述の通り義満のマネか*13)能、花見、旅行、別荘(のちの東山慈照寺。つまり銀閣)造営など芸術関係に注力したので、その部分がクローズアップされて「後年は政治に無関心になっていった」と表現されるようになったのである。

なお、将軍職を譲ったのは名ばかりで実際は一部の権利以外は持ち続けており、なんかかんや裏から介入して義尚と険悪な状態に。
下記の義尚の項目にもある通り、この対立のストレスや外交関係の問題が原因で若くして彼を病死させ、その数ヶ月後には自らも脳卒中で急死。
やること為すこと全部裏目を出し続け、事態を引っ掻き回して室町幕府衰退の下地をガッチリ整えてしまった55年の人生であった。



細川「将軍はとんでもない物を荒らして行きました。日本の国土です」
山名「お前が言うな」



・九代将軍 足利 義尚(よしひさ)

(在任:1473年~1489年)

義政の子。
応仁の乱の原因その1。
応仁の乱では将軍位を巡り、叔父の義視と争った。……というのが定説だったが、最近ではそんな単純な話ではなかったというのが専ら。
と言うより応仁の乱の頃は義尚は若すぎて主体的にどうこうできる年齢ではないので、義視と一緒に勢力争いのダシに使われた、と言った方が的確か。

将軍就任後も父義政とは主導権を巡っての対立があり、めんどくさい儀礼だけを押し付けて実権は握ろうとする義政に反発して「出家する!」と髻を切ったことも。
そんなこんなの中、自身の権力を確立するために寺社本所の横領を止めない六角氏征伐を行おうとするが、
六角高頼の城を捨て夜襲しまくるというゲリラ戦法に悩まされ遅々として進まず、京に戻れば義政の干渉が強くなるため安易に戻れず……という二進も三進も行かない状況の中、大酒が祟り死亡。二十五歳の若さであった。
義尚死後は、再び義政が実権を握ることになる。


・十代将軍 足利 義材(よしき)

(在任:1490年~1493年)

義視の子。通称「流れ公方
上述の通り義尚亡き後は義政が政務を執っていたが、翌年延徳二年(1490年)に義政は死去。その半年後にようやく将軍に就任することになる。しかしながら、この頃は実質としては日野富子の権力が強かったようである。
とは言え日野富子にとっても甥にあたる(母が日野富子の妹)存在であり当初は富子と仲が悪かったわけでもないのだが、富子が小川御所*14を足利義澄に譲ろうとしたことに対する反発を起点として対立。
しかもその後、母の日野良子と父義視が相次いで死去。義材は京で孤立していくこととなった。
そのため、義材は幕府内での権力を確保しようと奮闘することになる……の、だが。

まずは恒例行事とも言うべき六角征伐を行うために諸大名を集める。その中には尾張の斯波・織田両家もおり、義材は彼らを動かすために「越前を実効支配している朝倉家の排除」という札を切った。
ところが、これはそもそも六角氏とは同盟関係にあり、また関東情勢の不安定さからそのための対抗勢力として斯波・織田に期待している細川政元に取っては受け入れがたいことだった。おまけに政元は朝倉氏を支援していたため、これを排除されるのも非常に困る。
しかし事態は義材の意図通りに進み、政元と朝倉氏の仲介をしていた浦上則宗*15も義材側につき、あまつさえ六角討伐につけた家臣安富元家が六角相手にボロ負けしたことで、義材と政元の関係は著しく悪化。政元は窮地に立たされてしまう。

こうして政元に愛想をつかした義材は代わりに畠山政長を重用するようになり、1493年には政長と応仁の乱を引っ張った家督争いを続ける河内の畠山基家を征伐に行くが(要するに朝倉は後回しにされた)、この際細川政元は出兵を拒否し、京に残留。
そして義材と畠山基家が対峙している間に、京で反義材派である日野富子・細川政元・伊勢貞宗が越前の朝倉孝景や畠山基家とも連携し、クーデターを起こすに至る。

義材の元にいた大名たちもほとんどが離散してしまい畠山政長を含む僅かな手勢しか残らず、頼みの紀伊勢も赤松政則に足止めされて万事休す。
畠山政長は自害。義材は降伏の後、幽閉されることとなった。この一連の流れを「明応の政変」と言う。
その後小豆島に流されることを知り、京都を脱出して畠山政長の領国であった越中に逃亡、そこで自らの正当性を主張する。
これによって「将軍が二人」存在することになり、義材の系統*16と次の代の義澄の系統*17の対立構造は結局最後まで解消されることはなかった。

学者の多くはこの「明応の政変」による室町幕府の分裂をもって「戦国時代」が始まったとしている。


・十一代将軍 足利 義澄(よしずみ)

(在任:1494年~1508年)

義政や義視の兄弟で堀越公方足利政知の子。聊か迂遠ながら細川政元の遠縁とも言える立場なので*18、政元からの支持を受けていた。
細川政元・日野富子等が対立していた義材を追放したのち、将軍として担ぎ出される。明応の政変が起こった翌年将軍になるのだがこの時僅か14歳。

一応将軍になったものの越中に逃亡した義材は健在であり、細川政元が起こした討伐軍も神保を中心とした北陸勢を相手に敗北。義材は上洛するとの宣言をし、それによって都は混乱にみまわれることになった。*19
かくして細川政元と義材の間で和睦が図られるが、細川典厩家の細川政賢の反対もあり頓挫。そうこうしているうちに畠山政長の子であり、紀伊に逃げていた畠山尚順が挙兵、1499年には義澄方であった河内の畠山基家を自害に追い込む。
この機に義材も越前に移動、朝倉貞景の協力を得て上洛を伺う動きを見せ、義澄・政元は二正面作戦を余儀なくされる。焦った義澄が相国寺に物資の供出を脅しつけ伊勢貞宗に窘められる、という一幕もあったようだ。
しかしながらこの年は飢饉であり、朝倉貞景は義材に対し出兵を拒否。義材は僅かな手勢で上洛を試みるも近江坂本で六角高頼の奇襲に遇い敗走。遥か西国まで逃れ、大内氏の元で雌伏の時を過ごすことになる。

一方でひとまず足利義材についての問題が片付くと、今度は義澄と政元・貞宗の間に確執が持ち上がるようになり、政元、義澄共に相手に不満を抱いて隠居→もう一方が説得に赴く、ということがしばしば繰り返されるようになる。
こうしたことが続くうち、政元とその家臣であったはずの守護代との関係が悪化、薬師寺元一・赤沢朝経らの反乱を招く(しかも薬師寺元一は義材派と手を組んでいた)など、今度は細川家内部のごたごたが噴出するようになる。
最終的に政元が暗殺され細川家が内紛を起こす永正の錯乱が発生すると、大内氏が擁する足利義植に京を追われ、六角高頼を頼り朽木谷に潜伏。そこで義稙と激しい攻防を繰り広げるも、京には帰れず失意の内に没した。

実は関東での戦国時代幕開けのきっかけとなった北条早雲による伊豆討ち入りの黒幕。


魔法半将軍「僕と契約して足利将軍になってよ」



・十代将軍 足利 義稙(よしたね)

(在任:1508年~1521年)

義視の子。
別名「十代将軍 足利義材
要は同一人物の再登板である。

先のクーデターで京を追われたものの、大大名の大内氏と自称細川政元の養子細川高国等に推戴されて、
京を占拠し将軍に復帰し名前を義材から義稙へと改める。
ちなみに征夷大将軍史上、唯一返り咲きを果たした人物でもある。

しかし、大内氏が自領に戻ってからは細川高国との対立が激化していき、最終的に京都から出奔。高国討伐軍を起こそうとしたとされるが、ほとんど集まらずに失敗。
おまけに天皇の即位式直前にこれをやらかしたため、廃されることに。



・十二代将軍 足利 義晴(よしはる)

(在任:1521年~1546年)

義澄の子。
廃された義稙に代わり就任。
三好氏と争い、敗れて都から落ち延び、和解して都へ戻り、三好氏と争い……
を繰り返した。
彼の人生を一言で言い表すならば「山と谷しかない人生」である。
親の縁か彼とその子の義輝は頻繁に近江へと逃れており、朽木谷が将軍の別荘と呼ばれることも……


・十三代将軍 足利 義輝(よしてる)

(在任:1546年~1565年)

義晴の子。
通称「剣豪将軍」

三好長慶松永久秀等の傀儡ではあったが、幕府の権威回復に努めた。
しかし将軍親政にこだわりすぎたり、戦機を得る前に動いたりしたせいで返り討ちにあって殺されることに(永禄の変)。
詳しくは項目参照。


ギリワン「12人の足軽が全滅!? さ……3分もたたずにか……」



・十四代将軍 足利 義栄(よしひで)

(在任:1568年2月~9月)

足利義維(後述)の子。

義輝を討った松永久秀・三好三人衆に担ぎ上げられる。

も、担ぎ手が喧嘩を開始。
醜い争いを繰り広げていたところに、足利義昭を擁する織田信長がやってきて一蹴。
義栄も廃される。
前後して死去しており*20、解任されたのか死んで空席になったのかも不明。
歴代の足利将軍の中で義量、義勝に並び影が薄い人。
わりと冗談抜きに義昭の肩書を「十五代将軍」にした以上の影響を歴史に残していないため、創作上の扱いはとにかく悲惨の一言。
久秀や三好三人衆に担ぎ上げられる神輿として名前に触れてもらえればかなり扱いがいい方で、酷い時には存在ごとスルーされる。
わかりやすい事例が大河ドラマ。戦国時代は大河の定番だが、義栄が登場した作品は2022年現在で「麒麟がくる」*21だけである。義昭は12作品に出ているのに……
義輝の次が義昭だと勘違いしてた人も多いんじゃなかろうか。



・十五代将軍 足利 義昭(よしあき)

(在任:1568年~1588年)

義輝の弟。
室町幕府最後の将軍。
織田信長に推戴され将軍に付くも、裏でコソコソやってたため信長に放り出される。
詳しくは足利義昭参照。

本能寺の変の黒幕説があったりする。かなり信憑性薄いけどねw。



金柑「何も追放することはありませんでしたな」

ノブ「ふ……冗談はよせ」

金柑「殿も存外甘いようで」


義昭の子供の義尋の男子は全員出家したため、足利将軍家の直系はそこで断絶した。



【番外】

足利 直義(ただよし)

初代将軍尊氏の弟。

戦がべらぼうに強かった兄とは異なり戦はあまり強い方ではなかったが、代わりに政務の才能に恵まれ足利政権の最初期は彼が支えていたと言っても過言ではない。
しかし、権勢を強めていた執事の高師直との対立などを原因とし前述の通り兄と敵対、お互いに争う関係になってしまう。

なお、師直を討つために北朝を離脱して南朝に降るというとんでもないことをしており、ここに南北朝の混沌が極まることになる。
また、このあと尊氏も直義を討つために北朝を離脱して南朝に降っているもうやだこの兄弟
直義はあくまで師直討伐のために南朝に降ったのであり、兄の尊氏を朝敵認定しなかったことが敗因となっている。
まあ、まさか兄が自分の真似して政権の後ろ盾捨てるとは思わないし……

が、これまた前述の通り敵対するまでは兄との仲は良好であり、清水寺には尊氏の
「今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候」:訳「私の現世の幸せは直義にあげるので、直義が安穏に生きられるようにしてください」
という願文が残されている。
なお彼の死は一般的には病死とされているが、当時から尊氏による毒殺ではないかという噂が流れている*22



足利 義視(よしみ)

八代将軍義政の弟にして十代将軍義植(義材)の父。
有名な肖像画がスケボーを持ってるようだと専らの評判。

兄との権力争いを避けて一度出家するも、その兄が大御所政治を望んだためカムバック。しかし折り悪く義尚が生まれ、時期将軍の座を巡り、応仁の乱が勃発した……
と、巷間よく語られるが、実際のところは生まれたばかりの義尚に将軍職など出来る筈もなく、関係者間では義政→義視→義尚の順で継承し、義視は中継ぎとして将軍を務めることの合意がなされていた。
しかし、畠山氏の内紛などを原因として応仁の乱が起こると旗印として担がれ、兄や兄嫁の日野富子、甥の義尚と敵対することになってしまう。
どっちにしろ義材が原因でいずれ揉めてたっぽいのは内緒。

実のところ兄・義政とはそんなに仲の悪い兄弟ではなく、義政の葬儀の際に義視が「仲は悪くなかったのに周りの人があれこれ言うために引き裂かれてしまった」と僧侶に話している。
他にも義視がまだ僧侶だったころ彼が建仁寺と南禅寺の住持の位を望んだ時、まだ必要な修行を修めていないため断られた。しかし、義政が無理を押し通し住職を説得し、義視は無事住持になることが出来たという話も残されている。
あれ、仲のいい兄弟だったのに周囲のせいで戦になるってどっかで……



日野(ひの) 富子(とみこ)

八代将軍義政の妻にして九代将軍義尚の母。『応仁記』最大の被害者。

前述の通り実際は継承順が決まっていた将軍継承問題で義尚を推して応仁の乱の原因となったと扱われ、長い間「悪女」言われ続けた可哀想な人。

もっとも幕府財政の再建のため関所を乱立させており、当時から評判はあまり良くなかったそうな。

しかしながら、義材が富子の住宅である小川御所を破却するなどの失政もあり、義視・義材父子とは最終的には対立。
明応の政変細川政元などと協調し、義材を将軍職から引きずり降ろすことになった。



・堺公方 足利 義維(よしつな)

十一代将軍義澄の(自称)実子にして、第十代将軍義植の(自称)養子*23この時点で「どういうことだ?」とか言わない。
十四代将軍義栄は息子。

元は義澄が病没した際に阿波の細川澄元の庇護下に置かれ、そこで成長。

義晴と彼を支える管領細川高国政権が内紛を起こした際に、その混乱に乗じて澄元の嫡子細川晴元とともに阿波から進撃。
堺に上陸し、存在感を示してからは朝廷から左馬頭*24を任官され、堺公方(堺大樹)と呼ばれる。
そして大物崩れにて高国を撃破し、残りは義晴のみ……というタイミングでまさかの晴元が寝返り、義晴と和睦。
当然後ろ盾を失った義維は堺から京への進軍など出来る筈もなく、阿波へと落ちていくことになった。

その後義栄の将軍就任により復権の目が見えたものの、三好三人衆松永久秀の内紛により政権が安定しないまま義栄も死去……晩年は三好氏の庇護の下63歳でなくなったという。



追記・修正は生まれた時から在京し続け、大名の征伐を問題なく行えた方がお願いします。

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最終更新:2025年04月20日 19:30

*1 源頼朝の挙兵に要請を蹴って参加しなかったり、承久の乱で惣領が参加せず代理を出したり

*2 足利政権内では「四職家」とよばれるトップ層になった

*3 洋泉社「南朝研究の最前線」

*4 これには反論もあり、後醍醐天皇への恩義と直義への兄弟愛の間で揺れ動いていたためという説もある。それでなくとも、朝廷に弓を向ける行為は承久の乱という結果があったとはいえ鎌倉幕府もぎりぎりまで揺れ動いていたことを考えれば不安定になるのも無理からぬことである。

*5 逆に楠木正成や新田義貞は善人として扱われた

*6 もっとも「日本国王」を名乗った武士は彼だけではなく、日本国王号を使用して国内に発給した文書は発見されていないため、貿易のためだけに名乗ったとする説が主流

*7 現代の感覚でツッコむのはよろしくないが満年齢換算で14、15歳の時に酒の飲み過ぎを父に咎められて19歳の時に病気と酒のダブルパンチで死亡。

*8 室町幕府が関東を統治するために鎌倉においた鎌倉府の長官

*9 持氏の子供の1人は生き延びた

*10 幕府側が火を付けたのは門前町である坂本だけである。その後義教が山門使節を騙し討ちにして殺した際に、山徒が抗議のために総本堂に火を掛け焼身自殺を行った。この炎が京都からも見えた

*11 江戸幕府は幕府と藩の二重支配+幕府自体が合議制のため、政権内の将軍のウエイトはそこまで大きくなかった。というか将軍がボンクラでも問題ないように組まれたシステムとでも言うべきか

*12 南北朝の騒乱で優位に立つため、戦力を持つ有力者を味方にするために土地をどんどん分け与えてしまっていたため。直轄領が少なく経済的に不安定なために権力も低かった。最終的には「莫大な富を生み出す勘合貿易をやりたいが、貿易船を出すことすら出来ない」「あまりに困窮したため勘合貿易の権利を有力で金のある大名に売却する」事態にまでなる

*13 将軍引退を志向したのも義満が大御所政治を敷いたのを参考にしたという見方も出来る

*14 義尚が政務を執っていた御所であり、元々は細川家の持ち物。ちなみに室町殿はこの頃までに焼失している。

*15 ちなみに浦上氏の主君に当たる赤松政則は浦上に反発する別所・小寺の斡旋により細川家と政略結婚を行い、政元側につくことになる。播磨情勢は複雑怪奇。

*16 将軍にはなれなかった養子の義維、さらにその子の義栄

*17 子の義晴、さらにその子の義輝と義昭

*18 政元の養子である澄之の従兄弟。「養子の従兄弟ってそれ他人では?」とか言ってはいけない

*19 なお実際には上洛に対しては義材側近も北陸勢も一枚岩ではなく、結局この時期に上洛はできなかった。

*20 死去日が諸説あり不明

*21 演者はリュウソウレッドだが一言もセリフを発さずにナレ死して退場したというお辛い扱いである

*22 直義の死亡日時が、直義が暗殺させた高師直の一周忌に当たるなど、恣意的なものを感じざるを得ないものになっている。

*23 当時からぽっと出のよくわからない奴扱いであり、誰も出自を知らないという公家の日記が残されていたり、資料によって義晴の兄か弟か定まってないほど

*24 左馬頭とは足利将軍家の後継者が任じられる官職で、これに任じられることはほぼ将軍位が内定したと言っても過言ではない