おじろく・おばさ

登録日:2014/05/05 Mon 23:59:38
更新日:2025/09/20 Sat 01:53:58NEW!
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おじろく・おばさとは、かつて日本の長野県のとある村に実在した凄惨な風習の一つである。
似たような風習は、他の村でもあったのかもしれないが。

どのような風習かと言えば、家の跡取りとなる長男以外の人間は、
小さな頃は普通に育てられるが、長男の言うことに全て従うのを当然と覚えこまされる。
そして、やがて大きくなるにつれ長男と差別的に取り扱われるようになり、


結婚相手探しも不可。おそらく大半が一生童貞&処女。
万一結婚したい相手が見つかっても迎えたりできず、結婚するには他の家に引き取ってもらうしかない
死ぬまで無償で家の使用人として働かされる
長男や長男の嫁・長男の子供に限らず、甥っ子や姪っ子からも下っ端扱い
戸籍への記載は「厄介」…つまりは家族ではない



人権などまったく認めていない扱いだが、彼らは反抗することもない。
現代にあれば一大社会問題となっていたことだろうが、幸いにも現代には存在しない。
16~17世紀にはじまったが、明治維新以降は先細りとなったようで、昭和40年代にも数名のおじろく・おばさがいたという。
おそらく、今は生き残っていないだろう。


もちろん、こんな制度が導入されたのには理由がある。

耕地の面積が少ない山林では、子どもに財産である田畑を次々分けて相続させる余裕などなく、人口の増え過ぎは村全体が危ない。
農地からとれる穀物の量にも、家を建てられる面積にも、自ずから限界というものがある。
「街に出れば」と言っても、その都市部でも人口は増える。そこに流民としてなだれ込んだところで、人口圧迫に拍車をかけるのが関の山だった。

また、鉄道や自動車があるわけではないため他の村とも隔絶しがちで、人をやりとりして切り抜けることが難しい。
確実な避妊法があるわけでもなく、子供が生まれれば面倒を見ないわけにはいかない。また当時は衛生観念がなく乳幼児の死亡率が非常に高く、ある程度子どもの人数を確保しないと家系断絶のリスクが高くなる。
そのため、他の兄弟たちは男はおじろく、女はおばさとして、子供を増やさせることなく、跡取りである長男のために働かされるのである。


要するに「口減らし」の一種である。
人口爆発によって社会が破綻するのを避けるためには、増えすぎる人間を殺すか、繁殖を制限するしかない。
前者を選ぶのが「口減らし」であり、後者を選んだのが「おじろく・おばさ」であった。

ヨーロッパでも同じことはよく起きていて、あちらでは「捨て子」という形で行われたという。
「ヘンゼルとグレーテル」の童話はその寓話という。


ただ、そうした恐慌的なやり方でもって、やっと社会を維持できたというのも事実。
日本が江戸時代だった同時期、中国は清代である。
清では医療技術の進歩と社会情勢の安定により、1720年代から1830年代にかけて人口が一億から四億へと、優に四倍も増加。
しかしそれによって、地方では耕地と食料が足りなくなって農村社会が破綻し、都市部では増える人口に加えて農村から逃げてきた流民もなだれ込んで衛生環境・食糧自給・就職関係など都市社会の全てが崩壊した。
特に、都市部であふれた流民たちは行き場もないので青幇・紅幇などのマフィア組織に加わる者も多く、社会情勢を不安定化させて清末に到る。

江戸時代の日本は、「間引き」「口減らし」と言った、余った幼児をすぐに殺してしまうことにより、なんとか社会の維持と資本の蓄積に成功した。
明治以降の日本が急速な近代化に対応することができたのは、この社会維持と資本蓄積があったためだとさえ言われている。
(「座敷童」も口減らしで死んだ赤子・幼児の霊だという)
逆に、中国の近代化が遅れたのは、清代の人口爆発の悪影響を払拭できなかったからだという。

強権的手段に打って出てでも人口維持に踏み切らなければ、社会全体が崩壊してしまう、そういう危機感と危険があればこそ、我が子を殺し兄弟を廃人にするという手法もとられたのである。
当時の社会情勢が為させた、家父長制の傲慢さや社会の冷酷さといった点だけでは語れないところであり、当時のことを現代の人権感覚からその善悪を論じることは差し控えるべきだろう。

実際、上では「おじろく・おばさは明治以降廃れた」とあるが、明治以降には同じく口減らし政策は廃れ、それにあわせて人口は急速に増えていった。
(日本の人口は、平安時代から室町時代までは概ね1000万ぐらいだったが、江戸時代に入ると急に増加して3000万になった。口減らしの普及によって江戸時代中期からは3000万で安定したが、明治以降は急速に増え始め、昭和十年代には7000万、昭和三十年代には一億に達する)
おじろく・おばさの風習が、口減らしの一環だったというのはこのあたりからでも分かる。


さてそんな制度だが、1960年、信濃毎日新聞の報道をきっかけとして、おじろく・おばさの調査が行われた。この調査記録は長野県の郷土誌にまとめられている。
ネット上では『世間との交流は許されない』『後天的に人格を破壊された』などと書かれることもある彼らは実際どのような人間だったのか。

  • おじろくA、B
兄弟であり、ともに長兄の家に同居している。2人とも徴兵検査のために出かけた以外は村から出たことがない。村の集まりにも顔を出さない。父や長兄から嫁をもらうよう勧められたことはない。養子の話はあったが本人たちが断ったとのこと。
おじろくAは人嫌いで家でもめったに話さない。取材も拒否して家の奥に隠れてしまった。長兄によると体が弱く、気ままに暮らしていたとのこと。
おじろくBはいくらか話をしてくれ、胃腸が弱く結婚という気持ちになれず今日まで同居してしまったと語った。
これまでに楽しいことがあったか聞かれると「何もなかったナア」と答えている。
なお、おじろくBは若いころに大工に弟子入りし修業した経験がある。そのため自宅のタンスを作ったり、村人の頼みで家具を作っていた。村では腕のいい指物大工として認識されている。

  • おじろくC
14歳で父と死別。兄も病弱だったため、おじろくとして幼い弟妹や兄の子を育てるために必死に働いてきた。家は貧乏であり大変な苦労を重ねてきたという。
特筆すべきこととして彼は村の伝統芸能である獅子舞の名手であり、師匠だった。また村の有力者とは幼馴染であり「アニイ」と呼ばれ慕われている。この幼馴染のおごりで遊郭で遊んだ経験もあり、その時は朝まで騒いでいたという。
彼も親や兄から嫁をもらうよう勧められた経験はない。本人は妻を娶らなかったことに関して「子ども(甥)が不憫でな」と語っている。
現在はその甥も亡くなり、甥の妻子と同居している。甥の妻子からは「オジイチャ、おいしいから買ってきた」とお刺身を買ってきてくれるなど大事にされている様子。

  • おばさA
詳細は不明だが若いころに出産経験がある。父親もわかっているが、籍は入れず兄の家に残った。子どもはどうなったのか不明。*1

  • おじろくD
前出のおじろくA~C、おばさAとは別の村に住む。調査の時点で故人。この村では最後のおじろくだった。
衣食住を兄夫婦の世話になりながら農作業に励んだ。無償労働の他にも内職や日雇いの仕事で賃金を稼いでおり、戦後は小屋を建てて一人暮らしをしていた。
彼は国の無形文化財である念仏踊りの重要なメンバーであり、亡くなる前年まで村の中央公民館で開催された公演に出演していた。
*2


当時としては、これらは社会全体として生き残っていくためにやむを得ない面があった。
だが、現代では当然これは違法である。
未成年者相手にこんなことが行われていたら、完全な児童虐待。即刻児童相談所に通報すべきだし、大人が相手でも、このようなつまはじきは行政に相談した方がよい。



現代にこのようなあり方が制度として存在しないことを喜びたい。

元おじろく、またはおばさの方、追記修正お願いします。






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最終更新:2025年09月20日 01:53

*1 おばさの産んだ子は間引いたと語る古老がいる。一方おじろくCは、おばさの子は私生児として兄の戸籍に入れたと話している。

*2 なお彼には、若い頃兄の手伝いで近くの村に行った際、現地の未亡人と深い仲になり貯金を散財したという真意不明の噂も残されている。