アットウィキロゴ

おじろく・おばさ

登録日:2014/05/05 Mon 23:59:38
更新日:2026/09/17 Thu 09:20:41
所要時間:約 4 分で読めます




おじろく・おばさとは、長野県南部の下伊那郡の村にかつて実在した凄惨な風習の一つである。
似たような風習は東北地方や中国地方の交通の便が悪く、穀作地に限りがある全国の寒村に存在したことが分かっているが、長野県のおじろく・おばさは戦後にも生き残りがいたことから基本的に長野県における風習を指す。

どのような風習かと言えば、家の跡取りとなる長男以外の人間は、
小さな頃は普通に育てられるが、長男の言うことに全て従うのを当然と覚えこまされる。
そして大きくなるにつれ長男と差別的に取り扱われるようになる。


世間との交流は許されず、お祭りも参加できない。結婚相手探しも不可。おそらく大半が一生童貞&処女。
万一結婚したい相手が見つかっても迎えたりできず、結婚するには他の家に引き取ってもらうしかない
死ぬまで無償で家の使用人として働かされる
長男や長男の嫁・長男の子供に限らず、甥っ子や姪っ子からも下っ端扱い
戸籍への記載は「厄介」…つまりは家族ではない*1

人権などまったく認めていない扱いだが、彼らは反抗することもない。
現代にあれば一大社会問題となっていたことだろうが、幸いにも現代には存在しない。
16~17世紀にはじまったが、明治維新以降は先細りとなったようで、昭和40年代にも数名のおじろく・おばさがいたという。
そんな制度も驚きだがそういった彼らがどういう人間だっただろうか、という点がこのおじろく・おばさの恐ろしさである。

1964年に、生き残っていた3人のおじろく・おばさが精神科医に取材されたことがあった。

まず、彼らには将来の夢も希望もない。
感情がなく表情もない。自分から話しかけるどころか、こちらから話しかけても全くの無視。
それでいて言いつけにはよく従って働く。
取材をしても全く無視されてしまうので、薬物で催眠をかけて面接したら、やっとぽつぽつと回答が出たという。

おじろく・おばさは決して精神的障害を先天的に持っていてなったわけではない。
元々無気力だった者だけがなったわけでもない。

彼らは子供時代は長男の言うことを聞けと言われる以外は普通に遊んでいたという。長男に万一のことがあれば、スペアとして彼らが後を継がなければならないからだ。
20代になってからロボットのような人格になってしまったという。
ずーっと奴隷同然にこき使われれば、人間はこんな風な人格にでもならなければ、生きていけないということの象徴なのである。


さて、ここまではネット上で広く語られているおじろく・おばさの概要だが、これは誇張されている可能性に留意する必要がある。



【現地調査と新聞報道】

1960年(昭和35年)9月2日、長野県下伊那郡の村に対し、地元の校長先生と郷土史家を中心とした調査団による現地調査が実施された。この調査結果は直後の1960年9月4日・5日の『信濃毎日新聞』朝刊で報道されている。
さらに、調査団の一員であった高校教師・郷土史家の水野都沚生(みずの としお)氏は追加調査を行い、その記録を以下にまとめた。
  • 郷土誌『伊那』(1960年10月号)「県南に探る民俗二 残酷物語おじサ」
  • 郷土誌『伊那』(1968年1月号)(同2月号)「封建制度の遺物 おじろく・おばサ」
  • 『國學院雑誌』(1962年1月)「置き忘られた制度の遺物『おじろく・おばサ』の調査と研究」

これらの記録においても、長男以外の結婚が難しく、次男以下が無償で家のために働く労働力とされていたという前提自体は変わらない。
しかし、従来流布されてきた『一切の人間性を奪われた存在』『世間との交流は許されない』『奴隷』という従来のイメージとは大きく異なる事実が多数記録されている。

具体的には嫁入り・婿入り・養子で家を離れた*2者も多くいた。また手を取り合い村を出たり、土地を開墾して独立するおじろく・おばさ達が記録されている。さらには夏祭りで朝まで踊り明かしたり、頻繁に夜這いが行われていたりと、村落内での人間関係や男女間の交流、情愛の機会が失われていなかったことがうかがえる。

1960年9月4日の『信濃毎日新聞』で古島敏雄氏(東京大学教授・農業経済史)は、おじろく・おばさについて次のようにまとめている。
「おじろく・おばさは家の仕事を無制限にするわけではなく、一定のノルマ以外の自分の時間で山肌や未整地を開墾していた。そして事実上の結婚をして家族を広げていたようだ。」

また、この調査では1960年当時のおじろく・おばさに対して薬物を使用しない聞き取りが実施されており、彼らの人となりを後世に伝えている。

【記録に残る個人としての姿】

①おじろくA、B
現在流布している「無口で村から出ず、一生を過ごす」というステレオタイプな像に最も近いのが、長兄と同居しているこの兄弟である。
2人とも徴兵検査のために出かけた以外は村から出たことがない*3。村の集まりにも顔を出さない。父や長兄から嫁をもらうよう勧められたことはなかったという。ただ親は彼らのために養子縁組の話を探してきたが、本人たちが断ったとのこと。
おじろくAは人嫌いで家でもめったに話さない。取材も拒否して家の奥に隠れてしまった。長兄によると生来の虚弱体質で、気まま暮らしていたとのこと。
おじろくBはいくらか話をしてくれ、胃腸が弱く結婚という気持ちになれず今日まで同居してしまったと語った。
また、これまでに楽しいことがあったか聞かれると「何もなかったナア」と答えている。
なお、おじろくBは若いころに大工に弟子入りし修業した経験がある。そのため自宅のタンスを作ったり、村人の頼みで家具を作っていた。村では腕のいい指物大工として認識されている。

②おじろくC
朗らかで気さくな好々爺。調査団に対しても自身の口で「ウラー(オラ)ひょうきんだで」と言い明るく過去を語った。
14歳で父と死別。長兄も病弱で働くことができず、子どもを残して亡くなった。そのため彼は「おじろく」という立場でありながら、一家の柱として幼い弟妹、兄の子、姉の子ら10人以上を育てるために必死に働き続けた。家は貧乏であり、農作業だけではなく蚕の繭を40㎏背負って街まで売りに行くなど大変な苦労を重ねてきたという。
彼も親や兄から嫁をもらうよう勧められた経験はない。本人は妻を娶らなかったことに関して「子ども(甥)が不憫でな」「子どもがかわいいでな」「オラ、おじサだもの(おじろくだから自分から結婚したいと言わなかった)」と語っている。

  • 伝統芸能の担い手
特筆すべきこととして、おじろくCは村の伝統芸能である獅子舞の名手であり、師匠だった。
この地でいう「獅子舞」は、もとは神事として奉納される神楽だったが、時代が下るにつれて歌舞伎や浄瑠璃の影響を受けたエンタメ性の高い芸能へと変化していった。
この時代の村には歌舞伎の人気演目である「八百屋お七」などが保存され、祭りの際には村人たちによって演じられていた。
おじろくCは、こうした芝居の役者を務めており、さらにその師匠でもあったようだ。*4
  • エピソード
村の有力者とは幼馴染であり『アニイ』と呼ばれ慕われている。この幼馴染のおごりで遊郭で遊んだ経験もあり、その時は朝まで騒いでいたという。
また昔の記憶として「祖母が生きていた頃たまに黒砂糖をくれた。その美味しさは今も忘れられない」「正月と盆には白米とイワシが食べられた。イワシは骨の塩気までしゃぶった」という思い出も語った。
  • 晩年
調査の時点では彼が育て上げた甥も亡くなっていた。その甥の妻子と同居しており、甥の妻子から「おいしいから買ってきた」と刺身を買ってもらうなど手厚く世話をされていた*5
本人も「オジイマと呼ばれて大事にしてくれるんで、毎日気儘に暮らしている」「成長した子ども達が孝行してくれるので、ウラーいま楽なもんだ」とおだやかな現状を語った。
家族のために生涯を働き通したおじろくCは調査の数年後、80歳でその生涯を閉じた。

③おばさA
詳細は不明だが若いころに出産経験がある。子どもの父親もわかっているが、籍は入れず兄の家に残った。子どもはどうなったのか不明。*6

④おじろくD
前出のおじろくA~C、おばさAとは別の村に住む。調査の時点で故人。その村では最後のおじろくだった。
衣食住を兄夫婦の世話になりながら農作業に励んだ。無償労働の他にも内職や日雇いの仕事で賃金を稼いでおり、戦後は小屋を建てて一人暮らしをしていた。
ある日、濡らしてしまった紙幣を乾かしていたところ、それを見た子どもから「これ何?」と尋ねられ、「メンコだよ」と冗談を返したというユーモア溢れる逸話も伝わっている。

彼は国の無形文化財である『和合念仏踊り』のメンバーであり、提灯を掲げ列の先頭に立つ重要な役割を長年勤めた。
亡くなる前年には村の中央公民館で開催された民俗公演に出演した。
*7


【制度が生まれた背景と歴史的必然性】


このような制度が生まれた背景については、現代の価値観だけで「非道な奴隷制度」と断じるのではなく、当時の社会構造や経済状態から客観的に捉える必要がある。

1960年9月4日の『信濃毎日新聞』では、当時の有識者たちがこの制度の発生理由を経済的・歴史的な必然性から解説している。
宮本常一氏(民俗学者)によると、おじろく・おばさに類似した制度は長野県特有のものではなく、東北の山間部や瀬戸内海の島々にも存在していた。これらの地域は生産性が極めて低く他産業への出稼ぎ機会がないという共通点があった。

これは調査が行われた長野県下伊那郡も同様だった。この地は山間部で水田を作ることができず、耕作地が極端に少なかった。そのため子どもに財産である田畑を次々分けて相続させる余裕がない。
また、この地には「被官制度」というものが存在した。これは御館と呼ばれた領主に労役を提供する代わりに焼畑農業や森林資源を自由に活用する権利を保障される仕組みである。耕作地の少ない山間部では焼畑による雑穀栽培が生命線だったのだ。土地の分割相続ができない事情に加え、この「労役の提供義務」を果たすための恒常的な人手が必要だったことが、制度成り立ちの大きな要因であった。

これらは家父長制の単なる悪意ではなく、過酷な自然環境と貧困の中で共同体が生き残るための極限の生存戦略であった。
時代が進むとともにこの制度も役目を終えていく。『信濃毎日新聞』の報道によれば、長野県下伊那郡でもこの慣習は明治の末期にはほとんど見られなくなったと明記されている。さらに昭和に入ると鉄道が開通するなど交通状況が改善し、「陸の孤島」と呼ばれた地域にも他産業への出稼ぎといった新たな選択肢が生まれた。これにより、おじろく・おばさ制度は解体へと向かったのである。

現代にこのようなあり方が制度として存在しないことを喜びたい。
元おじろく、またはおばさの方、追記修正お願いします。





この項目が面白かったなら……\ポチッと/


最終更新:2026年09月17日 09:20

*1 ただし戸籍に「厄介」と記載されていた証拠はない。後述の調査では戸籍も確認しているが、江戸時代の戸籍には『伯父、伯母』と記載され、明治時代の戸籍には本名が記載されている。

*2 特に嫁の貰い手は多かったようで、おばさの数は少なかったと明記されている

*3 ただし、おじろくBは近隣の村に住む大工に弟子入りした経験があるので、その際も村外に出ている可能性はある。

*4 伊那(1968年2月号「伊那の獅子舞」参照

*5 ただし長年粗食を続けた彼は刺身を美味しいと感じず、生味噌の方がうまいと感じたと語った

*6 おばさの産んだ子は間引くか、長兄や嫁に行った姉妹の籍に入れると語る古老がいる。おじろくCは、おばさの子は私生児として親の戸籍に入れたと話している。

*7 なお彼には、若い頃兄の手伝いで近くの村に行った際、現地の未亡人と深い仲になり貯金を散財したという真意不明の噂も残されている。