煬帝(隋)

登録日:2015/11/07(土) 19:57:47
更新日:2025/01/13 Mon 00:59:23
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煬帝(ようだい)とは、魏晋南北朝の分裂をついに統一せしめた隋帝国の二代目皇帝。名を楊広という。
中国史に於いて、紂王などに並ぶ暴君と呼ばれる男である。

生涯

西暦569年、当時北周軍の重鎮となっていた父・楊堅と正室・独孤伽羅の次男として生を受けた。
581年、父が野心をむき出しにし北周から簒奪し隋を建国すると晋王として北方に配置され、南朝最後の王朝である征伐の際は総大将として南進。
陳が育んだ綺羅びやかな文物に触れたのは恐らくこの頃であろう。江南を最期の地に選んだくらいなので気に入ったことは間違いない。
仏教に帰依しており、天台智顗から法名「總持」と菩薩戒を授かっている。

隋が統一王朝となり、父楊堅が皇帝*1として即位すると、まずは兄の楊勇を皇太子から引き摺り下ろす運動を展開。
楊勇は母の独孤皇后が側室許さんウーマンだったにもかかわらず、彼は山のように側室を囲い奢侈に走り、父と母の不興を買っていた。
そこにつけ込み、母に好かれるような質素倹約・正妻尊重による両親へのアピールと腹心による兄の讒言祭りを実行。
見事に廃嫡に追い込み、皇太子位を手に入れることに成功する。
604年、父が崩御すると皇帝に即位。文帝の死には自身の愛妾を寝取ろうとした楊広を廃嫡しようとしたら逆に暗殺されたとの説もある。

即位後は文帝の遺詔と偽り兄を殺害、反乱を起こした弟も誅殺し政権が安定すると
早速質素倹約生活をかなぐり捨てて奢侈に走ったという。さらに大興城(長安)の整備や南北を貫く大運河の建設を推進。
外交では三度の高句麗遠征の他琉球・西域など多方面に出兵、周辺国に朝貢を受け、日本からも小野妹子が国書を持って向かうなど積極的拡張主義は諸国を震撼せしめた。
それらに掛かる莫大な費用はもちろん国民からむしり取る他なく、民は重税・苦役に苦しんだ。
第二次高句麗遠征中には楊広の即位にあたって大功のあった楊素の息子・楊玄感が反乱を起こし、
それをきっかけに農民反乱が雨後のたけのこのように頻発するなど、10年もしない内に自身の政権基盤どころか隋帝国自体がガタガタになり始めた。

楊玄感の乱後、北方の騎馬民族突厥が南下。親征して迎え撃つが敗れてしまう。
この敗戦により、各地で軍閥が蜂起する事態となる。その中には後の唐高祖・李淵の姿もあった。
当初、楊広は鎮圧に躍起になるもその鎮圧法は叛徒鏖殺一択であり、懐柔や調略を使わないある種幼稚な方策しか取らなかったため、反乱は激化。
ついには大興城から江南に行幸するという形で逃亡。本拠である華北を投げ出したも同然であり、大興城に入った李淵により孫の楊侑が名目上の三代目皇帝として立てられ、楊広は皇帝の座を実質失う。
そして、楊侑*2からの禅譲という形で李淵が皇帝に即位し、全盛期には漢以来の世界に冠たる帝国にまで成長する王朝・唐が建国されたのだった…

楊広自身は一応皇帝として江南に従った重臣と隋を存続させよう…とはせず、酒色に溺れて猜疑心にとらわれて重臣を処刑する、など亡国の皇帝がやらかすミスの殆どをやらかしついに重臣にすら背かれ、観念し縊り殺された。50歳の時であった。

死後、唐により「煬帝」の諡号を送られた。煬の字は「天に逆らい、民を虐げる」意味を持ち、最悪の評価を受けた。
陳の最後の皇帝を煬帝と言って貶めて遊んでいた楊広がまさか正式に煬帝扱いされるとは思わなかったであろう。
なお、「わざわざ帝の字を『ダイ』と読ませるのも悪諡の一種である」とする人がいるが、これは誤り。
本場中国では普通に煬帝(Yangdi)とdi読みしているので、これは古来の読み癖が存続した等の日本の特殊事情である。
そもそも帝は音読みだとタイとも読むので、この発音だと侮蔑のニュアンスとする根拠に乏しい。

能力・評価

生涯からわかるように最悪の一語である。詩作には一定の評価があり、文化史には名誉を残している。
日本との関係で言うと、遣隋使小野妹子が持って行った聖徳太子作の国書にブチ切れた話が伝わっているが、アレは「てめぇ蛮族のくせに天子名乗ってんじゃねぇぞ」っていう意味合い。
中国の皇帝にあんな国書送ったら半分はブチ切れたのは必至である。それを使者の前でやるかはともかく。

とにかく良きにつけ悪しきにつけエネルギッシュであるが、それ故か強引なところが多く、我慢が効かず軽薄になりがちなところがあり、それ故に人心が離れていったところはある。

フィクションでの煬帝

タコタコ星人。




日出づる国のアニヲタ、編集を日没する国のWikiに処する。恙無きや。




















…さて、ここまでは史書の記載を元に煬帝を貶める方向性で書いてきたが、実は彼の所業、確かに下手を打っているがここまで言われる程ではない。
まして、父の側室を奪おうとしてバレて予防策で父を殺したとかそういう方向性の逸話を書き足される筋合いもない。
個人の主観になるが、明の万暦帝辺りは怒りすら覚える聳え立つクソであり、明の無残な滅亡を招く原因となったにもかかわらず、
負債を子孫に押し付けて天寿を全うしただけでそれなりの諡号を貰うのは不平等とさえ思う。
というわけで、少しだけ擁護していきたい。

1.大運河建設の是非

当時は重機などはなく、ひたすら人海戦術で大地や山を掘削する他ないなど負荷が大きい事業である。
乱世により人口は減少傾向であったため人手が足らず、女性まで動員しての大工事を強いた上に、煬帝が自ら超豪華な船に乗って運河を渡ることをデモンストレーションとして敢行したため、より怒りを買った面はある。
その上で後述する高句麗遠征を大兵力を持って行ったのは流石に国力の疲弊を考えなさすぎた、これは事実である。

しかし、この大運河建設がなければ唐が世界帝国となることはまず不可能であった。
それほどの物流革命・飛躍的経済発展をもたらした、価値のある事業と言える。
三国時代の呉から五胡十六国・南北朝期に長江流域は華北に対抗するべく大いに開発され、すでに経済規模で乱世と黄河の度重なる大暴れで疲弊しがちな華北を凌ぎ始めていたため、かつての漢王朝期を凌ぐ巨大経済圏を生み出した。これがなければ、中央アジアに飛び出してアッバース朝と殺り合うなんてきっと出来なかった。さらに長らく分断されていた南北を経済・交通面で繋ぐことにより数百年の分裂からの統一を実感させ、思想や民族の南北融和をももたらした。五胡十六国時代は民族の違いで大殺戮が起こることも多々あったが、隋唐期は非常におおらかで、阿倍仲麻呂のような日本人・安禄山のようなソグド人でも高官につけたほどである。唐代に花を咲かせた文化・思想にも影響はあったであろう。

ともかく、あの広大な大陸の潜在能力をフルに活かし統治するにはいずれ誰かがやらねばならぬ事業ではあった。
黄河・長江という二大河川を繋ぎ合せたこの運河(京杭大運河)は、この後生まれた数々の国家を大動脈として支えている。
2014年に世界遺産認定を受けているように、中国史のみならず、人類史に残る一大事業であることは間違いない。

ただ、運河建設自体は父の楊堅の代から行われており、その頃は国力や民力の余裕に応じた範囲で少しずつ進めていた。他の国家事業と同時並行という最悪を通り越した組み合わせになったのは煬帝の意向によるものである。社会的資源の配分こそが最高権力者の役割である事を思えば、その匙加減を誤った点については擁護は差し控える。

2.高句麗遠征について

前述の通り、大陸の大動脈を通した後に数十万の兵を持って何度も遼東方面に出兵するのは無謀であったと言わざるをえない。
しかし、高句麗は父の治世の際に反乱を起こしており、様々な理由があったとはいえ討伐軍は敗退し、煬帝の治世に於いても課題として残ってしまった。
確かに遼東の小国であるが、放置しておけば何をするかわからず、更に英雄・乙支文徳がいるなど危険性は高かった。
さらに高句麗の北には中華の天敵の騎馬民族国家突厥がおり、遼東方面を盤石にすることは安全保障上必要なことであった。

他にも西域方面ではチベット系の連中を討ち、西域への進出・交易路を切り開いたということもあり、蛮族には負けていられなかったという理由はあった。
どっかでは負けてるあんまり強くない奴と侮られたら、別方面でも異民族支配に揺らぎが出るのは自明である。
三回目になるが他の大事業との組み合わせが最悪であり、きちんと順序や国力の回復を待って行えば、名君の大業として輝いたであろう。
後述する唐の成功例のように、遠交近攻策で朝鮮半島の国を味方につけてじわじわ崩すのも一つの手段であっただろう。
叛徒をひたすら皆殺しにする鎮圧法を取った煬帝が蛮族と同盟するとも中々思えない所ではあるが。
それと、任せる将帥はしっかり選びましょう。*3

ちなみに、唐も高句麗遠征は失敗している。しかも唐の成立に貢献した名将で当時皇帝となっていた李世民自ら親征しての失敗である。
そのため、新羅を取り込んでまず百済を滅ぼし、高句麗の内乱を利して南北からの時間をかけた圧殺に方針を切り替え滅ぼしたのであった。
しかし、朝鮮半島の実効支配権は新羅の必死の反攻からの土下座外交で譲らざるを得なかった。

3.日本への対応

よく聖徳太子の国書にブチ切れた逸話だけが流布されており、器が小さいイメージで言われることがあるが
小野妹子が返書を無くしながらも無事帰国しているように、別に文面が「蛮族の癖に天子名乗るとかコイツクソ傲慢だな…」ってことでプッツンこそしてしまったが、
それに惑わされて日本を敵に回し、日本の友好国である百済をさらに先鋭化させ高句麗の味方に固定化させるようなことはしなかった。
実利を見失わず、使者にはそれなりの対応をした上で返書を渡すなど、日本の面子も潰さぬように最低限の配慮をしているのである。
百済は南朝系の王朝と関係が深かったせいか、北朝系の隋とは仲良くする気配は結局なかったが。

イギリスに三跪九叩頭の礼を強制し、険悪になってアヘン漬けにされた清に比べたら全く悪くない対応である。

4.暴君キャラ付け唐による陰謀説

煬帝は確かに拙い施政で無駄に反感を買ったり、空気がイマイチ読めていないのでは?という面はある。
しかし彼の政策は唐の世界帝国化には不可欠な要素しかなかった。にもかかわらず、唐が編纂した史書では稀代の大暴君として描かれている。
これには、唐の太宗・李世民の所業が影を落としているという説がある。
李世民も、次子であり中華統一に司令官として従事し貢献。統一後兄や弟を殺して皇太子に成り代わる、など行動・事績に共通点が多いので
李世民への擁護として「煬帝が太宗と似たような行動をしてる?違うよ、全然違うよ。」とアピールしたいが故に、父の側室強奪話などが付け加えられ、誇張されたのでは?というものである。
現在の研究では、大小あれど唐による誇張が入った暴君像であるという見解になっている。

…まあ、煬帝は亡国の皇帝なので誰も擁護してくれないし、むしろ重臣たちがどんどん自立したり、見限って逃げたりしているのでひっくり返すのが難しかった面は大きい。
唐を建国した李世民の父・李淵も、元を正せば文帝・楊堅の縁戚*4であり同一系統の貴族グループであることも、拍車をかけた一因であろう。
主君への裏切り・弑逆には周到な準備と大義名分が必要なのは世界中どこでも同じである。

5.フィクションでの煬帝

タコタコ星人。


は別としても「隋唐演義」では、この手の作品にしては珍しく好意的に描かれている。
実際に暴君・暗君・政治的無知という描写は多い(例えば父楊堅の愛妾を奪おうとして拒否され、切羽詰まって父を殺すなど)ものの、
後宮に集めた美女たちに対してやたら明るく、そして優しくふるまっており、美女たちも煬帝にこたえ得ようと様々なイベントをこなしていく。
さらに殺される寸前には幾人かが殉死(それも煬帝の代わりに逆党らを罵倒し、切り殺されるものもいた)の道を選ぶなど、
外庭は治められなかったが、内庭では名君だった」とキャラ付けされている。
さらに、本来はその時に一緒に殺されるはずだった息子、趙王楊杲が脱出に成功し、紆余曲折を経て異民族の王となる、というはるかに救いのある展開となっている。

ついでに言うと、隋唐演義でヒロイン的女性キャラの数が桁外れに多いのは、煬帝の後宮から脱出した美女たちがその後も要所要所で出てくるからである。
つまり現代ラノベもビックリなほど美女たちが出演できたのはある意味彼のおかげともいえるのだ。
(もちろん関係ない女性も多い。つか隋唐は武則天をはじめ、やたら女性が強かった)


とまあ一通り擁護してきたものの、エネルギッシュなのはいいがいっぺんに大事業を同時進行でやった挙句、拙い対応で民や重臣の離反を招き
その中でやる気を失って機能不全の暴君に成り下がり、隋を滅ぼしたのは紛れも無い事実である。
ただ、悪しざまにだけ言われるほどの無能ではないってことだけ覚えて帰ってください。
これでも五胡十六国時代の暴君たちと比べたら生ぬるいし。




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最終更新:2025年01月13日 00:59

*1 諡号は文帝。

*2 禅譲の後、李世民に「処分」されました。

*3 楊玄感の反乱だが、楊玄感がまじめにやっていたのに讒言や皇帝の理不尽な怒りを受け、やむを得ず立ち上がったわけではなく、怠業した上高句麗に内通するなど人間の屑行為をさんざやらかしてその上で反乱を起こしている。

*4 李淵の母と独孤皇后が姉妹。かなり近い血縁である