南朝陳(国家)

登録日:2020/03/09 Mon 02:13:45
更新日:2025/03/04 Tue 15:56:26
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南朝は、五胡十六国時代の後の南北朝時代に霸先(はせん)が南朝の皇帝から禅譲を受けて立てられた国で、南北朝時代で最後に滅んだ国である。
陳霸先は後漢時代の陳(しょく)の子孫と言われ、九品官人法を制定した魏の風紀委員こと陳(ぐん)の従兄弟の子孫に当たる。
中国史では珍しいことに皇帝の姓と国名が同じで、陳氏の陳国陳陳となる*1。皇帝は陳皇帝で、自ら名乗る時は朕は陳皇帝となるのである*1





つまりチンチンで、チンコである。





チンチンで、チンコである。






この項目では、そんなチンチンの歴史を振り返っていく。





チンチンができるまで


前後を解説していくと、南北朝時代は長らく五胡十六国時代を制した北朝北魏と、三国時代の覇者であるが逃げ延びた成れの果て南朝東晋で成り立っていた。
しかしそうして立った東晋は皇帝の権力か自意識が弱くいつだって混乱の連続、100年ほど頑張ったがついに簒奪されに、更にと移り変わった。

一方で鮮卑によって立った北魏は、国境に匈奴や鮮卑といった異民族の名族を特別待遇で移住させて防衛させていた。
これらは鎮と呼ばれたのだが、過ぎたる権力は当然危険視され削ぎ落される。
鎮は順次廃止され待遇は悪くなっていき、最後に残った六鎮は遂には漢族に搾取される立場となったため、不満を爆発させ大規模な反乱を起こした。
これは鎮圧されたが、その一方で北魏側に転身した鎮出身の軍人たちの権力が強くなる。
中でも東の鎮出身である高歓と、西の鎮出身である宇文泰*2は特に権力が強く、やがて反目し合い別の皇帝を立てた。
こうして北魏東魏西魏に分裂、三国志の様相となった。北はもうチンチン対決ですね
臣下によって東西に分かたれた国家には皇帝の権力が残っておらず、後に彼らの子や孫によって簒奪され、東は北斉西は北周となる。
この項目内においては突如として国の名前が置き換わったりするが、それはこうした背景があるからだというのは覚えておいてもらいたい。

さて南朝は初代皇帝で、簒奪の際に死者を皇帝一人しか出さなかったという皇帝大菩薩こと武帝・蕭衍が久々に長期政権を築いていたのだが、その弊害が顕著に出てきていた。
政治経済が混乱し、極端に文官を優遇していたため軍事力も脆弱。分裂の隙を突いて東魏を攻めたもののボロ負けして新たな対外政策を打たなくてはならなくなった。
そんな折に宇宙★大将軍を名乗った侯景の叛乱が起き、 は突如事実上の滅亡を迎える。




宇宙★大将軍を終わらせるため、建康から西にある江陵*6で立ち上がった者たちがいた。皇族蕭(えき)とその臣、陳霸先王僧弁である。
宇宙★大将軍がアホだったこともあって番組は打ち切り、蕭繹は皇帝に即位しは復活した。しかし蕭繹は死都と化し首都機能が死んでいる建康には入らず江陵に留まり続けた。
ここでイニシアチブを取りたかった(さつ)ら一部の皇族と対立が起き、彼らは皇帝を僭称した。
討伐には成功したもののその過程で西魏に協力を仰ぎ、蜀を渡してしまう致命的ミスを犯す。
まがりなりにも三国の領土だけは拮抗していたのだが、これによって趨勢は完全に決まってしまった。この時に歴史が動いたと言える。

これを取り返すため蕭繹西魏に返して欲しいと呼びかけつつ北斉西魏を攻撃するよう働きかけた。
こんなことをされて西魏は黙っていない、軍を起こして蕭繹のいる江陵を攻めた。江陵の立地は西魏にあまりにも近すぎたため、たやすく陥落し蕭繹は書庫に火を放ち焼け死んだ。我々現代人にとっては最悪な話である。
西魏はかつて蕭繹に討伐され逃げてきた蕭詧の後継として擁立し、一方で残された陳霸先王僧弁らは建康で蕭方智を立てた。
こうして蜀と江陵が奪われ、自体もまた西魏の衛星国が生まれて分裂したのである。

この苦境の中、王僧弁はまず江陵を取り返すことを考え、そのためには北斉と協力するしかないという結論を出した。
だが北斉は足元を見て非常に厳しい条件を付けてきた。
蕭繹の従兄弟である蕭淵明を送還するから皇帝にしろと言うのだ。息がかかった人物を皇帝につけるということは、即ち臣従するということに等しかった。

受け容れ難い提案であるが、王僧弁はそれでもまず分裂したを一つに戻すことを選んだ。
淮南*7の領地を要求し蕭方智蕭淵明の後継者にするという条件を付け加え、なんとか交渉をまとめようとしたのである。



しかし陳霸先は納得いかず、ブチキレた。



すぐさま兵を起こして王僧弁北斉から送還されてきた蕭淵明をぶっ殺し、交渉を台無しにした。ここまではわからんでもない。
更に自分が蕭方智から禅譲を受けて皇帝となったのである。これはわからない。もう滅茶苦茶だよ…*8
蕭衍王珍国ら名将と共に建てたの正統王朝は、蕭衍の生前から続く混迷の中その死から僅か10年足らずで終わりを告げ、望まぬ形では一つになったのである。*9
こうしてチンチンができて、陳霸先チンコとなったのである。


チンチンの歴代チンコとその衰亡


チンチン三国志で言うと呉の辺りの領地を持っていたが、全体的に荒廃し首都建康はチンチンにされており、風雲急のクーデターで国内も分裂し権力も不安定だった。
北周は蜀~西涼、北斉は華北を抱えて両方とも軍事政権だったのに対しこれだったため、三国では最も弱かった。


一本目

陳霸先はまず政権の安定、すなわちチンポジ直しに乗り出した。
その中で王僧弁の残党や、を認めず南梁として復活させようとした蕭荘らと戦うが、半ばで世を去った。死後武帝の号を諡された。
息子はいたようだが江陵と一緒に持っていかれてしまったため国内におらず、しかも帰国の際に死んで全滅したため兄の子が継ぐこととなる。船が沈んだって、謀殺じゃ…

二本目

陳霸先の兄陳道譚の息子(せん)バイだった。側近の男も抱いた。子供もいるんでホモじゃないです。
固く結ばれた絆を武器に残党や南梁を倒し、北周と和平を結びようやくチンポジを安定させた。
続いて戦乱で荒れたチンチンの国土を直すデリケアに乗り出したのだが、在位6年で崩御してしまう。文帝が諡された。
安定こそしたものの対外政策として三国で最も強い勢力と和平を結ぶというのは間違いなく悪手であり、この先の運命も決定づけてしまったと言っていい。

三本目

陳蒨の息子陳伯宗は幼く、陳蒨の兄弟である叔父の陳頊ことチンコが後継していたが、チンコチンコを欲しがったためとっとと禅譲させられた。もろちん殺された。廃帝され臨海王が送られた。
だが幼くても妃はいたし子供も作った。チンコはちゃんと精通していたしやることやってたのだ。この二人は殺されておらず、それどころか子は将軍にまで取り立てられ、チンチンがなくなっても生き残っている。宦官じゃないよ。

四本目

チンコになったチンコは簒奪しただけのことはあり内でも外でも頑張りを見せ、北斉から淮南を責め取った。
だがここで大きな時勢の変化が起きる。遂に北斉が滅んだのだ。チンチン対決終了のおしらせ
チンチン北斉の領土を吸収してより強大になった北周の責めを一手に受ける羽目になり、すぐに淮南は奪われてしまった。
絶望的な情勢の中、チンコはついに病に倒れ死去する。宣帝が諡された。

五本目

チンコの息子陳叔宝は、チンコになる時に弟にチンコを奪われそうになった。
周りに助けられなんとかチンコになったものの、頭の中までチンコになってしまった。
チンコになったチンコはもう毎日後宮でチンコチンコ。金がなくなったら軍人から金を奪い軍人の嫁にもチンコした。チンチンの防御力はチンコによってチンチンにされていった。
元から弱い軍がチンチンにされてどうもないわけがなく、チンチンはこの代で終わりを迎えることになる。


チンチンの最期


この頃、三国志で言うのようにチンチンを囲むような領土を持った北周は、蜀滅亡後の勝ち確状態で魏からの禅譲でが立ったようにこちらも楊堅への禅譲がなされとなっていた。もう地勢的にも年代的にも、南北朝は終わりなのである。
その広大な領土で呉の領土を責めるといったらその手段は一つ。三国志の最後の戦いのような、北方から攻める部隊と蜀から船で下ってくる部隊に分けて行われる大規模な多方面作戦である。

これに先立ちは収穫期が南北で違うことを利用し、収穫期に攻め込んで作物をチンチンにする剃毛を何度となく行った。
チンチンの力は更に削ぎ落とされていった。インポテンツが進行していったのである。

そしてトドメを刺すために長江の上流にある蜀で大量の船の建造が始まる。
下流にあるチンチンの下には大量の木屑が流れてきた。
だがチンコは何もしなかった。毎日チンコチンコで忙しくしていたのである。
そうして遂に軍が攻めてきたが、もうどうしようもない。チンコは現実逃避して毎日チンコしていた。
将軍たちはチンコが何の命令も出さず毎日チンコしてるせいで何もできなかったが、ある日突然チンコが出て来て命令した。


のやつらが首都周辺の領土を好き勝手に奪ってる、お前ら高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に戦うんだ


こんな手遅れで柔軟もクソもねえよ
とにもかくにも出撃してよくなったのだが、兵力の多いチンチンの最前線は何もできないまま潰されたので戦力は大して残っていなかった。ブレーキ…壊れたァ…
そんな中で出撃した将は当然撃破され、投降した兵は寛大に扱われた。そうなればチンチンの兵士たちも将もみな萎びて、軍へと投降していった。
最早どうしようもない、チンチンの最期の時が来たのである。
ことここに至ってチンコが臣下らに「俺だけ悪いんちゃうねん、お前らも悪いねん」と当たってきた。なんやこいつ…

さていよいよ首都建康の中に軍がやってきた。
するとチンコはある臣に「皇帝でありながら逃げ回るなど惨めなことです。皇帝らしく正装して玉座で堂々と軍を出迎えてください」と言われた。
降伏にも滅亡にも、やはりそれなりの作法というものがある。だが「嫌や、そんな危ないの絶対嫌や!」年末年始にビンタされる噺家のようなゴネっぷりを見せてチンコは逃げ出した。

…このしばらく後、軍により井戸の中で二人の寵姫とともに怯えて震えているチンコが発見された。

一方息子の陳皇太子すなわちチンコ太子陳深は、「お仕事ご苦労。でもまだ終わってないんだろう、頑張れよ」と堂々とした態度を見せていた。
チンコ太子はちゃんとしていた。だが何もかも手遅れであった。

こうしてひと悶着ありつつもチンコが捕らえられ、僅か32年でチンチンは終わった。
呉の時から文化を築き上げてきた首都建康も破壊の限りを尽くされてしまった。
こうしてチンコ陳皇帝から陳後主やっぱりチンコとなり、隋文帝・楊堅により監視されながらの生活を送ることになった。


チンチンチンチンになって終わった後


国が滅び気に入っていた寵姫も殺されたり楊堅に奪われたりしてさぞ萎えているかと思ったが、それでもチンコチンコだった。毎日変わらずチンコであった。
中華統一を成し遂げた楊堅だが、彼もまたこの時代の傑物らしく北周の簒奪者である。簒奪者には人間不信がつきものだ。北斉北周も皇帝と皇族は皆殺しにされた。
これは決して珍しいことではない、この五胡十六国から南北朝時代にかけてはこうするのが常識だった。
だが楊堅は、意外な一言を放った。



あいつ…殺す必要全くねえな…」



チンコの一族は命脈を保った、チンコに正直に生きたが故に生きることを許されたのだ。チンコ太子のようにちゃんとしたチンコではこうはいかなかったろう。
亡国の皇帝を生かすのは、国民や外部勢力に「俺は慈悲深いんだ、だから従え」と知らしめるメリットもある。
それでも殺すのは自分で反乱を起こしたり反乱に担ぎ上げられるリスクがあるからだが、そんなリスクがないことが一目瞭然のような奴なら生かしておいた方がいい*10というわけである。

チンコチンコの穴兄弟になった楊堅と共に行楽に行ったり、何かに怯えることもなく毎日チンコしながら平和に生涯を過ごし、やがて死去した。
楊堅の息子楊広は、チンコに「煬*11」の諡を与えた。最期のチンコ煬帝となったのである。

だが、チンコが現代で煬帝と呼ばれることはない。何故なら…















楊広が、煬帝となったからだ。














追記・修正でチンチンにしてください



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最終更新:2025年03月04日 15:56

*1 中国の伝統的考え方では皇帝(=天子)は地上にただ一人であり、どこどこの皇帝といった具合にあえて他と区別する必要はないのでこのような名乗りはしない。仮に同時代にほかにも皇帝がいたとしても同様である。自分以外の皇帝は正当性がなく、賊が勝手に名乗っているだけという扱いである。

*2 この西の鎮は武川鎮と呼ばれ、宇文泰が西魏の主要ポストをここの出身でガッチガチに固めて強固な軍閥となった。これは北周・隋・唐といった後の世にまで皇族・外戚を輩出し大きな影響を与えているが、官僚が科挙制度で登用・出世していくようになると、次第に没落していった

*3 呉の建業のこと。司馬鄴の諱に触れるため改名された

*4 もちろん後に禅譲することになる皇帝が宇宙大将軍を与えるという形式をとっているが、この時思わず「宇宙大将軍ってなんだよ(困惑)」と言ってしまったという

*5 北魏に叛乱した時にも「お前の妻と子供4人を人質に取ってるんやぞ」と脅迫されたが「えーよ別に殺しても(鼻ホジ」と平然と言い放っており、表裏はないが家族を愛さないもしくは関心のない人間だったらしい

*6 荊州の真ん中辺り、長江の北。赤壁~樊城の戦いまででの間における魏の最前線

*7 三国志で言うと合肥らへん

*8 禅譲した蕭方智?奴さん死んだよ

*9 この残った方はこの後もずっと衛星のままで、後に本体に吸収される形で終わっている

*10 というより蜀や呉は在地豪族の勢力が強くやむなくそのまま統治させていたほどであり、逆に劉禅や孫晧を生かして慈悲深さを見せなければ反乱が起きかねない状況で、事実蜀占領時にもひと悶着あった。その上統一後は司馬炎が国政を顧みなくなったため彼らの勢力を削ぎ落せず、その一方で独自の勢力を持っていたため中央の政争には巻き込まれなかった。だがその反面冒頭のように晋が南朝で復活した際に皇帝権力が脆弱になってしまった

*11 中国では『煬』という文字には『礼を去り衆を遠ざく』という意味があり、『煬帝』は簡単にいえば史上最低の昏君という意味である。