劉秀

登録日: 2016/04/21 Thu 01:17:17
更新日:2024/09/21 Sat 13:08:03
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「おとなしかったあんたが皇帝になるなんてねぇ…」by親戚

劉秀(紀元前6年~57年)とは漢王朝を滅ぼした新王朝を打ち倒し、漢王朝を復興させて後漢王朝を築き、初代皇帝となった男である。世間的には光武帝という名の方がわかりやすいか。
漢王朝を打ち立てた劉邦の子孫であり、イケメン、リア充、賢い、最強、性格良し、幸せに天寿を全うと言う超絶チートである





超絶チートである

大事なことなので二回言いました。

生い立ち

漢王朝が末期の時に劉欽の三男として生まれる。
上記の通りれっきとした皇族なのだがどうも本家筋とは関わりが薄かったようで実際は貧乏貴族出身であったようだ。
当時は(表向きは)おとなしく、兄の劉縯が破天荒な事もあって目立たない存在であり馬鹿にされる事もあったようである。
自らの願いも「官につくなら執金吾、妻を娶らば陰麗華(執金吾:宮廷近衛兵の長官 陰麗華:自分の近所に住む綺麗な少女)」
劉邦や劉備が聞いたら涙しそうな位にささやかな物だったのである。

目立たなかったのは故郷での話で兄の劉縯と共に任侠の者たちと付き合ったりしていたのだが…

漢王朝の崩壊と新王朝への反乱

この頃の王朝であった漢(前漢)は皇族の外戚*1であった王莽が帝位を簒奪したことで滅亡、新という王朝が打ち立てられる。
しかしこの王莽という人物は儒教を重んじすぎ現状把握に欠けた頭でっかちであった。
理想論を振りかざし、性急に政治体制を自分の理想のものに改革しようとしてしまった事で各地で混乱・反発を生み出す事となる。
頻繁に法律も変えていたので各地の役人は好き勝手に解釈して合法的に私欲を満たす事となった。
本人が良かれと思っている分、下手をすれば私利私欲を貪る暴君よりタチが悪いとも

こうした状況の中事件は起こる。

兵士として働いていた息子の呂育を県令の不当な裁きで殺された呂母*2が自分の財産を用いて武具と数千の若者を集めて県令に報復、赤く染めた眉を目印とした 赤眉軍 という反乱軍となり、これを機に各地で反乱する者が続出したのである。

この期に乗じて劉秀(当時28)も挙兵を決意…した劉縯に従軍する。
この時も「あの劉秀も参加するなら勝てるだろう」「あの真面目そうな劉秀が戦えるのか?」と頼りない様に思われていた様である。
(実際、挙兵時に同盟相手に護身用の刀をぶんどられて笑われていたり馬を用意できずにに乗っていたりする。)

新王朝との戦い

挙兵したものの自軍の戦力の乏しい劉縯軍(とお供の劉秀)は豪族を懐柔したり新王朝に反抗する民衆や豪族と合流したりして勢力を拡大しつつ各地の王莽軍と戦った。
勿論、順風満帆という訳にもいかずに辛酸を舐める事も多く、特に小長安での戦いでは多くの親族が戦死してしまっている。

劉秀は劉縯の為に綿密に陣地を築いたり、情報を集めたり、降伏勧告の使者となったり、他の反乱軍が自軍の勝利によって嫉妬しそうになった時は財宝を献上して宥めたりと細々と裏方で働いていた。
そしてようやく自分の馬を調達した。

皇帝の擁立

反乱軍が拡大していくにつれて新王朝に対抗する為にこちらも皇帝を擁立しようと言う話が持ち上がった。
皇帝候補は武勇に優れ押しも押されもせぬ功績を上げていた劉縯と血筋が本家と近い(そして傀儡にうってつけの)劉玄であった。

劉玄派「こういうのは言ったもん勝ちだ、早速擁立してやるぜ。」
と劉玄派は勝手に劉玄を皇帝に擁立、そして
劉玄派「あ~劉縯? 劉玄殿皇帝になったからヨロシク~」
と劉縯には事後報告だけを送ったのである。

これを聞いて劉縯は
劉縯「ふざけんな、俺は認めんぞ!!!」
と激怒した…訳ではなく、
劉縯「まだ王莽倒していないし地盤も固まっていない状態で皇帝宣言したら他の反乱軍も対抗して真似しそうだから*3複数いても問題ない王にしておいた方が無難じゃね?」
と時期尚早だと理論整然と答え、これに諸将の多くも賛同したのだが…

張卬「(地面に剣を打ち付けて)天の父となってもいい位なのにどうして天子如きがダメなんだ!!!」
張卬「事を疑って功績が立てられるか、この会議は二度と無いんだぞ!!!」
と反乱軍「緑林軍」の武将にして劉玄配下の張卬が、「お前は何を言っているんだ?」的な逆ギレ台詞を言い出して強引に諸将の賛同を得て劉玄を皇帝に据えた。

昆陽の戦い

反乱軍が皇帝を擁立した事を聞き狼狽した王莽は討伐の為に大軍勢を差し向け、反乱軍を一気に叩き潰そうとした。
その軍勢は多数の兵法家と武芸の達人を集め、猛獣と猛獣使いまで引き連れた節操のない数十万にも及ぶ大軍団であった。
この頃、劉秀は兄の劉縯とは別行動をとっていたのだがよりにもよってこの大軍団と遭遇し戦うハメとなってしまった。

この時の劉秀の手勢は数千であり昆陽の城に逃げ込むしかなく、逃げ出そうとする将兵も現れた。
更に城を十万の軍勢が包囲し最早絶体絶命の危機に瀕したのである。

この時劉秀は十三騎で包囲網を一騎も失わずに突破し、周辺の兵士達をかき集めて対抗しようとした。
そして王莽軍側も本隊が合流し、昆陽の城は何重にも渡る包囲網を敷かれ降伏も認められない状況の中で激しい攻撃にさらされ続けた。

援軍を連れて戻った劉秀は最前線で千の兵を率いて布陣し、それを侮った王莽軍は数千の兵で迎撃しようとした。
劉秀は自ら敵陣に突っ込んで数十人の首を取って敵勢を敗走させた
劉秀の強さを見た配下達も奮起して戦い、昆陽の城に無事に帰還できた。

とは言え敵の大軍勢は未だ健在であり、危機が去った訳では無かった。
そこで劉秀は「兄の劉縯が自分の請け負っていた地の攻略を終えてこちらに援軍に来る」と言うデマ*4を王莽軍に流して更に戦意を喪失させた上で精鋭兵を率いて奇襲を行った。
ちょうどこの時、雷雨と防風も吹き荒れていた事もあって王莽軍は大混乱に陥り、この期に乗じて城に残っていた兵も打って出た為に挟み撃ちの形となって更に混乱が加速、劉秀軍に倒され、川で溺れ、混乱した猛獣に襲われて敗走した。

この戦い以降、劉秀は一目置かれる事となって部下になりたいと言う者も増えていくようになる。

兄の死

だがこの戦果は皇帝の劉玄の猜疑心と自分がとって変わられると言う恐怖を生み出す事となった。そして…
劉玄「お前に将軍位を与えてやろう。」
劉縯の配下「だが断る。」
劉玄「朕の言葉に背いたな!!!これは反乱の証拠じゃ~」
劉縯「陛下、落ち着いて下され。 (劉縯の配下に)お前も陛下の御好意を無下にする事はないだろう。」
劉玄「そうか、貴様もグルだな!!! コイツも反逆者じゃ殺せ~」
…と劉縯の配下が将軍位を断ったのを反乱とみなして仲裁しようとしていた劉縯まで連座の形で(即座に)殺してしまう。

この暴挙に対して劉秀は劉縯の非を詫びて喪にも服さず黙秘を貫いて自身への嫌疑をやり過ごそうとする。
葬儀に対しても劉玄の配下が弔問と称して執拗に探りを入れて来たからである。

この態度を見て周辺の人間は「自分の兄が死んでも何もできないヘタレ」と判断し関係を絶ってしまう者もいたとか。
とは言えこの行動が功を喫して劉秀の嫌疑は解かれて武信侯に封じられた。

河北平定、そして皇帝へ…

その後王莽を倒した劉玄は劉秀に河北の平定を命ずる。
僅かな手勢と物資しか与えられず事実上の左遷に等しい扱いであったが僅か一年弱で大半を収めて独立し、その後で部下に請われて皇帝に即位した。
なお、ここで大軍の銅馬軍をそのまま降伏させたことで 部下の大半が銅馬軍になってしまい 銅馬帝と呼ばれた。
(そんな状況でも反乱を起こされず、逆にこんなことにもならなかったことも劉秀のたぐいまれな点である)

その頃劉玄は民心を失って赤眉軍に攻められて殺害され、劉秀は赤眉軍を打ち破ってその後も各地を平定。
十数年後に漢王朝を復興させた。
一度滅亡した王朝が完全復活したのは唯一無二の例である。

その後

漢王朝復興後、劉秀は奴卑解放および大赦を数度にわたって実施したり屯田を行って生産力を高めたり、税収の削減や人身売買に対する規制を行って民衆への負担を軽くする政策を行った。
また、耕地面積と戸籍との全国調査…即ち検地を行って土地の情報の収集も行い統治がスムーズにできるようにしたり地方に学問所を多数立てて学問を奨励したりもした。

それからも古今東西の君主のように耄碌したり猜疑心に駆られたり病にかかったり我が身を不幸が襲う事もなく、夫婦円満で子供にも恵まれて天寿を全うした。

その後は皇太子の劉荘が明帝として後を継ぎ、見事に漢帝国を治めた。
(明帝の死後、帝国は幼帝が続き臣下が権力争いを繰り広げて国力が低下していく……つまりいつものパターン

逸話

  • 上記の通り「妻を娶らば陰麗華」と唄っていたが 本当に結婚した
    • 当初は支配地域の権力者の娘(郭聖通)と政略結婚していたのだが、いろいろあって離縁・廃后し、陰麗華を皇后に迎え直す。
      ただし離縁した後も仲が悪いわけではなかったようで(当然殺されてもいない)、間に出来た子の劉彊も太子ではなくなった(トラブルを予見して自ら身を引いた)ものの、一国の領主として太子であった頃以上に栄えたという。
    • ちなみに長男の劉彊と皇太子で2代目皇帝となった明帝・劉荘の異母兄弟は複雑な間柄(兄は元皇太子だが今は弟の臣下)でありながら、非常に仲の良い兄弟であり主従であったという。
  • 皇帝になってからも戦いの際には 先陣に立って常に勝利した
    • だがその一方で戦乱が終結してからは戦いの事を語るのを非常に嫌っていた。
  • 皇帝になってからも割とフランクで 呆れた部下に締め出されて野宿した経験が(少なくとも)二回もある
  • 冒頭の言葉は故郷に帰った際の親戚のおばちゃんのコメントである。
  • 皇帝になってから宴会で 秘蔵の美人画屏風コレクション を披露したら品位がないと 部下に叱られた
    • その中でもお気に入りの数枚を玉座の近くに置いていたが、配下の宋弘との謁見中に 屏風をチラ見しすぎて彼に叱られ、おとなしく片付ける
  • 皇帝になってからは配下には厳しい勤務体制を敷いていたが 粛清者を出さなかった
  • 皇帝になってからも田舎役人にすら「金にせこい」等と本音で言われる。
  • あまりに「聖王」と呼ばれすぎて鬱陶しくなったので「聖」をNGワードに。

嫌味なほど有能で欠点のない人物だが、強引に欠点を挙げるとすると…
  • 親父ギャグ好きということで、正式な史書にまで「あまりに寒いギャグを連発するため奥さんに辟易されていた」とか。
    • 子供時代、「劉秀が天下を取る」という予言を聞いて誰もが当時「国師」に任じられていた学者の劉秀(劉歆)だと思っていたところ「僕のことだね?」と言って周りを噴き出させたとか。
  • 被害を最小限にする策や戦術を用いるよりも正面から敵を潰すスタイルだったため、統一戦争で必要以上に多数の死傷者を出した。
    • また兵法等も「机上の空論」と一笑していた事も。ただし昆陽の戦いのエピソードや自らが停戦交渉を行うというケースを見るに決して脳筋ではなく、 劉秀が規格外だったから(当時の)兵法がついてこれなかった と言えなくもないが…
  • 家臣や国民には優しかった一方で、文官や豪族には厳しかったとされる。これは、国家を安定させるために検地や戸籍調査で基盤を固めたためで、特に豪族の反発は多く、即位後も小規模な反乱が起こっていた。
    • これは、当時の既得権益層から権利を剥奪していたためである。上記の役人からの愚痴も、その追及の厳しさを物語っている。もっとも、そんなことを言っても処罰されないぐらいの空気はあったらしく、文官粛清もまっとうな理由で2件あったのみである。
  • 本人が凄すぎる為にこの時代の配下や他の英雄達が噛ませ扱いや空気化しやすくなっている。
    • 例えば兄の劉縯も(劉秀と同レベルではないにしろ)戦才を持ち人望も厚く知も備えており、他の時代なら英雄と呼んでも差し支えない人物であったのだが、志半ばで謀殺されたのもあって配慮に欠ける人物と記されてしまっている。
    • この時代は 貧しい暮らしだったが皇帝の外戚となった事で後に新王朝を建てた王莽 息子を殺された恨みを晴らす為だけに私財を擲って反乱を起こした呂母 黄河で水軍を率いて反乱を起こした女予言者の遅昭平 と言う様に 敵味方共にサクセスストーリーがあったりカオスな設定が満載 であるにもかかわらず 劉秀が凄すぎるというだけで ほぼ空気となっているのである。
    • このことは後の諸葛亮が「光武帝は本人が優秀過ぎて部下は地味な逸話*5ばかりを世に残し、高祖(劉邦)は本人がいい加減すぎたので部下は華々しい逸話*6が世に残った」と評している。

登場ゲーム

史実がチート過ぎてゲームバランスを崩すと判断される為か、登場する作品は少ない。
主役?ねぇよ。

  • 信長の野望 烈風伝
PKの「諸王の戦い」において一勢力の大名(?)として登場。
箕輪城を拠点として、中国で名を馳せた武将(仮面の美男子とか曹豹とか)を配下として統一を狙う。
|政治96|戦闘89|采配98|智謀95|足軽A|騎馬A|鉄砲E|水軍E|
能力は流石に高レベル。鉄砲と水軍については、鉄砲は彼の生前にはまだ開発されていなかったし、水軍は一度も扱った事が無いので致し方がない。


ユリウスカエサル
|政治100|戦闘96|采配99|智謀94|足軽A|騎馬B|鉄砲E|水軍C|
曹操
|政治98|戦闘80|采配100|智謀95|足軽B|騎馬B|鉄砲E|水軍D|
チンギスハーン
|政治81|戦闘99|采配100|智謀97|足軽B|騎馬S|鉄砲E|水軍E|
流石に世界の偉人の中には劉秀を上回る者もいる。
が、曹操(など三國志から登場した武将たち)は当時の三國志VIの能力値からのコピペであり、
他の武将たちは全人類史を通しての100段階評価であるのに対して、
三國志の人々は中国史のごく一部だけを抜粋しての100段階評価という点には留意すべきである。*7


「追記修正を頼むよ、ただし「聖」だけはNGな。」


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最終更新:2024年09月21日 13:08

*1 この場合は10代皇帝元帝の皇后、王政君の一族

*2 この呼称は呂育の母と言う意味合いであり正式な名前は不明

*3 皇帝は一番の権力者という意味なので仮に他勢力に皇帝を擁立されるといつかは必ず滅ぼさなければ皇帝としての示しがつかなくなる。

*4 実はこの時本当に劉縯の担当地の攻略は終わっていた。もちろん劉秀本人は知る由も無いのだが.....

*5 反乱の事前の予防など。

*6 圧倒的不利をひっくり返したなど。

*7 たとえば曹操の采配100は「三国時代で最高」、チンギスハーンの采配100は「人類史上最高」の意味。