上杉謙信(戦国武将)

登録日:2009/11/15 Sun 15:23:19
更新日:2025/07/15 Tue 18:53:28
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上杉(うえすぎ) 謙信(けんしん)(1530〜1578)は戦国時代の人物、大名である。
幼名虎千代、別名長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎。生涯で多くの名前を名乗ったが、ここでは謙信で統一する。

出生

越後(現新潟県)守護上杉定実の家宰である・長尾為景の次男(三男とも)として生まれた。

戦国時代の有力武家では、跡目争いを避ける意味合いで長男以外は仏門に入るのが通例であったため*1
次男、あるいは三男として生まれた謙信も、居城春日山城の近くにある林泉寺に入ることとなった。
もし戦国の世でなければそのまま名僧として生涯を終えていたかもしれない。


越後の国の状況

越後の国は元々関東を関東を治めていた山内上杉家の分家である越後上杉家が治めていた。
アニオタ諸兄には『逃げ上手の若君』の上杉憲顕の子孫、と言った方がわかりやすいだろうか。

が、1507年に謙信の父親である長尾為景が父親の恨み*2を晴らすべく挙兵。
なんとこれが成功し守護が家臣に討たれるという下剋上が起きてしまったのである。

当然このようなタブーをすれば周辺家臣らが黙っている訳もなく、為景は生涯国内の内乱と戦い続けることとなった。
そのような状況で1542年に為景が死去。長男の晴景が継ぐこととなった。


晴景の治世

1540年に家督を相続した晴景は、父とは異なる融和政策を取り、戦乱が続く越後の国を治めようとした。
よく「跡目を相続した晴景は無能で、弟の謙信の方が期待されていた」とされるが、
実際にはこれは誤りで、それは「晴景」と父に名付けられていることからも推測できる。
というのも、「晴景」の「晴」は当時の室町幕府将軍・足利義晴の名前から一字を頂く形で名付けられているのだが、
このように、高貴な人の名前から字を貰う「偏諱」という行為は、大変名誉なことである代わりにそれなりに代価が必要であり、
当然為景も時の将軍から息子に一字を貰うべく、かなりの金額を使ったと考えられるため、裏を返せばそれだけ期待されていたと言えるのだ。

だが、結果的には彼の施策は成功しなかった
越後守護として擁立していた上杉定実に子がいないことから、奥州の伊達家より養子を取る話が浮上*3すると、有力家臣はこれに大反対
融和政策によってこれまで戦で得られた収益が得られず、ただでさえ不満の溜まっていた家臣団は、
この出来事によって、ついに晴景に見切りをつけるようになる。


元服から当主就任

晴景に見切りを付け、自分たちの要望を聞いてくれる新たな当主を求めた家臣団が目を付けたのが謙信であった。
彼は1543年に還俗し、大人の証である元服の儀まで済ましていた。
つまり長尾家の血筋と幼い為当主になれば政治は家臣団に任される可能性が高いという事である。

家臣団は「これはチャンスじゃね?」とばかりに、かつて為景が起こしたような下剋上を実行すべく、各地で反乱を起こす。
最終的に晴景は越後守護上杉定実の仲介という形にて隠居させられ、ここに謙信が当主として就任することとなった。

ちなみに、どちらかというと謙信は家臣団や自身の復権を目指す上杉定実に担がれてという形が真実のようである。


越後統一

こうして長尾家当主となった謙信であったが、国内の晴景派の残党、上杉定実、また自身を侮っている家臣団を屈服させる必要があった。
だが、これに対する謙信の動きは速かった。
家督を継いだ1548年から2年後には反発する家臣団を抑え、また上杉定実が亡くなった事で守護職の代行も認められるようになり、
ついに父の代からの宿願であった越後の統一を成し遂げた。

この時22歳という若さであった。
これによって名声と実力を得た謙信はいかにこの国を守るかということを考えるようになる。


武田・北条との対立

国内に安寧をもたらす為には何が必要なのかと言えば、それはであった。
貧しいから、安定したいからより多くの土地を求めて争う。

特に当時の越後は米どころでもない上に、冬には積雪が多くまともに外にも出れなかった。
では畑仕事が出来ない以上どうやって稼ぎを得るのかといえば、それはをすることであった。
戦をして土地を奪えば、より多くの米を得ることが出来る。
さらに冬で動けない時期にもという仕事を農民に与えれば、給料を支払うことが出来る。

また、戦をするには大義名分が必要であったが、その機会はすぐやってきた。
隣国の信濃(現長野県)では武田信玄の侵攻により土地を追われた豪族らが、越中(現富山県)でも豪族らが庇護者を求め、
更にはかつての当主の本家筋である上杉憲攻が上野(現群馬県)から助けを求めてきた。
こうして大義名分を得た謙信だったが、これは同時に南の大国武田氏・東の大国北条氏と争い続ける事を意味していた...

こうして謙信は国防利益を求め他国の戦いに身を投じていくことになる。


武田・北条との争い


上杉謙信と武田信玄の戦いと言えば1561年の「川中島合戦」が有名ではあるが、これは第四次である。
先ほど述べたように謙信が越後の国を統一したのは1550年頃とされているので、第四次川中島合戦までは10年ほどの間があるが、
実はこの10年間で第一次から第三次まで、及び上野・越中への侵攻を行っていた。

特に武田氏との戦いはすさまじく、直接の戦いは三回であるが、散発的な戦闘や家臣団の反乱も含めればその数はさらに増えるだろう。
またこの時期に親北条方の佐野氏(文字通り現在の佐野市あたりの大名である)も攻撃している。


謙信越山


1559年頃謙信は室町将軍より、関東管領並の厚遇を受けた*4
これによって謙信は関東を支配するお墨付きをもらったこととなる。
さらには近衛前久*5が関東侵攻に同調し、加えて1560年に北条氏と同盟していた今川氏が桶狭間にて敗死。
この3つの好条件を受けて謙信は本格的な関東侵攻を開始した。
先述の近衛前久が送った激を受けて、関東の反北条勢力が終結。その数は20万にも及んだともいわれている。
大軍勢をもって本拠地の小田原まで迫った謙信であったが、「武田が再び信濃に現れた」との報を受けて帰国。
その後謙信は10数年間にわたり関東へ侵攻し続け、人々はそれを越山と呼んだ。

またこの時に鶴岡八幡宮にて関東管領就任式を行い、上杉憲政の養子となることで正式な関東管領職を得ると共に、
名字もかつての長尾から上杉へと変わった。有名な名前である上杉姓を使うのはこの時期以降である。


泥沼化する戦線


一度は本拠地小田原まで迫った謙信であったが、越中戦線が在地勢力や一向宗*6に苦しめられて関東に注力できず、北条方にじりじりと勢力圏を奪われている状況であった。

武田氏も第五次の戦いを最後に直接戦うことはなかったが、常に越後を狙っていた上に、反対派に支援するなど敵対関係は変わらなかった。
このような状況により軍神とまで恐れられながらも最終的な領土拡大はわずかとなった。

そんな中謙信が天下に号令する最大のチャンスが巡ってくる。


天下に最も近い者との対立

1576年。戦を続ける謙信の元に室町幕府最後の将軍となる足利義昭から使者が来る。
「中国地方の毛利・大阪本願寺・その他反対勢力を集めて包囲網を作るから協力してほしい」
との申し出があった。
この包囲網を作らなければならないほどの大名とは...かの有名な織田信長である。
信長はこの時点で7か国もの大名であり、日本国内でも最大クラスの大名であった(ライバルである武田氏でも3か国・苦戦していた北条氏も6か国)
その信長は義昭と対立しており、将軍家復興の為に協力してほしいとのことであったのだ。
これを受ければ長年苦戦していた一向宗の総本山本願寺と和解できることを意味していた。

こうしてこの申し出を受けた謙信は越中に侵攻。一向宗がいないこともあり、ついに越中を平定
その勢いで加賀・能登に侵攻し、ついに織田領である越前(現福井県)まで辿り着いた。
謙信はついに織田軍と対峙。織田方の有力武将柴田勝家相手に大勝し、加賀・能登の支配を確立した。
次の春には大軍を擁し、かつての小田原のように大規模な出兵を考えていたが...


突然の死

1578年3月。いよいよ出兵というタイミングで、突如倒れそのまま意識が戻ることなく亡くなった
享年49。
跡継ぎに関して決めることなく亡くなっていることから突然の死というのは間違いないようである。
この死によって分家筋の景勝派と北条家の養子であった景虎派に分かれ、後年御館の乱と呼ばれる争いで越後は再びで洗う内乱となった。
もし謙信がもう少し早く出兵していれば、歴史の教科書は大きく変わっていたかもしれない...

上杉謙信という人物

ここまで読んだアニオタ諸兄ならお分かり頂けるかもしれないが、謙信は義将というのは間違いである。

あくまで戦いをする上で現地民の協力を得る為に土地の有力者や、土地を支配する権利を有していた者を保護していただけであり、協力関係であったという方が正しいだろう。

彼はただ越後の安寧を願い、民に戦という雇用を生み出し、領土奪い合っていた豪族衆にも土地を与え続けて争いをなくす事に注力した大名であったのではないのだろうか。

陣旗には「」「毘沙門」と記し、自身を毘沙門天の化身と称して常に陣頭に立って戦っていた。そしてそんな当主を守る為に家臣団は必死になって戦った。
勿論彼が国を良くしてくれると信じているからこそ必死になって戦ったのである。
そんなところも謙信ないし上杉軍が最強だと言われた所以なのかもしれない。


その他

若い頃は、「そうだ、京都に行こう。」と僅かな軍勢で出発。事前に通行国に「京都行って来るぜ、通してくれ。」と通達する徹底振り。

酒も大好き。馬の上でも呑めるグラス、「馬上杯」を考案。乾杯!
…飲酒運転?
つまみには塩辛い梅干し。なので死因は脳卒中と言われている。

宿敵・武田晴信(信玄)が今川氏の経済制裁を受け、塩の輸入を止められた際には越後の塩を送っている。後にこれが『敵に塩を送る』の故事になった。
でも今川の塩止めの記録はあっても、上杉が塩を送った記録は存在しないのは内緒である(単に塩の輸出を止めなかっただけともいわれている)。


合戦の勝率は9割を越え、天下に名を轟かすほど。
その強さは恐らく歴史上最古の「白い悪魔」と喩えられる。(源氏の源義経という説も。)
以後、この系譜はフィンランドはヘイヘ氏、ミッドチルダは高町女史、地球連邦はアムロ氏に受け継がれている。

あまり注目はされないが内政にも手腕を発揮
戦をするには大量の資金が必要であるが、交易、金山などに目をつけ運用することでそれを賄っている。
扇谷上杉家の重鎮太田資正からは謙信について「領民を慈しんでいる」と評されており、民政や殖産興業にも辣腕を振るって領民の生活水準の向上にも成功していた。

ちなみに女性説も存在する。
主な理由としては生涯不犯、定期的に腹痛を起こしていたこと(生理痛?)、緻密で丁寧な文書を書いていたこと等が挙げられている。
その為、よくそちら方面のゲームでは女体化され、にゃんにゃんされる。
女体化こそされずとも、性別不詳だったり中性的な容姿だったりすることも。
神罰が降ろうとも上杉神社に安置されている御神体を調べたいものである。
もっともこの時期は女性の領主も結構存在しており、わざわざ性別を偽るメリットが見当たらないため、女性説は俗説の域を出ないと見做されている。

2007年の大河ドラマでは謙信役にGacktが起用された。
「むさい坊さん」「渋いクール」などのこれまでのイメージを払拭しつつもどこか常人離れした新たな謙信像を作り出した。
2009年の大河ドラマでは「渋いクール」に戻ったが今までのイメージと少し離れたボサボサのバサラ髷である。


因みに裁判史にも大きな影響を残している。
ある時、謙信の若い部下が重度の軍法違反を犯して処刑されると言う事件が起こる。
証拠も十分で尚且つ犯した罪自体も処刑が当然と言う内容だったのだが、彼の父親が「裁きは当然だが父として耐えられない!!」と刀を抜き、
事情を説明に来た使者に切りかかって近所一帯を巻き込む大乱闘の末に父親は斬殺、母親と妹は逮捕されてしまう。

謙信は、
「父親は息子を失ったショックで突発的な発狂を起こしたのだ。家族にも止めようが無かっただろう」
と、逮捕された母親と妹を無罪放免として、自分のポケットマネーで生活が落ち着くまで面倒を見てやった。

この「突発的な発狂の場合、家族は無罪放免」という判例は江戸時代にも継承されており、元禄赤穂事件に多大な影響を及ぼしたと言われている。

同じ公務中の刃傷事件でも
  • 内匠頭の叔父の内藤忠勝→乱心認定されたので、親族は無罪放免
  • 浅野内匠頭→乱心認定されなかったので、弟は座敷牢送り、叔父は謹慎
と親族が連座されるかどうかで大きな違いが出ている*7
浅野家家老の大石内蔵助達譜代家臣達は、内匠頭の弟の浅野大学が無罪放免になっていたらその家臣として雇用されていた可能性が高いにも拘らず、
その道を閉ざされてしまったことで、仇討ちを叫ぶ強硬派に合流した一面も有るとされている。

また、兄に不満を持った家臣に担ぎ上げられて家督を継いだ謙信だったが、相続直後はそれを不服とする一族に反乱を起こされたりと家中は揉めた他、
謙信の領国経営自体も、初動はあまり順調とは言えなかった。
どのくらいかというと、

内政、外交、戦、朝はおはようから夜のおやすみまで、大好きな酒の時間でさえも、父の長尾為景を引き合いに出されたりした。

あげく、

病弱で当主を交代した兄からもやいやい言われたりした。

謙信が何か行動を起こす度に、長尾家の古株達や越後の国人達にケチをつけられまくっていたのである。

好敵手の信玄も、家督相続の際には一悶着あったし、国人の扱いもで解決と、わりと苦労しているのだが、
あちらは父親が超絶KYウルトラ脳筋だったのに対し、
こちらは今でこそ謙信自身の方が有名だが、当時は父親の「越後のチート」こと長尾為景の威光がそれこそ越後全体に知れ渡っていた。

家督を継いだばかりの謙信は、還俗したての坊主上がりとあまり良い目を向けられなかったのである。
これらの長尾家の態度にプッチーンした謙信は、


「長尾家のバカ!もう知らない!!」


と、

こないだまで居た寺に引き込もってしまう。

当然長尾家は大慌て、今更こちらをチラチラ見てくる兄者を当主に戻す訳にもいかず、更に、

大熊「なんかここ空気わりぃ。オレ武ちゃんとこに行くわ。」

と、空気を読まないクマーまで出て来てしまう。

そんな長尾家ヤバイの状況で、謙信は何をしていたかと言うと、


寺で昼寝



寺で昼寝



大事な事なので、二回言いました。

それを聞いた長尾家の愉快な仲間達は、
「コイツただもンじゃねぇ!」
と、勘違い(後筆)し、その日の内にあなたには逆らいませんという内容の血判状をしたため、寺に送り届けた。

謙信はこの血判状をみて長尾家に戻り、当主としての自信と自覚をもったという。



(長尾家マジどーでもいいと、寺で寝てばっかいたのは内緒)



さらに無敗ではない
さらに無敗ではない。
大事なことなので…。

たとえば1566年3月に上杉謙信は15000人の大軍を率いて、原胤貞以下2000の兵がいる下総臼井城を包囲し、
臼井城へ上杉軍の猛攻をかけ落城寸前までいった。
だが、たまたま城内に居合わせた男が関東一円に聞こえた軍師白井胤治で、落城寸前の城の指揮を原胤貞から託された。

胤治は「上杉軍は大軍で味方は寡勢であるが、士気はお味方の方が勝っています。かならずや、謙信めを蹴散らしてくれましょうぞ!」と士気を鼓舞した。
一方、「この程度の小城なぞ一気に攻め落としてしまえ!」と3月26日に謙信は総攻撃をかける。
対して、胤治はなんと城門を全開にして謙信の本陣目がけて突撃をかけ、不意をつかれた謙信軍は大混乱に陥り一時撤退を余儀なくされた。

翌日、「勢いに乗る白井はかならずや攻め込んでくるだろう」と本陣で手ぐすね引いて待っていた謙信だが、一向に敵は攻めてこない。
ついにしびれをきらした謙信は、海野隼人正が「本日は千悔日と言い、先に行動を起こすと敗れるという日です。敵城には白井浄三という名軍師がおり、おそらくその指図でしょう」と止めるのも聞かずに総攻撃をかけた。
それを待っていたかのように、胤治は臼井城の城壁を一気に倒し、轟音とともに取り付いた上杉兵数百を崩れた城壁の下敷きにした。
「はわわ」とばかりに謙信はあわてて全軍に撤退命令をだすも、城内から原の軍勢が一気に襲いかかり上杉軍は5000の死傷者を出して命からがら逃げたという。


謙信の関東越山時の有力武将だった太田資正は
「謙信公の御人となりを見申に、十にして八つは大賢人、其の二つは大悪人ならん、怒りに乗じて為し給ふ所多くは僻事あり、是其悪き所なり。
又勇猛にして、無欲、清浄にして、器量大、廉直にして隠す所なく、明敏にして能く察し、慈恵にして下を育し、好みて忠諫を容るゝ等の如き、是其の善き所なり。
末の世には有り難き名将なり。是故に其八つは賢人と申すなり」

と評している。
勇気と状況分析力・判断力、部下の諫言の妥当性を理解して素直に受け入れる度量の大きさ、廉直さ、
そして領民を慈しんで民政を充実させた実績は高く評価しているが、怒った時の残虐性は戦国時代の基準でもドン引きするレベルであった
なお太田資正と謙信の関係性は関東越山の初期と後期でかなり変わっていることも付け加えておく。



彼を取扱った作品

海音寺潮五郎「天と地と」
宮下英樹「センゴク天正記」
半村良 「戦国自衛隊」


太閤立志伝
戦国無双上杉謙信(戦国無双)
決戦III
戦国BASARA上杉謙信(戦国BASARA)
信長の野望

戦国大戦
戦国ランス
戦極姫上杉謙信(戦極姫)
戦国乙女上杉ケンシン(戦国乙女)
桜花センゴク 〜信長ちゃんの恋して野望!?〜
戦国✝恋姫
Fate/Grand Order八華のランサー
(上記7つでは女性として登場。信長の野望シリーズでは天道から性別の選択が可能となっている。BASARAでは中性的な容姿と口調で、担当声優は女性だが性別は不明)


極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし*8




追記、修正は、「景虎」を飲みながらお願い致します。

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最終更新:2025年07月15日 18:53

*1 当時の寺社は非常に大きな影響力を持っており、寺社を抑えることは政治上でも重要なことであった。例えば後に謙信と関わりを持つこととなる駿河の今川義元も当初は仏門に入っていた。

*2 長尾能景が隣国へ侵攻した際に無茶な侵攻を命じられて討ち死にしている。

*3 伊達家に嫁いでいた女性が上杉氏出身だった

*4 管領とは室町幕府で将軍に次ぐ地位を持つ官職

*5 当時の将軍足利義輝の義理の兄弟にあたる人物

*6 当時強い力を持っていた寺社勢力。越中の隣国である加賀(現:石川県)では守護が討たれたり、後の織田信長や徳川家康も煮え湯を吞まされるほどには、戦国大名にとって厄介な存在であった。

*7 しかも、浅野内匠頭の場合、稲葉、秋元、土屋の三老中が狂人ではないか? と将軍・綱吉に感想を述べている

*8 訳:私が死んだあと極楽に行くのか地獄に行くのかはわからないが、私の心は雲のかかってない月のように、一片の曇りもなく晴れやかである。