登録日:2012/09/09 Sun 02:47:34
更新日:2025/04/22 Tue 20:50:09
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『少年の日の思い出』は、ヘルマン・ヘッセが1931年に発表した短編小説。
【概要】
原題は
“Jugendgedenken”
日本では、1931年に高橋健二の翻訳が出版され、『少年の日の思い出』の邦題がつけられている。
1947年に高橋の訳した内容が教科書に載って以来、実に70年以上教科書に掲載され続けている外国文学であり、日本人にとても馴染み深いであろう一作である。
会社によっては「クジャクヤママユ」というタイトルだったかもしれない。
思春期という子供から大人へ変わる多感な時期、即ち
小学校後半から中学校の時代に学ぶのだが、
非常にインパクトの強い道徳的内容となっている。
「習ったが内容をまったく覚えていない」という人は少ないのではなかろうか?
キーワードは3つ。
- エーミール
- 蝶と思い出
- そうか君はそういうやつなんだな
とりまこの3つを覚えておけば間違いない。
本文は大人になった主人公が、蝶のコレクションを見せて来た友人に思い出を話すものとなっている。
【思い出の内容】
主人公である「僕」は、流行りの蝶集めを幼い頃に始め、そして時間を忘れてしまうほど熱中していった。
隣人のエーミールは“非の打ち所が無いという悪徳”を持つ少年で、同じく蝶集めをしている。
彼は、僕の見せたコムラサキにあれこれケチをつけるような奴だった。
それから2年経ち、少年達が少し成長したある日のこと。
「エーミールが超絶レアな蛾であるクジャクヤママユ(ヤママユガ)の羽化に成功したらしい」と耳に挟む。
以前よりクジャクヤママユに熱烈な憧れを抱いていた僕は、彼の家を訪ねる……も留守。
普通はまた後日となるだろうが、彼の熱情は尋常なものではなく、運よく空いていたエーミールの部屋に侵入。
首尾よく部屋に入り込み、件の蛾を目に出来た僕だったが、その美しさに惹かれ、思わずそれを盗んでしまう。
最初はウッキウキで喜んでいた僕だが、
メイドの足音で焦り、慌ててポケットにクジャクヤママユをぶち込む。
しかし脆い蝶にそんなんしたらどうなるかは明白。無惨にも美しい蝶は粉砕されてしまった。
罪悪感に苛まれた僕は、思い切って母に打ち明ける。
母に促された僕はエーミールに謝罪へ行く。
しかし、エーミールはただ軽蔑の目で僕を見つめ、「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」というのみであった。
僕が
「玩具を差し出す」
「蝶を差し出す」
そう言っても彼は受け入れず、僕をただ眺め、ただ軽蔑するのであった。
そうして、僕は自分のコレクションを全て破壊したのだった――
【解説】
初めて読んだ感想は「エーミールひっでぇ」だろう。
しかし、冷静に内容を考えると、別にエーミールは全く何も悪いことをしていない。
そもそも「非の打ち所の無いという悪徳を持つ」というのは、作品の主人公である「僕」の主観であり、要はただの妬み、嫉妬のフィルターを通した意見だ。
のび太が出木杉に対して「あいつは、頭はいいし、スポーツは万能だし、男らしくて親切で…」と感じているのに近いであろうか。
確かに「僕」の手に入れたコムラサキを見たエーミールに
「20ペニヒが妥当」「触角が曲がってたり伸びてる」「おまけに、足が2本も欠けてる」などとは言われたのは確かに気分は良くなかっただろう。
だが、ここで大切なのは見せた理由。
恐らく「僕」は常にエーミールに劣等感を抱えているのである。
他の友人にも見せなかったコムラサキを、あえてエーミールに見せたのも「こんな凄い蝶を持ってるぜ!」と見せ付けてマウントを取りたかった意識があったのであろう。
だが、僕よりも蝶に精通しているエーミールにあれこれ指摘され、勝手に返り討ちにあったのである。
僕は「難癖をつけられた」と言ってるが、そもそもエーミールは正直に欠点を言っただけである。
そもそも標本は僅かな欠点がそのまま値打ちを下げる原因となるのだから、同じコレクターとしてそれに情熱を燃やす僕にアドバイスをするのは当然である。
指摘しないままでは僕も学習ができないのだから。
何も「君は蝶の扱い方も知らない」というような嫌味を言ってきた訳ですらない。
それなのに僕は、エーミールの大切な蝶を自分の欲望のままに盗もうとし、しかもそれを無残な有様にしてしまう。立派な住居不法侵入に窃盗、及び器物損壊である。
アニヲタっぽく言うなら「2,3年かけて作った模型やジオラマを盗まれたあげく壊れて帰って来た」ようなものか。実際、エーミールが「非の打ち所がある悪徳少年」であれば、怒り任せに僕を殴っていたかもしれないし、報復として僕の蝶を逆に壊していたかもしれない。
挙句の果てに僕は、まず弁償に「僕の玩具をやる」と言った。蝶を壊したのに玩具を渡すと言ったのだ。
人のもの壊しといて自分のコレクションは手放したくないってか?
玩具あげたぐらいで2,3年かかった蝶の標本壊されたことを許すとでも思っていたのだろうか?
更に自分で蝶を壊しておきながら「ごめんなさい、蝶か玩具あげるんで許してください」で解決しようとするのは、あまりにも人を舐め腐っているのではないだろうか。
加えて僕のコレクションは、エーミール曰く「高くても20ペニヒ程度の価値しかない」代物。苦労して羽化させたクジャクヤママユに比べれば塵芥に等しい。
僕が最後にエーミールと会ったとき、壊されたクジャクマユをなんとか元通りにしようと取り繕った形跡があったことも語られており、彼の内心は察するに余るものがある。
強いて僕を擁護するなら「蝶が元通りに戻るなら、どんなものでも差し出しただろう」と回想で口にしているあたり、とにかく反省はしていたものの他に償う方法がなく、上記のような方法しか思いつかなかったとも捉えられるだろう。
しかし、僕は犯した罪に対して不釣り合いな提案しかできなかった。
この時点で、もう既に何もかも手遅れだったのだ。
エーミールの最後の一言は、要約すれば「君には改めて失望した」ということである。
そして「君がどんなに蝶を取り扱ってるか知ることができた」というのは、「君は他人の大切な蝶を盗み、乱暴にした挙げ句壊すほど蝶を悪く取り扱ってる」という意味かもしれないし、「そんな人間が扱ってる蝶を貰ったところで何の価値もない」という批判を皮肉混じりに口にしたとも捉える事ができるだろう。
その一言で済まされてしまったことによって僕は、「贖罪の方法」も「エーミールに勝つ事」も叶わなくなり、挙句の果てには「蝶への情熱」も消えてしまった。
全てを失ってしまったのだ。
蝶も思い出も美しいが、脆く儚く簡単に壊れてしまう。
主人公は自分のコレクションを壊す事で、少年時代の思い出にピリオドを打ったのである。
主人公は、そんな絶対に癒えない劣等感を抱え生きているのだ。大人になった今も。
【余談】
- 本家ドイツでは、実はこの作品はヘッセの「作品集」や「全集」的な本にも載ってなかったりするくらいマイナーである。
「ヘッセといえば『少年の日の思い出』」というのは日本だけなようだ。
- 本作は1911年に発表された「Das Nachtpfauenauge」の改稿版であり、全集などにはこの初稿バージョンが収録されている。
どちらもストーリーの流れは概ね同じだが、微細な変更点が散見される。
- 高橋はヘッセ本人から「帰りの電車で読んでよ」とこれを渡されたそうだが、軽い時間潰しにしては些か内容がキツくなかろうか……。
- 20ペニヒは1マルクの1/5。
これが現在の日本円で大体いくらかと言うと、105円ぐらい(2009年時点)となっている。
- 実はクジャクヤママユ(原文ではNachtpfauenauge=直訳で『夜の孔雀の目』)は本作が和訳されるまで和名が決まっていなかった。
僕のオナホを全部やると言った。それでも冥殿は、依然僕をただ軽蔑的に見つめていたので、僕は自分の書き込みを全部消すと言った。
しかし彼は、「結構だよ。僕は、君の建てた項目はもう知っている。」
「そのうえ、今日また、君がアニヲタWikiをどんなに取りあつかっているか、ということを見ることができたさ」
と言った。
そして彼は、すべてのアニヲタwikiを消してしまった。
追記修正は、一度起きたことはもう償いのできないものだということを悟ってからお願いします。
最終更新:2025年04月22日 20:50