フローレンス・フォスター・ジェンキンス

登録日:2017/08/07 (月) 16:58:00
更新日:2018/04/14 Sat 19:40:43
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「私が歌えないという人は大勢いますが、私が歌わなかったと言った人は一人もいませんわ」




フローレンス・フォスター・ジェンキンス(1868-1944)とは、実在したきれいなジャイアンである。



伝説



ジェンキンスは20世紀前半のアメリカで活動した歌手であり、あのカーネギーホールで開催されたオペラに出演したこともある。
当時では最も有名な歌手で、そのチケットを手に入れることはワールドシリーズのチケットよりも困難であり、
公演の際には会場に入れなかった人々が会場の外を取り囲み、警官が出動したこともあった。


と、ここまでなら「へー、偉大な歌手だったんだろうけど、あくまでその時代で一流だったってだけで歴史に残るほどじゃ無くね?」と思う人もいるだろう。
だが、ジェンキンスは同時代のどんな歌手とも一線を画す存在であり、またその死後、彼女の後を継ぐ者はついに現れなかった。
というのも、彼女は


根っからの壊滅的な音痴


だったのである。
音程もリズムも取れなければ、音域も壊滅的で、息も続かない。


どれほどだったのか、当時のメディア等における批評をざっと見てみよう。


「これまでマンハッタンで披露された中でも、おそらく最も完璧かつ絶対的な才能の欠如」(ライフ誌)
「救いようもなくわめく彼女の歌声を聴くことは、精神病院の保護室に収容された患者の声を盗み聞きすることに似ている」(ビルボード)
「ジェンキンスの歌唱は、歌において想像しうるあらゆる欠点、あらゆる失敗のカタログだ」(ハーバード大学准教授V・A・ハワード)
「夜の女王然としたジェンキンス夫人の急上昇と急下降、のたうちながら転がり落ちてゆくトリル、ほろ酔いのカッコウのように繰り返されるスタッカートは、
聞けば爆笑必至だが、マンハッタンで彼女が毎年行っているリサイタルもだいたいこんな感じだ」(タイム誌によるレコード票)
「歌唱能力が完全に欠落していたことで有名である」(Wikipedia)
「その歌は輪姦される七面鳥の声に似ていた」(某ライター)
一千万匹の豚のように歌った」(The singing voice誌)
何か言えば中傷になってしまうのでノーコメントにさせてください」(Esquire誌)



……もちろん、世の中に音痴な人間などごまんといる。
だが、彼女が絶大なる人気を博し、カーネギーホールを満員にしたのは紛れもない史実である。
果たしてこれは一体どういうことなのだろうか。

第二次世界大戦中という暗い世相の中で、「勘違いおばさん」をネタとして楽しんでいた客がいたのも事実だろう。
だがその生涯を紐解いていくと、彼女が多くの人から本当に愛されていたのもまた事実であることが伺える。



生涯



ジェンキンスはペンシルベニア州のかなり裕福な家庭に生まれた。
父親は弁護士かつ銀行家、母親も資産家の娘であり、何不自由なく育てられた。
やがて音楽に興味を持ち、8歳の時には歌唱コンクールで「天才児」と絶賛され、全米規模のフェスにまで参加している。
ここから、「若い頃は本当に天才だったが、後年何らかの理由(後述の梅毒など)で音痴になった」という説を唱える人もいるが、
まあ、やっぱり金持ちの娘なのでゲタを履かせてもらっていたと考えたほうが自然だろう。


しかし本人はそんなことはつゆ知らず、「私は天才歌姫!!」と思い込むようになってしまった。
周囲も悪いパターンだろこれ……


だが17歳の時、ヨーロッパに音楽留学したいと願い出た時には、父親にきっぱりと却下されてしまう。
もちろん父親としては、娘を一人で海外にやることの不安以上にお前が音楽家で大成できるわけないだろ、常識的に考えて……という親心だったに違いないが、
自分を天才歌姫だと思い込んでいるジェンキンスは「なんでパパは私の才能にフタをしようとするのよ!!」と盛大に勘違いした挙句、
33歳の医師と駆け落ちしてしまう。
当然実家からは勘当された。


だがこの男、医師としてはともかく男としてはトンデモないロクデナシであり、結婚後も不特定多数の女性と関係を持った挙句に妻に梅毒をうつしてしまう。
ジェンキンスが34歳の時に夫婦は離婚したが、ジェンキンスは治療の後遺症で頭髪を失うわ、財産もほとんど失うわ(まあ、これは彼女が音楽関係の仕事をすることに固執していたせいでもあるが……)
と散々な目に遭ってしまう。
やがて娘の窮状を聞きつけた父親は使いを送り、

「うちに戻ってきてもいいですけど、歌だけはやらんといてくださいよ

と念を押しつつジェンキンスを呼び戻した。


ジェンキンスは「安定した生活よりも音楽がやりてえんだよ!!なんで父も世間も自分の才能を認めないんだ!!」と思っていたに違いないが、
結果的にこの判断が彼女を有名歌手に押し上げることになる。
数年後に父が無くなり、莫大な財産を手に入れたからだ。


と言っても、その金にものを言わせてコンサートホールやレコード会社を買収し……というわけではない。
彼女は今でいう財団を設立し、若手の音楽家や美術家を支援したのだ。
若い頃の自分と同じ境遇の人たちを救いたいと考えたのかもしれない。


そして本人はというと、慈善活動の傍らこっそり歌のレッスンを受け、財団のパーティの席上などでたまに披露した。
……やっぱり自分が歌いたいだけなんじゃなかったんですかね……
ただし最初はチケットをただで配ったり、逆に客に金銭を上げたりもしており、金に糸目をつけない人ではあっても金の亡者では無かった。


財団の成長もあってこの歌が次第に評判を呼び、やがて全米の注目を集めることになるのだから、人生何が起こるかわからないというものである。
もちろん彼女の本位ではない注目の集め方だったわけだが、彼女は


「やっと世間が私の歌を認めたのね!!」


と確信した。
この期に及んでも自分が音痴であるということには気が付かなかったらしい。


もちろん客が増えるにつれて、彼女のチャリティー精神に共感した善意の人ばかりではなく、ヤジや罵声を飛ばすためにやってくる人も増えてきた。
だが、彼女はそれらは全てライバルの妨害か、自分の才能に嫉妬した奴らだと思っていたというから、もはや無敵である。
ただし本項目冒頭に掲げた発言から、ある程度は自覚していたのではないかという説もある。


1941年にはタクシーに乗車していて事故に遭い、一時意識障害にまで至ったのだが、彼女曰くこの事故のおかげで以前より高いFの音が出るようになったらしく、
運転手に苦情を言うどころか高級葉巻一箱を贈っている。
この逸話以外でも、彼女は他人に贈り物をするのが好きだったというエピソードは数多く残っており、彼女が周囲から愛された一因であると思われる。
なお他人に借りを作るのが嫌だったらしく、他人からの贈り物は決して受け取らなかったという。
まさに見事なまでにジャイアニズムの逆を行く人であった。


そして1944年。歌手として最高峰と言えるカーネギーホールでの公演を大成功させた彼女は、その一か月後に76歳で世を去った。



逸話


彼女の舞台が盛況を極めた理由として、その類まれな歌唱力とサービス精神に加えて、大胆な衣装とこだわり抜いた演出もあった。
一回の公演で最低3回は衣装を変え、客席に惜しげもなく花を振りまいた(途中で花が足りなくなり、客席から一旦回収してもう一回投げたこともあった)。
背中に天使の羽を付けたド派手な衣装が有名だが、この衣装を着たジェンキンスのことをある批評家は「餌をやり過ぎたガチョウ」と評した。


彼女が自分の音痴を自覚していなかったことを示すエピソードとして、彼女はレコーディングは一発録り主義者だった。
あるレコードを収録した際、どうしても最後の一音が気に入らなくて没にしようと提案した。
周囲はもはや最後の一音がどうとか気にしているような段階ではないことを知っていたので優しく静止した。
なおこの歌はオペラの名人でも難しいとされる難曲「夜の女王」であり、その出来は当然……


彼女の音源について語る時に避けて通れないのが伴奏のマクムーンの存在である。
自由気ままに歌う彼女のミス(というかミスしかない)を何とかフォローしようとしているのだが、さすがに完全にはついていけず何度か滑っている。
間奏部分の上手さとのギャップもあって、素人耳にも爆笑もの。





公平に言って、彼女が自分の財力にものを言わせて野心を実現させたという側面は否定できない。
だが周囲の人々の証言からは、彼女が真摯に音楽や芸術を愛し、他人への支援や施しを喜びとする、自信と誠実さに溢れた愛すべき人であったことも伝わってくる。
この人柄が無ければ、彼女の名前が現在まで語り継がれることは無かったかもしれない。





さて、そんなジェンキンスの気になる歌声だが、幸いにもいくつかの音源が残っており、動画サイトなどで視聴可能である。
是非飲み物を口いっぱいに含んだ状態で聞いていただきたい。
また、その前に上手い歌手の同じ演題を聞いておくことを推奨する。







追記・修正はジェンキンスの歌を100回リピートしてからお願いします。




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