陳勝

登録日:2018/03/19 Mon 19:00:00
更新日:2024/05/25 Sat 23:13:27
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陳勝とは、秦朝末期に忽然と現れ、忽然と消えた張楚の王であり、名言メーカーであり、三日天下ならぬ半年天下に終わった流星である。


【出生】

汝陰郡は陽城県の人。字は「渉」。

若いころは貧乏な日雇い農夫、兼街の警備員で、言うことだけは大きいチンピラだった。
あるとき貧乏農夫仲間と休憩したときに「いつか金持ちになっても、仲良くいようぜ!」と放言した。
しかし相手は「オレらみたいなのが金持ちになんてなれるわけねーだろが。JK」とあしらった。
このとき陳勝が叫んだのが「嗟乎! 燕雀安くんぞ知る鴻鵠の志を!」――ザコに大物の意志が分かってたまるか!――である。


【大沢郷起義】

さて、時は秦朝末期。二世皇帝の代となり、労役が著しく増加。
もともと始皇帝時代から阿房宮・驪山(始皇帝の墓)・直道の建設などの巨大事業が行われていたが、始皇帝時代にはこれら事業は受刑者や摘発された不正役人、それに働かずに徒食する者などに限って動員されており、正業に就いていた者は動員されていなかった。
陳勝も日雇いでも農業についていたため、この時期は徴用されていない。劉邦は「働かない入り婿」ということで徴発された

が、二世皇帝胡亥はこれら制限を撤廃し、正業に就く良民からも大規模な徴税・徴発を繰り返した。
陳勝もまた労役の人夫として徴発され、現場に向かわされる。
しかし途中の長雨などで予定期日は遅れ、到着しても処刑される状況になった*1
この状況で、陳勝は同僚になった呉広と相談。

「進んでも殺されるし、逃げても殺される。ならいっそ、ここで隊長をぶち殺して旗揚げしちまえばどうだ!」

結論が出た二人は、仕込みを行った後に隊長をあえて怒らせた上で斬殺。九百人の部下たちを扇動した上で、

「王侯将相、いずくんぞ種あらんや!」
――「王や諸侯、将軍や宰相となるのに、生まれの違いがあるもんか!」

という名文句を放ち、九百人の賛同を獲得し、扶蘇と項燕の名をかたって旗揚げした。
これが、世に言う「大沢郷起義」である。


【張楚の陳王】


たかが農民九百人に、ことさらな強さがあるわけではない。

本人たちもそれは自覚していたようで、初動期には始皇帝の長子である扶蘇*2、反秦の象徴である項燕将軍をそれぞれ名乗り、そのネームバリューを利用している*3

しかし、すでに秦朝の支配に辟易していた民衆たちや、見切りを付けた本職の兵士・役人たちまでもが合流し、陳勝軍団は雪ダルマ式に増大
各地の守備隊を粉砕・吸収しつつ急速に勢力圏を広げ、かつて楚国の都があった陳県*4を制圧するころには、戦車六~七百、騎兵一千、歩兵は数万から十万以上と言う大勢力となった。
ここに至り、陳県の長老たちは陳勝を擁立して楚の王として迎え、楚国を復興させた。「王侯将相、いずくんぞ種あらんや」を地で行ったわけだ。
なお、この楚国は単に「楚」とも言うが、「勢力拡張」という願をかけて「張楚」とも呼ばれる。
また陳県に首都をおいたことで「陳王」とも呼ばれる。地名をそのまま国号とする風習に則ったか、彼(陳勝)自身の名と掛けたか、いまだ野にある楚の残存勢力に気を遣ったものとみられる。

この陳勝の勢いに影響されて、各地で雌伏していた旧六国の残党たちがいっせいに蜂起。
また、陳勝も各地に軍隊を派遣し、これらの動きを支援した。

まず趙国では、陳勝が派遣した武臣が旧首都・邯鄲を落とし、趙王として自立。
続いて、武臣の配下・韓広が派遣先の燕国を平定し、燕王として即位した。
魏国ではやはり陳勝派遣の周市が領土を平定。自らは宰相となり、旧魏王族の魏咎を王として奉戴した。

斉国でも、もと王族の田儋(田タン)が王となり、斉国を復興させていた。なお、魏王を奉戴した周市は本来斉国の平定に派遣されていたが、田儋はそれを追い払っている。
また、呉中ではやはり楚国系の項梁が決起していた。

これらの動きにより、旧六国のうち楚・趙・燕・魏・斉の五国が復興したことになった。
韓国だけは動きが遅れたが、陳勝の死後に張良が項梁に進言し、とりあえず韓成韓王となる。*5

さらには旧六国系のみならず、チャンスと見た新興の野心家たちも決起した。その一人が、沛県を奪った劉邦である。
その他、復興組と新興組を問わず、立ち上がり諸侯を名乗ったものは数え切れないほど現れた。

陳勝は、武臣が自立した当初は「裏切りじゃねえか!」と怒ったものの、やがて亡国を立て直すことは覇者の使命という意見や、他国と同盟を組むべきという意見により、これらの動きを追認することになる。

相棒の呉広*6には連合軍を率いて滎陽を攻めさせ、また旧楚国生き残りの老兵法家・周章を抜擢して函谷関の突破に向かわせた。
これより、陳勝は単なる一揆勢力ではなく、明確な反乱軍として歴史に名を残すことになる。


【破滅】


だが、このとき陳勝の正面には秦朝最後の名将が存在していた。

秦の宮廷で少府(宮内庁)長官だった章邯が、驪山陵で労役についていた囚人から抜擢した軍隊を組織。
手柄を立てれば必ず罪を許して解放すると約束した。

章邯軍は、折しも函谷関を突破していた(!)周章の軍団を迎撃・敗走させる*7

さらにそのまま東に進んで、呉広を殺して兵権を奪った田臧を初めとする反秦連合の各軍を次々と殲滅し、
ついには陳県にまで攻め込み、陳勝自ら率いた軍隊をも粉々に打ち破ってしまった

大敗した陳勝はそれでも辛うじて逃げ延びた*8が、その逃亡先で御者の荘賈に見限られ、殺されてしまう


陳勝が大沢郷で決起してから王号を称し、破滅して殺されるまでの時間は、たった六カ月間のことだった


その後、残党はいくたびか首領の座を巡り殺し合いが起きたのち、項梁に攻められて敗北、項羽に皆殺しにされた。



「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を」「王侯将相、種あらんや」という名言が象徴する通り、陳勝には壮大な胆力と気迫が備わっていたのだろう。
それゆえに時代の最先端を突っ走り、この後の楚漢戦争までの激動の幕を上げる役を果たした。

しかし、気迫と胆力だけでは一時は名を挙げても長くは続かない。
気迫と胆力のほかには取り立てて強さも政治手腕もなかった陳勝は、自らが幕を開けた舞台を彩る最初の生け贄となったのだった。


【余談】


  • 死後の扱い
死後、漢帝国の世になった際に、漢の高祖・劉邦から「隠王」との諡号を送られた*9
結果としてあっけなく鎮圧されたものの、自分や項羽よりも先に秦朝に決起したことを讃えると言う意味があったらしい。

しかし、司馬遷は同じく劉邦の前に秦朝に立ち向かい、かつ同じように王を名乗って旧六国を復興させた項羽には帝王を描く「本紀」を立てているのに、
陳勝に対しては諸侯を紹介する「世家」に記載しており、項羽ほどの重要さを見出してはいなかったようだ。
なお、漢書においては「陳勝項籍伝」として、二人あわせて列伝にまとめられた。二人にとっては格落ちである。

  • 決起の時のエピソード
中国では、旗揚げする群雄は大概何かしらの「瑞兆」を得る。
陳勝の場合も釣った魚の中から「陳勝が王になる」と書いた布が出てきたり、土地廟から「大楚が興り陳勝が王になる」と狐が叫ぶ、という霊威が出ている。
しかし司馬遷はこうした「瑞兆」をすべて「陳勝と呉広が仕込んだトリック」とバッサリ言い切ってしまっている。
しかも占い師には破滅を予見されたのに本人たちは気付かなかったというオマケ付き*10
中国史を彩る「名君が現れる時の瑞兆」をそのまま信じなかった司馬遷の鋭い目がうかがえる。


  • 鄧小平と農民
二十世紀も後半に入ったある日のこと。
中華人民共和国の首脳・鄧小平が、内陸部の貧乏な農村へと視察に来た。
鄧小平が、貧乏そうな農民に問いかける。「今必要なものは何かね?」
農民は答えた。「陳勝と呉広」

社会主義政策下の農民が求めるのは、金や衣類のような保障でも有効な政策でもなく、農民反乱指導者である、ということを示す逸話……

……ではなく、ソヴィエト連邦において、中国を題材にしたアネクドート(民間の風刺ジョーク)の一つである。中国発祥ではない。たぶん。
ともあれ陳勝は「農民反乱代表者」として、外国にも聞こえるほどの知名度がある、ということで一つ。



追記・修正、いずくんぞ種あらんや!
――追記・修正をするのに、リアル人生の違いが関係あるもんか!


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最終更新:2024年05月25日 23:13

*1 秦法では期日までに現場に到着出来なければ死刑である

*2 扶蘇は始皇帝に諫言して北方に送られた経緯があり、現政権への対抗馬とされたと思われる

*3 ある程度成功した時点ですぐに止めたが

*4 もとはその名の通り「陳国」の首都だったが、のちに楚が陳を滅ぼして併合。その後、楚が秦に破れて陳に遷都し、そのまま滅亡した

*5 ただし張良は本格的に韓を復興させる気はなく、韓王成も実質劉邦の部下として扱われていた。

*6 この頃「仮王」に任命されていた

*7 この後周章軍は函谷関に籠もり数ヶ月持ちこたえる。撃破された後も更に立て直し戦うものの、最終的には壊滅。周章は自害した

*8 章邯が「もう個人としても組織としても再起不能だ」と判断して追撃しなかったためでもある。

*9 「隠王」という諡号は特に何も業績を挙げなかった王や政治を混乱させた王に対する諡号である

*10 「事業は成功するが、貴方達は鬼神となる」という占いに対して「鬼神の力を借りると良いのか」と解釈して上記の行動をとった。実際には「鬼」とは「鬼籍」などの言葉の通り死を暗示しており、実際に占いの通り2人は事が成就する前に鬼籍に入ることになった