登録日:2024/03/18 Mon 11:26:00
更新日:2024/07/28 Sun 12:00:44
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項燕とは、
春秋戦国時代末期の人物。
楚国の武将であり、
西楚の覇王 にして伝説の超中国人 として名高い
項羽の祖父でもある。
秦の
始皇帝(皇帝となる前なので「秦王政」と王号で呼ばれることも多い)が中華統一を開始した時期に現れ、
一時は秦軍を阻んだ武将として、
李牧とともに知られる。
下相の出身。
▽目次
【生涯】
◆前歴
『史記』によれば、項氏は代々、楚国の将軍を輩出してきた名家であり、また項という地を所領とする地方
貴族でもあった。
一方、唐代の
『元和姓纂』と北宋代の
『大宋重修広韻』では、項氏の祖先は
周王朝の封建諸侯で王室(姫氏)の分家でもある
項国の子孫であり、本来は姫姓だった。しかし春秋戦国時代に項国が
魯国に滅ぼされると、以後かつての国名を苗字にするようになった、という話が記録されている。
ただ、どちらにせよ項燕本人の詳しい出生などは不明。
なにせ項燕以前に項姓の人間もほとんどおらず、上記の通り、名字の由来もよくわからない。
後述する秦軍迎撃では項燕が主導的な役割を果たしているが、それ以前の軍功などについても分かっていない。
◆李信・蒙恬との戦い
初登場は紀元前225年。
すでに秦の始皇帝は天下統一を戦略目標として確定しており、韓・魏・趙・燕の四国を併合・郡県化。
その勢いのまま楚国にも軍を派遣していた。
この時の秦軍は総勢二十万。司令官は李信と蒙恬であった。いずれも始皇帝の腹心であり、「若い」と言われた武将たちである。
秦軍は二手に分かれ、李信隊は平輿を、蒙恬隊は寝丘を攻撃し、楚軍を打ち破った。次の目標は楚国の首都・寿春である。
ところが、ここで秦軍の背後に大きな問題が起きた。
すでに秦軍が陥落させていた、楚国の旧首都・陳には、前年(秦始皇二十一年、BC.225)から秦国の大臣である昌平君を置いていた。
もともと昌平君は、父親は楚の考烈王、母親は秦の昭襄王の娘、という秦楚両王家の血を引く人物。楚の考烈王がまだ王子だったころに秦国の人質として入朝し、昭襄王の娘に手を付けて生まれ、考烈王が帰国した際に置いておかれた子である。
そして秦国はこの時、制圧したばかりで動揺している旧楚国領民を安心させるべく、昌平君を楚国旧都に配置した。
ところが、その昌平君が「楚国の王子」として陳で反旗を翻し、秦軍の背後を遮断してしまった。
李信は直ちに、昌平君討伐を決意。兵を反転させて西北の陳に向けて進撃した。
同じく蒙恬隊も呼応し、両部隊は城父(地名)で合流した。
ところがその城父に、項燕率いる楚軍が追跡を掛けていた。
『資治通鑑』によれば項燕は、李信隊が城父に逃げ込むまで昼は強襲、夜は夜襲を続け、李信隊は三日三晩にわたって休息もとれず大いに疲弊したという。
さらに、李信隊が城父の陣地に逃げ込むと項燕はそこにも強襲を掛け、都尉七人を斬り、李信・蒙恬の率いた秦軍を壊滅状態に追い込んだ。
幸い、李信と蒙恬の両将軍は逃げ延び、敗残兵を率いて撤退したが、損害は大きかった。
ちなみにこの都尉とはどういう存在かというと、簡単に言えば将軍直下の武将、現代でいえば大佐あたりで数千人の部隊長クラスである。
アニオタ諸氏には大ヒット作「
キングダム」における飛信隊の楚水や田有、崇原あたり。
あるいは王騎軍の軍長録嗚未や隆国に相当すると理解すれば良い。
このクラスが7人も一気に斬られるということは、組織としてほぼ壊滅状態になったということになる。
◆王翦との戦い
ところが、それほどの大敗を喫していながら、始皇帝の戦略プランはまったく揺らいでいなかった。
彼は直ちに、老将王翦を再抜擢。六十万という秦国のほぼ全軍に相当する大軍を与えて送り出した。
もともと王翦は、楚国討伐には六十万の軍が必要だと具申していた。
しかし
始皇帝は「まさか」と思い、二十万の軍で充分と答えた李信を採用したのである。
楚国はもともと、古来からの貴族制政治システムを改革しないできたために、人材登用が貴族で埋まり、国内には冗官という地位・俸禄はあるが役目のない役職が多く、また軍隊も弱い、という有様だった。
実際、兵法書
『呉子』でも
「楚国は、民は惰弱で、土地は広すぎ、政治は乱れ、民衆は疲弊している。軍は、数は整うが維持ができない」と言い切られている。
この作戦以前からすでに楚国は領土の西半分を失っており(楚国の本来の首都だった郢、東に
逃げるように移した陳も陥落)、
始皇帝が王翦より李信の計画を採用したのもある意味では道理であった。
しかし事ここに到っては、王翦が正しかったことは明らかである。
始皇帝は自ら王翦の邸宅に赴き、
謝罪とともに出馬を要請。王翦の要請通り、六十万の大軍を預けて派遣した。
ちなみに、秦軍の総勢は百万ほどと言われる。すでに李信の二十万が壊滅し(相当数は離散しても帰還するとしても)、さらに同時期に息子の王賁が十万の軍を率いて魏国を攻略中であり、今また王翦が六十万を率いて出れば、秦国は空っぽになる。
というか、王翦が軍を率いたまま謀反を起こせば、手に負えない。実際、それを危惧する声もあった。
王翦がそんな
始皇帝の疑念を晴らすために演技をしたことは有名である。
紀元前224年、王翦率いる秦軍六十万は楚国に侵入。
楚国は直ちに、項燕を司令官として楚軍主力を動員した。
ところが王翦は、楚軍が接近すると兵を営寨に収めて守りの構えを見せ、一切の出撃を禁じた。
項燕は何度か秦軍陣地に進撃して挑戦したが王翦は動かず、また相手があまりに大軍なために項燕といえども突撃はできなかった。
対する王翦は、陣営内部で兵士を休息させていた。沐浴や飲食に気を遣い、兵士の中に入って慰撫・歓談し、ともに食事を取って親近感を醸成する。
そうして数日を経て、王翦は側近に「兵たちの戦意はどうだ」と尋ねた。答えは「敵の陣地に石投げ遊びがはやっているようです」だった。
「ならばよし」と答えた王翦は直ちに全軍出撃と敵軍殲滅を命令。
折しも楚軍は、陣地を引き払って東に撤退しているところだった。『呉子』には「整えども久しからず」とあり、動かない秦軍にじれて戦意が落ちきったのかも知れない。
いずれにせよ秦軍の戦意は高く、不意を突かれた楚軍はたちまち壊走。項燕にも手の打ちようがなかった。
王翦はそのまま楚国首都・寿春を攻撃。翌年に楚王負芻を捕らえて、ここに楚国滅亡を達成した。
その翌年には、王翦は蒙武(蒙恬の父親)の軍とともに、先年に秦から離反した昌平君の討伐を開始。
昌平君はこの時、楚王を名乗っており、項燕もここに合流していた。
しかし、突発的な反乱に加えて一城だけでは王翦・蒙武の猛攻を防ぎきれるはずもなく、昌平君と項燕はともに戦死した。
項燕の最後は「斬られた」とも「自殺した」とも伝わる。
なお、『史記』では項燕の最後は二種類あり、
- 『秦始皇本紀』
- 秦始皇二十三年(前224年)に楚王負芻が捕虜となり楚国滅亡、しかし同年に項燕が昌平君と合流・蜂起する。
- 翌秦始皇二十四年(前223年)、王翦・蒙武により昌平君と項燕は敗亡
- 『白起王翦列伝』
- 秦始皇二十四年(前223年)、まず寿春手前の蘄水で項燕が王翦に討ち取られ、そのまま寿春が陥落し楚王負芻が捕虜となって楚国滅亡
とする。
また『秦始皇本紀』では、李信が二十万の軍を率いて楚国に攻め込んだ時点では、昌平君は反乱していなかったとしている。
いずれにせよ、項燕は
始皇帝の戦略と王翦の戦術によって敗れ、楚国は滅んだ。
この後、秦は趙の残党が集結した代、燕の残党が逃げ延びた遼東を滅ぼし、最後に残った斉もたやすく陥落させ、天下統一を達成した上で全国規模の郡県制を施行する。
一方、項燕の「一度は秦軍を撃退した」という事実は大きな名声となり、やがて
項燕自身の神格化へと発展。
陳勝はその人望を利用するべく、相棒の
呉広に「生きていた項燕」を名乗らせて決起した。
また項燕の子供や親族も生き残っており、十数年後、
始皇帝の死後、胡亥と趙高の暴政で天下が乱れると彼らも決起した。
特に著名なのが息子
項梁と孫の
項羽で、項羽はやがて
西楚の覇王として歴史にその名を刻む。
また項燕の息子には他に
項伯が、他に項氏の出身者としては(詳しい血族関係は不明ながら)
項壮・項佗・項襄・項舎などが登場し、一部は
劉邦に降伏、前漢で劉に改姓しながら生き残った。
【人物評】
「始皇帝の野望を阻んだ」ということで、陳勝の時代には
李牧とならんで声望を誇った人物。
……なのだが、漢代以後も幾度となく文人たちから讃えられ「もし郭開の讒言がなければ」「もし秦国の謀略がなければ」と語られる李牧に比べると、項燕にはそうした話が少ない模様。
まあ漢代には「項羽の祖父」と言うことでその名をおおっぴらに賞賛しにくかったであろうし、そうなれば以後の王朝も、
なんとなく項燕を語る気風が盛り上がらなかったかも知れない。
また項燕の場合、秦軍の圧倒的な軍勢に正面から攻め込まれて敗北しており、さらに反間の計なども使われず正面決戦で敗れたため、
「もしもあのとき○○がなければ」という想像がしにくかったというのもあるだろう。
例えば「秦軍が二十万を撃退された直後に六十万も出せる国でなければ」といえば「そういう国だから天下統一をするんだろう」となるし、「もし
始皇帝が李信敗北で心が折れれば」と想像するのはあまりに相手任せ過ぎる。
また『史記』において項燕の記述は李牧より少ない。
そういったところも、項燕が李牧よりも“盛り上がらなかった”一因かも知れない。
【各作品】
「いにしえ武将」の一人として登場。
統率力・武力・魅力がすべて80台という典型的な武将。知力も70台、政治力はやや低めながらも60台と必要十分なものは揃っている。
魅力が高いのは、死後も旧楚国人の間で慕われていたことからか。
さすがに項羽のような桁はずれた数値は持っていないが、逆に政治力が低すぎるとか言うこともない。
寝丘や旧首都・郢を秦軍に占領されたのは項燕の「苦肉の策」としている。
しかし国力と軍事力の根本的な差は如何ともしがたく、王翦の六十万の大軍には叶わなかった。
現状は名前のみの登場。いちおう楚国で大将軍のひとりとして在籍しているらしい。
項翼という同姓のオリキャラが登場しているが、関連性も不明である。
宋義「項梁どの、気をお鎮めください! 電脳端末がはじき出した数据に拠りますと、アニヲタwikiは壊れておりません。あなたさまの追記・修正ひとつで、お父上の情報を守ることも発展させることも、自由自在でございますじゃ」
項梁「……ああそうか……」
- 結局のところ戦争は将軍の差ではなく国力の差が勝敗を左右するって事だな -- 名無しさん (2024-03-19 02:37:06)
- 英傑大戦では高コスト武将ほど武力兵力が増加する号令持ち。城に張り付いた槍兵を延々回復しながら兵力ゴリ押しする姿は史実への皮肉か? -- 名無しさん (2024-03-19 11:10:35)
- 都尉七人が部隊長クラスだと、キングダムなら楚水とか田有あたりの、お馴染みの連中が一気にここで退場してしまうのか・・・ -- 名無しさん (2024-03-19 20:26:22)
- もしかしたら飛信隊はほとんど全滅するかも? -- 名無しさん (2024-04-13 09:46:19)
- キングダムのネタバレを見てしまった気分(そうなるかは不明だけど)昌平君キングダムでは裏切らないよね😭 -- 名無しさん (2024-04-14 23:29:09)
- 横山版の史記では彼はセリフも無いまま最期を遂げてるな -- 名無しさん (2024-07-28 12:00:44)
最終更新:2024年07月28日 12:00