登録日:2024/09/12 Thu 20:29
更新日:2025/03/02 Sun 13:21:35
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今でこそワールドカップ出場常連国で、多くの選手が海外でプレーするサッカー日本代表。
しかし、サッカー日本代表が世界への扉を初めてこじ開けた試合のことを、あなたはご存知だろうか?
この「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれる一戦こそ、1997年11月16日、日本が初めて
ワールドカップ予選を突破し、98年のフランスW杯への挑戦権を得た、記念すべき試合である。
若い世代の躍進、A代表の苦戦
ドーハの悲劇であと一歩のところでワールドカップ出場を逃した日本代表。
しかし、Jリーグの開幕により日本サッカーは確実に力を付けていた。
象徴的なのはアンダー世代の躍進である。
94年、19歳以下の選手で構成される日本代表が初めてアジア予選を突破し、自国開催以来となるU-20ワールドカップの扉を開いたのを皮切りに、翌年には
23歳以下の選手で構成される日本代表が銅メダルを獲得したメキシコ大会以来となるオリンピックへの出場を果たした。
このアトランタ五輪でU-23代表は優勝候補の一角であったブラジル代表から後に「
マイアミの奇跡」と呼ばれる大金星をもぎ取り存在感をアピール。若武者たちがA代表に先駆けて世界の扉を開いたことで、日本の将来に希望の光が灯った。
しかし、一番肝心のワールドカップを目指すA代表の強化は、決して順風満帆なものではなかった。
続投を要請されたハンス・オフト監督はワールドカップ出場を逃した責任から固辞し、退任。
代わってバトンを受け継いだのはブラジル人のパウロ・ロベルト・ファルカン監督。
彼は現役時代、「神様」ことジーコをはじめソクラテス、トニーニョ・セレーゾとともに「黄金の中盤」をブラジル代表で形成し、その華麗なテクニックと抜群のコンビネーションプレーでブラジルのファン、サポーターを魅了したスター選手だった。
ブラジル代表やブラジルのクラブでの指揮経験もあり、「世界を知る監督」として招聘された彼は多くの若手選手を積極的に召集するなどチーム改革を進めたが、前指揮官のオフト氏に比べ選手の自主性に任せた指導には疑問が次第に集まり、結果キリンカップのフランス代表への惨敗と同年のアジア大会(現在はU-23の大会となっている)において韓国に敗れてベスト8に終わり、目標であった「大会優勝、あるいは韓国より上の成績」を果たせなかったことが決定打となって一年の契約を延長せず解任された。
ファルカン氏が前任のオフト氏に比べ日本サッカーとの関わりが薄かったことによるコミュニケーション不足を感じた協会は、次の監督は日本人監督にしようと方針を転換。
代わりに監督に就任したのは、加茂周監督。彼はJリーグ開幕前、まだ新興チームに過ぎなかった日産自動車(現在の横浜Fマリノス)を複数のタイトルを獲得する強豪チームに引き上げ、J開幕後は横浜フリューゲルスの監督として天皇杯のタイトルを獲得。
さらに日本ではまだ珍しかった組織的守備「ゾーンプレス」をいち早く導入するなど海外の最新の戦術導入にも積極的で、まさに日本人に監督を任せるなら、彼以外にはいないとまで言われるほど高い評価を受けていた。
親善試合でヨーロッパの強豪チームを撃破するなどスタートも上々だったが、連覇がかかっていたアジアカップではクウェートに敗れてベスト8に終わり、ワールドカップ出場に暗雲が立ちこめた。
最終予選の流れ
フランスW杯の2次予選を2大会連続で突破し、最終予選に進出した日本。
この大会から出場国が24から32へ拡大されたこともあり、アジアからの出場枠は2枠から3.5枠に増加。
大会方式はセントラル方式から、最終予選全出場国を2グループに分け、ホーム&アウェイで1試合ずつ総当たりで出場国を決める、出場枠以外は現在の予選方式とほぼ同じ形へと改められた。
このグループ内で1位になったチームがワールドカップに自動出場、2位になれば別グループの2位と第3代表の座をかけて戦い、勝てばワールドカップ出場。負けても最後のチャンスとしてオセアニア代表とのプレーオフ出場権が与えられる。
初戦、ホームでウズベキスタンに6-3で快勝し最高のスタートを切るも、2戦目はアウェイでUAEと0-0のスコアレスドローに終わる。
3戦目にグループ最大のライバル、韓国との大一番をホーム国立に迎えた。
後半、山口素弘の鮮やかなループで先制点を挙げるも、試合終盤に2点を奪われ痛恨の逆転負けを喫してしまう。
この結果、3連勝で単独首位に立つ韓国との勝ち点差は「5」に広がり、UAEにも抜かれて3位に転落。早くもワールドカップ出場に黄色信号が点ってしまった。
またリードの直後、FW呂比須ワグナーを下げDFの秋田豊を投入した加茂監督の守備的な采配が消極的と批判され、加茂監督解任論が次第に高まっていった。
監督交代、そして第三代表決定戦へ
再びアウェイとなったカザフスタンとの4戦目、秋田が先制ゴールを奪うもロスタイムに追いつかれ、首位突破が絶望的、2位も危うくなった。加茂監督は現地で解任され、暫定監督として岡田武史ヘッドコーチが監督に昇格した。
アウェイ連戦となった5戦目のウズベキスタン戦、1-0でリードを許し敗色濃厚のロスタイム、呂比須のヘディングが相手GKのミスでゴールインし土壇場でドロー。
さらにUAEが連敗し、勝ち点1差まで迫った。この試合でワールドカップ出場に希望を見出した岡田監督は当初1試合だけという予定を改め、それ以降も指揮を取ることに決めて正式に監督に就任。
そのUAEをホームに迎えての6戦目は呂比須の2試合連続ゴールで先制するも追いつかれドロー。同時に韓国が1位突破でワールドカップ出場決定。
日本は2位でのプレーオフ進出の可能性を残すのみとなり、さらには2位争いのライバルUAEに引き分けたことで自力でUAEを上回ることが不可能になってしまい、崖っぷちに追い込まれた。
試合後は一部のサポーターが暴徒化し、選手バスにものを投げつけるなど大荒れとなった。
7戦目、既にワールドカップ出場を決めている韓国とのアウェイゲームは、日本からワールドカップ出場を信じるサポーターが大勢駆けつけ、隣国のアウェイゴール裏を青く染め上げた。
その声援に奮起した日本は、韓国を圧倒し2-0で快勝。
同時にUAEがウズベキスタンに引き分けたため2位を奪回し、自力でのPO出場が復活。
そしてホームでの最終戦でカザフスタンを5-1で一蹴し、Aグループ2位とのプレーオフ…すなわちアジア第3代表決定戦に望みをつなぐことに成功した。
最後の強敵・イラン
第三代表決定戦は日程の問題でホーム&アウェイでの開催が難しかったため、中立地のマレーシア・ジョホールバルでの一発勝負で行われることに。
対戦相手はイラン。日本に先駆けて1978年に出場を果たしていたものの、それ以降は出場から遠ざかっており久方ぶりの出場を目指していた。
また、イランには後に
クリスティアーノ・ロナウドが更新するまで国際Aマッチ最多得点記録を持ち、ドイツ・ブンデスリーガにステップアップを果たしていた絶対的エース、アリ・ダエイと、同じくブンデスリーガでプレーする強力なドリブルが武器のアジジという強烈な選手たちがおり、当時の日本代表からすれば別格の彼らをどう抑え込むかが勝利の鍵であった。
ジョホールバルには大勢の日本人サポーターが駆け付け、殆どホームの雰囲気を作り上げた。
前半39分、この時既に片鱗を見せていた日本が誇る若き司令塔・中田英寿のパスを中山雅史が決めて先制。日本がリードして前半を折り返す。
しかし後半開始わずか25秒でダエイのシュートのこぼれ球をアジジが押し込んで同点とすると、59分にはダエイが強烈なヘディングを叩き込みイランが逆転。
絶体絶命の日本は
三浦知良と中山の2トップに変わり城と呂比須の若手2トップを投入。
この采配が的中し、76分に中田のクロスから城がヘディングで同点ゴールを挙げて2-2と試合を振り出しに戻す。
そのまま90分では決着がつかず、試合は延長戦へと突入した。
そして歓喜へ…
現在では90分で決着がつかない場合は15分ハーフの延長戦→30分かけても同点ならPK戦という流れだが、
この当時はJリーグの延長Vゴール方式を原案とした、どちらかが1点を決めた時点で試合が決するゴールデンゴールという方式が利用されていた。
PK戦前に試合を決めたいと考えた岡田監督は、ある選手に声をかけた。
「岡野!」
岡野雅行。ロングヘアーのワイルドな風貌から「野人」のニックネームで親しまれ、Jリーグで屈指のスピードスターとして召集されていたが、テクニック不足と言われておりこの最終予選では一度も出番を与えられていなかった。
このワールドカップ出場をかけた大一番、岡田監督は一か八か、彼が持つポテンシャルに掛けたのだ。
しかし岡野は責任感からか空回りし、ドフリーのシュートを豪快に宇宙開発したり、絶好のチャンスでパスを選択するなど精彩を欠いた。
「今度失敗したら殺してやろうか」
岡田監督はそこまで考えていた。
しかしイランも長距離移動による疲労もあってか日本に押される時間が増え、ダエイらもチャンスをものに出来ず、延長戦も終盤、PK戦への突入が濃厚になり始めた。
そして、延長戦の後半13分だった。
中盤からドリブルで持ち上がった中田が体勢を崩しながらも強烈なミドルシュートを放つが、イランGKのセーブに阻まれる。
しかしシュートの勢いが強く前に弾き出すのが精一杯で、ボールが手前にこぼれる。
その瞬間、そこに1人だけ青いユニフォームの選手がいた。岡野だ!
こぼれ球を狙って走り込んでいた岡野は、GKが起き上がる間もなく、イランのゴールネットに値千金のシュートを突き刺した!
殊勲の岡野に駆け寄るチームメイトたち。ベンチから飛び出す控えメンバーとスタッフ。
歓喜に湧く日本のゴール裏、そしてテレビ中継を見ていた日本国民も互いに抱き合い喜びを分かち合う。
ゴールデンゴールを日本が見事勝ち取ったことで、残り僅かの時間を待たずして試合は決着。
1954年のスイス大会から始まった、日本のワールドカップへの挑戦。
1997年11月、日本サッカーの「ワールドカップ出場」という夢物語は、ついに現実となったのだ…。
余談
- こうしてフランスワールドカップで初出場を果たした日本だが、世界の壁は未だ厚く、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカの前に3戦全敗という結果に終わった。しかし、最後のジャマイカ戦で中山雅史がワールドカップ第1号ゴールを決め、初陣の足跡はきっちり残している。
- フランスワールドカップの予選中に次回のワールドカップが韓国との共催で日本開催が決まり、初出場は内定していた。そのためこの予選は、「開催国権利で初出場」という不名誉な肩書きを免れ、日本がワールドカップで戦うのに相応しいチームだという事を証明する一度きりのチャンスという意味合いを持つものでもあった。
- 当時連載されていた漫画『俺たちのフィールド』において、加茂をモデルにした代表監督がこの件をかなり強い表現で取り沙汰した台詞はよく引き合いに出される。
- なお、後に2022年のカタールが「開催国権利で初出場」した初の事例となった。
立場的にも↑の台詞がまんま揶揄として当てはまってしまうのが何とも。
- 歴史的因縁もありバチバチの関係にある韓国だが、このアウェイ戦時点ではW杯共同開催が決まり友好ムードが高まっていたのか「日本、一緒にワールドカップに行こう」という横断幕で日本にエールを送った。
- この予選以前はW杯出場を賭けて一騎打ちの対決になったこともあるなどW杯出場権を争うライバルでもあったが、日韓W杯を境に東アジア内で日韓のチーム力が頭抜けてしまったこともあり、戦力均衡のためドイツW杯以降は日韓は別のグループに全て振り分けられており、W杯予選での対決はこれが最後となっている。
- イランとの試合前、アジジが練習中に怪我をしたとして車椅子姿で報道陣の前に現れたが、実はこれは仕込みであり上述するようにアジジは平然と試合に出場した。これは通称「アジジ作戦」と言われイランが仕掛けた情報戦として有名。
- マスコミやサポーターは唖然となったが、日本代表のスタッフや選手たちは初めから真に受けておらず、アジジは普通に試合出場するものとして準備をしていた。
- 後年の当時のイラン監督へのインタビューによるとこれは日本を欺くためのものではなく、アジジが練習中にチームメイトと喧嘩したことに激怒し協会がアジジを強制送還させようとした(イランサッカー協会は規律を重んじていて問題行動を起こした選手は主力であろうと容赦なく代表からの追放などの介入処置を行う)ために、怪我をしたことにしてそれを回避するためのものだったという。怪我はしていなかったが、それにより前日練習は休んでいたとのこと。それでも1ゴールの活躍を見せて日本を追い詰めた。
- 日本に敗れたイランも後日、大陸間プレーオフでオセアニア代表のオーストラリアを破り、ワールドカップ出場を果たしている。
- 日本のJリーグが導入した「延長Vゴール方式」を原案とする「ゴールデンゴール方式」は95年から04年までの全世界の公式戦で採用されていたが、ヨーロッパをはじめとする各国のサッカー協会から「1点が決まった時点で相手に反撃のチャンスがなくなってしまうのは不公平」とクレームが殺到したため、15分ハーフのうち延長前半時点でどちらかがリードしていた場合決着となる「シルバーゴール方式」が数年間採用されたのを経て、現在は15分ハーフの延長戦を後半まで行い、それで決着がつかない場合はPK戦というスタンダードな方式がほとんどの場で採用されている。
- これにより日本は世界で唯一の「ゴールデンゴール方式でワールドカップ出場を決めたチーム」となった。ワールドカップ予選という重要度の高い大会でゴールデンゴール形式が今更復活するとは考えづらく、おそらく日本が最初で最後になるだろう。
世紀が変わって地元開催の日韓大会を挟んだ日本は、あれから今まで1度も予選落ちにもプレーオフ送りにも至ることなく、すっかりワールドカップ本戦の常連となった。
それでもしばらくは本戦のグループリーグで苦しんでいたが、安定してグループリーグを戦い抜き、ベスト16たる決勝トーナメントの門を叩ける程度には力をつけてきた。
そして年号が変わって久しい、2026年の北中米大会からはアジアの出場枠は8.5枠にまで拡大され、もはや
ワールドカップ予選は日本にとって狭き門ではなくなったと断言できるだろう。
それも、あの日死力をかけて戦った彼らが道を切り開いたからこそなのである…
このピッチの上、円陣を組んで、今散った日本代表は……私たちにとって“彼ら”ではありません。これは、“私たちそのもの”です
―――NHKアナウンサー 山本浩氏
追記、修正はジョホールバルの歓喜を生で見ていた方も、そうでない方もお願いします。
- リアルタイム視聴中、岡野がゴールを決めた瞬間に大興奮して飛び上がった足先がテレビの角に当たって大惨事になったのもまた良い思い出です(笑 -- 名無しさん (2024-09-13 01:35:36)
- ファルカンは当時JFA関係者だったセルジオ越後が仲介役を務めて相当苦労して招聘したが、結局1年足らずで解任。(結果が伴わなかったから仕方なかったとはいえ)仲介役だったセルジオは面目丸潰れとなり、それ以降JFAとは距離をおくようになり且つかなり批判的になった -- 名無しさん (2024-09-13 01:56:31)
- 岡野曰く外しまくった後救いを求めるように岡田監督を見たけど放たれた言葉は「岡野テメー殺すぞー!」だったそうな -- 名無しさん (2024-09-13 02:14:06)
- ここで自力で出て以降、必ず出てるんだから本当に強くなったなと(2002は開催国なのはあるとはいえ) -- 名無しさん (2024-09-13 12:47:00)
- 日本が世界の扉をこじ開けた瞬間。 -- 名無しさん (2024-09-13 15:33:00)
- ゴン中山とキングカズのツートップとか凄い時代だったな -- 名無しさん (2024-09-13 15:33:29)
- 崖っぷちまで追い込まれたホームUAE戦のドローの後、当時Nステのスポーツコーナー担当キャスターだった川平慈英が半ギレ状態で報道していたのを覚えてる -- 名無しさん (2024-09-13 15:35:52)
最終更新:2025年03月02日 13:21