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更新日:2025/03/18 Tue 20:36:06
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安富才助(1839〜1873年)
幕末の新選組隊士。
箱館政府・陸軍奉行添役
通称は才助、諱は正儀。
目次
誕生
天保10年(1839)、備中足守木下家の家臣・安富正之進(1813〜1852)の次男として足守で誕生。
父の家禄は12俵2人扶持、役職は川場方、年貢収納役を務めていたが、弘化3年(1846)に江戸詰を命ぜられ、後に勘定方勤務に就く。
この時、一家で江戸に移住した。
上の兄は同じ木下家家臣の宮崎家に養子へ行き、宮崎源之助と名乗る。
正之進の安富家は分家筋で、安富家の本家筋は木下家で典医をする家柄と伝えられる。
父は嘉永5年(1852)に江戸で亡くなり、才助が家督を相続し、後に結婚、娘が誕生する。
父の役職である勘定方を引き継いで勤務し、仕事の合間をぬって馬術の練習に励み、大坪流馬術の免許皆伝を授かる。
新選組へ
文久3年(1863)、妻を病で亡くしている。
翌年、娘を他家へ養女に出し、元治元年(1864)10月、
新選組に加盟して上洛した。
新選組は近藤勇ら一行は朝廷の攘夷督促使として東下した武家伝奏(公卿)坊城俊克が帰京する護衛に任じ、才助ら新隊士もこれに従う。
この点、松本良順の
「蘭疇自伝」
でも
「明日は坊城氏を護衛して京師に帰ることとなれり」
という近藤勇の話を引いていた。
この頃の入隊同期は
伊東甲子太郎や
久米部正親、
近藤芳助と後半の新選組を賑やかにする面々である。
才助は斎藤一の四番隊に配属になり、伍長として勤務、馬術師範に名前を連ね、後に調役に転属した。
この後は、新選組では大名家で下っ端とは言え、勘定方を務めていた経歴から事務仕事を主に務めた。
慶應3年(1867)3月に行われた新選組全員が幕臣に採用された際の扱いは「見廻組並」だった。
戊辰戦争
新選組は近藤勇が不在で慶應4年(1868)1月3日に鳥羽街道と伏見の市街地ほかで行われた鳥羽伏見の戦いの総責任者は土方歳三が務め、才助はそれを補佐したと言われている。
江戸に敗走後、負傷療養から復帰した近藤、土方らが設立した甲陽鎮撫隊に参加した。
勝沼の戦いで惨敗すると、会津に向かうという近藤の話から新選組は五兵衛新田、次いで流山に駐屯し、才助もこれに付いてきた。
同年4月3日の昼、流山の本陣が太政官側に包囲された。
朝から新選組の大半は訓練で出払っていて、最終的に近藤が板橋の太政官総督府まで出頭し、取り調べの結果、首を斬られ、三条河原に曝された。
それと引き換えに、太政官の武装解除に応じで武器を差し出した新選組は会津へ落ち延びたが、これを率いたのが斎藤一で才助は副長として斎藤を補佐し、白河方面で参戦した。
土方は近藤の出頭後、江戸で勝海舟に面会したり、徳川脱走陸軍に参加して宇都宮城攻防戦で負傷する。
その土方が復帰し、同年8月22日の母成峠の戦いで新選組は会津軍に参加、しかし大敗すると、土方は会津に見切りをつけて、仙台にいる徳川脱走艦隊へ参加する話を主張、斎藤は会津に残り徹底抗戦を主張し、才助は土方に付く。
新選組は仙台に到着した時点でかなり数を消耗していた。
徳川脱走艦隊を指揮する榎本武揚が戦闘員以外の乗船を厳しく制限しており、この艦隊に乗船していた元大名の松平定敬、小笠原長行、板倉勝静らの家臣は少数しか乗船が認められていなかった。
元伊勢桑名松平家当主で元京都所司代。
京都守護職で陸奥会津松平家当主・松平容保の弟。
薩長同盟の裏書きで徳川慶喜、松平容保とともに打倒しろ、討幕の密勅では殺害しろと名指しされていた。
元肥前唐津小笠原家世継ぎで老中。
生麦事件で戦争回避の為に独断でイギリスに賠償金を支払い、そのまま西洋式軍隊を率いて攘夷派追放、孝明天皇に開国和親の勅命を認めさせる、認めなければ
承久の乱も辞さない強硬路線を見せたが、京都にいた将軍・
徳川家茂に説得されて江戸に戻った。長州毛利家絡みの問題では長州の攘夷が途中から嫌がらせの攘夷になっている事や第二次長州征伐で小倉口の総司令官を務めたが敗戦するなど煮え湯を飲まされ、太政官が嫌い。
鳥羽伏見の戦いの後、上野の彰義隊に参加したり、奥羽越列藩同盟の政治顧問をしていた。
元備中松山板倉家当主で首席老中、寛政の改革で有名な松平定信の孫。
安政の大獄から復帰後、老中として徳川幕府を支え、勝海舟からは
「祖父の松平定信を既に超えている」
と言われ、イギリス公使パークスからは社交界で通用すると言われた教養人。
二人に蛮勇を奮うことが出来ないのが玉にキズと言われた。
外交では嫌がらせの攘夷をする長州毛利家に、内政では大政奉還をした徳川慶喜を挑発する薩摩島津家の強硬派に煮え湯を飲まされ、太政官が嫌い。
鳥羽伏見の戦いの後、奥羽越列藩同盟の政治顧問をしていた。
そこで土方が助け舟を出し、榎本に提案して新選組に参加すれば、乗船を認めると許可を貰い、殿様と一緒に蝦夷地に渡りたい人達を新選組に加え、才助が新選組隊長並として彼らを率いた。
蝦夷地に上陸した徳川脱走軍は軍を二手に分けて進軍したが、土方が指揮する部隊に新選組は居らず、もう一人の指揮官である大鳥圭介の指揮下に入り、進軍した。
五稜郭にいた太政官の軍隊と蝦夷地唯一の大名家で太政官に味方する松前家を攻略し、蝦夷地を平定、祝賀会を催し、その後、選挙が行われた。
蝦夷島政権とか箱館政府とか後世呼ばれ、総裁・榎本武揚から始まり、土方が陸軍奉行並になる奴である。
土方は新選組から外れたが才助もこの時、陸軍奉行添役に就任、新選組から離れている。
代わりに新選組を率いるのは、元伊勢桑名松平家家臣の森陳明。
参加時は森常吉と名乗っていた。
明治2年(1869)、4月19日、太政官の軍隊が蝦夷地・乙部に上陸すると、土方は二股口の指揮官に派遣された。
同年5月11日、箱館一本木関門で土方が戦死した際、才助はその最期を看取り、5月16日付けで手紙を書き、土方家へ渡す様に立川主税に託している。
一筆奏上。
雨が降りやすい季節かも知れませんが、春が来たことは揃って喜ばしい事です。
土方隊長は江戸を脱出して、伝習第一大隊を率いて下野宇都宮で戦い手傷を負われ、会津で療養全回復、会津の東側(母成峠)で戦いましたが、会津に帰れなくなり、仙台に落ち延びて、伊達の殿様から刀を賜り、福島に行きましたが、結果は良くなかった。
土方隊長は慶応4年10月、榎本和泉(武揚)殿と同盟して蝦夷に渡られ、陸軍奉行並海陸裁判役を司られ、その後、4月瓦解の時には、二股と言う所に出陣して大勝利を収めました。
その他にも数度戦い、松前方面がついに敗れたため引き揚げ、同年5月11日の箱館瓦解の時には、町はずれの一本木関門にて諸兵隊を指揮され、ついに同所にて討死され、誠に残念至極に思われます。私はいまだに無事です。何の面目がありましょうか。今日に至っては籠城戦と、軍議は定まり、みな討死の覚悟であります。
――隊長が討死なされたため
(追悼句)
早き瀬に 力足らぬや 下り鮎
同年5月18日、徳川脱走軍が五稜郭で降伏した際、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎らと共に一緒にいた。
その後
降伏後、青森、弘前に移送されて取り調べを受けた後、同年11月、才助は故郷の足守藩預かりになり、同年12月に到着。
足守藩の史料によれば、
「太政官の命で足守に護送され、そのまま兄の元で謹慎生活を送った」
とされる。
明治3年(1870)に太政官から罪を赦されたが、足守藩からの監視の眼は厳しく、帰農を命じられ、帯刀と領外への外出が認められなかった。
明治4年(1871)、戸籍に名前は記載されたが、廃藩置県後の足守県になっても才助の帯刀は認められなかった。
明治6年(1873)5月28日、足守にて死去。
墓は現在の岡山県岡山市北区足守・田上寺墓地にあり、戒名は無量院善来宗寿居士。
余談
安富才助の墓が発見されるまで、才助は阿部十郎に斬り殺されたという説が有力だった。
墓が見つかり、才助が病死となると、阿部十郎は誰を斬り殺したんだと言う話になるが、最近の研究では慶應4年(1868)6月20日、桶町一丁目の茶亭桜木にて新選組勘定方・大谷勇雄であり、それが誤伝したものとみられている。
追記、修正お願いします。
最終更新:2025年03月18日 20:36