川村三郎/近藤芳助(新選組)

登録日:2024/07/17(水) 07:20:00
更新日:2025/05/17 Sat 22:58:59
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川村(かわむら)三郎(さぶろう)(1843〜1922年)

新選組時代は近藤(こんどう)芳助(よしすけ)

幼名が三郎、通称が芳助、諱は正澄(まさずみ)、号は春辰(しゅんたつ)

目次


誕生

天保14年(1843)5月、幕臣川村家の三男として江戸で生まれる。
近江国国友村(現・滋賀県長浜市)出身とあり、何らかの理由でしばらく住んでいたが、再度、江戸に戻る。


川村家は代々、
「川向うの越後新発田溝口家下屋敷東塀沿い」
に屋敷があり、深川で産湯を使った江戸っ子。

長男•正芳(まさよし)、次男は隼人(はやと)

幼い頃に両親と死別、家督は長男•正芳が相続し、彼は幕臣小普請組の近藤(こんどう)芳三郎(よしさぶろう)に養子に入り、芳助を名乗る。

元服は、一族の川村文助(かわむらふみすけ)正朝(まさとも)が冠親を務め、通し字の「正」を贈られた。

養子先の近藤家は江戸牛込市ヶ谷甲良屋敷南方に有り、家の近くにある天然理心流「試衛館」に通い、近藤周斎(こんどうしゅうさい)から剣術を学んだ。

本所の悪*1に入り浸る為、養子先から勘当*2され、家を追い出された。
家も金も無い為、新選組に加盟して生計を立てる為に上洛したのは元治元年(1864)10月。

新選組へ

新選組は近藤勇(こんどういさみ)ら一行は朝廷の攘夷督促使として東下した武家伝奏(公卿)坊城俊克(ぼうじょうとしかつ)が帰京する護衛に任じ、三郎ら新隊士もこれに従う。

この点、松本良順(まつもとりょうじゅん)
蘭疇自伝(らんちゅうじでん)
でも
「明日は坊城氏を護衛して京師に帰ることとなれり」
という近藤勇の話を引いていた。

この頃の入隊同期は伊東甲子太郎(いとうかしたろう)久米部正親(くめべまさちか)安富才助(やすとみさいすけ)

三郎は、武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)の五番隊に配属され、久米部正親(くめべまさちか)と共に伍長を務めたが、その後、斎藤一(さいとうはじめ)の四番隊へ異動し、ここでも伍長として安富才助と一緒に小川一作(おがわいっさく)佐野七五三之介(さのしめのすけ)中西昇(なかにしのぼる)を預かった。

三郎は、新選組が壬生が西本本願寺境内北集会所へ移された慶應元年(1865)初頭から鉄砲調達の命を受け、近江国坂田郡国友村との間を往来する。

新選組が長州征伐の為に行軍禄を作成し、その中に小銃隊56名と記されている。

幕府は国友村と江戸の湯島馬場鋳造所で和製ゲベール銃を造り、新選組は「二ッバンド」の異名を持つ短い歩兵銃を用いた。

慶應2年(1866)に但馬出石に脱走した柴田彦三郎(しばたひこさぶろう)を追い掛けて、捕縛し、屯所に連れ戻し、切腹させた。

戊辰戦争

この後、三郎の名前は慶應4年(1868)1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いに出て来る。

淀千両松の激戦で負傷、大坂城で治療中に放火騒ぎが起こり、兄・正芳が徳川陸軍騎兵差図役に任官しており、この場は兄とその配下に救出され、天保山沖の徳川海軍軍艦・富士山で新選組と合流し、同年1月14日夕方に横浜港に着いた。

徳川宗家は横浜海辺通二丁目の仏蘭西(ふらんす)語学伝習所を仮病院に鳥羽伏見の負傷兵を収容した。

三郎は仮病院でフランス軍艦から招いた医師の治療を受けた。

そして退院前の同年2月25日に近藤勇の使者が来院し、三郎たち役付き隊士に江戸城から賜ったミカンと金巾(かなきん)*3が下げ渡された。

退院後、江戸で近藤たちと合流、甲陽鎮撫隊に参加した。

勝沼の戦いで惨敗すると、会津に向かうという近藤の話から新選組は五兵衛新田、次いで流山に駐屯し、三郎もこれに付いてきた。

同年4月3日の昼、流山の本陣が太政官側に包囲された。

朝から新選組の大半は訓練で出払っていて、残っていたのは近藤、土方歳三(ひじかたとしぞう)、三郎ら十人前後。

三郎の記録では、近藤は切腹を覚悟したが、土方が板橋の太政官総督府まで出頭し、鎮撫隊である事を主張し通した方が良かろうと奨めた、とある。

最終的に近藤は首を斬られ、三条河原に曝された。

土方は江戸で勝海舟(かつかいしゅう)に面会したり、徳川脱走陸軍に参加して宇都宮城攻防戦で負傷する。

残りは太政官の武装解除に応じで武器を差し出した後、会津に落ち延びた。

この新選組を率いたのが斎藤一で、白河口の会津軍に組み込まれ、味方の連携がグダグダな中、良く頑張った。

三郎も斎藤指揮の新選組で白河城攻防戦等に従軍した。

母成峠の戦いで惨敗を喫して会津城下へ逃れ、土方歳三派らは会津を去り、斎藤一派は会津に残る道を選び、三郎は双方からハグレてしまい、米沢上杉家家臣・雲井龍雄(くもいたつお)*4の記録によると、まず同年8月26日に三郎、次いで27日に永倉新八(ながくらしんぱち)と徳川家出奔の芳賀宜道(はがよしみち)、28日に徳川家出奔の望月光蔵(もちづきこうぞう)と面会とある。

雲井に連れられて米沢で再起を計画したが、上杉家も太政官に恭順したので立ち去り、仙台に向かい、箱館行きの船を見つけて蝦夷地に渡ろうとしたが、仙台で伊達家の家臣に捕まり、この時、徳川脱走軍の一員と名乗った。

東京に連行されて謹慎するも明治2年(1869)7月に静岡藩に引き取られるまで数回尋問を受けた。

兄は鳥羽伏見の戦いの後、恭順派になり横浜に移住、問われて三郎の身元を保証した。

静岡に移住後、今度は京都の太政官に呼び出され、150日の抑留と2回の尋問の後、釈放され、横浜の兄の下に赴き、性を川村に変えた。

新しい時代へ

明治24年(1891)12月刊行の交詢社
「第二版日本紳士録」
に弁護士と見られる。
ほかに土地家屋賃貸業、(株)横浜四品取引所、(株)横浜株式米穀取引所の各理事、横浜商業銀行および横浜時事新報の各役員を務め、また横浜三争件の一つ共有物問題の追及で名をあげ、自由党に籍を置く民権家として神奈川県議会の横浜区補欠選挙に初当選し、県会議員四期、横浜市会議員五期を歴任し渡辺福三郎(わたなべふくさぶろう)西村喜三郎(にしむらきさぶろう)と共に「市会の三・三郎」の呼び名が高かった。

三郎は、横浜市会「常設委員制度」の建議者で、また水道常設委員の最長老と自他ともに許し、「水道先生」のあだ名を持つ。

水道常設委員は経営にも参加し、諸会議や決裁事項をはじめ、わらじがけで水源地や工事現場などを回り、さらに水道債券の売りさばき、あるいは、給水制限の陣頭指揮までやった。

家庭に目を移すと、妻フクとの間に四男ニ女をもうけた。

また、三郎は旧幕臣の組織「同方会」の一員であった。

このように後半生を全うして、大正11年(1922)7月7日の「横浜貿易新報(第7677号)」に、次の死亡記事が載った。



○ 川村三郎逝く

元県会及び市会議員川村三郎氏は腎臓炎に罹り瀧頭の別荘で静養中であつたが遂に尿毒症を起して5日正午逝去した。
享年80歳。
氏は旧幕臣で明治3年横浜に来て商業を始め漸次名望を得て同廿年神奈川県会議員に挙げられし、以来数回県市会議員に当選して功績多く其の盛な当時は政友会神奈川県支部の幹事を為し、故平沼専蔵と共に名物男の一人であつた。
因に葬儀は8日午後2時、途中葬列を廃し南太田赤門東福寺で営む由。

新選組時代はと聞かれると、
「若気の至り、黒歴史(現代語訳)」
と答えていた。

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最終更新:2025年05月17日 22:58

*1 隠語で遊廓を指す

*2 小普請組は基本的に仕事が無いので、上役に顔を出して仕事を斡旋して貰ったり、幕臣で編成された洋式銃隊の訓練に参加しなければならなかった。仕事をして金を稼がない、訓練に参加しない、遊廓で高い金払って遊び呆けているでは、勘当されても反論出来ない。

*3 綿織物

*4 変名。本名は小島龍三郎(こじまりゅうざぶろう)。