登録日:2024/07/06(土) 06:20:00
更新日:2025/01/17 Fri 11:16:59
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久米部正親(1841〜1910年)
摂津国大阪出身。大坂町奉行付の与力の子として生まれる。姓は「粂部」と表記することもある。
元治元年(1864年)に
新選組へ入隊。
入隊同期は
伊東甲子太郎、
近藤芳助、
安富才助ら。
当初は武田観柳斎の5番組に配属になる。
慶應元年(1865)7月に伊東甲子太郎らとともに奈良潜伏の浪士捕縛に向かい、戦闘となって足に負傷をした。
月俸15両の伍長職を務め、慶應3年(1867)の幕臣取り立てでは見廻組御雇の格を受ける。
慶應4年(1868)の鳥羽伏見の戦いで負傷。
江戸に帰還後、甲陽鎮撫隊に参加、勝沼の戦いで敗走後、江戸今戸から負傷者20余人を会津に移送するために先発した。
会津戦争では軍目付を務めた。
この頃の新選組は京都時代の和装ではなく、韮山笠に黒か紺の詰襟服にズボン姿で鷹匠足袋に草鞋履き、大小を佩び、黒革に弾薬胴乱を腰に巻いた出で立ちでミニエー銃を携えて洋式軍隊の戦い方に慣れている様子だった。
会津軍に組み込まれ、白坂口の戦いや白河城攻防戦に参加。
主に指揮を取っていたのは宇都宮城攻防戦で負傷した土方歳三に代わり、斎藤一。
白坂口の戦いでは敵のミスを突き、味方の連携の上手さが加わり勝利を納めた。
白河城攻防戦では事前に会津軍の司令官と連名て、
『敵は西洋式の戦いに慣れていて、武器に優れ、指揮官も優秀。
こちらの数は敵の3倍だが、他の大名家との連合軍、西洋式の戦いに未熟、武器の規格がバラバラで性能差は段違い、指揮官も西洋式の戦いが初めてという人達ばかり。
これで勝てると思う奴は、薪を背負って泥の船で大海を渡るのと同じです。
そこで、予め、偵察部隊を出して敵の動きを探り、地形を利用した陣地を築いて敵の武器との性能差を殺して、守りに徹すれば、負けないでしょう』
と
どこかの魔術師みたいな意見を具申したが、
元ネタ同様、提案を受けた会津松平家の白河口総督•
西郷頼母は
「大軍を擁して、どうして今更負けない算段をしなければならないのか?
大軍なんだから、数て圧倒すればイイでしょ?」
と
元ネタと同じ様な却下の仕方をする。
新選組として母成峠の戦いに従軍し、惨敗を喫して会津城下へ逃れ、
土方歳三派らは会津を去り、斎藤一派は会津に残る道を選び、久米部は斎藤派に属したが、同年9月5日の如来堂の戦いでバラバラに分かれ、
佐川官兵衛が指揮する会津軍部隊に拾われた。
同年9月23日、鶴ヶ城に籠城していた会津松平家が太政官に降伏、佐川官兵衛が指揮する会津軍部隊も翌日降伏。
会津領田島で一緒にいた水戸徳川家の諸生党が天狗党の主力が会津に来ているなら水戸は手薄、水戸城を襲い徳川家再興を計画し、参加を要請してきた。
久米部は水戸城を奪ったら、そこで軍資金を貰い、那珂湊で船を調達して八丈島へ渡り、島を抑えて共和国的な
独立国を作る事を考え、諸生党の案に乗った。
久米部は名前を猪野忠敬と名前を変えて、諸生党と共に総勢860名は同年9月25日会津領田島を出発。
太政官からは動きを察知されており、一行は同年9月27日片府田村で朝食を準備する処を襲われ、約二時間の白兵戦になったが、佐良土村方面へ敗走した処で追撃部隊と交戦、短時間であったが激戦で、銃砲の音が村中に響き渡り、佐良土村の大半は兵火にかかって焼失し、里人は家財をまとめて避難した。
同年9月29日には水戸城下に到達し、「徳川再興」の書いた旗を押し立てて、水戸城を攻め立てたが、留守の水戸徳川家が近隣の諸大名からの応援を受けてこれを押し退ける。
久米部達は同年10月1日、水戸徳川家の学問所「弘道館」に立て篭もり戦い続けたが、参戦した
池田七三郎は
「思ってたんと違う!」
と話し、久米部たちは翌10月2日夜に水戸を諦めて撤退した。
同年10月3日、玉造村で久米部は諸生党と話し合い、
池田の話では
「八丈島へ渡るのを同意した」
と語り、銚子で軍資金と食糧と船を調達して八丈島独立国を実現しようとしていた。
この段階で諸生党と久米部たちは200人余りとなっていた。
久米部たちは船で銚子に向かおうと霞ヶ浦を南下したが、10月4日、そこで追撃に合い、松岸村に上陸。
ここで気持ちが折れて追撃してきた太政官の高崎大河内松平家の軍に10月5日降伏し、銚子へ連行された。
従ったのは110人。
久米部は猪野と名乗り、会津松平家の新遊撃隊に籍を置いていた。
また、一緒にいた
池田七三郎ら旧新選組の人達に、自分達が
新選組であると言わないように注意し、所属を新遊撃隊に置き換えた。
諸生党はさらに逃げ続けたが、翌日、松山村で水戸徳川家の追撃に合い、潰滅した。
同年10月18日、銚子を出立し、同月22日、東京に到着し、謹慎生活を送る。
一年の謹慎の後、釈放。
久米部は「猪野忠敬」名義で太政官に出仕し、明治5年(1872)陸軍歩兵少尉に任官、明治10年(1877)の西南の役にも従軍、明治12年(1879)には陸軍中尉に昇進。
明治13年(1880年)には明治天皇の下命により編集された写真帖「御下命写真帖」に記載するための写真を撮影している。
これは、数少ない新撰組隊士の写真のうちの1枚といえよう。
明治19年(1886)に退官。
新選組同志で
近藤芳助を訪ね、結婚しており夫婦で一泊したそうだ。
明治43年(1910)9月25日仙台の自宅で死亡。
部下として戦った
池田は
「久米部さんは、なかなか気の利いた人物でした」
と語り、逆境でも前向きに物事を考えて進んでいく、統率力のある人物だったとも話している。
追記・修正は八丈島に独立国を作ってから、お願いします。
- ちょっと内容薄すぎない? wikiほぼ丸写ししただけみたいに見える -- 名無しさん (2024-07-06 10:18:30)
- ↑wikiの久米部正親と同じ作り主の者です。会津や水戸の辺りは詳しく書こうと思えはまだ書ける。ただ、陸軍を退官した後の人生が近藤芳助と会ったくらいしかない。一般の新選組隊士、特に鳥羽伏見以前に入隊した隊士は足跡隠して生きてるから、本当に分からない。仙台で入隊した桑名や唐津の家臣出身の隊士の方がまだ、書けます。 -- 名無しさん (2024-07-06 11:20:54)
- ↑深掘りできそうにないなら単独項目じゃなく、「新撰組隊士」とかで一覧項目作ってその中に書けばいいのでは? -- 名無しさん (2024-07-07 01:37:05)
- 近藤芳助はそもそも勇の甥ですらない。近藤芳助は江戸の幕臣川村家の出。 -- 名無しさん (2024-07-16 22:48:21)
最終更新:2025年01月17日 11:16