登録日:2025/01/10 Fri 19:01:20
更新日:2025/05/09 Fri 18:40:20
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生涯
大納言・中山忠能の第七子として生を受けた。しかし、のちに忠能の長男・忠愛の養子になったため、戸籍上は忠能の孫となっている。
姉に孝明天皇の后となった慶子がおり、この慶子と孝明天皇の間に生まれた男児・祐宮が孝明天皇の崩御後、「明治天皇」として即位していることから、わずか7歳差ではあるが、忠光は明治帝の母方の叔父であるといえる。
安政五年(1858年)、忠光14歳のとき、これまで中山家で育てられていた祐宮が宮中に戻ると、忠光は侍従として付き従い、宮中に赴いた。
しかし、忠光は公卿の中でも気性が荒く、かなり過激な人物であった。例えば、文久二年(1862年)、当時京都三条に滞在していた土佐藩白札郷士・武市半平太のもとをわざわざ訪れ、
「急に悪いとは思うねんけどな、命取ったりたい奴がおんねや。ワシに刺客貸してくれへんか?」
と依頼することがあった。
もちろん、過去の歴史上にわざわざ武士の邸宅を訪ね、刺客の貸与を依頼する人物はこれまでいたためしはない。
とはいえ、気性の荒さは忠光の生まれもった性格だけが原因ではなく、中山家の家庭環境もその一因である。中山家は祐宮誕生の際に産屋を建てる金が無く、多額の借金をしていた。そのうえ、宮廷も貧しく、祐宮の質素な生活が忠光の
「将来の天子様がこないなビンボな生活送られはったらアカン!」
という王政復古を掲げた過激な攘夷論に火を付けたと思われる。
更に、彼の気性の荒さに火をつけたのが、『孝明天皇の異母妹・和宮親子内親王の徳川将軍家への降嫁』という出来事である。
忠光は和宮降嫁に動いた久我建通(内大臣)・岩倉具視(左近衛権中将)・千種有文(左近衛権少将)・富小路敬直(中務大輔)・今城重子(少将掌侍)・ 堀河紀子(右衛門掌侍)ら『四奸二嬪』の殺害を声高に主張した。
「ワシは何としてもうちの義妹泣かした『四奸二嬪』の命取ったるんや!」
と言い出したら聞かない忠光に、さすがの武市も
「岩倉や千種は謹慎中ですから、あの世送りにするのはやめておきましょう」
と止めたが、それで矛を収める忠光ではなかった。
そうして、「忠光が『四奸二嬪』の殺害を声高に主張している」という話が父・忠能の耳に入り、父は血気にはやる子を抑えようとした。
「アンタ、ええ加減におしやす。そないに『四奸二嬪』を殺したい殺したい言うのやったら、この父を殺してからにしたらよろし」
父親の命がけの説得で、忠光も『四奸二嬪』の殺害を諦め、以降は過激な行動は鳴りをひそめ、おとなしくなった……訳がなかった。
確かに『四奸二嬪』の殺害こそ諦め、文久三年(1863年)の二月から国事寄人に就任し、政務にあたっていたものの、同年三月に土佐藩士・吉村寅太郎の誘いを受け、加茂行幸に供奉してからこっそり京を脱出し、摂津沿岸を経て長州まで逃げた。名を「森秀斎」と名乗り、この年の五月に発生した馬関戦争に参加した。この戦争には敗北したが、忠光は自ら軍艦・庚申丸に乗り込んで外国船を砲撃している。しかし、
在職中の公家が勝手に京都を離れるのは大罪であったため、忠光はその廉でそれまで勤めていた国事寄人を罷免され、
従四位下の官位返上の沙汰が下っている。
翌月には吉村とともに帰京し、久留米藩士・真木和泉や長州藩士・
桂小五郎、同藩士・久坂玄瑞とともに交流を持ち、会合を重ねていた。
このごろ、かねてより忠光の素行の悪さに手を焼いており、絶縁していた忠能であったが、やはり父親としてわが子が心配であったのか、武家伝奏・
野宮定功に忠光の処分について質問した。野宮は忠能の質問にしてこう返答している。
「あんさんが息子はんを厳しゅう叱って、外出禁止にすることや。そないしたら、息子はんもちょっとは落ち着きはりますやろうな」
そうして、彼らにとってのビッグニュースが舞い込んできた。
八月十三日に大和行幸が実行されることが決定し、攘夷親征の詔勅が出されたのである。
「天子様から『早う攘夷せえ』と仰せがあったっちゅうことや。それに応えんとじーっと引きこもってはる場合とちゃうのえ!」
吉村は忠光を盟主に祭り上げ、同志の藤本鉄石・松本圭堂らとともに『天誅組』を結成した。
『天誅組』はまず手始めに大和五条の代官所を襲撃し、代官・鈴木源内を殺害して「討幕」の鬨の声をあげた。
しかし、彼らの天下は『三日天下』ならぬ『五日天下』で終わってしまった。
『八月十八日の政変』と呼ばれるクーデターにより、長州藩の尊王攘夷派はたちまち勢いを失い、彼らを頼みとしていた『天誅組』は孤立してしまったのである。
そこへもってきて、『天誅組』に力を貸していた戸津川郷士たちも、戦局が不利になったことで『天誅組』を見限った。度重なる同志の離反の最中、『天誅組』は作戦に関する意見の不一致から次第に仲間割れしていき、忠光ら「本隊」と「河内勢」に分裂することとなってしまった。
忠光ら『本隊』は各所を転戦したが、寄せ集め同然の編成であったため、いたるところ敗戦であった。そうして『鷲家口の戦い』で多大な犠牲を払いつつも、忠光はどうにか長州に逃げ延びることができた。
辛くも逃げ延びた忠光は豪商・白石正一郎の邸宅で潜伏生活を送っていた。とはいえ、そこでも気性の激しさはそのままであったという。のちに藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、江戸幕府方の密偵に隠れ家を突き止められた。先だっての政変以来、禁門の変や第一次長州征伐により、長州藩内において佐幕派勢力(俗倫派)が勢いを盛り返していたのだった。
この年の十一月十五日、豊浦郡田耕村の山の中で、忠光は幕府恭順派の5人の長州藩士に暗殺された。享年はわずか20才であった。
…その後、時勢の変化もあり、長府藩内(現:山口県下関市綾羅木)に建てられた墓を中心に作られた中山神社に祭神として祀られている。
その後
忠光の死から半年後の慶応元年(1865年)旧暦5月、長府藩出身で潜伏生活の中で忠光と愛を育んだ女性「恩地トミ」は、彼との間に授かった忘れ形見の娘「南加(なか)」を出産。
一方その少し前、長州藩本家では「功山寺出兵」で尊皇派が佐幕派に反攻し勝利。長州藩は再び尊皇の地となった。
…実行時には政治上やむを得ない理由があったとは言え、本家が尊皇重視な状況で毛利家の家臣が皇太子の叔父を暗殺した不祥事を無かった事にするため長府藩の事だけ考えるのなら幕府密偵に忠光を丸投げした方がまだましだったのでは…、
トミ・南加は母娘は一時長府藩から追われる身となり尊皇派の「奇兵隊」等に匿われるも、最終的に明治天皇の即位によって事態は南加を守る方向へとシフト。
南加は「天皇のいとこ」として長州藩に保護され、明治維新後(身分の都合上乳母扱いになったが母トミも一緒に)無事京都の中山家へと連れて行かれ、祖父忠能の養子に。
成人後は華族(旧公家)の嵯峨家に嫁ぎ子宝にも恵まれ、太平洋戦争終戦から5年後の1950年、南加は息子の元で享年85歳の天寿を全うした。
余談だが娘の近くで余生を過ごしたトミは、その美しさから長州藩出身の初代総理大臣伊藤博文(既婚者)にコナをかけられていたとかいないとか。天皇のいとこの実母なんですがねその人…。
一方で南加の晩年、彼女の孫娘の一人「嵯峨 浩」は満州国(旧清朝)の皇弟「愛新覚羅溥傑」と国際結婚したが、敗戦によって夫が兄(「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀)と共に中国(共産党)軍に拘束された事で、娘二人と共に日本に一時帰国。
途中長女が山で心中死を遂げる悲劇はあったものの、終戦から15年後に共産党に恭順し釈放された夫と再会し、日本に残る事を選んだ次女を残し再び中国へ向かい、1987年に他界。
その後、浩の遺言によって彼女と夫(1994年に他界)と長女の遺骨の一部は、曽祖父忠光の眠る中山神社に新設された「愛新覚羅社」に祀られている。
ちなみに浩の次女は日本で結婚して子供もいるため、他の嵯峨家の人々も合わせると令和の現在でも忠光の血は受け継がれている。
もし忠光がもう少し長く生きていれば、「皇太子の叔父」という立ち位置は色々な意味で重要性を増したと思われ、その状況で天誅組が彼を引き込めば乱の結果も違ったのかも知れない。
ただ少なくともその姻戚関係が紆余曲折はあれど愛人と娘を守り、曾孫が海を渡り清朝皇族の血をも広める嚆矢となり、彼が「ポンコツなダメ息子」「どうしようもない暴れ者」ではなく「悲運の公卿」として祀られる切っ掛けになったのは確かであろう。
追記・修正お願いします。
最終更新:2025年05月09日 18:40