岩倉具視

登録日:2025/07/09 Wed 19:24:27
更新日:2025/07/21 Mon 16:44:54
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岩倉(いわくら)(とも)()とは、江戸時代末期(幕末)~明治時代中期の公卿・政治家である。



出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」の「岩倉具視」のページから。https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/23/


生没:1825年10月26日~1883年7月20日
出身地:京都
幼名:周丸(かねまる)
別名:友山(法名)・対岳(雅号)

▽目次

生涯

少年期

文政8(1825)年、下級公卿・堀河(ほりかわ)康親(やすちか)とその妻・吉子の間に次男として生まれた。幼少期は周丸と名乗った。

公卿とはいいながらも、堀河家の生活は決して裕福とは言えなかった。そうした環境で育ったためか、周丸のふるまいには公家らしさがあまり見られず、また現存する数枚の古写真(本ページ冒頭に掲載の画像を参照)から推察されるように、ややごつい顔つきであったため、公家の子女たちからは「岩吉」というあだ名で呼ばれ、からかわれていたという。

しかし、そうした周丸少年の才覚を見込んだ人物がいた。
儒学者・伏原(ふせはら)宣明(のぶはる)である。
ある日周丸は、伏原の開いた『春秋左氏伝』の講義を受講している最中、同窓の中御門経之に「講義サボって将棋で勝負しよう」と持ち掛けた。
経之は「そんな役に立たない遊びなんかにかまけて何をやってるんだ」とあきれるが、周丸は
「『春秋左氏伝』の言わんとすることは、もうだいたいわかった。古文の字句のことを細かく調べるより、将棋を指して互い頭を使う方がよっぽどいいね」
と言い放った。
伏原は周丸のこの尊大な発言をしっかり耳に挟んだが、
「このお子様は将来、ひとかどの人物になる」
と周丸の才覚を見抜き、発言に対して一切とがめなかった。

そうして、伏原の推薦で、周丸は伏原と交友関係にあった公卿・岩倉(いわくら)具慶(ともやす)に養子入りした。
養子入りした岩倉家も、また貧しい下級公家の家柄であった。岩倉家は村上源氏を祖とする家だが、当時藤原家の子孫が幅を利かせていた朝廷においては、日陰者的な立場にあったためだ。
一説によれば、岩倉家は歌がるたの挿絵を製作したり、博徒たちへ有料で邸を提供して(いわゆる「テラ銭」のことである)賭博場を開放したりすることで口に糊していたという。
周丸は岩倉家に養子入りしたのち、養父から「具視」という名を賜った。これと時を同じくして、従五位下に叙せられて、昇殿を許されている。翌年には、朝廷にて宿直勤番を務めることとなった。

廷臣八十八卿列参事件

具視の才能を見抜き、具視と朝廷のパイプ役となった人物がいた。
それは、(たか)(つかさ)政通(まさみち)という公卿である。
政通は、内大臣、右大臣、左大臣を経て、岩倉が生まれる2年前の文政6(1823)年に関白となった、上級公家であった。その政治的手腕には、孝明天皇も一目置いていた。
具視は政通に取り入る際、政通の得意とする「和歌」を足掛かりとした。嘉永6(1853)年1月、具視は政通の門をたたき、弟子入りを志願し、これを許された。

とはいえ、具視の目的は和歌ではなく、優雅に歌を詠んで鞠を蹴り管絃を演奏するような公家たちの意識改革であった。政通も当時の公卿としては開明寄りの思想の持ち主で、具視のそうした野心を理解し、高く評価していた。
折しもこの年は、浦賀にペリー率いる黒船が来航し、政情がそれまで以上に不安定になっていた。長年にわたる「鎖国」体制が終わりを告げる中、具視は幕府も朝廷も変革が必要だと考えていた。
政通は具視の才覚を高く評価していた。そうして、安政5(1858)年、具視は34歳にして中央政治に乗り出すことになった。

しかし中央政界に乗り出した同年3月、具視は朝廷にて前代未聞の事件を起こす。88名の公家*1とともに、関白・九条(くじょう)尚忠(ひさただ)の屋敷を訪れ、抗議活動を行ったのだ。
事の発端は、日米修好通商条約の締結について孝明天皇の許可を得るべく、老中首座・堀田正睦が上京してきたことであった。
堀田の条約締結案に際して、天皇は「慎重に議論してからにせよ」とこれを拒絶。もとより、孝明天皇は自身の代での開国には断固として反対していたため、堀田の案に賛成できるはずもなかった。
一方、九条は堀田の条約締結案に理解を示し、天皇に勅許を求めた。これが具視ら堂上公家*288名と地下家(じげけ)*397名の反発を買った。
九条は当初「病」と称して面会を拒否したが、具視たちは「すぐにでも面会して今回のことについて明確な説明をいただくまで、我々は撤退しません」と長時間居座った。
根負けした九条は「明日なら面会できますから、今日はもう帰ってください」と伝えた。
具視たちが九条の邸宅を辞した際には、夜10時を過ぎていたという。
こうして、九条以外の公卿が日米修好通商条約の締結に反対したことで、天皇は改めて条約締結に反対の意を示した。
これが「廷臣八十八卿列参事件」である。

この事件から2日後、具視は政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出した。意見書の内容は、以下のとおりである。

  • 日米和親条約に反対の立場(そもそも開港するのは一つの港にするべきであったし、キリスト教の布教を認めたのもいけなかった)
  • 日米和親条約を拒否して戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策
  • 欧米各国への使節の派遣の提案
  • アメリカの同盟国としての可能性
  • 国を挙げての防御に備え、徳川家は改易せず、防衛にあたらせる

朝廷が条約締結を許可しなかったにも関わらず、幕府は同年6月に日米修好通商条約を締結した。
無許可での条約締結に孝明天皇は激怒し、水戸藩に「大老・井伊直弼を糾弾せよ」という仰せを出した。これが「戊午の密勅」である。
これにより、井伊は安島帯刀や鵜飼吉左衛門など水戸藩出身者をはじめとした尊王攘夷派や「一橋派」への大弾圧、すなわち安政の大獄を行った。この大獄の余波は皇室や公卿にも及んだ。

「安政の大獄」により朝幕関係が思わしくなくなることを危惧した具視は、京都所司代・酒井忠義(さかいただよし)や伏見奉行・内藤正縄(ないとうまさつな)などと会談し、彼らに天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過である旨を説いた。これにより具視と酒井は意気投合し、具視は幕府寄りのスタンスを示した。

和宮降嫁・暗雲

やがて、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、「幕府と協調すべし」という、いわゆる「公武合体」派が優勢となった。
その1か月後、幕府は朝廷に「天子様の妹君の和宮親子内親王様に、ぜひとも将軍・徳川家茂へご降嫁いただきたいのですが」と要請する。
元凶の井伊がすでに死んだとはいえ、日米修好通商条約の件を未だに許してはいない孝明天皇は
「和宮にはすでに許嫁の有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王がいる」
とこれを拒否した。当事者の和宮も、
「徳川殿が外国との条約を破棄するまでは、私は東国には参りませぬ」
と現段階では事実上不可能な条件を提示し、これを突っぱねていた。

そうした中で具視は、天皇にこう奏上した。
「とにかく今は「公武合体」を推進する必要があります。政治的決定権を我々朝廷が担い、その執行は幕府があたるという体制を構築するべきです。そうして、今回我々が幕府に執行させるのは「日米修好通商条約の破棄」です。今回の宮様の降嫁に関しましては、幕府が条約の破棄を実行するならば特例として提案を聞き入れる、ということに致しましょう」

こうして、具視は天皇からの勅書を預かり、「勅使」として和宮の東下に随行した。これは具視が老中・安藤信正と久世広周の両名との交渉の際、円滑に交渉を進めることができるようにするための天皇の配慮によるものであった。
この随行には()(ぐさ)有文(ありふみ)も勅使として具視と同行した。
具視は天皇の勅書の質問とともに、
「江戸市中に「徳川家が和宮様を利用して廃帝を企んでいる」という噂が出ているそうですが、それは本当ですか」と問うた。
安藤・久世は「その件につきましては、根も葉もなきものでございます。しかし、そうした噂が市中で立ったこと自体、我々の不徳と致すところでございます。此度のようなことは、老中連署の書状にて、二度と起こらないことを誓いまする」と答えた。
それでも、具視は納得する姿勢を見せようとはせず、
「誓書を出すと言われますのなら、必ず征夷大将軍・家茂殿の直筆で提出なされよ。さすれば、天子様も此度のことは不問に付して下さりまする」と厳しく申し渡した。
将軍が誓書を書かされるなどということは後にも先にもなかったので、さすがに老中たちはその場での即答を避けたが、結局、この交渉の3日後に将軍・家茂が誓書を書くことが具視に伝えられた。
具視はその年のうちに交渉を成功させ、帰京した。ただ、この間に生母・吉子が亡くなっているので喪に服して参内をとりやめ、代理人として千種に家茂の誓書を孝明天皇に提出してもらった。

これにより孝明天皇は機嫌を直し、すべては順調に動いている……かに見えた。


幽居、そして復権

翌年、長州藩主・(もう)()慶親(よしちか)(のちの敬親)が「航海遠略策」という提案書を朝廷に提出した。
これは、「外国人をむやみやたらと日本から追い出すのではなく、日本人が海外に積極的に行き、より高い技術力と皇室の威光を海外に示すべきです」と主張するものであった。
孝明天皇はこの提案を高く評価し、長州へ「公武周旋役」という役を与えた。
一方、長州が孝明天皇に気に入られたことに危機感を持った薩摩藩国父*4・島津久光が「和宮降嫁や安政の大獄の弾圧のせいで皇室が危険に瀕している」として入京し、久光は天皇から京都の守護を命じられた。これにより、京都所司代は有名無実の役職と化してしまった。

朝廷をめぐって長州と薩摩が対立するさなか、尊王攘夷運動が激化した。具視は京都所司代・酒井忠義と親しかったことや和宮降嫁のため奔走していたことから「佐幕派」とみなされた。過激な尊王攘夷派たちは、具視の罷免を求めて朝廷に圧力をかけた。事態を重く見た議奏・正親(おおぎ)(まち)三条(さんじょう)実愛(さねなる)は具視の身の安全保障のため、近習の職を辞するよう忠告し、具視はそれに従った。

しかし、事態は更に悪い方向へ転がっていった。
三条(さんじょう)実美(さねとみ)姉小路(あねがこうじ)公知(きんさと)など13名の公卿が連名で具視・久我(こが)建通(たけみち)()(ぐさ)有文(ありふみ)富小路(とみのこうじ)敬直(ひろなお)(いま)()(しげ)()堀河(ほりかわ)(もと)()の6人を幕府にこびへつらう「()(かん)()(ひん)」として弾劾する文書を関白・近衛忠煕に提出したのである。
事ここに至ってはいかんともしがたく、孝明天皇は具視に蟄居・辞官・落飾を命じた。具視本人も、自身にかけられた疑惑を晴らすために、これらの処分を粛々と受け入れた。

当初は自宅にて謹慎していたが、しつこく長州の久坂玄瑞や土佐の武市瑞山(半平太)などの尊王攘夷派から命を狙われ続け、「京都から退去しなければ首を四条河原に晒す」と殺害予告の手紙が投げ込まれることもあったので、自邸を出て西賀茂の霊源寺に移った。霊源寺に潜伏するさなかにしたためた日記には「無念切歯」「無念」という文言が散見される。具視の激しい悔しさがそこからはうかがえる。
だが、ここも長くいることはできず、養父・具慶の甥が住職をしている洛西の西芳寺に移り住むが、関白・近衛忠煕が洛中からの追放令を発令したためやむなく出ることとなり、最終的には長男・具綱が用意してくれた洛北の岩倉村に蟄居。不便な蟄居生活は孝明天皇崩御後の慶応3(1867)年まで及んだ。生活が逼迫したため、自宅を賭場として博徒に貸したり、また具定(長男)や具経(次男)の手を借りて庭で野菜を育てたりすることで口を糊したという。

岩倉具視が幽居を余儀なくされた邸宅。著作者:Bergmann(CC-BY-SA 3.0) 出典:日本語版ウィキペディアの「岩倉具視」のページから。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96


元治元(1864)年7月19日に禁門の変が発生し、京都における尊王攘夷派が一掃された。しかし、具視の赦免のお沙汰が下る気配は全くなかった。
この頃には薩摩藩の大久保一蔵(利通)*5西郷吉之助(隆盛)*6、土佐藩の中岡慎太郎坂本龍馬などの同志が訪ねてくるようになった。
気力を取り戻した具視は慶応元(1865)年の秋ごろから政治意見書を執筆し、朝廷内における具視のシンパや同志に送った。この頃には従来の公武合体派だった立場を倒幕派へ変更している。


慶応2(1866)年12月、孝明天皇が天然痘により崩御。一説に、具視が天皇弑逆の容疑者*7として名前が挙げられることがあり、古くから議論の的となっているが、真偽は現在に至るまでわかっていない。
慶応3(1867)年1月には睦仁親王(明治天皇)が即位。新帝即位に伴う大赦により同年1月15日と25日に文久3年(1863年)の政変・禁門の変にかかわった者が赦免されたが、この時も岩倉はまだ赦されず、岩倉がようやっと許されたのはこの約10か月後のことであった。
この間の10月、薩摩・長州両藩に「討幕の密勅」が下された。この密勅には御画可、御璽を欠き、太政官の主要構成員の署名がなされていないため、正式な勅令ではないとする見方が強く、具視と大久保利通によって偽装されたものとされる。
しかしこの密勅は、将軍・徳川慶喜により大政奉還がなされ、無効となった。
大政奉還のあった後、京都・近江屋で同志の坂本龍馬・中岡慎太郎が京都見廻組の襲撃を受けて落命した際には、
何物の凶豎ぞ、我が両腕を奪い去る(どういう小悪党が私の両腕を持ち去ったのだ)
と悲痛な心中を吐露している。


王政復古

慶応3(1867)年12月、ついに長きにわたる蟄居生活を経て、具視は表舞台への復帰を果たした。
同月9日、明治天皇の名において「王政復古の大号令」が発せられ、幕府の廃止とともに天皇親政が宣言された。この政変は、具視が大久保利通らと極秘裏に協議を重ね、周到に準備したものであった。とりわけ、薩摩・長州両藩の協力を取りつけ、京都守護職・松平容保および会津・桑名勢力の排除を図るなど、具視の政治的策動が功を奏した結果であった。

この「大号令」により、幕府・摂政・関白の制度が廃され、あらたに「総裁」「議定」「参与」の三職が設置される新政府が発足した。具視は直接的な官職には就かず、参与という立場で政局の中枢にあった。だが、形式的な職位以上に、実際の政治的主導権を握っていたのは具視であった。このことは、同日夜に開かれた「小御所会議」では、将軍・徳川慶喜の辞官納地(将軍職の辞職と領地の返還)をめぐり、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)らが慎重姿勢を示す中、具視は強硬に「辞官納地」を主張し、慶喜の排除を既成事実化させることに成功したことがそれを証明している。

現在は創作であるとする見方もあるが、この「小御所会議」の際の具視と山内容堂の逸話はよく知られている。
議定・中山忠能による開会宣言の後、慶喜への辞官納地の案や、慶喜抜きでの会議の開催に対して異を唱えた前土佐藩主・山内容堂がこう詰め寄った。
「この会議に慶喜公が参加して意見を述べる機会をお与えにならず、慶喜公抜きですべてをお決めになろうとするとは、あまりにも陰険な話ではないか。貴公たちは幼沖の天子様を推し奉り、権力を慶喜公から横取りするつもりでござろう?」
この発言に対し、具視は即座に反駁した。
「此度の辞官納地令はすべて天子様のご決断に基づくものです。それを畏れ多くも天子様に向かって『幼沖』とはどういうおつもりですか!今のお言葉、撤回なされませ」
容堂は自身の発言について具視に謝罪し、そうして会議が始まったという。

この頃から具視は天皇を中心とした中央集権国家の樹立をめざす方針を採用した。さらに、先祖代々佐幕派である会津藩や桑名藩による武力抵抗を見越して、薩摩・長州を中心とした軍備の強化も進めており、これがのちの戊辰戦争の勝利を導く一因となる。


明治

慶応4(1868)年を迎えると、具視は太政官の中枢ともいうべき存在となった。形式的には参与であったが、事実上の最高政務顧問として、新政府の方針決定に関与し続けた。
同年には戊辰戦争が本格化するが、岩倉は軍事行動には表立って関与せず、あくまで政治工作と制度設計の面から戦後の国家再建を見据えて動いていた。
その一環として、彼は「版籍奉還」(1869年)と「廃藩置県」(1871年)という一連の中央集権化政策の推進に深く関与した。「版籍奉還」に際して、具視は政府への意見書において「知藩事に領地の支配を任せつつも、徐々に中央集権制へと移行する」という旨の意見を述べた。
版籍奉還後には、組織の再編成が行われた。政府首班を「左右大臣」「大納言」「参議」で構成し、その下の行政組織として「民部省」「大蔵省」「兵部省」「刑部省」「宮内省」「外務省」の六省を設置した。
このうち、具視は右大臣の三条実美の補佐役である「大納言」に就任している。
廃藩置県があった同じ日、具視は外務卿に就任した。さらに同年7月には太政大臣が新設され、三条実美が就任。空位となった右大臣には具視が就任し、具視は外務卿と右大臣という、二足の草鞋を履くこととなった。

そして、明治4(1871)年には、岩倉は右大臣に任ぜられ、政府の名実ともにナンバー2の地位を得た。同年末には「岩倉使節団」の全権大使として欧米諸国への外遊を果たす。
使節団はアメリカを皮切りに、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどを巡歴し、条約改正の可能性を探ると同時に、先進諸国の制度・文明を視察した。
条約改正という幕末期からの成果こそ得られなかったものの、具視は各国の国制・法制・教育制度に深い感銘を受け、近代日本のあり方に関する構想をますます明確にしていった。
この使節団には、木戸孝允や大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、久米邦武といった俊英たちが同行しており、岩倉が次世代の指導者たちを引き連れて世界を見聞し、共通の「国のかたち」を構想する場ともなった。
なお、現在必ずと言っていいほど教科書に記載される「岩倉使節団」の写真において、具視のみが髷を結って和装をした状態で写真に写っているが、この後ともに洋行に出ていた息子の具定から説得され、サンフランシスコにて髷を落とし、服装も洋装に改めている。

岩倉使節団集合写真。左から木戸孝允、山口尚芳、具視、伊藤博文、大久保利通。出典:日本語版ウィキペディアの「岩倉具視」のページから。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96


帰国後の具視は、政局の激変に直面する。
明治6(1873)年には、征韓論が政府内で大きな争点となり、西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らが前年の「江華島事件」をきっかけとして朝鮮派遣を主張したが、具視はこれを一蹴した。
内政を整え、国力を蓄えることこそが最優先であるとする、いわゆる「内治優先」の主張は、大久保利通や木戸孝允らの支持を得て政権方針となり、西郷らは政府を去った。これが「明治六年政変」である。
この「内治優先」の方針により、殖産興業・学制改革・地租改正などの内政改革に集中することが可能となった。
同年12月6日、具視は赤坂仮皇居(旧紀州徳川邸)から馬車に乗って自邸へ帰る途中、現在の東京都港区赤坂二丁目付近で、複数名の刺客に襲撃された。「赤坂喰違の変」である。
襲撃者は武市熊吉(たけちくまきち)武市喜久馬(たけちきくま)山崎則雄(やまざきのりお)島崎直方(しまざきなおかた)下村義明(しもむらよしあき)岩田正彦(いわたまさひこ)中山泰道(なかやまやすみち)中西茂樹(なかにししげき)沢田悦弥太(さわだえつやた)の9名で、いずれも高知県出身の士族であった。彼らは「明治六年政変」に衝撃を受け、征韓論を退けて西郷が政府を辞する原因を作った具視と大久保利通を憎悪していた。
一方、具視は眉の下と左腰に軽く負傷したが、皇居の四ッ谷濠へ転落し、襲撃者達が岩倉の姿を見失ったため、幸いにも一命を取り留めた。しかし、精神的な動揺は大きかったようで、この事件から1か月間は政府への出仕を取りやめ、自宅で療養している。
余談だが、具視を襲撃した9人は全員とも斬首刑が宣告・執行されている。

その後も具視は、明治憲法制定の準備や、内閣制度の導入に向けた制度改革に関与し続けた。表舞台に立つことは次第に少なくなっていったが、伊藤博文などの若き精鋭たちに大きな影響を与え続けており、いわゆる「元老」的な立場であったといえよう。

明治16(1883)年、具視は喉に異常を感じ、診察を受けたところ、医師・松本順*8によって「咽頭癌」であると診断された。
これは記録上、日本において初めて病名を本人に告知されたがん患者とされており、当時としては極めて異例の対応であった。
自らの死期を悟った具視は、日々の政務から身を引き、静かに最期の時を待った。

具視の病状悪化を聞きつけた明治天皇は、なんと自ら具視の邸宅を訪問して見舞いの意を表された。
天皇が臣下の病床に足を運ぶことは極めて異例であり、いかに具視が天皇にとって特別な存在であったかがうかがえる。
天皇が具視の容態を見て落涙され、たった一言「(具合は)どうじゃ」とお声をおかけになった。
具視は自力で起き上がれぬほど病状が悪化しており、布団の上に袴を置くことで礼装の代わりとし、感涙にむせびつつ合掌しながらこれに応じたという。
この時のお見舞いの様子を洋画家・北蓮造が描き、「岩倉邸行幸」という作品に残した。現在その絵画は明治神宮聖徳記念絵画館に保存されている。

同年7月20日、岩倉具視、薨去。享年58歳___。

貧しい下級公家に生まれながら、天皇を中心とした中央集権国家の骨格を築き上げた彼の名は、維新の風雲児として、また新政府建設の立役者として、彼の名は日本政治史において不動の位置を占めている。


岩倉具視が登場する作品

漫画

  • みなもと太郎『風雲児たち・風雲児たち幕末編』
  • 原作:梅村真也、作画:橋本エイジ『ちるらん 新撰組鎮魂歌』

NHK大河ドラマ

  • 『竜馬がゆく』(1968年、演:二谷英明)
  • 『勝海舟』(1974年、演:林昭夫)
  • 『花神』(1977年、演:西本裕行)
  • 『翔ぶが如く』(1990年、演:小林稔侍)
  • 『徳川慶喜』(1998年、演:寺脇康文)
  • 『新選組!』(2004年、演:中村有志)
  • 『篤姫』(2008年、演:片岡鶴太郎)
  • 『八重の桜』(2013年、演:小堺一機)
  • 『西郷どん』(2018年、演:笑福亭鶴瓶)
  • 『青天を衝け』(2021年、演:山内圭哉)

NHK大河ドラマ以外のTVドラマ

  • 『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演:鈴木瑞穂)
  • 『田原坂』(1987年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:佐藤慶)
  • 『勝海舟』(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:原田大二郎)
  • 『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇、演:木下ほうか)

500円紙幣の肖像

岩倉具視といえば「一昔前の500円札の人」と思う方も多いだろう。
岩倉具視の500円紙幣は二種類作られている。どちらもキヨッソーネが描いた肖像を左右反転し、服装を大礼服から一般的な背広に変えたものを使っている。
なお二代目500円紙幣は初代500円玉と長らく共存していたこともあって、古銭としての価値はまだ高くない(ただしレア番号の場合はこの限りでない)





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最終更新:2025年07月21日 16:44

*1 その中には養父・具慶や実弟・堀河康隆も含まれていた。

*2 公家のうち、天皇の住まいである清涼殿の殿上の間に入ることが許されている家

*3 公家のうち、清涼殿の殿上の間に入ることが許されていない家

*4 藩主には久光の長男である茂久(もちひさ、維新後は「忠義」と名乗る)が就任していたが、実権は久光が握っていた

*5 和宮降嫁に奔走する中で一度面会している

*6 大久保の紹介で具視に面会

*7 孝明天皇の掌侍を務めていた妹の堀河紀子に書面で指示し、天皇の愛用の筆に毒(ヒ素)を盛らせた(孝明天皇は筆をなめる癖があり、具視・紀子兄妹がそのことを知っていたとされる)という「岩倉黒幕説」が知られ、しばしば陰謀論の一つである「明治天皇すり替え説」を補強する説として知られる。

*8 幕末期の蘭方医・松本良順のこと。明治期以降に「順」と改名した。