木戸孝允/桂小五郎

登録日:2024/07/17 Wed 10:15:50
更新日:2025/04/07 Mon 09:57:51
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木戸(きど)孝允(たかよし)とは、江戸時代末期から明治時代初期の人物である。維新前の『(かつら)小五(こご)(ろう)』の名でも知られる。
生没年:天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日
号は準一郎、松菊(しょうぎく)



(上)「桂小五郎」時代の写真。(下)明治新政府に出仕して「木戸孝允」と名乗っているころの写真。明治4年に米国ワシントンで撮影。
画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81 いずれもウィキペディア「木戸孝允」より抜粋。



生涯

・前歴

長州藩医・和田昌景の長男として生まれる。数え年7歳で同藩士の桂家に末期養子入りして桂小五郎を名乗る。
桂家では養子にもかかわらず、年老いてようやく授かった待望の男児と言うことで、養父母からとても可愛がられて何不自由なく育った。しかし、1年の間に養父母が相次いで亡くなったため、実家の和田家に戻り、実の両親や次姉のもとで育てられた。
子供時代は病弱ながらも腕白で、萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて面白がるといういたずらに熱中していた。
ある日、いつものようにこのいたずらを実行しようとしたが、小五郎少年のいたずらに腹に据えかねていた船頭に頭を櫂(オール)で殴られてしまう。しかし、小五郎少年は流血しながらも笑っていたという。


もともと小五郎少年は地頭こそ悪いわけではないが勉強好きではなく、ニート的な生活を行っていたが、1849年に発奮して藩校・明倫館にて吉田松陰に師事し、山鹿流兵学を修めた。松陰は桂を「事をなすの才あり」と高く評価し、両社は師弟関係を超えて親友関係となった。
1852年に江戸に遊学し、道場「練兵館」にて斎藤弥九郎・新太郎父子に剣術を、伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍に西洋砲術を習った。これとほぼ同じ時期には藩に軍艦建造の意見書を提出し、藩はこの提言を受け入れて造船所や洋式軍艦を完成させた。

・幕末

ペリーの浦賀来航の1853年には、江川の付き人として黒船を目の当たりにしている*1
またこの時期には短期間ながらも、浦賀奉行支配組与力の中島(なかじま)三郎助(さぶろうすけ)*2の邸宅に居候し、造船術を学んだ。

1858年以降、安政の大獄を境に薩摩や長州、水戸などの諸藩の尊王攘夷派の志士と親交を深め、同じく松陰の弟子であった旧松下村塾門下生の高杉晋作や久坂玄瑞とともに、長州藩内の尊王攘夷派の頂点に立った。一方で、老中・間部詮勝の暗殺計画や伏見要駕策を唱えるなど、思想を過激化させていく師の吉田松陰を、松陰の友人で桂の義弟*3来原(くるはら)良蔵(りょうぞう)とともに手を変え品を変えこれを諫めた。
1859年には恩師の松陰が安政の大獄で処刑されたが、松下村塾門下生の伊藤博文(当時は俊輔)や飯田正伯、尾寺新之丞とともに松陰の遺体を引き取り、回向院の墓地に埋葬した。
そうして、松陰の死に意気消沈するさなか、偶然刑場近くで腑分けの講習を行っていた長州藩士・大村益次郎(当時は村田蔵六)に出会う。そこで、藩に掛け合い、大村を士分として取り立てさせることに成功する。


1862年、公武合体政策に尽力していた老中・安藤信正が尊王攘夷派の水戸藩浪士らに襲撃されて負傷する事件が発生した。坂下門外の変である。
水戸浪士・川辺左治右衛門はこの襲撃に参加するはずであったが遅刻してしまい、これを恥じた川辺が見ず知らずの桂の邸宅に赴き、切腹する意思を表明し、桂や伊藤俊輔の説得もむなしく、両名が席を外したわずかな隙をついてその場で自害してしまった。
これがもとで、「見ず知らずの他人の邸宅を訪ねてその場で切腹する」という不自然さから、桂にも坂下門外の変に加担したという嫌疑がかけられ、当初は穏やかに取り調べを行っていた奉行所が次第にいら立ちを見せ、桂は自身が「坂下門外の変」の関係者であることを前提とした尋問を受けることとなった。
が、開国論者で朝廷や幕府から注目されていた同藩士の長井(ながい)雅楽(うた)のとりなしで事なきを得た。同年、長井は藩政の要職についており、藩論を尊攘から倒幕に転換させた。

こののち、尊攘派が勢いを盛り返したことで開国・倒幕論者の長井*4はクーデター*5により失脚させられ、藩に内乱が起こることを憂いながら藩の命で自裁した。
なお、この長井の自裁の半年後、かつて桂とともに師の吉田松陰の過激思想を抑えるストッパーの役割を果たしていた義弟・来原良蔵*6も自害している。義弟の死の報せに、桂は顔を覆って慟哭し、周囲の者も泣き出したという。


1864年には新選組による池田屋事件蛤御門の変が発生し、吉田稔麿や久坂玄瑞、入江九一などなど、かつての同志の多くが死に絶えた。
池田屋事件の当日、桂は池田屋で吉田稔麿や熊本藩士の宮部鼎蔵などと待ち合わせしていたが、予定されていた時間より大幅に早く到着してしまっていたため、少しの間散歩に出かけていた。これにより、桂は虎口を脱した。
この頃桂は、池田屋に集まっていた志士たちの頭目ということで新選組からのお尋ね者となっており、芸者の幾松(のちの木戸松子夫人)の助けを得て、身にぼろぼろの藁を纏った物乞いに変装し、路上での潜伏生活を余儀なくされた。この頃には「新堀松輔」「広戸孝助」の変名を用いている。
  • 実は、桂には幾松と結婚する前に妻がいた。
    が、桂が国事行為に奔走してなかなか家に帰ってこれなかったことや、義弟の栗原良蔵一家が同居しており、夫婦水入らずの時間を過ごすことがほとんどできないことに業を煮やし、三行半を置いて桂のもとを去っている。
    この一件で、それまでは分け隔てなく明るく他人に接する桂の性格は一変し、裏表を巧みに使い分け、自身のシンパにはかなり甘く、反対に自身に敵対した者には、かつての仲間であったとしても容赦なく牙をむく、一種苛烈な性格に変わってしまった。
やがて1865年、高杉晋作により椋梨藤太ら恭順派が政争の果てに勢いを失い、藩論が倒幕に完全に転換すると、桂は帰藩して、前藩主の毛利敬親から「木戸寛治」の名を賜った。
藩にとって桂は重要な人材であり、改名させることで「桂小五郎は病気で死にました」と幕府の調査をごまかす意図があった。写真が身分証明に使われていない時代に「ある人物が死んだことにして改名させ、幕府の目を欺く」という手口はしばしば行われており、幕府もその情報が嘘であることは察知しつつも、実質は黙認していた。余談だが、高杉晋作も幕府の調査をごまかすために「谷潜蔵」という偽名を名乗っている。


翌年には土佐脱藩浪士・坂本龍馬と中岡慎太郎の仲立ちで、長州藩の代表として薩摩藩の実力者であった西郷吉之助(隆盛)・大久保一蔵(利通)と薩長同盟を締結する。当初は木戸は薩摩と同盟を結ぶことに消極的であったが、龍馬の説得を受けて同盟の締結に踏み切った。
幕府をすでに見限った薩摩は幕府との戦争に備えて大量の武器を所有しており、長州もその武器を欲していた。
一方、薩摩はシラス台地といって、火山灰質の土壌でコメが育ちにくい環境だったため、長州の生産するコメを欲していた。
これにより、互いの藩の利益が一致したことで薩長同盟がなされたのである。より詳細な薩長同盟の背景については、西郷隆盛の記事に詳しくのベることとする。

・明治時代

新政府成立後には政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任した。名も「木戸孝允」と改めた。
1868年には土佐藩士・福岡藤次(孝弟)や福井藩士・由利(ゆり)公正(きみまさ)(三岡八郎)とともに「五箇条の誓文」を起草。これによって、明治新政府の基本方針が定まり、1869年の版籍奉還や1871年の廃藩置県、ならびに1872年の地租改正などの近代的な制度改革を殆ど抵抗なく進めることができた*7
この一連の改革は、多くの藩が戊辰戦争により財政的に疲弊しており、一連の新政府による政策の流れがむしろ政府にとって大助かりであった事や、藩主の殆どが江戸生まれであることも一助となっていた。


1871年には大久保利通や伊藤博文、山口(やまぐち)(ます)()*8とともに、岩倉具視率いる使節団に参加し、欧米諸国の憲法を研究した。
1873年に帰国してのちは政府内においてフランスで見聞した憲法や三権分立性の重要性を唱え、国民教育や天皇教育の充実に務めた。また、木戸たちが留守にしている間、政府内で盛り上がっていた西郷隆盛征韓論には大久保や岩倉とともに反対し、これによって西郷は政府を辞して郷里の鹿児島に帰った。
欧米視察の結果から、自国の憲法の重要性を幾度も訴えたが、憲法の制定を時期尚早と考えていた大久保利通との関係は悪化する一方で、1874年の台湾出兵に際しては大久保と真っ向から意見が衝突し、一時政府を下野した
翌年の大阪会議では、将来の立憲制採用を協議して政府に復帰したが、大久保を批判する論調で会議に望んだことで、もはや大久保との仲は修復不可能なものとなってしまった*9。この大阪会議により、木戸は参議を辞職した

参議を退いてからは地方官会議議長や内閣顧問などを務めたが、この頃には明治元年から抱えていた慢性的な体調不良が悪化し、以前のように政務に励むことが難しくなっていた。大腸がんが肝臓に転移していたのである。


1877年2月、「私学校」の教師を務めていた西郷隆盛が、「私学校」の生徒たちとともに反乱を起こす。西南戦争である。そのさなか、木戸は京都に出張中であったが、体調不良が再発し、邸宅で病臥していた。
同年5月26日。木戸は、うわ言のようにこう呟いた。

「西郷よ、もういい加減にしないか」

そう呟くと、木戸は松子夫人の見守るさなか、永遠の眠りについた。木戸孝允、享年45歳。

松子夫人との間には子供がなかったため、木戸家の家督は、養子の正二郎が継いだ。そうして、その血筋は昭和の政治家・木戸幸一に引き継がれる。
やがて、木戸の死から4ヶ月後、西郷は城山で戦死し、西郷の戦死からおよそ8ヶ月後には大久保は旧加賀藩士族・島田一郎ら6人に馬車を襲撃され、命を落としている*10
維新の三傑は1年もしない間に、相次いで鬼籍に入ったのである。


逸話

  • みなもと太郎による漫画「雲竜奔馬」や小説『竜馬がゆく』では、1858年に桂小五郎が坂本龍馬と士学館の撃剣会で試合をしたという描写がなされる。
    しかし、当時桂と龍馬の試合に立ちあった武市半平太の書いた手紙が偽書であるということが判明した*11ため、龍馬と桂の試合は多分にフィクション色の強い事項とされていた。
    しかし、2017年に「1857年の3月に江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で開催された剣術大会で龍馬と対戦し、2対3で桂が勝利した」という内容の史料が発見され、龍馬と桂の試合があながちフィクションでもなかったことが証明された。

  • 「逃げの小五郎」の二つ名で知られるが、これは維新後に桂(木戸)が勝海舟に語った逸話がもとになっているようだ。
    蛤御門の変の直後、桂は残党狩りを行っていた会津藩の兵士に捕まってしまったのだが、死を覚悟した桂はウソ泣きで「死ぬ前に用が足したい」と懇願したところ、武士の情けということで縄を外してもらい、用を足す無防備な姿勢になり、会津藩兵が油断したところを見計らって逃走した。
    彼は身の危険を察知して時には芝居まで打って遁走し、そうして幸運にも命を拾うということを幾度となく繰り返したことで乱世を生き延び、新政府の官人として生涯を終えたが、これはとりもなおさず、彼が機を見るに敏であったことを意味する。

  • 複数の写真が残っており、かなりの「イケメン」であったことがうかがえる。総髪和装の写真や、維新後に「木戸孝允」を名乗ったころの写真はいずれも鮮明なので、当時の桂(木戸)の風貌を今に伝える貴重な資料である。また、一時的ではあったが頬髯を伸ばしていたようで、そのころの写真も残っているが、あまり似合っていなかったのか、すぐに剃っている。
    晩年に撮影された洋装の写真は、イケメンであることに変わりはないが、だいぶ老け込んだ顔つきで、このころには体調不良が悪化していたため、闘病や政務により心身ともに疲弊していた様子をうかがわせる。

参考文献

  • 奈良本辰也『幕末維新人名辞典』学芸書林
  • みなもと太郎『風雲児たち 幕末編』リイド社
  • 歴史群像編集部『歴史群像シリーズ特別編集 【決定版】図説・幕末志士199』学習研究社




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最終更新:2025年04月07日 09:57

*1 江戸時代、自由な移動は許可されていなかっため、幕府の役人でもあった江川に実地見学を申し入れをした際には「弟子」ではなく「付き人」として同行することを許可されている

*2 のちに箱館戦争で二人の子とともに戦死。恩師の戦死の知らせに、木戸は人目もはばからず泣き出したという

*3 桂の妹・治子の夫。ただし、年齢は桂より4歳上

*4 航海遠略策、すなわち「勅許なしで諸外国とともに条約を締結して開国を実行すること」を計画していたが、この開国論は実用性に欠けるものであった

*5 このクーデターには行きがかり上は桂も参加していたが、かつて自身の嫌疑を晴らしてくれた恩人を命の危険にさらすことに忍びなかったので、尊攘派の首魁であった久坂玄瑞・高杉晋作らが命を狙っていることを暗に伝え、一時的ではあるが長井の命を救っている

*6 当初は長井の航海遠略策に反対していたが、和解して長井の案を受け入れた。しかし、藩論が開国から攘夷に急展開すると長井と対立する場に追い込まれてしまう。長井の暗殺未遂事件の責任を取るため切腹を藩に申し出るが許されず、死に場所を求めて横浜の外国公使館襲撃を企てるも失敗

*7 地租改正に関しては反対一揆が数件発生しているが、軍隊を以てこれを鎮圧し、さらに徴収額を軽減することで解決している

*8 旧佐賀藩士。名の読みは「なおよし」とも

*9 とはいえ、木戸は大久保の政治体制に対しては一定の理解を示していたし、大久保も木戸の意見にはある程度理解を示していた

*10 大久保を襲撃した島田ら6名はいずれも斬首刑に処されている

*11 桂の名前が「木戸準一郎」と書かれており、藩主の命で木戸姓を名乗ったのは1865年以降であるから、それ以前に木戸姓を名乗っていることはあり得ない