登録日:2025/05/18 Sun 15:32:33
更新日:2025/05/26 Mon 21:13:46
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画像出典:wikipedia クロード・モネ『散歩、日傘をさす女性』(
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印象派(仏:Impressionnisme)とは、19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動のことである。
【概要】
瞬間的な光の鮮やかな変化や動き、日常の姿を捉えた絵である。題材や表現が分かりやすく、現在でも印象派をテーマにした展覧会がよく開催されている。
印象派の絵画には主に以下の特徴がある。
・筆触分割
この画像を見てもらいたい。
赤と黄色を格子状に配置したものである。
次にご覧になってるデバイスから顔を遠ざけて離れて見てほしい。するとオレンジ色のように見えないだろうか。
印象派の画家は絵の具を混ぜずに、隣同士に「置く」ことで色を表現した。絵の具は混ぜ合わせると、くすんで暗い色になってしまうが、そのままの色を置くことで明るく仕上げることができた。
論より証拠というわけではないが、項目冒頭の絵画についてもクリックして拡大表示していただきたい。
パッと見は綺麗な絵画に見えたはずの絵が、いざ拡大してみるとくすんだ点が並んでいるだけの画像に早変わりする。これを見れば、筆触分割のなんたるかが理解できるであろう。
・戸外制作
1841年にチューブ入り絵の具が発明されるまで、絵はアトリエで仕上げるものだった。その時絵の具はどうしていたかというと、自分で顔料と油を練り込んで絵の具を作り、豚の膀胱の袋に入れて保存していたのである。
しかしチューブ入り絵の具が発明されたことによって絵の具を外に持ち出すことが容易になり、印象派ができる少し前から外で制作する動きがあった。
印象派はさらに自然の光の中で対象を観察し、物や動植物の色が変化すること、影は黒だけではないことを発見し、それを絵画に反映させた。
・筆跡を残す
それまでは筆跡を残さず隅々まで繊細に仕上げることがセオリーだった。しかし印象派は瞬間の光や動きを捉えるために、物の全体像を手早く描く。その残った筆跡で光や物の印象を描いたのである。
「同じものを見ても、その時の情緒や状況によって見え方が変わるのだから、絵の描き方にクセをつければ被写体や描き手がどんな気分だったかを表現できる」という思想も印象派を構成する要素のひとつ。
印象派とは、ヨーロッパ芸術分野において、肉眼では見えない観念を絵という形で表現しようとするムーブメントの先駆けとなった存在でもあるのだ。
【生まれた経緯】
・前史
17世紀のフランスで画家として生きるには組合(ギルド)に入ることが主流だった。
つまり、ギルドの門を叩き「弟子にしてください!」と頼みこみ、絵の具作りなどの雑用から下積みして技術を身につけ独立…という流れであった。
しかし、イタリアなど既にアカデミーがあり自由に学べる国へ若者が流出している現状を危惧した政府により1648年に王立絵画彫刻アカデミーという国立の芸大が設立された。
また、政府主催の展覧会「サロン」が開催されるようになった。サロンで入賞することが画家としての登竜門となったが、逆にそれ以外の道はほぼなくなった。
・アカデミーとサロン、その反発
こうして設立されたアカデミーだが、アカデミーは絵の題材について厳格なランク付けをしたのである。
「歴史画が頂点である。みんな歴史画を描くように。肖像画は仕事に繋がるからまだしも、静物画とか風景画とか低俗」
サイゼリヤの天井にありそうな、神話や宗教、古代史などの古典を題材にして様式に沿って描く絵画をいちばんとする方向性を進めた。それは政府主催のサロンでも適用され、入賞するのは基本歴史画であった。
設立から100年以上たった19世紀頃でもその方針は変わらなかった。しかし、市民革命と産業革命が起き、社会情勢や世間の考え方も変わりはじめていた。特にこの頃発明された写真の存在は大きく、写真にできない新しい表現を模索する必要があった。そしてサロンの方針に反発して自由に描く画家が現れ始めた。
ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』が代表的な「昔のことより今この時代、俺が、ロマンを感じたものを描く」というスタンスのロマン主義
ミレーの『落穂拾い』が代表的な「現代社会のありのままの姿を描く」というスタンスの写実主義やバルビゾン派
そして印象派。長くなってしまったが、様々な時代の流れや先人の影響を受けてここで印象派が誕生する。
・印象派展
1860年頃、モネ、ルノワール、シスレーなどはアカデミー美術家のシャルル・グレールのアトリエで出会った。グレールは様式を重んじるアカデミズムの画家だったが、週1で顔を出して生徒の絵を直す時以外はモデルを使って好きに描いていていいと比較的自由なスタイルであり、費用も安かったので多くの若い画家が集まった。
1863年、3000点以上の作品を落選したことに抗議が集まり、政府は落選展を開催する。そこで展示されたマネの『草上の昼食』が実在する女性のヌードを描いたことでスキャンダルになる。
前述したように、当時のサロンでは神話や宗教を題材とした絵が至高とされていた。裸婦を描くにしても「これは神話の女神を描いたものですよ」というような大義名分がなければ受け入れられなかったのである。
それに対し、マネの『草上の昼食』は実在の女性をモデルにしたものだったため、保守的な人々からは「破廉恥」「下品」「低俗」などと批判された。マネはその後も1865年のサロンに出展した『オランピア』でも同様の批判を浴び、高尚な芸術を冒涜するものだとして大変な騒ぎとなった。
これら一連のスキャンダルで良くも悪くもマネの名は広く知られるようになった。中でも若い画家達からは支持され、マネは彼らと交流するようになる。
なお、次の年以降も落選展を開催してほしいという声があったが、開催されることはなかった。それからも彼らの作品の多くが落選し続けた。
1866年頃、マネを中心に芸術家、文学者が集まり議論を重ねていたカフェ・ゲルボワにモネらも参加するようになる。そこで、
「サロンのやつら、いつも俺らの作品を落選させやがって、もう俺らで展覧会開こうぜ!」
と、自分達で展覧会を開くことを計画する。
モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ベルト・モリゾ、 ドガなどは「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」を組織し、1874年4月に「画家、彫刻家、版画家などの美術家による共同出資会社第1回展」、後に「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会が開催された。
こうして開かれた展覧会だが、批評家達からの評価は悪かった。「作りかけの壁紙のほうがマシ」「こんなところいたら頭おかしくなっちゃった!ホ〜ホ〜!」という批評が新聞に載ったくらいである。
特にモネの『印象・日の出』は「ただの下描きじゃないか」「印象(笑)」などとボロクソに言われ、ここから参加した画家達のことも『印象派』と呼ばれるようになった。もともと印象派という名前は蔑称だったのである。しかし画家達はこれを受け入れ、自ら印象派を名乗るようになった。
展覧会の収支は、開催費用分は回収できたものの、絵は売れず、共同出資会社の会費は回収できず全体的に見れば赤字だった。共同出資会社 は同年9月に解散した。
画商ポール・デュラン=リュエルの助けにより彼の画廊で第2回が開催された。そこで展示されたルノワールの『陽光の中の裸婦』は女性の肌に当たる日光や葉の影を描いたが、これも「なんだこのまだら模様は」「死斑!?これ死体!?」と否定的な批評だった。
印象派展はそれから第8回まで開催されたが、グループ内での対立もありメンバーの入れ替わりが多く、皆勤はピサロのみだった。音楽性ならぬ芸術性の違い
第4回(1879年)ではモネやルノワールが印象派展への出展をやめ、サロン受けの絵でサロンへ出展した。
ドガ「サロンには出展しないって言っただろ!裏切り者!」
VS
モネやルノワール「そうは言っても稼ぎがないと…」
で対立し、年長者のピサロが仲裁する形になっていた。
第5回(1880年)、第6回(1881年)では一層ドガ色が強まり、参加者は彼と親しい画家が多くを占めた。
第7回(1882年)は前述した画商ポール・デュラン=リュエルが企画し開催。ドガ色を排し、モネやルノワールらの作品が再び展示された。
実際のところはデュラン=リュエルが収集していた作品なども相当数展示されており、直接参加していない画家もいたが、批評家達が「かつての仲間が再集結!」のように書き立て話題となったこともあり一定の成功は収めた。
第8回(1886年)ではピサロがジョルジュ・スーラとポール・シニャックを受け入れたところ、モネらは「こんなの認めない!」と出展をやめた。
一方で人々の注目を浴びたのも彼ら新人達であり、新時代の到来を予感させるものでもあった。
・受け入れられていく印象派とその先
内部でいろいろゴタゴタはあったが、彼らの展覧会は注目を集め、印象派も徐々に受け入れられていく。
特にデュラン=リュエルがアメリカに販路を開き、1886年にニューヨークで開いた展覧会の影響は大きい。絵画に対してヨーロッパのようなアカデミーのしがらみや偏見が少ないアメリカでは「新進気鋭の画家による最先端のアート」として好評であり、「アメリカ印象派」として独自に発展もした。
画商の登場により、「王族や貴族からの依頼で絵を描く」という仕組みから「個人間での絵画の売買」へと変わっていったのである。
また、当時のフランス社会の変化も影響があるとされる。鉄道が開通し、郊外に出かけることが容易になった。ボート遊び、競馬、カフェなどのレジャーや風俗も盛んになり、印象派画家もそこの行楽地や絶景を描いた。当時生まれたばかりのレジャーなどを描いた作品は注目を集めた。
印象派はスーラなどの新印象派やファン・ゴッホなどのポスト印象派に分岐して発展した。
それまでの印象派画家達が印象派展への参加をしなくなった後も、モネは睡蓮の連作に取り掛かり、セザンヌは新たな表現を開発し、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックの「キュビズム」が誕生するきっかけになった。印象派や写真の誕生により、芸術は風景や人物をそのまま綺麗に描くだけでなく、画家の感情や感性を反映させた様々な形式に発展しどんどん分かりづらく進化していく。
一言で言うと「印象派の影響を受けながらも、そこから発展し独自の画風を開拓した画家達」の総称。
セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、それに新印象派とも呼ばれるスーラがその代表として扱われることが多い。
元々、イギリスの批評家が19世紀末~20世紀初頭のフランスの絵画を紹介するのに使った概念で、特定の絵画の傾向を指すものではない便宜的な呼称。そのため、当のフランスでは「なにそれ?」というレベル。
作風から主義主張、その目指す方向性まで各々で大きく異なるが、後に多種多様と展開していく20世紀美術の先駆けとして位置付けられている。
なお、日本では昔は「後期印象派」とも呼ばれていたが、「印象派というムーブメントの一部」と誤解されやすく、近年ではあまり用いられない。
印象派とは関連性こそあれ明確に区別して考えるべきで、あえて訳すなら「印象派以後」とするのが適切か。
【著名な印象派画家】
資料によって画家を印象派、新印象派、ポスト印象派などどの分類とするかは異なっている。ここでは特に分類は考慮せず、印象派と呼ばれる画家を挙げる。また、代表作はその画家の有名な作品を挙げているので、印象派以外の流派の作品もある。
エドゥアール・マネ(1832〜1883)
一貫してサロンを主戦場とし印象派展には参加しなかったが、与えた影響の大きさから先駆者、創始者として扱われることが多い。
代表作:『オランピア』『笛を吹く少年』
クロード・モネ(1840〜1926)
恐らく印象派と聞いて思い浮かべる画家筆頭。同じモチーフを時間を変えて描き光の変化を追った連作が有名。最晩年は
白内障を患うも手術で視力を取り戻し、大壁画『睡蓮』を描き上げた。
代表作:『印象・日の出』『睡蓮』
ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841〜1919)
モネと並ぶ印象派の代表格…だが、スランプに陥り印象主義から離れていた時期もあったなど、実は結構作風が変化している。晩年は古典的な題材を印象派の手法で描くなどの試みも。
代表作: 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』『舟遊びの人々の昼食』
エドガー・ドガ(1834〜1917)
都市風俗を主なモチーフとし、特に踊り子を多く描いたことから「踊り子の画家」と呼ばれる。妥協を許さない姿勢から他の画家と衝突することも多かった。
代表作:『舞台の踊り子』『アブサン』
カミーユ・ピサロ(1830〜1903)
年長者かつ穏やかな人柄で若い画家達に慕われ、そのまとめ役となった。田園風景や農民を多く描いた。
代表作:『白い霜』『モンマルトル大通り』
アルフレッド・シスレー(1839〜1899)
ストイックなまでに風景画にこだわり、作風も生涯を通して大きな変化は無かった。ピサロは「真の印象主義者は誰か?」という問いに対し彼の名を挙げている。
代表作:『ヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌの橋』『ポール=マルリの洪水と小舟』
ベルト・モリゾ(1841〜1895)
当時としては珍しい女性画家。外出が自由にできないなどの制約がある中、身近な人々の肖像画や日常風景などを描いた。夫のウジェーヌはマネの実弟。
代表作:『ゆりかご』『ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘』
ポール・セザンヌ(1839〜1906)
色々な方向から捉えた物を一つの画面に収める「多視点」の概念を導入。後のキュビズム等につながっていく。
代表作: 『首吊りの家』『りんごとオレンジ』
ポール・ゴーギャン(1848〜1903)
印象派から出発するも、後に現実と精神世界の融合を表現する「総合主義」を提唱。晩年はタヒチなど各地を放浪し、独自の画風を確立した。
代表作:『タヒチの女(浜辺にて)』『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
ジョルジュ・スーラ(1859〜1891)
それまで直感的な部分が大きかった筆触分割をさらに理論的、科学的に発展させた「点描技法」を編み出し、「新印象派」と称される。
代表作:『グランド・ジャット島の日曜日の午後』『アニエールの水浴』
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜1890)
言わずと知れた「炎の画家」。晩年の感情を叩きつけるような激しい画風は特に有名。第8回が開催される少し前にパリに出てきたため、印象派展への参加経験はない。
代表作:『ひまわり』『星月夜』
印象派展参加一覧表
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第1回 (1874年) |
第2回 (1876年) |
第3回 (1877年) |
第4回 (1879年) |
第5回 (1880年) |
第6回 (1881年) |
第7回 (1882年) |
第8回 (1886年) |
モネ |
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ルノワール |
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ドガ |
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ピサロ |
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シスレー |
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モリゾ |
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セザンヌ |
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ゴーギャン |
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スーラ |
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【創作における印象派】
古今東西の美術作品を扱う作品なので勿論登場しており、コンビニコミックでは「ギャラリーフェイク傑作撰 印象派の光と影」としてまとめ版が刊行されている。
ルノワール「侍で切られた音みたいな名前しやがって!」
セザンヌ「黙れ! 貴様だってオッサンがワックスかけた床を全裸で滑る音みたいな名前しやがって!」
単行本3巻31幕「スーパー印象派バトル ルノワールVSセザンヌ」という第1回印象派展をテーマにした話がある。登場する画家はルノワール、セザンヌ、ピサロ、モネ、シスレー、ドガ。
モネやシスレーは棒人間だしドガに至っては手のひらサイズの黒いもじゃもじゃであるが、ちゃんと第1回印象派展の面々が揃っている。
ルノワールとセザンヌとの熱くシュールな絵画勝負が繰り広げられる回であり、ギャグマンガ日和のアニメ第4期「ギャグマンガ日和+(プラス)」でアニメ化され、第1回として選ばれている。
ちなみにルノワールが冒頭に「あー裸婦が描きたい」と独り言を発しているが、前述した通り現実のルノワールは第2回印象派展で裸婦の絵画を出展している。というかそれ以降もかなり裸婦を描いている。
サーヴァントの1人に、ファン・ゴッホをモチーフにした
ヴァン・ゴッホがいる。ひまわりのような意匠の少女の姿をしている。詳しくは当該項目を参照。
原作以上にはっちゃけた描写と声優のフリーダムな演技で知られるアニメ版。
声優同士の打ち合わせで
「今日は後期印象派で死のう」というやりとりがあったらしく、実際
ゴーギャンという敵キャラが
「ゴッホ…ゴーギャン!」という断末魔で死亡した話がある。
【余談】
印象派付近の時代は日本では江戸〜明治時代にあたる。1854年に開国されて以降、諸外国に貿易と写真によって日本の文化が伝えられた。1862年のロンドン万国博覧会で日本の物品が万博で初めて展示され、日本ブームが起きる。これを「ジャポニスム」という。印象派前後で平面的だったり今までにない構図の作品があり、これは日本の浮世絵の影響と言われている。
印象派に感動した方、詳しい方に追記・修正をお願いします。
- 美術に疎い自分でもよさがわかりやすいから一番好きなスタイル この後のキュビズムは美術館で見てもぜーんぜんわからんかった -- 名無しさん (2025-05-18 16:39:20)
- 今となっては全部格式ある実質古典芸術だけど、当時はセンセーショナルなロックだったのだろうと思わせる -- 名無しさん (2025-05-18 18:13:56)
- 印象派で死んだのは言うまでもなく(?)千葉繁氏。色を置き筆致を残すような名演であった(駄法螺 -- 名無しさん (2025-05-18 18:42:56)
- ヨーロッパからはじまった印象派はその後アメリカでも広がっていった模様。これまで日本ではあまり知られていなかったらしいけどそんな作品を集めた企画展がとても良かった。手元に目録あるしがんばって追記してみるか -- 名無しさん (2025-05-18 21:24:27)
- 某Vの箱の前座見習いの人の配信でちゃんと知った。 -- 名無しさん (2025-05-19 01:33:37)
- これで印象、印象って言ってた権威は、後世もっと印象で描くやつらが現れるとは思うまい -- 名無しさん (2025-05-19 08:17:01)
- ギャグマンガ日和のドガさんは書きやすさや体液をばらまいて死んだ最後からか妙な人気があったりする。 -- 名無しさん (2025-05-19 11:54:48)
- ボロクソ言われたらしいモネの印象・日の出、調べてみたらめっちゃ良い絵じゃないか… -- 名無しさん (2025-05-19 23:03:52)
- 実際、少し慣れるとこの描き方めっちゃ -- 名無しさん (2025-05-19 23:24:44)
- 実際、少し慣れるとこの描き方めっちゃ調整効いて描きやすい -- 名無しさん (2025-05-19 23:25:17)
- バブルの時買いまくったため、現在の日本の美術館にも結構所蔵されてるのも大きいかと。18世紀以前のオールド・マスターは、国立西洋美術館くらいしかまともに持ってないし -- 名無しさん (2025-05-26 21:13:46)
最終更新:2025年05月26日 21:13