結城宗広(逃げ上手の若君)

登録日:2025/09/08 Mon 06:42:00
更新日:2025/09/24 Wed 00:55:45
所要時間読了まで約 5 分ですぞ。私なら3人ほど殺れますな。





…北条殿は甘っちょろいお子様のようで 抜くならば相手せねばなりますまい
私の魂は…息子のように清らかではありませんぞ


結城(ゆうき)宗広(むねひろ)とは、南北朝時代の武将の1人。
本項目では、史実を元に創作されている漫画作品『逃げ上手の若君』におけるキャラクターとしての結城宗広を扱う。


目次

【ステータス】



レアリティ
(1338年)
☆☆☆ SR
能力 南北朝適正
武力 69 蛮性 100
知力 82 忠義 97
政治 63 混沌 99
統率 71 革新 76
魅力 34 逃隠 65

◆スキル

  • 特性:南朝の忠臣
南朝属性の将の元で知力・忠義20%上昇

  • 技能:十悪五虐(じゅうあくごぎゃく)
人1人を殺すごとに武力+1
1ターン誰も殺さないと-1

  • 固有武器:六尺(ろくしゃく)鋸刃(のこぎりば)七支刀(しちしとう)七度凌遅(ななたびりょうち)
敵の攻撃を確率で無効化し、反撃の時確率で首刎ね、出血、骨折、部位欠損、あるいはその全てが発動する


  • マーキング・パターン:「結城小豆」


【概要】


「奥州国司鎮守府大将軍」北畠顕家が率いる北畠軍の最高幹部「奥州武士三将」の一人。史実に則すれば1337年時点で71歳の老人*2
目が「○」の簡単作画で描かれ、凶悪な顔揃いの北畠軍に似合わぬ穏やかで平和な顔を常に称える、明るい態度で物腰柔らかな老将。
…なのだが、平和なのは顔だけで実態は北畠軍でもブッチギリの濃さを持つ危険人物。登場早々平和な顔のまま「老若男女一切合切ぶち殺します!」とブチギレたことを宣ったギャップがありすぎるやべぇ男。
また上記のような丸のような眼だがこれは常に白目を剝いているから丸に見えるだけで、実際には禍々しい瞳が隠れている。

…瞳といえば瞳孔、本来ならそれでモノを見ているはずなわけで、要するに彼は視力を封印するという大きなハンディキャップを背負った上で、後述のようなキルスコアを叩き出したわけである。

思い返せば諏訪で似たようなこと言ってた平和な顔をした保科党の門番と全く同じ顔である(差異は白髪とほうれい線くらいでほぼコンパチ)。
というのも、平和な顔の門番こと結城(ゆうき)三十郎(さんじゅうろう)は彼の末子*3
一応何人かいる息子の中でも猟奇的な残虐趣味を楽しく共有できた唯一の息子であったが、「無差別殺人は飽きたので、どうせなら正義の殺しがしたい」という理由で実家を出ていかれた。
ちなみに結城親朝や三木一草の結城親光も彼の息子。ただし真面目な気質だったため殺人趣味は共有できなかった模様。


【人物】


堂々の蛮性値100を擁するだけあって、人殺しが大好きで殺しを趣味扱いし、「常に生首を見ないと気が収まらない」と公言する重度の快楽殺人者。(シリアルキラー)
実家では無差別に人を刀や拷問器具などで惨殺している様子が見て取れる。
殺人や拷問をこよなく愛して戦場であろうとチャンスがあれば拷問趣味を満喫しようとする危険思想の持ち主で、
おまけに殺した人間の臓物や血をコレクションする危ない趣味まであり、採れたて新鮮な臓物や血がすぐ腐敗することを憂いて「どうして人はすぐに腐ってしまうのだろう」と心の底から疑問視するほど。
危険すぎる思想故に同好の士も極めて少ないことがうかがえ、仁木義長が残虐自慢で名を馳せたと知るやテンションが上がって「なんと!貴方も血がお好きで?」「さあ、残虐について心ゆくまで語らいましょう」と迫っていた。が、結果は後述。

とはいえ殺人癖と残虐趣味さえなければ真っ当かつ子供思いの忠臣であり、顕家も(へき)以外は温厚で老練な忠義の将」と信任を置く。

「癖が安心できないの!」

趣味を共有できなかった他の息子達に対しては負の感情は向けておらず、唯一同じ趣味を共有できたが家を出て行った三十郎に対しては信濃に流れていたことを知り「まさか信濃に流れていたとは。もっと親子で殺したかった」と感涙していた。
忠誠心に関しても、北畠軍が道中兵糧不足に陥った際は現在の顕家軍の状況や軍の兵糧のバランスを的確に見た上で軍を支えるため郎党を率いて容赦のない大規模略奪を敢行。
更にその独断専行を顕家に罰させることで顕家の評判に傷を付かないよう兵糧を確保しており、「我らは所詮野蛮な東夷」と自嘲しつつ顕家のためならば汚れ仕事を行うことも躊躇わない。
残虐趣味さえ関わらなければキッチリと武士を束ねる将としての良識もあり、伊達同様後醍醐天皇の政策に苦言を呈し「これではいずれ地方の武士は帝にそっぽを向くでしょう」と顕家に進言した過去もある。
公私をきっちり分けて行動できるだけの理性もあり、顕家のための行動ならば不必要な残虐趣味に走ることもなく、粛々と責務や汚れ仕事を率先して引き受けていた。
顕家戦死後のしばしの平穏にも耐え切れず、南朝の幹部である親房に「殺しがしたい」と懇願して「お尋ね者に限る」と条件を付けられた際には素直に命令に従い悪人のみを探して殺しており、上の命令には従う姿が伺える。

だが略奪・蛮行で鎌倉幕府崩壊時のトラウマを刺激したことや、倒した武将を趣味で拷問して楽しむ趣向から「あの人だけは好きになれない」と温厚な時行すら軽蔑の視線を送っている。*4
一方で、忠臣としての側面も見てきたために「最後まで嫌いにはなれなかった」とも評している。

なお本人は残虐行為を心の底から楽しんでいるが、それはそれとして、自分は戦乱の世に生まれたが故に忠臣として名を残す事ができただけで、平和な世であれば「ただの大量殺人鬼」にすぎない事はきちんと理解しており、それでもなお抗えない自身の性に涙を流す場面も描かれている。
時行に対しては、甘っちょろいと貶しつつも、方向性こそ異なれど同じ「抗えぬ性」を抱えた者同士としてシンパシーを感じてもいた模様。


【装備】


上記の癖故か装備もやたら棘が生えてる上に「鏖殺」「斬殺」「刺殺」「皆殺」など物騒な文言が記された鎧を身に付けている。
戦闘では七支刀による独自の剣術を操り、相手の鎧に器用にねじ込み、防具を剝がすなど熟練の将故の技術の高さが持ち味。
他にも戦で殺した二百人の敵兵の死体から搾り取った血や臓物を腐敗するまで桶に溜め、それらを敵軍目がけて浴びせかけて恐慌を起こさせたりと、趣味が高じたドン引きものの戦術も得意。
宗広の号令一つで郎党が瞬時に周囲の視界と邪魔者を遮る肉壁となって戦場であっても宗広の拷問趣味を満喫できる場を作り上げるため、部下も部下で嫌な意味で主への理解度が高い。

ちなみに「結城小豆」という名前の小豆色の着物を着ているが、これは殺した武士の首や武士の死体の山から流れる血を千回に渡って擦り付けて染め上げたとんでもないシロモノ。キラーアーマーかな?
本人は「極上の小豆色」と語るが、あまりにも悍ましすぎて残虐自慢で名を馳せた仁木義長もそれを聞いた途端ドン引きしていた。前述のとおり残虐趣味仲間を見つけたと思ったらこれである。そりゃそうだ!

武装

  • 六尺鋸刃七支刀「七度凌遅(ななたびりょうち)
宗広の愛刀で、己の身の丈に匹敵する長さの巨大七支刀。
だが鋒の刃は鋭利な直刀、7つの枝刃の内4つは鋸刃になっており、刀身には「殺」の文字がびっしり書き記されているなど造形は異形のそれ。
本来七支刀は儀式用の刀剣とされているが、宗広の趣味が嵩じてか戦闘でも使える拷問器具へと魔改造されている。
いざ戦となれば鋸刃で相手の身体を鋸引きするかのように抉って残虐趣味を漫喫しつつも敵兵に致命傷を与えられ、枝刃で敵の甲冑を剥ぎ取り防御力を削り取れる、趣味と実益を兼ねた合理的な武器。
本人曰く「解体はお手のもの」

名前の元ネタは恐らく古代中国や古代朝鮮半島で執り行われた残虐な処刑法の1つ「凌遅刑」。
罪人の肉体を少しずつ切り落とし、長時間にわたり激痛を与えながら殺害する処刑方法であり、「中国史上最も残酷な刑罰」と伝えられている。



【最期】


関東征伐に赴く船旅の最中、嵐に見舞われ敵襲を受けた中に在って、海に落ちた時行を救うために自身も身を投げる。
その時に受けた傷と、自身の老いによって先が長くないことを僧に告げられて遺言を遺す。

齢七十 栄華に恵まれ心残りは無し!
供養も無用!
ただ一つ言い置く
朝敵の首を我が墓に捧げよ!!

ここで言う朝敵とは足利尊氏……のみならず、「南朝に従わぬ人間全て」「即ち日本国外の世界中の人間全て」というあまりにもガバガバ過ぎる朝敵理論を展開。
数億はいるであろう人間全ての首で作られた、仁徳天皇陵をも超える巨大首塚に思いを馳せながらこの世を去っていった。
あまりのブレなさに郎党達もドン引きし、随伴の僧侶に「控えめに書いとけ」と頼み込んだ。

……つまるところ、逃げ若の世界線において、『太平記』の記述はネガキャンどころかこれでもナーフされている方であるとされている。

その後、愛刀の七支刀は諏訪の保科弥三郎を通じて末子の三十郎に渡る。
父の死を悟った三十郎は「地獄の鬼の拷問などただの快楽」「逆に脱走して殺害と解剖をしまくる」と、遺言を無視して供養のために出家。
後に、北条時行と小笠原貞宗の最後の戦いとなる「大徳王寺城の戦い」で、保科党が諏訪神党の本隊に先んじて時行と合流、時行にも彼の死が伝わることとなった。


【余談】


松井先生は「極まった変態こそが最強である」という考え方のもと本作を描いているというが、松井先生によると「本編では結城宗広が頭一つ抜けています」と先生直々に変態のお墨付きを送られていた。

『太平記』では実際に終始忠臣として書かれているのだが、最後の段になって急に「常に死人の首を見ないと気分が晴れない」と宣って老若男女を問わずに毎日2~3人ぶち殺していたため地獄に堕ちたというとんでもない一面を暴露されており、読む者全員をドン引きさせている。
なお『太平記』は創作物としての側面が大きく、この記述はほぼ確実に嘘であることは付記しておく。

……で、上記の記述が創作であるとすると、今度はずっと善良な忠臣として描かれていた結城に対し、作者はなぜ最後の最後でとんでもない設定を付け足したのかという別の疑問が浮かび上がってくる。
特に結城宗広臨終の項での「死に際に起き上がり『我が墓前に朝敵の首を供えよ!』と遺言して事切れた」という逃げ若でナーフされた記述は、『平家物語』で稀代の大悪人として描かれた平清盛の最期の丸パクリで、宗広を貶めようとする意図が見え見えである。
しかも、『太平記』は基本南朝贔屓で描かれる物語。北畠軍麾下である結城は味方ポジションの人物であり、「人を殺しまくって地獄に落ちた」などという不穏な記述(ネガキャン)をする必要もないはずである。
このように突飛な設定が描かれた人物は『太平記』でも彼ぐらいのものなので、「人殺しほど極端でないにせよ、そう書かれるだけの何かがあったのでは?」と推測されていたりもする。



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最終更新:2025年09月24日 00:55

*1 かの狂牛病が肉骨粉、つまり牛同士の共食いが原因だとされてるように、人間同士の共食いもクロイツフェルト・ヤコブ病の恐れがあるので絶対にマネしないように!

*2 1338年時点のセリフで「齢七十」との言及があるため、本作でも70歳越えなのは確実。

*3 史実上では宗広に三十郎という名前の息子は確認できないため、本作の創作上の人物と思われる。

*4 むしろ温厚だからこそ残虐趣味に抵抗があるのは当たり前ではあるのだが。