北畠顕家(逃げ上手の若君)

登録日:2023/08/07 Mon 20:01:00
更新日:2025/04/11 Fri 14:30:05
所要時間:約 ? 分で読めます







結構!


鎮守府大将軍 北畠顕家である!!!



北畠(きたばたけ)顕家(あきいえ)とは、南北朝時代を代表する貴族兼武将の1人。
本項目では、史実を元に創作されている漫画作品『逃げ上手の若君』におけるキャラクターとしての北畠顕家を扱う。


目次

ステータス


レアリティ
(1337年)
☆☆☆☆☆ UR
能力 南北朝適正
武力 89 蛮性 82
知力 90 忠義 97
政治 91 混沌 91
統率 97 革新 87
魅力 96 逃隠 30
レアリティ
(1338年)
☆☆☆☆☆ UR
能力 南北朝適正
武力 91 蛮性 84
知力 91 忠義 99
政治 93 混沌 90
統率 98 革新 89
魅力 97 逃隠 0

  • 属性:軍事貴族
辺境属性の武将忠誠度50%上昇

  • 属性:天才
全ての技能の習得時間が短い

  • 技能:爆速行進
二回行動出来る

  • 技能:四矢縅
扇状の範囲攻撃

  • 技能:???
高威力の超長射程攻撃

  • 技能:出しゃばりキラキラ
武力・統率10%上昇、逃隠40%低下

  • コメント
余の華麗なる能力値が書ききれん! もう一回人物紹介を割り当てよ!!



概要


「奥州国司鎮守府大将軍」の肩書を持ち、後醍醐天皇の命を受けて奥州の守りを固めている若き貴族。1336年時点では19歳で1337年では20歳となる。
作中のキャラクター達からは「顕家卿」と呼ばれることが多い。

ビジュアルは華奢な体躯と長い金髪を一纏めに束ねた中性的な風貌の端正なイケメン
  • バサバサの長い睫毛
  • キメキメにキメた化粧
  • 羽根飾りのような装飾が施された派手な甲冑
  • 唐物*1を贅沢に使いまくったゴージャスな着物や装飾品
などまるで宝塚スターのように中性的で見目麗しいビジュアル系の容姿をしているが、強烈過ぎる人間力から生まれるオーラを纏った結果ギラギラ全身が輝いているのが最大の特徴。
例え姿を隠すため襤褸を身に付けていても襤褸布を貫通してギラギラ輝くため、変装してるのに出自が誤魔化せていない。

後述の武力以外でも才覚に優れており、最年少14歳で参議*2に上り詰め18歳で奥州の統治を任された高い知性と品格も持つ。
1337年には「北条時行を直接見極めよ」という後醍醐天皇の勅命を受けると、北条時行が後醍醐天皇に送った密書の返答と合わせて、伊豆にある時行の隠れ家へ手勢も引き連れずお忍びで来訪。
時行を罵倒しながらも彼の覚悟や胆力、実力を見極めた上で朝敵認定を解除。
大らかな笑みを浮かべて時行を自らの傘下に加えている。

マーキング・パターンは「この世の全ての花(本人談)」

人物


一人称は「余」。他人を呼ぶ際は「汝」と呼ぶ。
「鎮守府大将軍」と豪語して尊大かつ仰々しい態度を取る強烈な自信家。
関東の茶を雑草汁扱いしたり武士を東夷(あずまえびす)*3と呼んで人間扱いせず、事あるごとにディスってくるえぐい位に剥き出しの差別意識と階級意識の持ち主。*4
おまけに強烈な圧で苛烈な言葉責めをちょくちょく仕掛けてくるサディストな趣向まで持つドSなため、実態は頼重に負けず劣らずの変人

差別意識を隠そうともしないため初見だと反感を非常に買いやすいが、根は「敬意を払う事」を何より重んじる真摯で高潔な人物
武家への差別意識こそ強烈だが、同時にそれに匹敵するほどの敬意をもって接することを信条としている。
「言葉を禁じても差別は無くならない」という達観に近い前提を踏まえた上で、「敬意さえ通じ合えばあるがままで結構」「自分の敬意は行動で伝え、相手の敬意は心で読み取る。それさえ守ればどんな両者も一つにまとまる」という信念の元行動する自由かつ高貴な御仁。
その持論の下、胆力や覚悟を見極めた上で認めた相手には子供相手であろうとかなり寛大かつ大らか。
部下である奥州武士達への敬意も深く、部下の雑兵が矢傷によって傷が膿んで苦しんでいるのを見れば罵倒し蔑みながら迷いなく傷口に溜まった膿を己の口で吸い上げ取り除くかなりの部下想い。
配下たちがお高く留まっている顕家に対しても忠を尽くすのも偏にこの敬意に感銘を受けたためである。
他にも楠木正成相手には時行に見せたサディストっぷりは欠片も出さず、「不届き者め」と皮肉りつつも素直にその軍略を賞賛。
敗軍の将である幼き時行にも単独で会いに行ったり*5、明らかに公家の指揮下には相応しくないような野蛮な武士たちも重用するなど徹底した敬意の示し方を実践しており、これらが強烈なカリスマ性を生んでいる。

そしてその敬意は時に自身が認めた敵軍にも向けられる
その敬意の表れとして、例え勝ち確な状況であったとしても敵が望むまま一騎打ちに応じさせたり、その末に相手が勝てば「望むままの終戦条件を認める(=自身の首を差し出す)」と持ち掛けることも厭わない。
曰く「敵だろうと賊だろうと、等しく帝の民。ならば民の覚悟を汲み取るのも官軍の役目」

だがそれはそれとして貴族の癖に割と直情的な激情家で結構キレやすく野蛮。後やたらと「御」という文字を多用したがる。
身体を頑として洗おうとしなかったり勝手に石合戦を始めたりと雅の何たるかを知らない蛮性剥き出しの行動をする部下に度々ブチキレることもあるが、自軍を幾度も妨害してきた斯波家長への敵愾心は人一倍。

奴だけは絶対に許さん!
ギッタギタに(おん)ぶちのめして這いつくばらせ
「大将軍様の御意のままに高貴な御鞭(みむち)()しばきください」「獣に御鞭は何よりの御馳走ですわ()~ん」
と言わせてやるわ!

とは本人の談。
この時あまりにも台詞量が多すぎて「こいつが喋ると窮屈になる」と弧次郎に愚痴られていた。
しかし、何度も辛酸を舐めさせられたが故に家長のことを誰よりも認めていると同時に敬意も払っており、死を覚悟して一人残った家長の心意気を汲み取り、彼にとっての怨敵である時行との一騎打ちに応じさせたりもした。

また派手好きで出しゃばりな気質から出番がないのが嫌なようで、事あるごとに罵倒しながら叱咤激励するなど無理矢理ながらも見所を作ったりする。
他だとキレ所が割と不明確。
静かに時行を見守る器の大きい所を見せたかと思えば変なところで急にブチ切れる気難しい面があり、合流後それなりに傍で付き添っていた時行すら「(この人のキレ所どこなの!?)」と内心涙目でツッコんだことがある。


後醍醐天皇に対しては深い敬意と忠誠心を持つが決して盲目に忠誠を誓っているわけではなく、奥州の厳しい現状を誰よりも知るが故に後醍醐天皇への不満も保持。
帝と国の行く末を憂い「お諫めせねばならないことが山ほどある」「やり方さえ正しければ必ずや次こそは仁徳天皇を超える名君になる」と信じて、建武の新政の問題点を痛烈にディスり倒しつつも改善を促す上奏文も書いている。
そして上奏文では贅沢ばかりする無能な公家よりも能力や忠義のある庶民・辺境の武士達に恩恵を与えるよう書いており、彼もまた実力主義を重んじる気質を見せている。


総じてその苛烈さと大らかさが同居したような気質、時行も初めて見る特異な武将としての在り方を時行は「太陽のような人」「敬意で人を動かす将」と評している。
頼重が「超人でありながらどこか人間臭く、才能と成長に期待して無茶振りをする教育者」であったのに対して、こちらは「相手を正しく見極めたうえで見下すからこそ、長所や功績に対しても素直に認める超人」といった所か。


能力


「規格外貴族」「傑出した文武に美まで備えた南朝最強の貴公子」と解説される最強の公家
戦う公家が増えた南北朝時代で武士を超える武力を持つ唯一無二の公家で、特に術は
  • 三十三間堂の境内の先から隅にある軒下に何本も矢を当てる腕前*6を持つ
  • 初登場のシーンでも彼の矢で射抜かれたと思わしき足利党の屍の山を築く
  • 時行の覚悟を試すための弓の一射で射線上にあった大木3本を消し飛ばすように貫通する
といった具合で卓越。
正成からは「神の如し」と絶賛され、小笠原貞宗の弓術を知る逃若党の面々からも「貞宗の剛弓とも全く異なる神域の矢」と評されている。
生半可な防御すらぶち抜く威力、凄まじい射程距離に加え確実に敵の急所を射抜く正確性、更に矢を番える速度も凄まじい。
矢が尽きれば太刀を振り回して武士顔負けの剣術も操るため、遠近共に隙がない。

配下の奥州武士たちを巧みに操る指揮能力も備えており、作戦立案能力も高め。
戦ではまず執事の春日が献策を行うのだが、最終的に顕家が皆の予想を軽く超える提案を思いついては実行してしまうとのこと。
必要とあらば自ら率先して隊を率いて作戦のための駒に徹するなど即断即決かつ行動力も高い。
外様の人員に対しても寛容で、(内容次第では却下もするが)献策や提案にはちゃんと耳を傾けてくれた上で的確な判断を下す。
とはいえ根が割と短気でキレやすい部分もあるためか、斯波家長からは新田義貞に近い猪突猛進型の将」として分析されている。

戦場では攻撃面はすべて顕家一人が担い、配下の武士たちには防御のみを任せている
ギラギラと輝くオーラを逆手に取りヘイトを顕家一人に集中させ、迫りくる敵は配下の武士たちが文字通りの「肉壁」となって顕家を死守、その隙に顕家が自慢の弓術で敵を一掃する、といった具合。
また戦場において顕家は身を守るための刀を差していない
これは「公家を守るのは武家の役目。よって余の命は汝らに託す」という顕家の部下たちに対する敬意と信頼の表れ
文字通り命を懸けた敬意の伝え方であり、部下たちはそんな顕家に報いようと命を懸けて顕家を守るのである。
顕家も部下たちのことを「余の肉壁は決して破れぬ」と部下たちをディスリつつも、絶対の信頼を置いている。
とは言え流石に矢が尽きた際には刀も使うが、剣術の技量も弓術に負けず劣らずの実力を見せており、師直配下の精兵を一呼吸の内に複数人斬り殺すほど。
また、その行動さえも部下からすれば「下賤な我々と共に命を晒してくれる」というように士気上昇に繋がっている
敬意で人を動かす顕家だからこそできる戦術と言えよう。

因みに
  • 戦闘中でも優雅に茶を飲む
  • (敵のいない帰還中であるが)乗馬しながら書物を読む
  • 戦の最中に衣装替えをした挙句舞台装置と公家の楽隊を準備してド派手に自らを飾り立てて目立とうとする
  • 巨大な神輿に担がれながら生け花を始める
などなど、戦の最中でも公家の嗜みを忘れない自由にしてやりたい放題な御仁。
一応これらは考え無しの酔狂で公家のたしなみを欠かさない訳ではなく、例え重傷を負おうとも公家としての意地・精神・文化を敢えて誇り高く見せつけることで配下の武士達の心を圧倒して士気を鼓舞する…という実益も兼ねた行動である。


◆爆速行進

顕家を伝説たらしめた代表的な逸話。
1336年に朝敵とされた尊氏が反撃に出た際には、弱冠19歳ながら風林火山の旗を掲げながら奥州から京都目掛け出陣。
鎌倉・東海道の足利党を軒並み蹴散らし、二十日で600km(百五十里)を走破という神速の行軍を2度も成し遂げた。*7
解説によると1日平均40kmの行軍であり、「鎧武者の進軍速度として史上断トツの日本記録」と評されている。
その常識離れした速さと行動力を持つため、変装がモロバレだったとしても顕家の行動があまりに速すぎて敵軍が捕らえれないというある種の防御すら兼ねている。

超強行軍に耐えうるほどの強靭にして屈強な肉体を持つ奥州武士の身体能力と、顕家への絶対的な忠誠心が嚙み合わさったことで成し遂げた偉業である。


◆技

  • 四矢威(ししおどし)
弓に数本の矢をつがえて放ち、一度に複数の敵を撃ち抜く技。亜也子曰く「人手いっぱいお金持ち戦法」
驚くべきはあっという間に矢を番えては射る連射速度と、放った矢すべてが敵の急所を正確に捉えている射撃精度。
上記の戦術とこの技の存在もあって、顕家そのものがある種のMAP兵器と化している。

  • 三十三間花飾(さんじゅうさんげんはなかざり)
四矢威とは対極の超長射程・長高速の一点射撃。
矢を放つと同時に全身の捻りで弓を突き出すことで、更なる加速を矢に上乗せする。
特筆すべきは加速を乗せたことで実現した恐るべき威力で、遠く離れた敵陣にある太い木材すらもぶち抜いて真っ二つにしてしまう。
加えて「花飾」の名の通り、弓に花束を添えて射撃の瞬間に花弁が舞うなど、華麗さも忘れていない。

元ネタは実際に三十三間堂の軒下にある外廊下で行われていた「通し矢」の行事。
ただし、通し矢が流行したのは戦国時代からとされており、顕家が通し矢をした記録はない*8

  • 俱盧舎羽飾(くろーしゃはねかざり)
自身が立つ竹櫓を部下に揺らせ、しなる竹櫓の勢いと高低差を利用して「三十三間花飾」を放つ超長距離狙撃。
放たれた矢は弾道ミサイルのような弧を描いて敵を貫くなど、飛距離・威力ともに正に規格外。
一見単純なように見えるが、精密な狙撃が要される場面で竹櫓を揺らす方角やタイミングが少しでもズレると成立しないことから、部下が顕家の指示に正確に応え、顕家側も部下たちの動きに合わせる必要がある高度な技。
顕家と部下たち、双方の信頼関係があるからこそ成立する技だと言える。

なお、俱盧舎(くろーしゃ)は古代インドにおける長さの単位で、文献や解釈にもよるが1俱盧舎につきおよそ1.8~3.6kmにも及ぶという。

  • 炎獣花飾(ほのおけだものはなかざり)
石津の戦いで隙が無い高師直を射抜く為に編み出した逃若党との連携技。
まず、師直陣に忍び込んだ玄蕃が師直の真上で石油を混ぜたてつはうを爆破。
上空から爆炎が襲う中、さらに「三十三間花飾」によって花を眼前で散らすことで目眩ましに。
そして最後に2人にしかわからない符号を伝えて馬上に立たせた時行に向かって手加減抜きの本気の一射を放つ。
いくら隙を見せない完璧執事と言えども、爆炎(ほのお)で気を反らされ、花飾(はなかざり)で目を眩まされ、そして時行(けだもの)が咄嗟に躱すことで完全な死角から飛んできた矢を回避することは敵わない。
顕家の神の如き技量と彼が認めた時行との信頼関係あってこその技である。

  • 天刃々矢(あめのははや)
装備していた太刀を矢の代わりにして弓から撃つ奇襲技にして最後の奥の手。
矢が尽きた状態からの奇襲性に重きを置いているためか、殺傷力は通常の射撃と比べると低め。それでも鎧武者の姿勢を大きく崩して落馬させるほどの衝撃力がある。

名前の由来は記紀神話に現れる矢「天羽々矢(あめのははや)」。
あるいは太刀を使っていることからスサノオがヤマタノオロチを退治する際に使って折れた刀「天羽々斬(あめのははきり)」か。


北畠軍




不潔極まる東夷どもが 戦で敵を殺す事しか頭にないか!

おう!

川で凍えて溺れ死ぬなど恐れないか!

おう!

結構!(おん)ぶちのめせ!!


顕家が率いる配下の面々。
見るからに野蛮そうないで立ちの荒々しくも精強な奥州武士が主戦力で、中にはアイヌらしき兵も見られる。また全員体は絶対に洗わない
北国の武士たちは平安時代まで蝦夷と呼ばれ蔑まれた一方で、中央の兵士より段違いに強かった分全国各地で傭兵として取り立てられ、彼らの戦法は武士にも大いに取り入れられたとされる。

公然と部下を「ゴミ共!」とケンカを売るがごとく罵ってくるなど顕家が差別意識や差別用語を日常的に使っているにもかかわらず、顕家のスタンスもあって部下からの忠誠心は非常に高い。
顕家を「将軍様」と呼ぶ部下と顕家はさながら身分という垣根を捨ててタメ口を言い合う悪友のような仲になっている。

その上の将は顕家同様に戦う公家から元御家人といった常識人(まとも)な者から、変態に至るまで充実している。(変態が複数いなかったためしがない)

このような関係になったのは、顕家が奥州に着任した際のこと。
当時の顕家は武家に対する差別意識こそ持っていたが、現在のような口汚い罵倒を行う人物ではなかった。
誇り高き理想家であった顕家は奥州武士たちと対話を重ねようとするが、価値観の違いから会話のみではコミュニケーションが成立せずに悪戦苦闘。
「なんと悍ましい場所に来てしまったのだ」と震えあがる顕家であったが、それでも諦めることなく部下たちを取りまとめようと結城らから助言を乞う。
その際に彼らから「奥州武士は実力のある者に従う」、「圧倒的力を見せつけ、口汚い言葉で罵倒してやればいい」と冗談交じりに告げられる。
顕家は公家の中でも最上級の身分を持つ人物。まさかそんなことは出来ないだろうと誰もが侮った次の瞬間、顕家は自分の神域とも称される弓技ではるか遠くの巨木に風穴を空けて自分の実力を部下たちに見せつけた。
公家とは思えない威力の弓矢に誰もが恐れ慄き呆気に取られる中、顕家は高らかに吠える。


ひれ伏せ。

その粗末なチ×コ(おん)ぶち抜くぞ!!


ゴミ共!!


なんと普通の公家ならば絶対に口にしない汚い言葉で奥州武士たちを罵った。
圧倒的実力と口汚い罵倒に怯え、部下たちは一斉に彼の言葉通りひれ伏したのである。
この光景を間近で見ていた結城は「公家でも最上級のお人が我ら奥州武士の流儀に即座に合わせてくださった」と感銘を受けた。
これを機にと夜通しで部下たちと語り合い、言葉攻めの引き出しを増やすと同時にコミュニケーションを改めて取り、信頼関係を深めていった。
顕家が事あるごとに相手を口汚く罵倒するスタンスはこうして形成されたワケである。

その後も最上級の公家である顕家と最底辺の身分を持つ部下たち、双方の落としどころを探りながら顕家は対話と努力を欠かさず、双方の信頼関係はますます強固なものとなった。
そして後醍醐天皇の統治が本格化する中、彼の地方を見ようとしない統治体制に部下たちが帝に対し苦言を呈するようになる。
顕家も部下たちの苦しみを解消したかったが、如何に優れた才覚を持つ顕家でも当時まだ二十歳にも満たない若造であるが故に諫言もままならなかった。
そうした中、遂に尊氏が本格的な謀反を行って政権を奪取。顕家は尊氏の首を取れば政治の中枢に食い込み、部下たちの声を帝に届けられると考えて出陣した。
部下たちの忠誠心もここで天元突破し、自分の声を天に届けてもらうため、そしてそんな自分たちのために動いてくれる顕家のために命懸けで彼と共に戦へと赴く。

余が変えてやる

地方の事は地方で決め
忠臣の働きを正しく評価し
才能が無駄に散る事の無い新しき世に!


汝らの声を余が天下に届けてやる

行くぞ!!


こうして北畠軍は互いに口汚い言葉を投げ合う悪友のような関係性となり、極めて強固な信頼関係を結んだのである。
ただ忠誠心が強すぎるあまり、部下たちは顕家のために重罰も覚悟の上で人道から外れた行為に手を染め、顕家も部下の思いを理解しているが故に強く処断できなかったりもする。
それでも顕家は自分の理想のため、部下のために今日も罵倒を繰り返しながら戦い続けるのだった。

以下は、そんな彼に付き従う個性豊かな配下の将たちである。


奥州武士三将

  • 伊達(だて)行朝(ゆきとも)
なんか懐かしい人思い出すね
ああ 癖がなく普通に強い人ってそのうち…

おい!今俺を妙な目で見なかったか!?

レアリティ
(1338年)
☆☆☆ SR
能力 南北朝適正
武力 81 蛮性 71
知力 73 忠義 91
政治 72 混沌 76
統率 83 革新 61
魅力 70 逃隠 69


北畠軍戦闘指揮官。
もみあげと口髭が一体化した見るからに勇猛そうな将。よく見ると髪型、もみあげ、髭が全て線対称で整っている。
彼も見た目に反して物腰柔らかで、時行にも「そなたの父君には世話になった」と丁寧かつ対等な立場で接する好漢。
春日と並び北畠軍の中では屈指の常識人であり、荒くれ者揃いの奥州武士を堅実にまとめ上げており、戦も卒なく強い。
……であるが故に若干地味。逃若党も彼のことを影の薄い諏訪の武神と同一視しかけていたが、影薄い認定を力づくで振り払うくらいの実力はある。
「あ 影薄い認定を力づくで振り払った」
「さすがにやりやがる」
マジで何も無い武神「チッ」
常識人故に気苦労もそれなりにあるようで、河原で石合戦を始める奥州武士たちの事を思い出して焦る場面もあった。

なお、時行への初対面時の挨拶通り、幕府健在の時は北条高時の御家人として畿内で起きた後醍醐天皇の反乱(元弘の乱)の鎮圧にあたっていた過去がある。


  • 結城(ゆうき)宗広(むねひろ)
…北条殿は甘っちょろいお子様のようで 抜くならば相手せねばなりますまい
私の魂は…息子のように清らかではありませんぞ

レアリティ
(1338年)
☆☆☆ SR
能力 南北朝適正
武力 69 蛮性 100
知力 82 忠義 97
政治 63 混沌 99
統率 71 革新 76
魅力 34 逃隠 65


目が「・」の簡単作画で描かれ、凶悪な顔揃いの北畠軍に似合わぬ穏やかで平和な顔を常に称える、明るい態度で物腰柔らかな老将。
…なのだが、平和なのは顔だけで実態は北畠軍でもブッチギリの濃さを持つ危険人物。登場早々平和な顔のまま「老若男女一切合切ぶち殺します!」とブチギレたことを宣ったギャップがありすぎるやべぇ男。
思い返せば諏訪で似たようなこと言ってた平和な顔をした保科党の門番と全く同じ顔である(差異は白髪とほうれい線くらいでほぼコンパチ)。
というのも、平和な顔の門番こと結城(ゆうき)三十郎(さんじゅうろう)は彼の末子である*9
点のような眼だがこれは白目を剝いているから点に見えるだけで、実際には禍々しい瞳が隠れている。
ちなみに「結城小豆」という名前の小豆色の着物を着ているが、これは殺した武士の首や武士の死体の山から流れる血を千回に渡って擦り付けて染め上げたとんでもないシロモノ。
本人は「極上の小豆色」と語るが、あまりにも悍ましすぎて残虐自慢で名を馳せた仁木義長もそれを聞いた途端ドン引きしていた。

人殺しが大好きで殺しを趣味扱いし、「常に生首を見ないと気が収まらない」と公言する重度の快楽殺人者。(シリアルキラー)
実家では無差別に人を刀や拷問器具などで惨殺している様子が見て取れる。だが過去には三十郎に「無差別殺人は飽きたので、どうせなら正義の殺しがしたい」という理由で実家を出ていかれたイカレた経歴持ち。
殺人や拷問をこよなく愛して戦場であろうとチャンスがあれば拷問趣味を満喫しようとする危険思想持ち。
おまけに殺した人間の臓物や血をコレクションする危ない趣味まであり、採れたて新鮮な臓物や血がすぐ腐敗することを憂いて「どうして人はすぐに腐ってしまうのだろう」と心の底から疑問視するほど。
危険すぎる思想故に同好の士も極めて少ないことがうかがえ、仁木義長が残虐自慢で名を馳せたと知るやテンションが上がって「なんと!貴方も血がお好きで?」「さあ、残虐について心ゆくまで語らいましょう」と迫っていた。

とはいえ殺人癖と残虐趣味さえなければ真っ当かつ子供思いの忠臣であり、顕家も(へき)以外は温厚で老練な忠義の将」と信任を置く。
「癖が安心できないの!」
趣味を共有できなかった他の息子達に対しては負の感情は向けておらず、唯一同じ趣味を共有できたが家を出て行った三十郎に対しては信濃に流れていたことを知り「まさか信濃に流れていたとは。もっと親子で殺したかった」と感涙していた。
忠誠心に関しても、北畠軍が道中兵糧不足に陥った際は現在の顕家軍の状況や軍の兵糧のバランスを的確に見た上で軍を支えるため郎党を率いて容赦のない大規模略奪を敢行。
更にその独断専行を顕家に罰させることで顕家の評判に傷を付かないよう兵糧を確保しており、「我らは所詮野蛮な東夷」と自嘲しつつ顕家のためならば汚れ仕事を行うことも躊躇わない。
残虐趣味さえ関わらなければキッチリと武士を束ねる将としての良識もあり、伊達同様後醍醐天皇の政策に苦言を呈し「これではいずれ地方の武士は帝にそっぽを向くでしょう」と顕家に進言した過去もある。
公私をきっちり分けて行動できるだけの理性もあり、顕家のための行動ならば不必要な残虐趣味に走ることもなく、粛々と責務や汚れ仕事を率先して引き受けていた。

だが略奪による蛮行に及んでトラウマを刺激したことや、倒した武将を趣味で拷問して楽しむ趣向から「あの人だけは好きになれない」と温厚な時行すら軽蔑の視線を送っている。
一方で、忠臣としての側面も見てきたために「最後まで嫌いにはなれなかった」とも評している。

上記の癖故か装備もやたら棘が生えてる上に「鏖殺」「斬殺」「刺殺」「皆殺」など物騒な文言が記された鎧を身に付けている。
戦闘では七支刀による独自の剣術を操り、相手の鎧に器用にねじ込み、防具を剝がすなど熟練の将故の技術の高さが持ち味。
他にも戦で殺した二百人の敵兵の死体から搾り取った血や臓物を腐敗するまで桶に溜め、それらを敵軍目がけて浴びせかけて恐慌を起こさせたりと、趣味が高じたドン引きものの戦術も得意。
宗広の号令一つで郎党が瞬時に周囲の視界と邪魔者を遮る肉壁となって戦場であっても宗広の拷問趣味を満喫できる場を作り上げるため、部下も部下で嫌な意味で主への理解度が高い。

史実に則すれば1337年時点で71歳の老人
『太平記』には実際に終始忠臣として書かれているのだが、最後の段になって急に「常に死人の首を見ないと気分が晴れない」と宣って老若男女を問わずに毎日2~3人ぶち殺していたため地獄に堕ちたというとんでもない一面を暴露されており、読む者全員をドン引きさせている。
なお『太平記』は創作物としての側面が大きく、この記述はほぼ確実に嘘であることは付記しておく。

ちなみに結城親朝や三木一草の結城親光は彼の息子。ただし真面目な気質だったため殺人趣味は共有できなかった模様。
松井先生は「極まった変態こそが最強である」という考え方のもと本作を描いているというが、松井先生によると「本編では結城宗広が頭一つ抜けています」と先生直々に変態のお墨付きを送られていた。


  • 南部(なんぶ)師行(もろゆき)
『~~~!!~~~~~?』ペラペラペラ
『~~~!~~~!』ペラペラ
『~~~ ~~~~~!!』ハッ

「よろしく」と

絶対今ガキだと馬鹿にしてただろ!

レアリティ
(1338年)
☆☆☆ SR
能力 南北朝適正
武力 90 蛮性 87
知力 71 忠義 93
政治 70 混沌 75
統率 57 革新 46
魅力 64 逃隠 34


南部党を率いる北畠軍の武将。
日本人の名前なのに相貌が明らかにスラヴ系やコーカソイド系人種という中々にトンチキな欧州奥州武士。
ビジュアルはどことなくデンマークの俳優マッツ・ミケルセンに似ている。

キツい北国訛りがあるため美麗な通訳の側近を通じて話しているが、理由を「北国訛りが皆様に聞き取れないため」*10としており、時行の背丈の低さを見て子供だと小馬鹿にしたようにゲラゲラ笑っているなど逃若党の存在を見下し気味。
通訳の人はそういった悪口は敢えて翻訳せず「よろしく」の一言に意訳するなどの配慮が見られるが、師行本人の態度が露骨すぎて全く隠せてない。
一方で狩猟大会で雫から大物の鯨を譲ってもらって以降からは逃若党(というよりも雫)に対して気に掛けるような描写も出始めており、罵詈雑言混じりではあるが時行に何かとフレンドリーに接するようになっている。

彼の言によれば南部党は北畠軍随一の兵力を誇り、時行率いる伊豆北条党の10倍いるらしい。
師行自身は戦では木の棍棒や何十本もの槍や刀を丸太のように一斉に抱えながら、それらをバットのスイングのように振り回して相手に突き刺すなどパワーに任せた豪快な戦い方を得意とする北畠軍随一の剛力の持ち主。
また平時から石合戦を好む強肩のピッチャーでもあり、戦場においても嬉々として配下と共に石を投げつける。

なお南部氏は元は甲斐国(山梨県)の武将であり、師行自身も生まれも育ちも甲斐国


その他武将

  • 春日(かすが)顕国(あきくに)
私はね雫君 兵法通りの策を献上しているだけだ
顕家卿は私の策で戦を始め
最後は軽々と策を超えて行かれるのだよ

レアリティ
(1337年)
☆☆☆☆ SSR
能力 南北朝適正
武力 29 蛮性 29
知力 88 忠義 96
政治 84 混沌 74
統率 76 革新 65
魅力 70 逃隠 81


北畠軍執事にして実質的な軍師。
ダリのような髭を生やした公家にして武将。
顕家と違い、初対面の時行を「時行君」と呼ぶなど物腰柔らか。しかし同時に「君よりも身分は上だからね」とマウントを取るのも忘れない生粋の公家でもある。
春日自身は「兵法通りの策を献上しているだけ」「(顕家卿は)最後は軽々と策を超えて行かれる」と謙遜するが、まず彼が顕家の右腕として献策を行わなければ北畠軍の戦は始まらない程の重要人物である。
他にも北畠軍の取りまとめなども行なっており、別動隊を率いて単独指揮での籠城戦も得意とするなど非常に有能で、「汝の執事の才は師直の倍だ」と顕家も賞賛するほど。
ナレーションでも「見掛け倒しの多い戦闘貴族の中で戦と外交の手腕は抜きん出ていた」と解説されており、1338年の一連の戦の中で獅子奮迅の活躍を見せた将として桃井直常、土岐頼遠高師直と共に名を挙げられている。

加えて雫にとってはベテランの先輩執事ということでよくアドバイスや教えを彼から受けており、彼も雫の事を見込んで丁寧に指導して自分が抜けた後の後釜に雫を抜擢するなど、雫にとっての執事の師という立ち位置にある。


  • 宇都宮(うつのみや)公綱(きんつな)
…皆に問う
飯はまだかのう?

レアリティ
(1338年)
☆☆☆ SR
能力 南北朝適正
武力 90 蛮性 70
知力 33 忠義 40
政治 26 混沌 31
統率 85 革新 21
魅力 72 逃隠 73


「坂東一の弓取り」と謳われる顕家軍屈指の超大物武士。
眼光鋭い老将で佇むだけで話すことすらはばかられる迫力を発しており、その威容は楠木正成すら戦いを避けたと記されている。
だが、その実態は戦場においても重々しい雰囲気で「飯はまだかのう?」と宣う耄碌したボケお爺ちゃん
ナレーションにも「戦で強かった記録がない」「右往左往する記録ばかり残り何故強いと言われるかは謎である」とこき下ろされている始末。
一応、雰囲気だけは強者のソレなので、敵が勝手にビビっている隙をついて郎党が攻め込むことで勝利を挙げてはいる
「雰囲気勝ちじゃねーか」

ただし、あくまで強くないとされているのは耄碌による将としての才覚であり、尊氏汁によって我を忘れた強さの足利兵が殺到したところ目にも止まらぬ薙刀捌きで全員斬り捨てるなど武人としては滅茶苦茶に強い
本人の言も「我を忘れた精神状態で戦に出るなど戦神への冒涜よ」と誉れ高き武人のそれ。
まあ、直後に既に亡くなっているばあさんに飯の催促をするなど本人も我を忘れたままなのだが……

『太平記』でも、やはりかの軍神楠木正成が直接対決を避けて退却を決めるほどの屈指の強キャラとして描かれているが、それ以外では負け戦の記述が目立つなど実際に戦が強かった記録はない。
特に1336年の建武の乱においては、帝側と足利側の間で敗北と恭順を繰り返す「右往左往する記録」を残しており、強キャラとして登場させた『太平記』でも揶揄されている始末*11
また、本作では耄碌したお爺ちゃんとして描かれているが、史実に即すれば1338年時点で35、6歳の筈である。


その他

  • 松姫(まつひめ)
顕家の従者を務める中性的な美童。姫と呼称されるが現時点では性別不明。
どこからともなく茶を用意したりして顕家の指示に寡黙に従っている。
戦闘中でも顕家に矢を装填したり、行軍中に生け花を始める顕家のために花を摘んだりとサポート内容は多岐に渡り、そしてどれもが正確。
有事となれば薙刀を構えて敵に臆せず立ち向かう度胸もある。

その出自は夜盗に一座を皆殺しにされた旅芸人の生き残り。
一座では歌を担当していたが、その時のショックで唖者となったことで食うに困り、盗人にまで落ちぶれてしまっていた。
顕家本拠地の霊山城で兵糧を盗みに入ったところで捕まるも、顕家はその在り方を「あるがままに美しい花」と肯定し、その場で化粧を施して従者として仕官させた。
そのため忠誠心は並々ならぬものがあり、石津の戦いでは顕家に最期まで付き従い運命を共にした。

顕家には「松代の方」と呼ばれる愛妾がいたため、モチーフは彼女だろうか。

  • 通訳の人
戦場の中であろうと師行の傍に常に侍る名前不明の美麗な人物。
性別も不詳ではあるが、顕家の罵倒に対して目を♡にしている
バインダー風の板と筆記用の紙束と筆を常に抱えており、簡素な鎧と合わせて女性物の着物を着込み三つ編みにまとめた長髪が特徴。
師行の訛り過ぎた言葉を翻訳して他の人々に伝える役目を持つが翻訳は割とざっくり気味。
最近では師行の長い喋りを「お世話様です」といった単語レベルまで圧縮した雑な翻訳も目立っており、弧次郎に「通訳てめえ仕事しろ!!」とツッコまれた。

石津の戦いの激戦で師行が戦死する中、通訳の人は一足先に逃がされていたようで、その後は伊達行朝と共に北陸に渡っている。


新田党

鎌倉滅亡の実行犯である新田義貞の配下。
義貞自身は本拠地の越前で本隊と共に北朝勢力と戦闘中であるため、北畠軍に合流するこちらは別動隊で兵数はそこまで多くはない。
途中で新田本隊とは合流する予定だったが、義貞が「そっち(北畠軍)がこっち(越前)に来てくれるんじゃないですか?」と盛大に勘違いしていたことが判明*12
そんな状況でも残留することを決めた徳寿丸のため、畑のみ報告のため越前へと帰還することになった。

  • 新田(にった)徳寿丸(とくじゅまる)
ひゃっほぉ!!首ちょーだい首!!!

レアリティ
(1338年)
☆☆☆ SR
能力 南北朝適正
武力 52 蛮性 82
知力 忠義 62
政治 0 混沌 84
統率 55 革新 32
魅力 36 逃隠 59


「新田党」を率いる新田義貞の息子で三男。
「後の闘将・新田(にった)義興(よしおき)とナレーションされたが1337年時点では十歳未満と非常に若い。
新田一族らしく褐色の肌と父親同様「?」マークが頭の周囲に浮かぶヤンチャ系の美少年。
細かい事を一切考えない裏表のない天真爛漫な性格。
初邂逅の時点ですら「時行の親の仇」といった前提など知ったことかと一切空気を読まず無邪気に時行に憧れるかなり大らかで天然な一面を持ち、梯子を外されたような感覚に陥ったのか彼と触れ合った時行はかなりゲンナリしていた。
態度も非常にフランクで、様呼びされることには「呼び捨てでいーって年下だし」と逃若党に対しても好意的に接する。

しかし義貞の息子らしく、幼いながらも武力は一級品で、野生の勘とでも言うべき動きで大人をも翻弄。
サポート込みとは言え、足利屈指の猛将である高師泰をあわやという場面まで追い詰めるほどの実力を持つ。

  • (はた)時能(ときよし)
あれは一匹で千人を殺せる猛虎だ
もし倒せれば…君は若鷹から真の鷹になれるだろう

傍に犬を連れた老武将。時行を「ウサギちゃん」呼びするなど動物に喩える比喩表現を好む。
本人の武力はもちろん犬も戦力の一つであり、戦場では連携して敵将を倒している。
主君である義貞が顕家軍に合流できないことを知ると離脱するが、己の意志で残ることを決めた徳寿丸の成長には感心しており、彼を堀口に託している。

なお、ビジュアルはムツゴロウこと畑正憲そっくりだが、これは苗字繋がりと『太平記』において“犬獅子”という愛犬を使役して砦を陥落させた伝説由来と思われる。

  • 堀口(ほりぐち)貞満(さだみつ)
若殿はいつもこうなので従うだけです

畑とは対照的に釣り眉の若い武士。穏やかな表情で徳寿丸の天真爛漫さを受け入れ素直に従っている。
徳寿丸に振り回されるのは慣れており、ちょっとのことでは動じない精神を持ち合わせているが、内心では(バカだバカだと思っていた)とナチュラルに無礼発言もしている。
それでもその成長に感涙する忠臣であり、徳寿丸からも軍のまとめ役として高い信頼を置かれている。
石津の戦いでは徳寿丸を守るため高師泰相手に一騎打ちを申し込むも、薙刀一閃を食らって戦死してしまう。その死は徳寿丸の覚醒を促した。

なお、史実においては石津の戦い以前に陣中で没している(死因不明)ほか、徳寿丸ではなく越前の義貞本隊に従軍していたなど逃げ若での描写とは差異がある。


余談


  • イケメン貴族
本作をはじめ、多くの創作物で美少年として描かれることが多く、大河ドラマ『太平記』に至ってはその美しさの表現のために後藤久美子が演じるほどだった顕家。
当時の記録では『舞御覧記』がその容貌についてこう伝えている。
形もいたいけして、けなりげに見え給いに(幼くてかわいらしく、態度は堂々としている)
これは1331年に後醍醐天皇の前で陵王を舞った際の記録で、当時顕家は13歳のため「年相応に可愛いが立派」くらいのニュアンスだろうか。
まあ他に後世にイケメンとして描かれがちな源義経が「鼠みたいだった」などと書かれているのに比べたら、公式イケメン扱いと見做して良いレベルなのだが。

なお余談だが、その際に舞った「陵王」の題材となっている蘭陵王(高長恭)も、後年「イケメンすぎて顔を仮面で隠していた」という伝説が付与される人物であった。

  • 風林火山
疾如風(はやきことかぜのごとく)  徐如林(しずかなることはやしのごとく)
侵掠如火(しんりゃくすることひのごとく)  不動如山(うごかざることやまのごとし)

『孫子』の一節であり、戦国最強として名高い武田信玄が軍旗として使用していたことでも有名な「風林火山」だが、これを先に軍旗として使用していたのは北畠顕家と伝わっている。
オリジンであるその旗は「伝北畠軍旗」として北畠顕家を祀った阿倍野神社に奉納されており、その字は顕家の父である親房の書だと伝わっている。
この旗は一般公開されておらず、本作の歴史監修を務める本郷和人先生も実物を目にしたことはないとのことなので、実物写真を載せている『逃げ上手の若君』の1コマはかなり貴重な資料である。
余談だが、松井先生によると阿倍野神社は逃げ若の連載当初からかなり懇意にコンタクトを取ってきていたらしく、コラボ企画として度々逃げ若の顕家が描かれた切り絵御朱印の授与を行っている。

そのように滅多に人前に出てこない(あと南北朝時代の映像作品が全然ない)こともあり、北畠家の風林火山は武田家のものよりも大分マイナー気味だが、そもそも武田家が北畠家の旗を参考にして風林火山を軍旗とした説も存在する。
というのも『孫子』が日本に伝わったのは奈良時代とかなり古い時代ではあるのだが、閲覧者は貴族等、宮中の者に限られた。
戦国時代には『六韜』や『三略』といった中国の兵法書も戦国武将の間で教養として広まっていたものの、『孫子』はそこまで流行っていなかったとされ、本格的な研究が進むのも江戸時代に入ってからとされる。
そのため、武田信玄が『孫子』を参考にして風林火山の旗を作らせたというのはやや不自然とされる。

ところで『テニスの王子様』を履修しているジャンプ読者であれば、孫子の風林火山には難知如陰(しりがたきことかげのごとく) 動如雷霆(うごくことらいていのごとし)という続きがあることもご存じであろう
旗の文言ではその部分が何故か省略されており、その理由も不明とされているが、ここで重要になってくるのは「伝北畠軍旗」でも「陰雷」は省略されているということ。
もしも、武田信玄が『孫子』を元に旗を製作していたのであれば「陰雷」を入れていてもおかしくなく、そうではないということは、そもそも信玄は「陰雷」のくだりを知らないまま北畠軍旗をコピーしたという推測が成り立つのだ。

逃げ若では顕家軍の風林火山旗の一つを顕家が亜也子に持たせ、それが諏訪大社に奉納されたという設定になっている。
恐らく逃げ若世界では戦国時代に諏訪明神の信者として武田信玄がこの旗を見つけ、顕家を理解する大軍略家へと化けた…という流れになるのだと思われる。
なお、雫は汗塗れになりながら亜也子に「それ捨てて」「多分それ特級呪物」と散々な指示をしているが、これは武田信玄によって諏訪家が滅ぼされる未来を見たからと思われる*13

  • 脅威の行軍スピード
軍旗「風林火山」の一文「疾きこと風の如し」の言葉通り、伝説的な神速の超長距離行軍は顕家の象徴となっている。
この行軍の実態は進軍先の現地の物資を略奪しながらの蛮族感溢れる超強行軍だったらしく、『太平記』をして「顕家軍の通った場所には家はおろか草木の一本も何も残らない(要約)」とまで言わしめている。
なお、よく比較される秀吉の「中国大返し」だが、そちらは一説によると視察に訪れる織田信長の為に各地に用意した補給場所を逆利用しながら移動したものと見られており、顕家の略奪行軍とは真逆のものとなっている。

また『解説上手の若君』や、松井優征先生や監修の本郷・石埜先生も出演した歴史教養番組『歴史探偵』*14では、北畠軍が騎乗していた馬にも着目している。
北畠軍が主に乗っていた馬というのが現在では絶滅してしまった在来馬の「南部馬」
奥州を代表する駿馬であり、体高が大きいもので150cmと当時としては破格の大きさで、走力・持久力共に優れていたとされる。
実際、顕家がこの南部馬の管理を配下の南部師行に一任していたという記録が残っており、南部馬の大量導入は北畠軍の速さの原動力となっていたことだろう。

  • 顕家の系譜
週刊少年ジャンプ2024年34号の巻末コメントにて松井優征先生の妻が顕家の子孫であることが急遽カミングアウトされた。
曰く「性格は真反対だけど猪突猛進型は一緒」とか。

ただ、若くして散った顕家にも子供(顕成)がいるにはいたが、史料不足により没年すら不明瞭というのが実態であり、その系譜にも以下のように諸説ある。
  • 陸奥に下った顕成がその地に定住して浪岡北畠家の祖になった説
  • 戦国時代に伊予の海を支配した村上水軍(後期)の祖となった説
いかんせん史料に乏しく、いずれの家も箔付けの為に顕家の系譜を詐称した可能性も高いというのは留意されたし。
浪岡北畠家に関しては、逃げ若にもちょろっとだけ出てきた顕家の弟である顕信の系譜という説もある。

  • 131話にて
131話にて、顕家軍の前に『しばらくお米はありません』の貼り紙があった。
米が食えるから軍に入ったのに、と不満を垂れる武士達に「やかましい!米が無ければ菓子を食え!!」と一喝する顕家だが、「よけい無いわ!!」と突っ込まれる。

これは2023年に中日ドラゴンズ内で起こった『令和の米騒動』をネタにした時事ネタギャグである。
立浪和義監督が夏場の細川成也選手の不調を「ご飯の食べ過ぎで動きが鈍くなったからだ」と考えご飯の用意をやめさせたところ彼の成績は良くなったが、それを他の選手にも当てはまるだろうとある日突然食堂での白米の提供を止めおにぎり一つにしたところ、当然選手の不満が爆発しネットでは自軍への兵糧攻めと批判された。)

…翌2024年8月、本当に米の需要増によって都市部を中心に米がスーパーに出回らなくなり再び『令和の米騒動』騒ぎになりこのネタがまた注目されてしまったのは何の因果か。





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最終更新:2025年04月11日 14:30

*1 当時の中国からの輸入品の総称

*2 当時の国会議員的役職。現代日本の上院にあたる参議院の名称もこの役職に由来する。数えで14歳なので満年齢だと12〜13歳。小6〜中1相当の年で…

*3 当時の東国武士を蔑む際に用いる公家の差別用語

*4 とはいえ武士を見下すような言動は清原国司や西園寺卿にも見られたので、当時の公家特有の価値観の現れでもある、

*5 潜伏先の山中に訪れた際にも「人である余はこんなところで暮らしていけない」と武士をディスリつつその強靭さを素直に讃えてもいる

*6 120m先の的に矢を当てる正確無比な射撃精度と、直線軌道で矢を射るための剛弓を引く凄まじい腕力の両方が必要になる。

*7 かの有名な豊臣秀吉の中国大返しは約10日間で約230kmほどの距離になる。但し中国大返しは、備中高松城から姫路城までの約93kmは毛利の追撃を恐れて2日間で走破、以降は通常の進撃速度を取っている。

*8 一応、平安時代末期保元の乱の頃に熊野の蕪坂源太が三十三間堂の軒下を射通した武勇伝が起源とされているので、鎌倉時代末期にも似たような行事があったと創作することにそこまで無理はない。

*9 史実上では宗広に三十郎という名前の息子は確認できないため、本作の創作上の人物と思われる。

*10 これ自体は約2~300年後の南部氏やそこから独立した津軽氏を悩ませている

*11 宿所に彼が右往左往するサマを小馬鹿にした落首を落書きされた逸話が書かれている。

*12 なお顕家曰く「疲労した軍で敵だらけの中雪山を超えることは不可能」とのことで、ブチギレながらその合流案は却下。

*13 戦国武将としての諏訪家は諏訪頼重(奇しくもこちらの胡散臭い諏訪明神と同名)が武田信玄によって滅ぼされた後、その娘と信玄との間の子である勝頼に継承されたが、その勝頼も織田信長に滅ぼされたことで完全に途絶えた。

*14 2023年7月12日放送「南北朝の若君たち 北条時行と北畠顕家」の回。