登録日:2026/04/16 Thu 21:39:04
更新日:2026/05/05 Tue 16:24:15
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アブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher)は1941年1月11日生まれのカナダの元プロレスラー。経営者。
オンタリオ州ウィンザー出身。
本名はローレンス(ラリー)・ロバート・シュリーヴ(Lawrence (Larry)Robert Shreve)。
【概要】
プロレス史に残る悪役レスラーの一人であり、脂の乗り切っていた70年代から、何と還暦を越えていた00年代に入ってからも体調を維持して
現役として日本に来日してくれていた。
2011年にはWWE殿堂入りしており、その功績は現在でも色褪せない。
特に、日本のプロレス文化において果たした役割は非常に大きく、通算
来日回数140回はスタン・ハンセンも越えて外国人レスラーとしては歴代1位であり、今後も破られることは恐らく無いだろう。
日本でのキャッチコピーは
“黒い呪術師”……日本で活躍した黒人レスラーとしてもパイオニア的存在の1人である。
当人も日本と日本人に親しみを持っており、幾度か結婚と離婚の経験があり、最後の奥さんは日本と韓国のハーフの黒髪の女性であった。
尚、空前のプロレスブームの中で数々の虚々実々のエピソードを捏造して21世紀の現在では高度なネタ漫画扱いされている、梶原一騎原作(作画:原田久仁信)の『プロレススーパースター列伝』ではアフリカ・スーダン出身のゼーマス・アマーラが本名で空手の達人ガマ・オテナより空手を教わった……とされているが、アフリカ出身とゼーマス・アマーラは確かにギミックとして用いていたことはあるものの大部分は大嘘である。
肥満体型で、レスラーとしては上背(公称183cm)はそれ程ではないものの、現在で言う“動けるデブ”であり身体能力は高かった。
また、後述のようにレスラーになる以前にもれっきとした格闘技のバックボーンを持っていたと思われる。
実際、反則攻撃主体のファイトスタイルで知られるが、実は高度なテクニックを有していたと窺わせる部分も多い。
また、まだまだハードコアスタイルの概念も無かった時代に多くの部分で先鞭を付けた(かつ、基準が無いだけにやり過ぎた部分もある)先駆者の1人としても評価されている。
ベビーフェイス(善玉)を文字通りの血祭りに挙げて観客の絶叫を呼んでいたが自らのやられっぷりも相当なものであり、後には誇らしげにトレードマークとした額の傷跡の深さはコインを幾枚も挟める程であった。
……因みに、日本人には聞き馴染みが無い上にリングネームでは“ブッチャー”を強調して呼ばれるので、そっちが名前なのかと勘違いされがちである。
しかし、ブッチャー自体は「食肉処理業者」や転じて「屠殺者」を意味する一般名詞であり、このリングネームの場合は“通称”や“形容詞”に当たる部分であり、師匠格のザ・シークと同じくアラビア系ギミックの扮装をしていたことからも“アブドーラ”の方が名前というのが正解である。
……まぁ、怖いながらも何処となく愛嬌のある姿と意味が通じないながらもユーモラスな響きの“ブッチャー”という呼び名が妙にマッチしたのも日本にて広く、長く受け入れられた要因の一つであったのかもしれない。
【来歴】
公称での生年は1941年とされているものの、1936年説もある。
父はネイティブ・アメリカン。母はアフリカ系アメリカ人であったとのこと。
後の印象とは違い、出生時は未熟児であったという。
この当時では珍しくないが、順番は不明だが父母と男女含む8人兄弟の1人という大家族で育ち、働ける年齢になると家計を助ける為に様々な職業を経験した。
その中で近所の警察署で開かれていた(日系移民でも主催していたのか)カラテとジュードーの道場に通う様になり、そこで後のスタイルの基礎を作り上げた。
……尚、なんで格闘技を始めたのかというと「何かスポーツをやりたいと思ったが、無料で習えるのがそこだけだった」かららしい。『スーパースター列伝』の話とは大違いやんけ!
しかし、その甲斐もあってか成長期で、更に肉体労働にも従事していたことも手伝ってか、ラリー少年は見る間に逞しく成長。
タイミングよく近所にプロレス興行が来た時に「自分にも出来そうだ」と思ったことが、後に世界を股にかけるアブドーラ・ザ・ブッチャーの誕生の切欠となった。
プロレスラーとしてデビューしたのは1961年のことだという。
モントリオール州でプロモーターをしていたジャック・ブリットンなる人物にスカウトされたのが始まりだったらしい。
デビュー時には黒人ということでポン引きキャラだったのかプッシーキャット・パイキンスという、何か卑猥な印象の名前だったらしいが、その後も前述のアフリカ人ギミックのゼーマス・アマーラを含めて幾度もリングネームを変えていき、最終的に“アブドーラ・ザ・ブッチャー”に落ち着いたようである。シークと出会ってからじゃなかったのか……。
60年代はそのままカナダのテリトリーを転戦。
リングネームからも悪役(ヒール)専門だったようだが、格闘技経験を有していたことからか若くして頭角を現していたようで、時のNWA世界王者ジン・キニスキーに幾度も挑戦する機会を与えられるなど、カナダのテリトリーでもトップクラスの選手であったことが窺える。
また、ドクター・ジュリー・グラハムと組んでバンクーバー版NWA世界タッグ王座を獲得、シングルでもスタンピードレスリングにて欧州から転戦してきていたビル・ロビンソンと争い、ミスターXを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得している。
カラテとジュードーの経験からか、遠征中のサンダー杉山とは幾度もタッグを結成した仲だったという。
ブッチャーというと反則主体で反則を抜きにしてもプロレスラーとしては“簡単でわかりやすい”部類の仕事しか出来ないレスラーと思われがちだが、上記の通りでジュードーとカラテの修行は伊達ではなかったのか、アマレス出身の強豪であるスチュ・ハートが主催していた、欧州出身のキャッチスタイルの選手達の北米地域への受け入れ口ともなっていたスタンピードレスリングにも出場していた上にタイトル争いまでしていた、というのはもっと注目されてもいいポイントなのかもしれない。
1970年代に入るとアメリカの五大湖エリアに移動。
そして、日本プロレスに初来日を果たす。
日本では全くの無名であったものの、エースであるBI砲(
ジャイアント馬場&
アントニオ猪木)との対戦では馬場からピンフォールを奪ってみせて因縁勃発。
馬場とはその後も幾度も戦う機会を得るとともに、日本のファンに名前を刻みつける。
このように、変わらずに各地で当地のトップ選手やタイトルに絡む活躍を見せ、1972年にはオハイオでアーニー・ラッドを破り、数年後には数奇な経緯を経て新日本プロレスに管理されることになるNWF世界王座を獲得していたりもする。
そして、ザ・シークの牛耳っていたデトロイトではボボ・ブラジルと抗争。出会う前から大成したトップレスラーだったんじゃねーか!
世界タッグ王座やUSヘビー王座を巡る戦いで熱狂を呼んだ。
その知名度から当時のトップ選手の1人として南半球エリアにも遠征。
オーストラリアで時のNWA世界王者ジャック・ブリスコに挑んだ試合では、勝利しながらも反則を交えた内容であったためにタイトルの移動は認められなかった。
そして、72年からは日本を主戦場とするようになっていた。
最初に招聘されたのは日本プロレスの外国人招聘ルートを引き継いだのは勿論、日本でのライバルとして争った馬場の拓いた全日本プロレスで、実力と圧倒的な集客力は勿論のこと、裏でも睨みが利き外国人レスラーを束ねられる力を持つブッチャーは馬場に重宝され、何時しか外国人レスラーのまとめ役という地位に落ち着いていったのだという。
興行では、ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)やザ・デストロイヤーが外国人ながら馬場と組むこともあったのとは対照的に絶対的な悪役として君臨。
馬場との対戦はドル箱カードとなり、ブッチャー自身も「馬場との闘いはすべてが記憶に残っていて、すべてに満足している」「馬場というライバルがいたからこそ、私は日本の観客が何を望んでいるか理解でき、彼らを喜ばすための技術を向上させることができた」…とまで語っている。
ブッチャーというと反則ばかりのイメージもあるが要所ではタイトルを獲得したりチャンピオン・カーニバルでも数度に渡り優勝するなどの活躍も見せた。
馬場や若き日の鶴田は勿論のこと、ファンクスやデストロイヤー、ハーリー・レイスといった善玉ポジションの外国人レスラーとも激闘を繰り広げて熱狂を呼ぶ。
特に、アイドル的な人気を獲得していたテリー・ファンクの腕をフォークで刺し貫いて鮮血を滴らせた場面はTVを通してお茶の間を戦慄させた。
全日では米国で世話になったザ・シーク、カルガリー地区で抗争していた過去もあるキラー・トーア・カマタらとの極悪タッグでの活躍も記憶に残っている。
シークとは仲間割れして抗争もしている。
また、正統派ではあるがボボ・ブラジルとも“黒人最強タッグ”と称してコンビを結成したこともある。
1979年8月の新日本プロレスとの合同興行となった「プロレス夢のオールスター戦」では新日最凶外国人として君臨していた
タイガー・ジェット・シンと組んで復活したBI砲の相手役として抜擢されている。
こうして、70年代は大部分を全日本プロレスで過ごし長期に渡り活躍していたブッチャーだったが、1980年の暮れに馬場に新日本プロレスに移籍する意思を伝える。
当初の約束通りに1981年初めの3シリーズまでは出場したものの81年5月に移籍。
……尚、この移籍はレスラー出身ながら山師的な人物として日本プロレス時代より数々の騒動に絡んでいた、新日の元レフェリーのユセフ・トルコが営業部長で背広組トップの新間寿に打診して、新間が猪木に了解を取った後で仕掛けた引き抜きであり、上記の通りでブッチャーは自ら馬場に了解を求めて馬場も応じてはいるものの内心は激怒していた。
……これを機に全日側も引き抜きを仕掛けるようになり、それに新日もやり返す……といったことが続いてしまったものの、全日側がシンどころか若手を脱しさせて一躍“最強外国人”の名を欲しいままにしていたスタン・ハンセンが引き抜かれた時には流石に白旗を挙げたという。
……何れにせよ新日本プロレスでは猪木をターゲットに定めてここでも大暴れ……とはいかず、新日としても高いギャランティで釣った筈のブッチャー活かせる展開を用意出来ずに持て余してしまうというグダグダな結果に。
バッドニュース・アレンやS.D.ジョーンズといった黒人レスラー組のトップとして猪木や坂口征二、藤波辰爾といった当時のトップと戦うも上手くハマらず、ファンとしても散々に顔を見知っているブッチャーが移籍してきてもハンセンを失った溝は埋めることが出来ず、寧ろハンセンに代わって台頭してきたホーガンに人気が集まる結果となった。
新日ではホーガンの他、ワフー・マクダニエルやディック・マードックといった黒人以外の大物外国人とも対戦したが猪木との対戦のみは盛り上がらず、殆ど対戦の機会も作られないままに約3年を経て1985年1月の最後の戦いにてブレーンバスターでピンフォール負けを喫するという珍しい記録を残す。
そして、同シリーズにて上田馬之助と戦ったのを最後にフェードアウト。
1987年1月からは再び全日本プロレスに登場することとなる。
復帰した全日本プロレスでは一転して観客から熱狂的な歓迎を受けることに。
各地で往年の「ブッチャー」ゴールが巻き起こった。
1988年には自分に代わって全日に移籍するも似たような理由から精彩を欠いていたシンとのタッグを復活。
また、ブルーザー・ブロディの追悼試合としてハンセンと激突して互いの額をブロディを思い起こさせる鎖で叩き割り合うという流血戦を演じた。
1990年9月30日の馬場のデビュー30周年記念大会では遂に馬場と初タッグを結成。
アンドレ・ザ・ジャイアント&ハンセンと対決した。
また、馬場が左大腿骨骨折の重傷から復帰した時には相手役を務めている。
……この90年代に入ると、年齢とキャリアもあってか実質的なセミリタイア状態に入り、キマラ(2代目)とのコンビが定着すると共に前座でコミカルな動きを披露するなどするようになる。
こうして、全日を中心に米国やプエルトリコなどに単発的に出場しつつ徐々に活動を縮小させつつも現役を続行する道を選んだ……と思われていたのだが。
96年に東京プロレスに登場すると、何と往年の流血スタイルを復活。
同団体ではプロレスの試合にも出るようになっていた高田延彦とも対戦するなど、まさかのカードも実現している。
97年にはWARに招かれて天龍源一郎と再会。
99年からはグレート小鹿に招かれて大日本プロレスを主戦場とするようになり、自身のスタイルを“引き継いだ”アブドーラ・小林と師弟対決を行った。
2001年に最大のライバルであった馬場の三回忌追悼興行に参戦して久々に全日本プロレスに復帰。
かつてのパートナーであったキマラと組み、キャリア後年には自らもデスマッチ路線に傾倒していたテリー・ファンクと大仁田厚組と対戦した。
この時期に入ると、出場機会を減らしつつも減らしたことが逆にコンディションを維持する形となったのか、還暦に達したにも関わらず各地で元気な姿を見せるようになる。
武藤体制となった全日にてテリーとのタッグを実現。
この頃にはWWEの流行もあってか、エンタメ路線(を履き違えてた気がしないでもないことで賛否両論)のファンタジーファイトWRESTLE-1やハッスルでも重宝され、プロレスに挑んだ佐竹雅昭やRGの相手役を務めた。
全日でもプロレスに復帰した鈴木みのると組んで07年の世界最タッグリーグ決定戦に出場。
同年にはIWA・JAPANにて女子プロ界の悪役のカリスマであるダンプ松本とのミックスドマッチも行われている。
そして、2008年12月にはプエルトリコで、2009年4月にはカナダにてそれぞれの地域での引退試合を行うも、最も愛着のある日本でのみは現役続行を表明し「日本でのみは生涯現役」とまで宣言していた。
2009年7月にはDRAGONGATEに初登場。
ストーカー市川改めハリウッド・ストーカー市川を秒殺。
同月にはシンとのコンビを復活させてHG&RGに挑むも仲間割れ。遺恨試合を行うも乱闘から始まりリングに上がらないままに無効試合に。
そして、2010年初頭の1.4では実に25年ぶりに東京ドームにて新日本プロレスに登場。
当時、怪奇派に転向して暴れ回っていた飯塚高史と地獄突き繋がりからか組んでヒール陣営として戦うも、仲間割れから本物の地獄突きを飯塚に叩き込んで敗北に貢献した。
同年3月には再びDRAGONGATEに再登場。
同年7月18日には全日に出場して絡むことも多かった東京愚連隊主催で来日40周年記念興行『BUTCHER FIESTA〜血祭り2010〜』が開催される。
鈴木と組んで藤原喜明、NOSAWA論外組と対戦した。
2011年にWWE殿堂入り。
インダクターは遠い日本にてライバル関係を築いたテリー・ファンクであった。
2011年8月の震災復興イベントINOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜にて、恒例となっていた猪木劇場にてシンと共に猪木を襲撃して興行を盛り上げる。
こうして、何とか現役を続けていたものの2012年初頭の全日本プロレスに来日した際に日本でも引退を表明。
そして、平成最後のオールスター興行となる2019年2月19日に両国国技館で行われた、生涯最大のライバルの名を冠した『ジャイアント馬場没20年追善興行〜王者の魂〜』にて現役引退。
“愛弟子”アブドーラ・小林が車椅子を押してセレモニーに参加した。
その後は故郷にて静養していたが2025年10月に「深刻な健康問題」により病院に搬送された後に脳卒中により入院していることが報じられている。
【人物】
馬場とはリング上では晩年まで同じ色のコーナーに立つことのなかったライバルとして相対し続けたが、プライベートでは「ミスター馬場」と敬称を欠かさなかったという。
馬場とは葉巻仲間としても交流があり、顔を合わせた時には手持ちの葉巻を交換して味を確かめあっていたとのこと。
馬場が逝去した頃には全日本プロレスから遠ざかっていたものの、何かしらの予感があったのか夢枕に馬場が立ち、何事かを伝えようとしているが聞き取れないという夢を繰り返して見ていたという。
そうして、逝去後のインタビューでは「自分が向こうに行ったら何を言おうとしていたのか確かめるつもりだ」と答え、いつの日かの再会を誓っている。
太った体型と余りにも分かりやすいキャラクターから非常に知名度が高く、
北斗の拳の
ハート様の容姿のモデルになったり、TVアニメ『
無敵超人ザンボット3』に、そのまま
キラーザ・ブッチャーなる悪役が登場したりと、長年に渡り日本のサブカル文化にて影響を与え続けた。
単に肥満体型の児童を揶揄する悪口としても定番であった。
特に、プロレスファンにとっては90年代の新日本プロレスのエースであった橋本真也のあだ名としても有名。
親友付き合いもしていた同期の蝶野や武藤、先輩のライガーといった引退後も露出の多い面々は橋本のことを未だにブッチャーと親しみを込めて呼んでいるので、事情を知らないと少しややこしい……かも?
日本では余り人種問題が意識されないためか何の蟠りもなくブッチャーをトップ選手として扱っていたが、そのことに反発を持つ選手や敵愾心を持つ選手も少なくなかったと言われ、テキサス出身のハンセンも後年は不明だが若手時代は反発があったと告白、ディック・マードックに至っては馬場が起用するタイミングを分ける程に気を使わなければならなかったような関係であったらしい。
とはいえ、ブッチャー当人は自身が黒人で謂れのない差別を受けることもあること自体は「仕方ない」として受け止めていたらしく、リング上のイメージや『プロレススーパースター列伝』の印象とは大違いで、実際には穏やかで冷静な性格だったのが窺える。
【得意技】
カラテの貫手を応用した技で、バンテージでガチガチに固めた指先を揃えてから、主にアッパーのモーションで相手の喉元を突いていく打撃技。
地獄突きを決めた後などに大袈裟な身ぶりで型を披露するパフォーマンス。
前述の通りでカラテを習っていたのは本当の話だが、このポーズ自体は当時の『全日本プロレス中継』のプロデューサーのアイディアから生まれたものとのことで実際の空手の型とは無関係である。ガマ・オテナ先生はやっぱりいなかったのか……。
150kg越えの巨体をヒラリと宙に舞わせてのジャンピング・エルボードロップがブッチャーの最大のフィニッシュ技。
体重に物を言わせた実質的にはプレス(圧殺)技という評価をされることもあるが、フォームも高さもタイミングも見事の一言。
自らのファイトスタイルの“狭さ”に悩んでいたブッチャーが、同じく来日していたクラッシャー・ブラックウェルに79年頃に伝授されると共に新必殺技として使用していた変形バックドロップとも変形バックフリップとも呼べる技。
要領としては“回転させないアングルスラム”であり、アルゼンチン・バックブリーカーに近い体勢で持ち上げた後に、そのまま後ろに倒れ込んで相手を背中からマットに叩きつける。“山嵐式バックドロップ”とも。
余り使い手がいないためにブッチャーが元祖とされていることもあるが、上記の経緯の通りで実際には古くからある技とのこと。
また、名称こそ日本に肖って“山嵐”だが、柔道の同名の幻の技とは無関係である。
ブッチャーのリングシューズは師匠格のザ・シークと同じくアラビア風ギミックのために指先を尖らせた特徴的な形状のもので、これはリングシューズなので硬さも相当なものであり、これで蹴られるだけで相当なダメージがあった。
一説には「馬場がブッチャーに潰すのを指示した」とも言われる88年1月の輪島大士戦では、輪島のプロレスに付き合わずに淡々と蹴りを叩き込むブッチャーの非情な姿がファンの議論を呼んだ。
最も有名なものは前述のフォークだが、この他にも五寸釘やビール瓶、ハンガーなども持ち込まれた。
……そうした、試行錯誤を経て厳選されたのが現在の“相手にダメージは与えるが後遺症や後に残る傷は残さない”プロレス定番の凶器である。
【余談】
阪神タイガースのルーキーであった岡田彰布に何かしらの天啓があったのか「大物になる」として惚れ込み、頻繁に食事を奢るなどの交流を持ち激励の言葉をかけ続けた。
その縁からか、岡田の後援会(岡田会)はブッチャーの後援会も兼ね合い、周囲も含めて良好な関係を築いていたという。
そのため、後に監督に就任した岡田が05年に球団を優勝に導いた際には恩人としてブッチャーを招待しようとしたが実現できなかった、とのこと。
デスマッチを主体とする団体・大日本プロレスに所属するアブドーラ・小林はブッチャーの弟子。
丸々太った体格に流血を厭わない彼の過激なファイトスタイルを継承している唯一の人物である。
追記修正は地獄突きを決めてからお願い致します。
- ザンボット3のキラー・ザ・ブッチャーの外見の元ネタかつ名前の合成元だっけか -- 名無しさん (2026-04-16 23:25:55)
- ザンボットのキラー・←ここで中点ザ・ブッチャーは誤解っぽいし記事もあるしでリンクに置き換えさせてもらいました -- 名無しさん (2026-04-17 00:41:50)
- ↑2 同じく黒人系のあんこ体型レスラーだったキラー・トーア・カマタとの合体やね -- 名無しさん (2026-04-17 00:43:08)
- マジンガーZの機械獣アブドラU6もこの人モチーフと思われる -- 名無しさん (2026-04-17 08:03:26)
- 真・女神転生IIにも出てたよね。地獄突きが持ち技だから、おそらくこの人が元ネタ -- 名無しさん (2026-04-17 10:44:43)
- ↑なお種族はメシアン -- 名無しさん (2026-04-17 14:30:21)
- プライベートでディスコに行ったら周囲が大変盛り上がってきたので、サービスのつもりでフォーク出したらパニックになった話好き -- 名無しさん (2026-04-17 18:19:37)
- 2026-04-16 23:57:39のコメントを不審な誘導につき削除、コメント整理ページに事後報告します -- 名無しさん (2026-04-17 21:11:09)
- ウルトラマン80に出てきた怪獣アブドラールスのモデル説もあるんだっけ? -- 名無しさん (2026-04-17 23:57:50)
- 入場曲がものすごく耳に残る人 -- 名無しさん (2026-04-18 12:27:28)
- リングを降りたら紳士たれ、だったブッチャーやシークとリングを降りてもヒールを貫いたシン、どっちも美学があって素晴らしい -- 名無しさん (2026-04-18 12:41:49)
- ↑2 テーマ曲(入場曲)はピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』不穏でどこか不気味な感じの曲調がいかにも悪役って感じでいいよね -- 名無しさん (2026-04-18 20:32:24)
- ↑2 タイガー・ジェット・シンも実は紳士だったらしい -- 名無しさん (2026-04-19 18:57:19)
- ↑シンは、実は日本以外だと正統派で地元(カナダ)では英雄扱いなのだそうだ。そのうちに項目立てる予定です。 -- 名無しさん (2026-04-19 19:05:49)
最終更新:2026年05月05日 16:24