登録日:2011/02/12 Sat 01:15:47
更新日:2024/07/27 Sat 10:23:22
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日本のミュージシャン。
千葉県千葉市出身。
1965年11月4日生まれ(57歳)、
血液型はB。
本名は石塚智昭。
X JAPANのギタリストで、またの名を『
石塚(大)先生』
大魔神五人組でのステージネームは『ゴンザレス伍長』
レスポールとジャビットくんと唐草模様の風呂敷が似合う渋くて可愛いおじさんである。
『PATA』の由来は彼の愛読書である『パタリロ』と言う漫画の主人公の性格が彼自身の性格に似ているからとのこと。
作者とも親交があるとかで原作にもしっかり登場している。
ギタリストとしては、派手で華のあるタイプの
HIDEとは正反対に、堅実でオーソドックスなタイプ。
また、速弾きを得意としており1分間に700~800回
アップダウンできると言われている。
1994年に行われたライブ『
白い夜
』に代表されるような
YOSHIKIの「走りまくるドラム」にも涼しい顔で難なく対応。
そんな先生の本気は「
Stab Me In The Back
」と言う曲でお楽しみください。
HIDE曰く、『俺が好き勝手に暴れて「頭のおかしいギタリスト」でい続けれたのは、横でPATAがしっかりギターを弾いていてくれていたおかげ』とのこと。
現在再結成した
X JAPANに参加すると同時にソロバンドRa:INを率いて活動中。
2016年1月中旬、自宅で倒れてしまいICU(集中治療室)に運ばれてしまった。
後に
YOSHIKIが「大腸憩室炎と門脈塞栓症(腸と腎臓の間の血管の血栓)」と発表し、X在籍29年目にして初めてその名前がお茶の間にまで広まってしまった…
幸いにも8月には本人曰く「改造工事」(あなたは
仮面ライダーですか…)を無事完了し、10月のヴィジュアルジャパンサミットで無事復帰を果たした。
先生、タバコとお酒はほどほどにね。
2024年にはとうとう自伝を出した。YOSHKIやToshl、
TAIJIとはまた違った視線で
X JAPANを振り返った如何にも石塚先生らしい自伝である。
因みに一時期は
HEATHと並ぶほどX活動時以外の消息が不明な方であったが、最近FacebookとTwitterを始めた。
先生本人の書き込みもあり、内容が
とSNSであっても不動の山脈の如くブレない石塚先生のほのぼのとした日常がうかがえるので興味のある方はご覧頂きたい。
そんな石塚先生の代表的な愛用ギターは…
かつてはメインとして使っていた彼の相棒。
1991年頃、ロスで当時の貯金を全部叩いて200万円で購入。
しかし再結成後はまるっきし登場しなくなった。
本人曰く「これ以上ストレスを与えたくない」との事。
通称「1号もしくは本妻」
現在はとんでもなく恐ろしい金額が付いていると言われており、
YOSHIKI曰く「
2000万円はするんじゃないか」との事。
あるライブで暴れていた
YOSHIKIに振り回され、PATAが珍しく泣きながら「800万円もしたんだから辞めろ」と言った時の物。
その後どうなったかは不明。
- 1954年製のギブソン・レスポールスタンダード(1955年製という説もあり)
サブとして使われている。通称「ハゲ」(理由は昔金色の塗装がしてあったが、現在はすべて剥がされている為)
18歳ぐらいのときからの付き合いで、通称「常務」(理由は、常に勤務しているから)
なんと素晴らしいネーミングセンスだろうか。
(おまけ)
元々は
HIDEがPATA所有のコリーナ材で制作されたエクスプローラーモデルに触発されて制作した
HIDE晩年の愛用のギター。
2014年頃からライブでは主に「Born to be Free」などで使用。
特に何も語るでもなくいきなりくじらを使って演奏する先生を見て、人知れず涙を流したファンも多いはず。
尚、PATAのギターテックを務める人物の証言によれば2014年のマディソン・スクエア・ガーデン公演の前にフェルナンデスからプレゼントされる形で入手し
「松本も(マディソンに)一緒に連れて行かねーとダメだ」
と言ってマディソン・スクエア・ガーデン公演や2017年のウェンブリー・スタジアム公演にも使用したとの事。泣ける。
その反面、社会のあれこれに関してはかなり疎いらしく、今や石塚先生を代表する名言である
と世界的知名度を持つファッションブランドであるアルマーニを食べ物か何かと勘違いする辺りからもうかがえる。
因みに2006年まで都バスの乗り方を知らなかったと豪語している。
今や代名詞の一つであるパーマの効いた髪型だが、X初期ではなんと
紅に染まったモヒカンだった。
X JAPANで赤い髪と言えば
HIDEを思い浮かべる人も多いが、「赤毛の貴公子(
Toshl談)」とは紛れもなく石塚先生の事である。
また当時は抜け毛が酷かったらしく、「将来はどんな大人になりたいか」というインタビューに対し、『アデランスのお世話にならない人』と答えている。現在の毛量を見る限りまだまだ安心できそうだ。
おでこが広いのは元からである。
それどころか赤
モヒカン卒業後のこの20年近く、まるで容姿が変わっていない。
「元から老けてるだけだろwww」とか痛いところを突いてくる輩は
万死に値する。
2011年からしばらく容姿に変化が表れ、見事に白い顎鬚を蓄えたダンディな
仙人おじ様へとイメチェン(?)した。
○究極の傍観者石塚先生のほのぼのした逸話
- Xのメンバーは皆、差異こそあれX加入の原因は「YOSHIKIの魅力に惹かれたから」と語っているが、石塚先生だけは
『レコーディングがあるんだけどギターがいないからやってくんない?』
って事だった。
それで、あんまり深く考えずに『い~よ』って返事したんだ。兎に角、俺何でもいいからギターが弾きたかったんだよ。
(中略)その時はレコーディングに参加しただけで、その後、
Xには
HIDEが入ったんだ。
もう一人早弾きの少年(ISAO)がいたけど、そいつが事故ったとかで、またうちに電話がかかってきた。
って。俺はその時も手伝いのつもりだったんだけど一本目のライブが終わってから
って言われて、ズルズルと居続けて、気付いたらこの有様ですよ(笑)」という感じでそのまま正式メンバーになったらしい。
上述の2024年に出した自伝にも
「実を言うと「このバンドでやるぞ!」とか、燃え上がる気持ちは、俺にはあんまりなかった。話の流れとタイミングで、Xへの正式加入が決まった。」
とノリと勢いで正式メンバーにいつの間にかなっていたと振り返っている。
そんな先生だが気付いたら
Xではすみれ組以外では最古参のメンバーになっていた。さすが石塚先生。
因みにメンバーの中で
Toshlの事を唯一「
出山」と名字で呼んでいる。
また、彼の一連の洗脳騒動を「こんなお騒がせのデパートみたいなヤツだけど宜しくお願いします」と述べるなど
Toshlとは違った意味でかなり良い人である。
- 無類の酒好きで、お酒を飲まずに仕事をしたことがないほど。
もちろん温厚な石塚先生は暴れたりするわけなく、むしろ飲んでは暴れ、騒ぎを起こしまくる他のメンバー(主に
アイツと
コイツ)を尻目に、
石塚先生はこっそり自分のお酒だけを持って避難し、落ち着くと戻ってくるほど。
- 1994年4月14日(市川哲史の酒飲み日記参照)酔っぱらったHIDEがライターの市川哲史と20分にも渡る殴り合いの喧嘩を起こした時でも、
電柱の影からそっと2人の乱闘を見守り(笑)2人が仲直りして「飲み直そう」と言った瞬間「遅かったな、待ってたぞ~(微笑)」と言って現れた。
市川氏曰く、「止めろよ、喧嘩を。」とのこと。
こんなことばかりやってるから知らぬ間に究極の傍観者という呼び名が付けられる始末。
石塚先生と言えば滅多に怒らない事で有名だが、
ロスである夜
HIDEとPATAと
HEATH&スタッフ数名でオークッドに出かけた帰り車で
HIDEが「森に突っ込み、崖を登る危険な運転」をした時は、
『
松本(HIDEの本名)オマエいい加減にしろ!!てめぇ本当に止まれ(激怒)』
と一度だけマジギレして怒鳴り散らし、
HIDEも流石に大人しくなっていたと同じく同乗していた
HEATHが男前な顔でしみじみと語っている。
- X JAPANが1994年12月に東京ドーム公演を行った時、ゲネプロ時にYOSHIKIがステージ上の穴に転落して重傷を負った際にも、YOSHIKIの容態を心配する他のメンバーを他所に唯一人転落を目撃して思わず失神してしまった現場監督の心配をしていた。
そして、石塚先生を語る上でさらに外せないのが、熱狂的な巨人ファンであるということ。
○石塚先生の巨人にまつわるほのぼのした逸話
- Xの初の東京ドーム公演では、リハーサル時にグラブを持ち込みToshlと「このうえない幸福にみちあふれた顔」(TAIJI談)でキャッチボールをする。
- 「ここが桑田の座ったとこかなwww」と1塁側ベンチに座り、ご満悦。
- おまけにアンコールでは巨人・篠塚のユニフォームを着て登場した。
- 1991年にレコーディングの為、アメリカに渡った際も、国際電話で巨人の勝敗を聞いていた。
因みに負けた日の翌日のレコーディングには来なかったという。
- 今や幻のセガサターンで発売された「VISUAL SHOCK 001」では自分の控室におらず、
- 1996年にHIDEのソロツアーに参加した時に巨人がセ・リーグ優勝を果たした時は嬉しさの余りステージ上で思わず踊るという奇行まで行いHIDEを爆笑させた他、Xではやった事ないMCまで行い巨人の優勝を祝っていた。
が、
一旦巨人が負けると、普段の温厚さもどこへやら、あの暴れん坊揃いのXのメンバーが誰一人として彼に近づかなるほど機嫌が悪くなる。
「巨人が負けたから、今日のPATAはそっとしておこう」(
TAIJI談)はもはや暗黙のルールと化していた。
○石塚先生の巨人敗北にまつわるエピソード
- 前述の東京ドーム公演では、前々日に巨人の試合が行われており、
巨人が勝利するとファンが盛り上がってドームに残り機材入りが遅くなると懸念されていたが幸か不幸か巨人は敗北。
無事機材入りとゲネプロが終了しスタッフが思わず「(何事もなく無事に終わって)良かったですね」と口走った所、石塚先生は
とものすごい剣幕で当たり散らした。
この日は
YOSHIKIがカレーが辛くて帰った日でもあった。スタッフ涙目。
- HIDEのソロツアーに参加した際、TVコーナー(文字通りTVを流すコーナー)で巨人が負けている試合が映った途端、そのまま帰った。
その後
HIDEの呼びかけやスタッフの説得に応じて(
ビールを持ちながら)帰ってきたが、
カメラに蹴りを見舞うなど普段の温厚な石塚先生からは想像も出来ない荒れっぷりが
しっかりと映像に残っている。
- 98年にテレビ出演の際に「ジャイアンツファンは保守的で、ロッカーでは無いのでしょうか?」との質問をされ、
『違います。(即答)ジャイアンツファンこそ真のロッカーだ』と答えた。
- X JAPANが再結成した際のトークライブにおいて東京ドーム3DAYSの初日がセリーグ開幕戦と重なり、
巨人がBクラスの為、神宮球場で開幕戦を行う一方で本拠地(東京ドーム)で
XがLIVE開催するのを
真剣且つ深刻に嘆いていた。
因みにドーム3Daysが終った後にちゃんと巨人戦を見に行ったという。
本人曰く「ドームは演奏する所ではなく見に来る所」らしい。
ここまで来るともはや石塚先生の三大欲求は酒、巨人、ギターで埋め尽くされているのではないだろうか?
本人も『本業は巨人ファンと酔っぱらい』とか言う始末。
この項目内で何度も
HIDEの名前が挙がっていることから分かるように、
HIDEとはかなり仲が良く、
HIDEのソロにもよくゲストとして関わっていた。
X JAPANとしての活動より
HIDEのソロの方が妙にノリノリで楽しそうである。
その証拠に
Xでは滅多にやらないコーラス(や巨人が優勝すると
ダンス(!)
やMC)までやってしまう。
HIDEが亡くなった後のインタビューでも「あいつ(
HIDE)の曲で弾けない曲ないっすよ」
「(
HIDEの未発表音源に参加してる理由は)あいつの曲を誰かに弾かれるのは癪に障る」
「俺のギターの相方は
HIDEだけ」と明言している。
再結成後も
- 上記の様にライブでHIDEモデルの「くじら」を使用
- ギターソロコーナーで滅多に演奏されないHIDE作曲の「Love Replica」を演奏する
- HIDEの誕生日と命日に行われるライブのどちらか片方には毎年参加する
等々、さり気なく相方である
HIDEへのリスペクトを示していたりする。
その他にはお笑い芸人、ライセンスの井本と妙に仲が良く、二人で食事や飲みに行くだけでなく、お祭りに行ったりまでする仲。
追記・修正? それってうめェんか…
- 横文字が苦手な俺は一瞬ペーターと -- 名無しさん (2015-02-25 19:33:44)
- これを見てパラレルATAを思い出す人はもういないかなぁ…マスタースレーブ設定が面倒で500メガの壁があったり… -- 名無しさん (2017-01-22 12:27:09)
- 生きてて良かったこれからも大黒柱的存在であり続けてくれ -- 名無しさん (2017-02-17 23:49:15)
- ほかのメンバーが騒がしかったので怒り心頭の居酒屋の店長に向かって「おやじ、なんか酒はねーか?」って聞いたエピソードは好きw -- 名無しさん (2017-12-08 13:58:16)
- 門脈は腸と肝臓の間の血管の事なので誰か訂正してください。 -- 名無しさん (2018-06-09 18:45:15)
最終更新:2024年07月27日 10:23