「ソーメン流し?」
アルキミアにも夏がやってきた。年間を通して清涼な山岳地帯にあるこの国においてもこの季節は気温が高く、冷たい食事が好まれるようになる。
ある日、それぞれの故郷では暑い日にどんな料理を食べるのかという話題になった時、とりわけ奇妙な食べ物をフォルトゥナに教えたのは、秋津列島出身のカシマだった。
「そうめん流しは──そうめんという、小麦麺を使った料理の──バリエーションのひとつです──」
カシマは、フォルトゥナの耳元に唇を寄せて、内緒話をするように教えた。白く長い髪と深い紫色の瞳が印象的なこの青年は、どことなく幻じみた神秘的な雰囲気を漂わせている。彼の囁きは小声であっても、妙に脳裏にこびりつく特別な印象を聞く人に与える。
「白くて細い麺を茹でて──冷水で締め──塩気と旨味の強い汁につけて食べるという──言ってみれば、それだけの料理なのですが──。
そうめん流しは、麺を流水に乗せて──食べる人に饗するという点が──他の料理とは一線を画します──。
竹を割った樋に──清潔な水を通して──そこに、一口大の麺を流す──それを──樋の下流に陣取った人々が──すくって食べるのです──。
味は──器に盛った麺を、テーブルに乗せて食べるのと変わりはしません──でも、屋外で食事をするということ──水に流れてきた麺を食べるという涼しげな様子が──夏という季節の気だるさをやわらげてくれます──。
私の故郷での、夏の風物詩です──」
「ほへー……いいじゃんいいじゃん。カシマっちゃんは夏が来るたびにその楽しそうなもの食べてたの?」
「ええ──そうめんは安いし──食欲が落ちる暑い日でもするすると食べることができたので──よくいただいていました。
でも、大陸に来てからは──ご無沙汰になっていますね──。
こちらにはそうめんがないし──樋に麺を流して食べるという、食事のために面倒くさい設備を用意するような文化がないようですので──」
肩をすくめながら、しかし目の奥に微かに寂しさのようなものを浮かべて、カシマは言う。
彼の内心のわずかな揺れを感じ取ったのか、そうでないのか、フォルトゥナはほんの少しだけ首をかしげてから、いかにも愉快そうに拳を振り上げた。
「ぃヨッシ! んじゃボクが、カシマっちゃんに久しぶりの故郷の味を食わせてあげよう!」
「──えっ」
「小麦麺を樋に流して食べるだけでしょ? うちの国って小麦はいっぱい取れるし、山の上だからきれいな水もいっぱい湧いてるし、ソーメン流しとやらを再現できる土壌はあると思うんだよ! まあまあ、そんな不安な顔しないで! 万事、ボクに任せておくといいよ!」
カシマにウインクをして、自信たっぷりに胸を張るフォルトゥナ。
実際、彼女は料理上手だ。勉強も運動もろくにできないし、女王としての政治的才覚もほぼ持ち合わせていないし、金山から出る収益を適切に管理する経済的嗅覚も非常に鈍い。しかし、ジャムやパイ菓子をこしらえたり、ハムやソーセージを燻したりする技術は、カエルムに通っていた他のどんなエリートたちより上だという自負があった。
フォルトゥナはまず小麦麺の選定から始めた。
カシマに聞いた限りでは、ソーメンは極めて細い麺でありながら、コシの強さが魅力的であるらしい。フォルトゥナは冷製パスタ料理によく使われるカペリーニで代用できると考えた。もともと冷やした状態でも美味しく食べられる麺なので、これはまったく問題なく通用するだろう。
樋に関しては、東マジョリアから秋津列島にかけて広く自生する竹という植物が素材として使われるようだが、アルキミアではそれらしいものを見つけることができなかったので、仕方なくテラコッタを使うことにした。屋根瓦を作る職人に頼んで、樋の形をした素焼きを何本か作ってもらい、それを繋げてみた。井戸水を汲んで流すと、いい感じにささやかなミニチュアの清流ができあがった。
最大の難所は、ソーメンを浸して食べる汁の味付けだった。フォルトゥナは、カシマから汁の材料や作り方も聞くことができたが、アルキミアにはない材料があまりにも多かった。
コンブや小魚から取る旨味の強いだし汁。大豆や麦を発酵させたショウユという調味料。そもそも何から作られているのかわからないミリンという調味料。
ここから、闇の中でもがくかのようなフォルトゥナの試行錯誤が始まった。
だし汁の概念はさすがにフォルトゥナもわかる。美味いスープを作るために、家畜の肉や骨、野菜を煮込んでブイヨンを取ることはよくやっていたからだ。
しかし、アルキミアには海がないので、海産物の出しを取ることができない。塩漬け魚を外国から輸入してもいいが、高くついてしまう。どうせなら普段からアルキミアにあるもので、ソーメンに合う美味い出しを取ってやりたい。
家畜の骨は旨味が濃いが、逆に濃すぎる。冷たい麺に合わせるなら、出し自体にも清涼感が必要だ。
セロリ、トマト、キャベツ、果物……いろいろ試したが、それっぽいものが浮かばない。
袋小路に行き詰まっていた時、医者のヴェルナーが訪ねてきた。
「トナちゃん、薬の素材にするために山にキノコを取りに行ったんだけど、食用キノコが思った以上に取れたからおすそわけするよ」
「サンキューヴェっちん! キノコ……キノコかぁ……ありかもしれない!」
これはなかなかうまくいった。キノコを干してから水で戻して取った出しは、濃い中にもほんのり甘味を感じる優しい味わいをもたらしてくれたのだ。
ショウユはさらに苦戦した。その材料となる豆も麦も塩も手元にあったし、作り方もカシマが教えてくれたが、完成するまでにどれくらいの時間が必要になるかを聞いてフォルトゥナは愕然とした。
茶色くて旨味があって塩味のソースってなんだ……まずウスターソースを使ってみたが、単純に合わないことがわかった。次にデミグラスを使ってみた。以下同文。トチ狂って濃く煮出したコーヒーを出しと混ぜてみた。フォルトゥナは死にそうになった。
百回を越える試作品を失敗させて、最終的にホップを入れてないビールを煮詰めて塩を加えたものがなぜかそれっぽくなった。意味はわからない。なぜそれを試そうと思ったのか、それすらもフォルトゥナは覚えていない。厨房に五十日ほどこもって実験を繰り返していたので、最後の方は記憶すら定かではなかったのだ。
一番難航しそうだったミリンは三秒で決着がついた。甘くてトロッとした、焼き物の照りを出すのにも使う調味料。……ハチミツでいいんじゃね? この発想が普通にドンピシャ当たった。軽く酒で溶かしたハチミツを、キノコ出しと煮詰め塩ビールに混ぜてみたところ、いい感じに味がまとまった。
あとは薬味として、リーキを薄く小口に切ったものを用意して、すべての準備は整った。
「よーし、準備万端! みんな、寄っといでー! 秋津の伝統料理、ソーメン流しをやるよー!」
フォルトゥナはよく通る声で家々を回り、女王の晩餐会に仲間たちを招待した。
彼女の顔は広いし、料理の腕前も知れ渡っていたので、大勢の客がご相伴にあずかろうと訪れた。
フォルトゥナは大きな鍋でたっぷりのカペリーニを茹で、客の一人一人に特製のつけ汁を入れたガラスの器を配っていった。
井戸からたっぷりの水を汲み、テラコッタの樋に流しながら、一口分にまとめたカペリーニを流していく。
下流では友人たちがこの珍妙な食べ物に驚きの声をあげながらも、その味わいに舌鼓を打っていた。フォークでは流れる麺は取りにくかったが、麺が逃げてしまうのも虫取りや狩りのような面白味があり、意外と評判は悪くなかった。
そして、もちろん、このイベントを一番楽しんだのは、カシマだっただろう。
「──うん。──なるほど」
「やっほー。どうよカシマっちゃん。キミの故郷の味、上手く作れたかな?」
黙々と麺を味わうカシマに、つけ汁の器を持ったフォルトゥナが声をかけた。彼女もまた、流れるカペリーニを味わいたくて、流す役を他の人に任せて下流へやってきたのだ。
「美味しいです──フォルトゥナ。父と母が作ってくれたそうめんと──まったく同じ味というわけではないけれど──とても、懐かしさを感じる。今日、今だけは、私は子供の頃の──秋津の夏に帰ってきている」
その言葉に、フォルトゥナは我が意を得たりとばかりに、ひまわりの咲くような満面の笑みを浮かべた。
「──でも」
ずず、と、カペリーニをすすりながら、カシマは空を見上げて、小声で付け加えた。
「ひとつだけ、残念なところが──」
「あ、言わないでカシマっちゃん。何を文句つけたいのか大体わかるから。あえて言わなくてもいいから」
フォルトゥナは遮ろうとしたが、カシマは頭を振って続ける。二人の頭上には、凛とした青白い星々が輝く夜空が広がっている。
「できればこれ──夏の夜に、食べたかったな──」
「仕方ないじゃん……再現に時間かかったもん……1ヶ月じゃ無理だったんだもん……」
カシマがフォルトゥナにそうめん流しのことを教えてから、すでに半年が経っていた。
雲ひとつない真冬の空は、まるでクリスタルのように透明でどこまでも遠い。
よく冷えたカペリーニを冷たいつけ汁で食べて、フォルトゥナはくちゅん、とくしゃみをした。
アルキミアにも夏がやってきた。年間を通して清涼な山岳地帯にあるこの国においてもこの季節は気温が高く、冷たい食事が好まれるようになる。
ある日、それぞれの故郷では暑い日にどんな料理を食べるのかという話題になった時、とりわけ奇妙な食べ物をフォルトゥナに教えたのは、秋津列島出身のカシマだった。
「そうめん流しは──そうめんという、小麦麺を使った料理の──バリエーションのひとつです──」
カシマは、フォルトゥナの耳元に唇を寄せて、内緒話をするように教えた。白く長い髪と深い紫色の瞳が印象的なこの青年は、どことなく幻じみた神秘的な雰囲気を漂わせている。彼の囁きは小声であっても、妙に脳裏にこびりつく特別な印象を聞く人に与える。
「白くて細い麺を茹でて──冷水で締め──塩気と旨味の強い汁につけて食べるという──言ってみれば、それだけの料理なのですが──。
そうめん流しは、麺を流水に乗せて──食べる人に饗するという点が──他の料理とは一線を画します──。
竹を割った樋に──清潔な水を通して──そこに、一口大の麺を流す──それを──樋の下流に陣取った人々が──すくって食べるのです──。
味は──器に盛った麺を、テーブルに乗せて食べるのと変わりはしません──でも、屋外で食事をするということ──水に流れてきた麺を食べるという涼しげな様子が──夏という季節の気だるさをやわらげてくれます──。
私の故郷での、夏の風物詩です──」
「ほへー……いいじゃんいいじゃん。カシマっちゃんは夏が来るたびにその楽しそうなもの食べてたの?」
「ええ──そうめんは安いし──食欲が落ちる暑い日でもするすると食べることができたので──よくいただいていました。
でも、大陸に来てからは──ご無沙汰になっていますね──。
こちらにはそうめんがないし──樋に麺を流して食べるという、食事のために面倒くさい設備を用意するような文化がないようですので──」
肩をすくめながら、しかし目の奥に微かに寂しさのようなものを浮かべて、カシマは言う。
彼の内心のわずかな揺れを感じ取ったのか、そうでないのか、フォルトゥナはほんの少しだけ首をかしげてから、いかにも愉快そうに拳を振り上げた。
「ぃヨッシ! んじゃボクが、カシマっちゃんに久しぶりの故郷の味を食わせてあげよう!」
「──えっ」
「小麦麺を樋に流して食べるだけでしょ? うちの国って小麦はいっぱい取れるし、山の上だからきれいな水もいっぱい湧いてるし、ソーメン流しとやらを再現できる土壌はあると思うんだよ! まあまあ、そんな不安な顔しないで! 万事、ボクに任せておくといいよ!」
カシマにウインクをして、自信たっぷりに胸を張るフォルトゥナ。
実際、彼女は料理上手だ。勉強も運動もろくにできないし、女王としての政治的才覚もほぼ持ち合わせていないし、金山から出る収益を適切に管理する経済的嗅覚も非常に鈍い。しかし、ジャムやパイ菓子をこしらえたり、ハムやソーセージを燻したりする技術は、カエルムに通っていた他のどんなエリートたちより上だという自負があった。
フォルトゥナはまず小麦麺の選定から始めた。
カシマに聞いた限りでは、ソーメンは極めて細い麺でありながら、コシの強さが魅力的であるらしい。フォルトゥナは冷製パスタ料理によく使われるカペリーニで代用できると考えた。もともと冷やした状態でも美味しく食べられる麺なので、これはまったく問題なく通用するだろう。
樋に関しては、東マジョリアから秋津列島にかけて広く自生する竹という植物が素材として使われるようだが、アルキミアではそれらしいものを見つけることができなかったので、仕方なくテラコッタを使うことにした。屋根瓦を作る職人に頼んで、樋の形をした素焼きを何本か作ってもらい、それを繋げてみた。井戸水を汲んで流すと、いい感じにささやかなミニチュアの清流ができあがった。
最大の難所は、ソーメンを浸して食べる汁の味付けだった。フォルトゥナは、カシマから汁の材料や作り方も聞くことができたが、アルキミアにはない材料があまりにも多かった。
コンブや小魚から取る旨味の強いだし汁。大豆や麦を発酵させたショウユという調味料。そもそも何から作られているのかわからないミリンという調味料。
ここから、闇の中でもがくかのようなフォルトゥナの試行錯誤が始まった。
だし汁の概念はさすがにフォルトゥナもわかる。美味いスープを作るために、家畜の肉や骨、野菜を煮込んでブイヨンを取ることはよくやっていたからだ。
しかし、アルキミアには海がないので、海産物の出しを取ることができない。塩漬け魚を外国から輸入してもいいが、高くついてしまう。どうせなら普段からアルキミアにあるもので、ソーメンに合う美味い出しを取ってやりたい。
家畜の骨は旨味が濃いが、逆に濃すぎる。冷たい麺に合わせるなら、出し自体にも清涼感が必要だ。
セロリ、トマト、キャベツ、果物……いろいろ試したが、それっぽいものが浮かばない。
袋小路に行き詰まっていた時、医者のヴェルナーが訪ねてきた。
「トナちゃん、薬の素材にするために山にキノコを取りに行ったんだけど、食用キノコが思った以上に取れたからおすそわけするよ」
「サンキューヴェっちん! キノコ……キノコかぁ……ありかもしれない!」
これはなかなかうまくいった。キノコを干してから水で戻して取った出しは、濃い中にもほんのり甘味を感じる優しい味わいをもたらしてくれたのだ。
ショウユはさらに苦戦した。その材料となる豆も麦も塩も手元にあったし、作り方もカシマが教えてくれたが、完成するまでにどれくらいの時間が必要になるかを聞いてフォルトゥナは愕然とした。
茶色くて旨味があって塩味のソースってなんだ……まずウスターソースを使ってみたが、単純に合わないことがわかった。次にデミグラスを使ってみた。以下同文。トチ狂って濃く煮出したコーヒーを出しと混ぜてみた。フォルトゥナは死にそうになった。
百回を越える試作品を失敗させて、最終的にホップを入れてないビールを煮詰めて塩を加えたものがなぜかそれっぽくなった。意味はわからない。なぜそれを試そうと思ったのか、それすらもフォルトゥナは覚えていない。厨房に五十日ほどこもって実験を繰り返していたので、最後の方は記憶すら定かではなかったのだ。
一番難航しそうだったミリンは三秒で決着がついた。甘くてトロッとした、焼き物の照りを出すのにも使う調味料。……ハチミツでいいんじゃね? この発想が普通にドンピシャ当たった。軽く酒で溶かしたハチミツを、キノコ出しと煮詰め塩ビールに混ぜてみたところ、いい感じに味がまとまった。
あとは薬味として、リーキを薄く小口に切ったものを用意して、すべての準備は整った。
「よーし、準備万端! みんな、寄っといでー! 秋津の伝統料理、ソーメン流しをやるよー!」
フォルトゥナはよく通る声で家々を回り、女王の晩餐会に仲間たちを招待した。
彼女の顔は広いし、料理の腕前も知れ渡っていたので、大勢の客がご相伴にあずかろうと訪れた。
フォルトゥナは大きな鍋でたっぷりのカペリーニを茹で、客の一人一人に特製のつけ汁を入れたガラスの器を配っていった。
井戸からたっぷりの水を汲み、テラコッタの樋に流しながら、一口分にまとめたカペリーニを流していく。
下流では友人たちがこの珍妙な食べ物に驚きの声をあげながらも、その味わいに舌鼓を打っていた。フォークでは流れる麺は取りにくかったが、麺が逃げてしまうのも虫取りや狩りのような面白味があり、意外と評判は悪くなかった。
そして、もちろん、このイベントを一番楽しんだのは、カシマだっただろう。
「──うん。──なるほど」
「やっほー。どうよカシマっちゃん。キミの故郷の味、上手く作れたかな?」
黙々と麺を味わうカシマに、つけ汁の器を持ったフォルトゥナが声をかけた。彼女もまた、流れるカペリーニを味わいたくて、流す役を他の人に任せて下流へやってきたのだ。
「美味しいです──フォルトゥナ。父と母が作ってくれたそうめんと──まったく同じ味というわけではないけれど──とても、懐かしさを感じる。今日、今だけは、私は子供の頃の──秋津の夏に帰ってきている」
その言葉に、フォルトゥナは我が意を得たりとばかりに、ひまわりの咲くような満面の笑みを浮かべた。
「──でも」
ずず、と、カペリーニをすすりながら、カシマは空を見上げて、小声で付け加えた。
「ひとつだけ、残念なところが──」
「あ、言わないでカシマっちゃん。何を文句つけたいのか大体わかるから。あえて言わなくてもいいから」
フォルトゥナは遮ろうとしたが、カシマは頭を振って続ける。二人の頭上には、凛とした青白い星々が輝く夜空が広がっている。
「できればこれ──夏の夜に、食べたかったな──」
「仕方ないじゃん……再現に時間かかったもん……1ヶ月じゃ無理だったんだもん……」
カシマがフォルトゥナにそうめん流しのことを教えてから、すでに半年が経っていた。
雲ひとつない真冬の空は、まるでクリスタルのように透明でどこまでも遠い。
よく冷えたカペリーニを冷たいつけ汁で食べて、フォルトゥナはくちゅん、とくしゃみをした。