アユカワ・ヒョウエ・カシマは学生時代からのフォルトゥナの友であるが、かの女王陛下におかれましてはこの儚げな青年のことを、根っからの芸能人であると思い込んでおられるふしがある。
少なくとも彼女は、カシマの裏の顔を深く理解しているとは言いがたい。東洋風の剣術に優れるということは知っている。でもそれはどちらかというと護身のために身につけたものだろうと考えており、彼の魂の半身である諜報員としての仕事の根幹を成す技術であるとは思っていない。
フォルトゥナの最も知るカシマは、流れるような舞で人を幻惑する、美しき風である。
この日もカシマは、アルキミアの劇場で舞を披露していた。
山から金が出て以来、この高地にある小さな国は爆発的に賑やかになっていた。まずは鉱夫たち、次に金融業者、そして複数の企業が根を張り、経済を活発にしていった。時計の針は目まぐるしく回るように感じられ、人の声や足音の数は何倍にもなり、家々の窓に灯る火も明るさを増していく。
娯楽産業も、大いに成長した分野のひとつである。
大抵の酒場は音楽家を雇い、フロアで食事を楽しむ客たちに生演奏をサービスするようになった。金山で儲けた富豪がチルテ城に通じる大通りに画廊を開き、土地の若者たちの芸術活動を支援するようになった。目端のきくプロデューサーが外国から楽団や劇団を呼び寄せて公演を始めると、これが大層な評判になった。
アルキミアの大衆文化は、金山による人の流入というエネルギーを受けたことで、大いに刺激され発展していったのだ。
──カシマという青年に話を戻そう。
彼は、カエルムでフォルトゥナと出会った時からして、東洋の舞踊家としての仮面を被っていた。
アユカワ家というのはアキツ列島の神職であり、神に舞を奉納する役目を任されているのだと。近年では古典継承のみならず新しい舞の創作にも力を入れており、異国の舞の技術を取り入れるべく、大陸に渡ってきたのだと。
カエルムに入学したのも、舞踊の体術に魔法の要素を組み込んで進化させるためだと説明した。
それらはすべて本当であり、嘘もごまかしもまったくない。ただ、アユカワ家が諜報機関としての側面も持ち、そちらの方面での人材育成と情報収集にも取り組んでいるという点だけ、説明から省いた。
カエルムに入学して最初の、ある晴れた休日の午後に、フォルトゥナはカシマと出会った。
その時、フォルトゥナはカエルムのあらん限りを見て回ろうと、あっちらこっちらに足を延ばしていた──あまり手入れのされていない旧時代の遺跡をヨジヨジよじ登って高いところに行き着くと、細身の青年が古い崩れかけた煉瓦屋根を舞台として、剣舞の稽古をしていた。
爽やかな青空の下、ひゅうひゅうという笛の音のような風の声に合わせるように、彼は舞っていた。長い手脚が伸びやかに振るわれ、ゆったりとした東洋風の衣が柔らかくそれについていく。よく研がれた剣は、日光を受けてキラキラと輝き、まるでダイヤモンドの欠片を散らしているかのようだ。
しかしそれ以上に、フォルトゥナの目を惹き付けて離さなかったのは、カシマの表情であった。
白銀の髪は空気と一体化しているように流れ、渦巻く。アラバスターを彫り込んだような肌の白さに、わずかに血潮の火照りが加わり、見る者に息を飲ませるほどの色気を発散している。
ほんの一瞬、彼の紫色の瞳がフォルトゥナの視線と交わった。その瞬間、彼女の胸はドキリと高鳴った……ほんの一拍だけ。ほんの一拍だけだが、それは忘れようとも忘れられない印象的な一拍であった。
いつしか、フォルトゥナは彼の舞が見える場所に腰を下ろして、ゆったりくつろいでいた。空を背景に、風が吹きわたっている。陽射しは暖かで、遠くで小鳥が鳴いているのが聞こえた。枯れ葉が転がり、虫が地を這い、雲がちぎれながら東へ流れていく。
世はすべてこともなし。
やがて、陽が傾き、地平線の彼方に半ば沈んだ時、カシマはようやく稽古を終えた。
剣の切っ先をくるりと半月に回転させ、鞘に納める。ふぅ、と呼吸を整え、構えを解く。
それからようやく、彼はたったひとりの観客の方を向いた。無言のまま、ただ見る。フォルトゥナは小さくうなずき、立ち上がった。
「スゴかったね。いやぁ……何ていうのかな……こう……スゴくてきれいで……えーと……めっちゃきれいだった! ビックリした!」
フォルトゥナの語彙は、ナマコ以下だった。
しかしそれでも、カシマはうなずきを返した。言葉を尽くした称賛も悪くはないが、言葉が足りなくてもこの無邪気な少女が楽しんでくれたことは伝わったからだ。
「退屈でなかったなら──嬉しく思います」
「居心地がよかったよ。ただ座ってじっと見てるだけなのに、時間が経つのが苦にならないって不思議な感じ。これがお勉強だったら、机に向かって五分もしたら頭ん中がフギャーッてなるんだけどね」
にへ、と笑うフォルトゥナに、カシマもつられたように表情を緩める。
「あれはキミの故郷の踊り? それとも、自分で考えたの?」
「私の家に伝わる──舞踏の基礎です──神に捧げる音曲舞踊を伝える一族で──子供の頃から、ずっと習ってきました。
今は、家を出て──世界を見て──代々伝えられてきたものを、さらに高めるべく──修行中というわけです」
「うわあああ。まばゆい。勉強するとぐにゃぐにゃするボクにはその向上心がまばゆいよぅ」
フォルトゥナは大袈裟に頭を抱えたが、その気持ちに誇張はまったくなかった。
「しっかし、成長のために旅に出て、しかも家から離れてなお真剣に練習を続けられるなんて、よほど踊るのが好きなんだね」
「──ええ。ひとりの踊り手として──修行の果てに、いつかこの技術を極める日が来るかと思うと──心が沸き立つものを感じます」
「ふむー?」
その一瞬だけ、フォルトゥナはカシマの様子に、微かな違和感を覚えた。
カシマは嘘は言っていない。しかし、この時点での彼は、どちらかというと諜報員としての側面こそが自分の土台であると認識しており、舞踊は諜報活動を完璧にこなすための武器であると見なしていた。
もちろん、踊るのは嫌いではない。練習を繰り返し、できない部分を工夫して、言語化できない自分の魂を表現することに成功すれば、いつだって深い喜びを味わうことができた。心が疲れ、あるいは荒んだ時も、舞は救いとなった。何も考えずに踊ることは、自分を常態に復す最も好ましい方法だった。
しかし、踊り手としての自分と、諜報員としての自分であれば、どちらを優先させるべきかを考えた時、後者であるべきだと思いつつ旅を続けてきた。
責任はけっしておろそかにしてはいけない。闇に潜む一族の一員としての自分を、日の下にいる舞踊家としての自分が支えるのだ。そのあり方で何の問題があろうか?
「まあ、いいか」
カシマと出会ってまだ数時間でしかないフォルトゥナは、違和感をすんなりとスルーした。
「嫌そうでないなら何でもいいよね。でも、うん、少し気になったことはあるよ。今の綺麗な踊りでも修行の途中なら、本当に極めたらどんだけ人を夢中にさせるのかな? 極めた時のキミを見てみたいな」
「一朝一夕では──無理でしょうね──芸事ですから。
努力は惜しみませんが──それでも、何十年かかるやら──」
「ああ、なら問題ないね。ボク、まだ若いし。キミがいずれたどり着くっていうのなら、長生きすればいつかは見れるね」
恐ろしく単純で、馬鹿みたいに軽いフォルトゥナの言いようであった。
しかし、あまりにもあっさりとこだわりなく言われてしまったものだから……彼女が生きているうちに、それを見せてやりたいなという気持ちがカシマの頭の中をよぎった。
舞が人を楽しませるものであるなら、こういう気楽なリクエストにこそ応えてやりたくなる。カシマは意識していないが、このほんの数秒の間だけは、武士でも忍でもない、純粋な舞踊家としての鮎川兵衛鹿島としてそこにいた。
『鮎川家は誇り高き武門である』
旅に出る前に、カシマの父は息子に言った。
『鮎川の者は守る者である。鮎川の者は殺める者である。鮎川の者は秋津の国に根を張る者である。鮎川の者は民草の平穏に奉仕する者である。鮎川の者は神に仕える者である。鮎川の者は神を楽しませる者である』
彼はカシマのすべての師であった。剣術、暗殺術、武器や火薬や言語の知識、信仰への向き合い方、そして舞の技も、カシマを形作る一から十までは父に伝授されたものだ。
ゆえに、カシマは父の言葉の一言一句に真剣に耳を傾けた。それは鮎川の家に生まれた男として、守らなければならない約束事だと思ったからだ。
『鮎川として生まれた以上、己の責務をおろそかにすることはまかりならん。わしはお前を信じて修行の旅に出す。お前が成長し、この家を背負って立つ男になることを疑わぬ。この家に帰ることを許すのは、我が信頼に応えることができるとお前が信じた時のみとする。よいな』
『かしこまりました。広い世界を学び、力を蓄え、武士として恥じぬ自分になった時、再びまみえましょう』
『……最後に、父から小さな助言をしておこう。何かを極めるという時、最後は自分との戦いになる。己が何を望んでいるのか、どこへ踏み込もうとしているのか、向かうべきはどこなのか? それを知るには己に問いかけるしかない。立場、責務、信念、欲、すべてを引き比べた時、自分にとって一番大事なものを取れ。その瞬間に何を選ぶかでお前という人間の根底がわかるだろう。そして、その瞬間が訪れないとしたら……お前は何もかも中途半端なまま、旅のどこかで屍を晒すことになるだろう』
カシマは家を出て以来、父のこの助言について何度も考えた。自分の中では、鮎川としての責務を取ることが一番であると確信しているが、これは心の極めた瞬間をもう通りすぎたということなのだろうか? それとも、まだその域にはまったく届いていないということなのだろうか?
カエルムでの刺激的な日々はあっという間に過ぎ去り、地に降りた彼はフォルトゥナについてアルキミアに落ち着いた。彼は今、持ち前の諜報能力と武力でもって、愛すべき女王陛下を陰ながら支えている。それは名誉こそないものの、武士として充実した日々だ。
しかし……アルキミアという国や、フォルトゥナという友を守ることとはまったく関係のない舞踊の修行も、けっして脇に避けてはいない。むしろ、以前より強い情熱を持って打ち込めるようになってきている。
フォルトゥナは彼のことを、やっぱり普通にダンサーだと思っており、王国の劇場で技を披露してみないかと提案した。
外国の娯楽が流入してきているアルキミアでは、外国の音楽やダンスは人気があった。東洋の香りが色濃く、しかも一流の踊り手であるカシマの舞は、高い評価とともに迎え入れられた。
彼は日向での名誉と、もうひとつの充実感を得られる日々をも手に入れてしまった。
マジョリア大陸のダンサーたちとも交流を得て、その技術を吸収しながら、カシマは考える。
(私にとっての大切は──何だろう? 鮎川の家には必ず帰る──しかし──このアルキミアという国と、得られた友人たちを置いていく決断はできるだろうか? そして──たまに──たまにだが──夜闇の中を駈けるより、ステージで舞を披露し、舞踏家としての腕を上げることの方が楽しいと感じてしまうこともある──私はどこへ向かっているのだ? この大陸に来てからの日々は得がたい──幸せなものだ──だが──だが──迷いは日を経るごとに、膨らんでいくような気がしてならない──)
カシマは練習場で、相棒である『頬撫で』を抜く。それを横真一文字に振るい、そこから鮎川家に伝わる神に捧げる舞の動きに繋げる。
その動きには、迷いがある。苦悩がある。
しかし、武術としても舞術としても、そこには確かな上達があった。心の揺らぎが、揺らがなかったかつてより彼を押し上げている。
(私は──)
カシマは自分に問いかける。何を問いたいのかわからないままに。
彼にとっての究極のありかは、いずこ。
少なくとも彼女は、カシマの裏の顔を深く理解しているとは言いがたい。東洋風の剣術に優れるということは知っている。でもそれはどちらかというと護身のために身につけたものだろうと考えており、彼の魂の半身である諜報員としての仕事の根幹を成す技術であるとは思っていない。
フォルトゥナの最も知るカシマは、流れるような舞で人を幻惑する、美しき風である。
この日もカシマは、アルキミアの劇場で舞を披露していた。
山から金が出て以来、この高地にある小さな国は爆発的に賑やかになっていた。まずは鉱夫たち、次に金融業者、そして複数の企業が根を張り、経済を活発にしていった。時計の針は目まぐるしく回るように感じられ、人の声や足音の数は何倍にもなり、家々の窓に灯る火も明るさを増していく。
娯楽産業も、大いに成長した分野のひとつである。
大抵の酒場は音楽家を雇い、フロアで食事を楽しむ客たちに生演奏をサービスするようになった。金山で儲けた富豪がチルテ城に通じる大通りに画廊を開き、土地の若者たちの芸術活動を支援するようになった。目端のきくプロデューサーが外国から楽団や劇団を呼び寄せて公演を始めると、これが大層な評判になった。
アルキミアの大衆文化は、金山による人の流入というエネルギーを受けたことで、大いに刺激され発展していったのだ。
──カシマという青年に話を戻そう。
彼は、カエルムでフォルトゥナと出会った時からして、東洋の舞踊家としての仮面を被っていた。
アユカワ家というのはアキツ列島の神職であり、神に舞を奉納する役目を任されているのだと。近年では古典継承のみならず新しい舞の創作にも力を入れており、異国の舞の技術を取り入れるべく、大陸に渡ってきたのだと。
カエルムに入学したのも、舞踊の体術に魔法の要素を組み込んで進化させるためだと説明した。
それらはすべて本当であり、嘘もごまかしもまったくない。ただ、アユカワ家が諜報機関としての側面も持ち、そちらの方面での人材育成と情報収集にも取り組んでいるという点だけ、説明から省いた。
カエルムに入学して最初の、ある晴れた休日の午後に、フォルトゥナはカシマと出会った。
その時、フォルトゥナはカエルムのあらん限りを見て回ろうと、あっちらこっちらに足を延ばしていた──あまり手入れのされていない旧時代の遺跡をヨジヨジよじ登って高いところに行き着くと、細身の青年が古い崩れかけた煉瓦屋根を舞台として、剣舞の稽古をしていた。
爽やかな青空の下、ひゅうひゅうという笛の音のような風の声に合わせるように、彼は舞っていた。長い手脚が伸びやかに振るわれ、ゆったりとした東洋風の衣が柔らかくそれについていく。よく研がれた剣は、日光を受けてキラキラと輝き、まるでダイヤモンドの欠片を散らしているかのようだ。
しかしそれ以上に、フォルトゥナの目を惹き付けて離さなかったのは、カシマの表情であった。
白銀の髪は空気と一体化しているように流れ、渦巻く。アラバスターを彫り込んだような肌の白さに、わずかに血潮の火照りが加わり、見る者に息を飲ませるほどの色気を発散している。
ほんの一瞬、彼の紫色の瞳がフォルトゥナの視線と交わった。その瞬間、彼女の胸はドキリと高鳴った……ほんの一拍だけ。ほんの一拍だけだが、それは忘れようとも忘れられない印象的な一拍であった。
いつしか、フォルトゥナは彼の舞が見える場所に腰を下ろして、ゆったりくつろいでいた。空を背景に、風が吹きわたっている。陽射しは暖かで、遠くで小鳥が鳴いているのが聞こえた。枯れ葉が転がり、虫が地を這い、雲がちぎれながら東へ流れていく。
世はすべてこともなし。
やがて、陽が傾き、地平線の彼方に半ば沈んだ時、カシマはようやく稽古を終えた。
剣の切っ先をくるりと半月に回転させ、鞘に納める。ふぅ、と呼吸を整え、構えを解く。
それからようやく、彼はたったひとりの観客の方を向いた。無言のまま、ただ見る。フォルトゥナは小さくうなずき、立ち上がった。
「スゴかったね。いやぁ……何ていうのかな……こう……スゴくてきれいで……えーと……めっちゃきれいだった! ビックリした!」
フォルトゥナの語彙は、ナマコ以下だった。
しかしそれでも、カシマはうなずきを返した。言葉を尽くした称賛も悪くはないが、言葉が足りなくてもこの無邪気な少女が楽しんでくれたことは伝わったからだ。
「退屈でなかったなら──嬉しく思います」
「居心地がよかったよ。ただ座ってじっと見てるだけなのに、時間が経つのが苦にならないって不思議な感じ。これがお勉強だったら、机に向かって五分もしたら頭ん中がフギャーッてなるんだけどね」
にへ、と笑うフォルトゥナに、カシマもつられたように表情を緩める。
「あれはキミの故郷の踊り? それとも、自分で考えたの?」
「私の家に伝わる──舞踏の基礎です──神に捧げる音曲舞踊を伝える一族で──子供の頃から、ずっと習ってきました。
今は、家を出て──世界を見て──代々伝えられてきたものを、さらに高めるべく──修行中というわけです」
「うわあああ。まばゆい。勉強するとぐにゃぐにゃするボクにはその向上心がまばゆいよぅ」
フォルトゥナは大袈裟に頭を抱えたが、その気持ちに誇張はまったくなかった。
「しっかし、成長のために旅に出て、しかも家から離れてなお真剣に練習を続けられるなんて、よほど踊るのが好きなんだね」
「──ええ。ひとりの踊り手として──修行の果てに、いつかこの技術を極める日が来るかと思うと──心が沸き立つものを感じます」
「ふむー?」
その一瞬だけ、フォルトゥナはカシマの様子に、微かな違和感を覚えた。
カシマは嘘は言っていない。しかし、この時点での彼は、どちらかというと諜報員としての側面こそが自分の土台であると認識しており、舞踊は諜報活動を完璧にこなすための武器であると見なしていた。
もちろん、踊るのは嫌いではない。練習を繰り返し、できない部分を工夫して、言語化できない自分の魂を表現することに成功すれば、いつだって深い喜びを味わうことができた。心が疲れ、あるいは荒んだ時も、舞は救いとなった。何も考えずに踊ることは、自分を常態に復す最も好ましい方法だった。
しかし、踊り手としての自分と、諜報員としての自分であれば、どちらを優先させるべきかを考えた時、後者であるべきだと思いつつ旅を続けてきた。
責任はけっしておろそかにしてはいけない。闇に潜む一族の一員としての自分を、日の下にいる舞踊家としての自分が支えるのだ。そのあり方で何の問題があろうか?
「まあ、いいか」
カシマと出会ってまだ数時間でしかないフォルトゥナは、違和感をすんなりとスルーした。
「嫌そうでないなら何でもいいよね。でも、うん、少し気になったことはあるよ。今の綺麗な踊りでも修行の途中なら、本当に極めたらどんだけ人を夢中にさせるのかな? 極めた時のキミを見てみたいな」
「一朝一夕では──無理でしょうね──芸事ですから。
努力は惜しみませんが──それでも、何十年かかるやら──」
「ああ、なら問題ないね。ボク、まだ若いし。キミがいずれたどり着くっていうのなら、長生きすればいつかは見れるね」
恐ろしく単純で、馬鹿みたいに軽いフォルトゥナの言いようであった。
しかし、あまりにもあっさりとこだわりなく言われてしまったものだから……彼女が生きているうちに、それを見せてやりたいなという気持ちがカシマの頭の中をよぎった。
舞が人を楽しませるものであるなら、こういう気楽なリクエストにこそ応えてやりたくなる。カシマは意識していないが、このほんの数秒の間だけは、武士でも忍でもない、純粋な舞踊家としての鮎川兵衛鹿島としてそこにいた。
『鮎川家は誇り高き武門である』
旅に出る前に、カシマの父は息子に言った。
『鮎川の者は守る者である。鮎川の者は殺める者である。鮎川の者は秋津の国に根を張る者である。鮎川の者は民草の平穏に奉仕する者である。鮎川の者は神に仕える者である。鮎川の者は神を楽しませる者である』
彼はカシマのすべての師であった。剣術、暗殺術、武器や火薬や言語の知識、信仰への向き合い方、そして舞の技も、カシマを形作る一から十までは父に伝授されたものだ。
ゆえに、カシマは父の言葉の一言一句に真剣に耳を傾けた。それは鮎川の家に生まれた男として、守らなければならない約束事だと思ったからだ。
『鮎川として生まれた以上、己の責務をおろそかにすることはまかりならん。わしはお前を信じて修行の旅に出す。お前が成長し、この家を背負って立つ男になることを疑わぬ。この家に帰ることを許すのは、我が信頼に応えることができるとお前が信じた時のみとする。よいな』
『かしこまりました。広い世界を学び、力を蓄え、武士として恥じぬ自分になった時、再びまみえましょう』
『……最後に、父から小さな助言をしておこう。何かを極めるという時、最後は自分との戦いになる。己が何を望んでいるのか、どこへ踏み込もうとしているのか、向かうべきはどこなのか? それを知るには己に問いかけるしかない。立場、責務、信念、欲、すべてを引き比べた時、自分にとって一番大事なものを取れ。その瞬間に何を選ぶかでお前という人間の根底がわかるだろう。そして、その瞬間が訪れないとしたら……お前は何もかも中途半端なまま、旅のどこかで屍を晒すことになるだろう』
カシマは家を出て以来、父のこの助言について何度も考えた。自分の中では、鮎川としての責務を取ることが一番であると確信しているが、これは心の極めた瞬間をもう通りすぎたということなのだろうか? それとも、まだその域にはまったく届いていないということなのだろうか?
カエルムでの刺激的な日々はあっという間に過ぎ去り、地に降りた彼はフォルトゥナについてアルキミアに落ち着いた。彼は今、持ち前の諜報能力と武力でもって、愛すべき女王陛下を陰ながら支えている。それは名誉こそないものの、武士として充実した日々だ。
しかし……アルキミアという国や、フォルトゥナという友を守ることとはまったく関係のない舞踊の修行も、けっして脇に避けてはいない。むしろ、以前より強い情熱を持って打ち込めるようになってきている。
フォルトゥナは彼のことを、やっぱり普通にダンサーだと思っており、王国の劇場で技を披露してみないかと提案した。
外国の娯楽が流入してきているアルキミアでは、外国の音楽やダンスは人気があった。東洋の香りが色濃く、しかも一流の踊り手であるカシマの舞は、高い評価とともに迎え入れられた。
彼は日向での名誉と、もうひとつの充実感を得られる日々をも手に入れてしまった。
マジョリア大陸のダンサーたちとも交流を得て、その技術を吸収しながら、カシマは考える。
(私にとっての大切は──何だろう? 鮎川の家には必ず帰る──しかし──このアルキミアという国と、得られた友人たちを置いていく決断はできるだろうか? そして──たまに──たまにだが──夜闇の中を駈けるより、ステージで舞を披露し、舞踏家としての腕を上げることの方が楽しいと感じてしまうこともある──私はどこへ向かっているのだ? この大陸に来てからの日々は得がたい──幸せなものだ──だが──だが──迷いは日を経るごとに、膨らんでいくような気がしてならない──)
カシマは練習場で、相棒である『頬撫で』を抜く。それを横真一文字に振るい、そこから鮎川家に伝わる神に捧げる舞の動きに繋げる。
その動きには、迷いがある。苦悩がある。
しかし、武術としても舞術としても、そこには確かな上達があった。心の揺らぎが、揺らがなかったかつてより彼を押し上げている。
(私は──)
カシマは自分に問いかける。何を問いたいのかわからないままに。
彼にとっての究極のありかは、いずこ。