森祇晶(森昌彦)ファンの有名人・芸能人リスト
| 伊原春樹 | 元西鉄/太平洋→巨人→クラウン/西武選手 | 西武コーチ時代、三塁ベースコーチとしての的確な走塁判断で「西武の頭脳」と呼ばれ、監督だった森を支えた。緻密な西武野球は伊原の手腕によるものと評価は高い。森監督の後任・東尾修監督から監督の座を禅譲されている。 |
| 落合博満 | 元ロッテ→中日→巨人→日本ハム選手 | 森を師と仰いでおり、いわゆる落合野球は森監督の野球を原点としている。日刊スポーツで1999年から2年間一緒だった時期があり。森が横浜の監督だった2001年には臨時コーチを務めている。 但し2004年の中日監督就任直後に「走るか、打つか、守るか。どれか一つでも優れていればそれでいい」「私は管理野球なんて大嫌いですから」と明確に管理野球でのチーム運営体制を批判した。 落合は学生時代に野球部を退部した過去があり上下関係が厳しく鉄拳制裁など日常茶飯事の体育会系のノリに耐えられなかった為で、軍隊式を是とする組織作りは相容れないためと思われる。 |
| 川上哲治 | 元巨人監督 | 監督時代、森の捕手としての頭脳とインサイドワークを高く評価し、守りの要として信頼していた。 監督が多いV9戦士の中でも川上が指導者として評価しているのは森・藤田元司に加えて確執のあった広岡達朗のみである。 |
| 清原和博 | 元西武→巨人→オリックス選手 | 開幕当初は不振だった清原であるが、次第に森の期待に応え始め、ついに新人王を獲得、プロ野球を代表する選手になっていく。但し食い違いも見られ、森自身は清原を自身が使ったと発言しているが土井正博、松沼博久は堤オーナーの意向で清原を使うようになったと発言している。 清原はこの時の森の起用を深く恩義に感じており、2005年の森の野球殿堂入りの際は祝賀式に駆け付け、一番に森に対し祝辞を述べている。清原の引退後も関係は続いていて後に逮捕される5年前ほど前にも連絡が来てハワイの森の家で相談したが、その後は音信不通になったという。 2025年に出版された渡辺久信の著書「獅子回顧録」では「森さんは清原には何も言わなかった」と記されている。 |
| 黒江透修(幸弘) | 元巨人選手 | 巨人がV10を逃した1974年限りで森、長嶋茂雄と共に現役を引退している。その後も西武時代・横浜時代に、ヘッドコーチとして森を支えた(*1)。またコンビを組んだ森が監督に就任したのを機に、横浜ヘッドコーチに就任。チームカラーにちなんで白髪をブルーに染めたことがある(*2)。 2002年は一軍ヘッド兼打撃コーチに肩書が変更されたが、開幕からチームは最下位に低迷し、シーズン途中の同年9月26日に森が休養(事実上の解任)となると、黒江が監督代行として最終戦まで指揮を執ることとなり、同年10月15日に退団が発表された。 黒江は横浜時代を「フロントが選手と直接電話やメールで仲良くしている。監督・コーチへの不満を言い出した選手がいて、フロントが『そんなのほっとけ』と言えば、選手たちは僕らの言うことなんて聞いてくれません。それに森さん自身も『自分の野球』のイメージから抜けられなかった。 だから、僕が途中から代理監督になって以降は「これまでの観念を捨てて思い切った采配をしていく」と足の遅い走者でもエンドランを仕掛けました。球団からは『森さんも黒江さんみたいな野球をしてくれれば、最下位にならなかったのに』と言われましてね」と回顧している。 |
| 斎藤隆 | 元横浜大洋/横浜→LAD→BOS→ATL→MI→ARI→楽天投手 | 1999年オフに不動のクローザーだった佐々木主浩がフリーエージェントでMLBのシアトル・マリナーズへ移籍して以降、チームに確固とした抑え投手が不在だったため、2001年に就任した新監督の森祇晶は「俺はお前と心中する」という言葉で、当初転向に難色を示していた斎藤をストッパーに転向させる。 この転向は成功し、同年は7勝1敗27セーブ、防御率1.67の好成績を挙げ、「大魔神」と言われた佐々木に対し、新魔神という愛称も付いた。この経験が後の先発再転向、そしてメジャーでの生活に活きたと本人は述べている。 |
| 佐藤正久 | 元参議院議員・元陸上自衛官 | 福島県立福島高校の3期後輩である鈴木哲が在籍していたことからパ・リーグは西武ファン。参議院初当選時「森監督は凄かった」とし、「森祇晶監督のテーマは今でも歌える」と発言した。 |
| 種田仁 | 元中日→横浜→西武選手 | 横浜時代の森の一番の功績は「波留敏夫―種田・山田博士のトレード」とよく言われる。山田は先発中継ぎで活躍したし、種田も再び活躍した。逆に波留は1億円プレイヤーだったが故障で使い物にならず、翌年オフに酒井忠晴とのトレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍して引退した。 |
| 谷村新司 | 歌手(アリス) | 大阪府大阪市住之江区の出身で阪神タイガースファンだが、生前の谷村新司と親交が深く、谷村は森の人間性について絶賛している。 |
| 辻発彦 | 元西武→ヤクルト選手 | 自著「プロ野球 勝つための頭脳プレー」で語ったところによると、試合でエラーをして落ち込んだ辻のところに深夜、森から気遣いの電話があったり、遠征先や合宿先で選手が食事に満足しているかどうかを気にして尋ねたりということがよくあったという。 広岡達朗の監督時代も経験したが「広岡さんは選手をほめることがそもそもなくてそれが持ち味だった監督だけど、森さんは選手のいいプレーを必ずミーティングでほめてくれた」という。 また選手達がゲームボーイなどの新しい遊び道具に熱中しているのをみると、叱るより前にまず森自身が買ってやってみて、その面白さを自分で体感してから「ほどほどにしなさいよ」というような穏当な理解者の面ももっていた。 |
| 水原茂 | 元巨人監督 | 森の守備力を評価し、森のレギュラー起用を決め、以後引退するまで正捕手の座を守り続けた。 |
| 森繁和 | 元西武選手・野球コーチ | 西武時代に仕えた森に請われ横浜ベイスターズ一軍投手コーチに就任したが、投手陣の不振の責任を取り辞任した森を招聘したのはドラフト同期だったという点もあるが、上記のように落合が森祇晶に心酔していたことにも起因する。 一方、森繁ルートで高柳秀樹、笘篠誠司(3塁コーチシーズン中外された)、田村藤夫(谷繁の後継捕手が育てられない)などの指導力に疑問符の付く指導者が呼ばれるなどの弊害も存在した。高柳は現役時代は南海/ダイエーに所属していた。森繁のコーチ時代の師匠だった根本陸夫が高柳と同郷の茨城県出身であり、根本が森繁に高柳を紹介した可能性がある。 2012年に出版した「参謀」ではコーチが解任される落合から後任されるのでどうしても西武、ハムで一緒にやっていた人が多かった。2025年に出版した「回想 ドラゴンズでの14年間のすべてを知る男」では落合は私、高代、石嶺、高橋三千丈(留任)、高柳など同期入団で一緒だった人をコーチで呼んだと述べており高柳招聘した事について関わっていない否定し落合が高柳呼んだと述べている |
| 吉丼v(^o^)v | Xアカウント | ロッテファン。自身のアカウントで「嫌いだったけど堤義明という志高いオーナーが名演出家根本や勝利への執念の塊広岡、森という名将と共にFA制度の無い時代に様々な抜け道や謀略で築き上げた常勝軍団は我々世代にとっては特別なモノ」と投稿。 そして「金で買った常勝軍団からは感じられない畏怖や羨望を他ファンでも感じたものです」と、恐らくこの球団に対しての文章も。 |
森祇晶(森昌彦)を支持している企業・団体リスト
| 江崎グリコ | 製菓会社 | グリコ協同乳業「Bigヨーグルト健康」のCMに父親役として出演。庭で素振りをしたり、バッティングセンターでピッチングマシンから放たれるボールを捕球したりと、現役時代を髣髴とさせるシーンがあった。 息子役は岡田義徳(森と同じく岐阜県出身)、娘役はデビュー直後の広末涼子であった。 |
| 中日新聞 小山派 | 派閥 | 小山派は大島派と異なり生え抜き監督を就任させることにはこだわらず、中日新聞社代表取締役社長時代の白井文吾が森の中日監督就任を計画していた。 |
アンチ森祇晶(森昌彦)の有名人・芸能人リスト
| 広岡達朗(廣岡達朗) | 元巨人選手 | 廣岡の現役時代一番の親友であり(*3)、ヤクルト・西武時代は監督と参謀としてチームに貢献したものの、関係が悪化した1984年オフをもってコーチを退任。1985年の監督交代(*4)を機に関係がさらに悪化。 1998年オフ、森に巨人監督就任の話が持ち上がった際に廣岡は「森は華がないからダメ」と酷評(*5)している。2016年に清原和博が薬物事件で逮捕された際には「育てられない指導者」として森の責任を問う寄稿を行っている(*6)。 ただし近年は和解している。ちなみに野村克也や根本陸夫とは確執があり、特に野村に関しては広岡を題材にしたノンフィクション『正しすぎた人 広岡達朗がスワローズで見た夢』で、三原脩共々「データ野球なんて嘘」「野球にマジックなどない」と日は二している。 |
| 大堀隆 | 元横浜球団社長 | 森を横浜監督に招聘したが、後にこれは「チーム成績を悪くしただけでなく、森さんを傷つけてしまう最悪の結果を招いてしまった」と認め、「致命的なミスキャスト」であると悔いている。「野村さんは弱いチームを強く出来るが森さんは出来なかった」と森に対する評価は低い |
| 長嶋茂雄 | 元巨人→監督 | 現役時代から森と不仲。長嶋が監督になった際川上哲司監督が森をコーチで起用を求めたが拒否。森は長嶋の通夜、告別式、お別れの会は欠席した。 |
| 近藤昭仁 | 元ヤクルト、西武コーチ | ヤクルト、西武コーチ時代の同僚だったが、森の西武監督1年目で退団した。 |
| 権藤博 | 元横浜監督 | 森は横浜監督就任会見で前監督の権藤を批判した |
| 大橋勲 | 元巨人捕手 | 大橋は森について「私は何一つ教えてもらえなかった。あらゆる手段を使ってライバルを蹴落とそうとしていた」と述べている |
| 土井正博 | 西武コーチ | 森は清原を自身が使ったと言っていたが清原を使ったのは堤オーナーの意向だった事を暴露した。YouTubeの名球会チャンネルで新井宏昌と対談した際パンチ佐藤からコーチ時代やりづらかった監督を聞かれると森を挙げている。やりやすい監督は東尾、伊東勤、渡辺久信を挙げた。 |
| 伊勢孝夫 | 元ヤクルト選手 | 森がヤクルトコーチ時代名指しで選手批判して嫌われていたと自身の著書(野村IDの後継者 伊勢大明神の「しゃべくり野球学」)のなかで発言。 |
| 大杉勝男 | 元東映→日拓ホーム→日本ハム→ヤクルト選手 | 森のヤクルトコーチ時代ミーティングで名指しで批判されている |
| 田尾安志 | 中日→西武→阪神選手 | 西武時代に森監督が「清原和博を三塁にして、秋山幸二を中堅、田尾に一塁を守らせる」構想を練ったが田尾は反対した。そのことがスタメン起用の減少、シーズンオフのトレードにつながったとも言われるが定かではない。 田尾本人は「森監督は勝負師でしたが、僕とは馬が合わなくて、根本(陸夫)さんにトレードに出してくれと直訴し阪神に行くことになったんですよ」と語っている。 |
| 伊東勤 | 西武選手→監督 | 週刊現代のコラムで食生活以外は前任監督・広岡達朗のやり方を踏襲していたことに触れ「わざわざ成功したやり方をいじる必要はないという、堅実さからくるものだったと思います。」と述べている。 2025年に出した著書「黄金時代のつくり方 - あの頃の西武はなぜ強かったのか」で「森さんが教わった事はない。森さんの愛弟子と言われるのは嫌。距離が段々離れていた」とし、捕手の師匠は黒田(正宏)さんと述べている。 |
| 渡辺久信 | 西武選手→監督 | 2025年に出版された「獅子回顧録」では森に対して数多く批判している。一例として1989年にブライアントに打たれた本塁打の際結果論で怒られた為自身が監督になった際絶対結果論で選手に何言う事だけはしないように決めたと述べている。 また「広岡さんは東尾さん、田淵さんなど皆に厳しかったが森さんは私、工藤さん、秋山さんには厳しい事を言ったが石毛さん、辻さん、平野さん、伊東さん、清原に対しては何も言わなかった」と獅子回顧録の中で語っている。 |
| 大久保博元 | 元西武選手 | 現役時代の監督の中で好きな監督は藤田元司、嫌いな監督は森を挙げている |
| 鈴木健 | 元西武選手 | 高橋慶彦のYouTube出た際「森監督時代は地獄、東尾監督時代は天国」と発言 |
| 谷繁元信 | 元中日捕手 | 森祇晶の方針とウマが合わず、2001年オフに所有していたFA権を行使して中日へ移籍した。尤も、森との確執だけではなく、フロントとの軋轢も大きかったと思われる。 ノンフィクション「4522敗の記憶」にも詳しいが、ある年の契約更改で横浜のフロントから「若いピッチャーが怖がっているから優しく接してやってくれ」と言われたことで、「横浜でどうしても勝ちたい」という思いが薄れてしまったと感じていたことも、移籍の原因として挙げている。 |
| 金城龍彦 | 元横浜選手 | 森の監督時代バントをさせられて大幅に成績が低下 |
アンチ森祇晶(森昌彦)の企業・団体リスト
| アンチ巨人 | 野球ファン | 当たり前のようにアンチ森祇晶でない者は1人もいない。 |
| アンチ西武 | 野球ファン | 当たり前のようにアンチ森祇晶でない者は1人もいない。 |
| アンチDeNA | 野球ファン | 当たり前のようにアンチ森祇晶でない者は1人もいない。 |
| DeNAファン | 野球ファン | 横浜(当時)を低迷させた戦犯扱いする者がいる・・・というかアンチ森祇晶でないDeNAファンを探す方が困難である。 一方、三浦大輔・前DeNA監督に対する不安から、森の監督としての手腕を再評価する声や、「チームカラーに会わなければどんな名将でも結果を残せない」との声もある。 |
ファンとアンチがかなり混在
| 巨人ファン | 野球ファン | 巨人から離れたため裏切り者扱いする者がいる。 |
| 西武ファン | 野球ファン | 監督として西武からも離れたため裏切り者扱いする者がいるが、これは契約満了によるもので契約延長のオファーを出さなかったため完全な逆恨みである。 |