リカルネ独立戦争前
1724年 リカリク人のWP転移
リカリク人が惑星ユラフォノーラ(現在の惑星ブライゴール)の山岳地帯にWP転移。
リカリク人集団は山岳地帯をヅィクリカルツィと名付け、住み着くようになる。
現地のラユィーヌ人と接触。ラユィーヌ人に対して友好的に振る舞おうとする。
1731年 リカリク人自治区設立
リカリク人集団は惑星ユラフォノーラの山岳地帯ヅィクリカルツィ周辺でリカリク人自治区を設立。
リカリク人集団を統率するリーダーであるリカリア1世が自治区代表に就任(即位)。リカリア1世はリナエスト人のみならず悠里文明圏の中でも珍しいネートニアーの王族であった。
1731年 正式な友好関係の提案
リカリア人自治区代表のリカリア1世はグラユィーヌ政府に友好関係の樹立を求める。
2代目国家主席ユラノラフォカイはリカリク人への融和政策を開始。議論が進展する。
1732年 交渉妥結
リカリク人自治区とグラユィーヌ政府との間で交渉が妥結。
【細かい内容を決めたいね】
しかし、当時のグラユィーヌの国内情勢が悪化。
グラユィーヌ政府の政情不安と内部対立に巻き込まれ、リカリク人問題を巡ってラユィーヌ人政治家同士の謀略戦が始まる。
1733年 フォーグラ議長就任
3代目国家主席
フォーグラ議長が就任。
政治腐敗や対立を一掃。リカリク人はこれを歓迎するが、フォーグラ議長はリカリク人問題に対して強硬路線を敢行した。
フォーグラ議長はユラノラフォカイのリカリク人融和政策の被害者の家族の出身であり、ユラノラフォカイによるラユィーヌ人強制移住によって住処を追われたことから、リカリク人との融和に対して否定的であった。
1734年 リカリク人自治区が王権の維持と保護を要求
リカリア1世はリカリク人自治区保護国化を条件にリカルネ王族の生命と財産の保障を求めた。
この要求は拒否され、譲歩案として王権を放棄する代わりに自治区としての存続を要請するも黙殺された。
1736年 リカリク人自治区編入
3代目国家主席フォーグラはリカリク人自治区を自国領土として編入。名目としては「リカリク人軍閥への制裁」という形を取った。
1737年 リカリア1世暗殺事件
リカリア1世ラシュニア悲劇王は自国民編入に反対するため演説中、とある青年に銃撃され死亡。
リカルネ人はグラユィーヌ政府への対立感情を高め、独立を志向する。
これが単なる普通の王族なら話は簡単であったが、リカリア1世の出自が原因で国際社会に大きな影響を与えてしまう。
それは、リカリア1世が「ネートニアーの王族」であり、「ネートニアーの自治区代表」であったこと。
悠里文明圏では史上稀に見るネートニアーの指導者であったリカリア1世はリカリク人のみならず、他の悠里文明圏のヴォルシ差別で悩んでいる人々の尊敬の対象でもあった。そんなリカリア1世が暗殺されたというニュースが飛び回ることとなり、グラユィーヌ人民調和国は
ファルトクノア共和国の所属する
ラノー条約機構加盟国の国際的圧力を受けるようになる。
同時にファルトクノア共和国が国民に「
グラユィーヌのヴォルシ主義」を喧伝、参戦ムードが高まっていく。
ユエスレオネ連邦本土は第一次ユミリア政権時代であった。タカ派のユミリアは参戦に肯定的だった。しかしその決定は後に「失敗であった」と彼女は口述している。
1737年 ラノー条約機構加盟国の支援
1738年 グラユィーヌ軍のリカリク人自治区侵攻
リカルネ独立戦争
- ファルトクノアやラノー条約機構軍の助太刀により、何とか独立に成功
- グラユィーヌ政府と休戦
- ファルトクノア介入の理由
- 自由解放連合の影響圏であるグラユィーヌの弱体化
- ファルトクノアの影響圏の拡大
- ファルトクノア国内のリナエスト人支持の獲得
- 独立させて同盟国の獲得
マーカス内戦
- アンドロイドの普及とか全然間に合いませんでした
- グラユィーヌ内戦?ではグラユィーヌ新政府が対リカルネ穏健派で共存を望むなら財政・軍事支援を開始
- 1740年:ホートシェート条約
- 1741年:リカルネ王国がラノー条約機構に参加。
関連項目
最終更新:2023年05月21日 11:18