イスラグィヴェシャルク・マルムカ・ナイセシュ
Jslagyvéśark Malmka Najséś

生年月日 1618年02月05日
出生地 サジュー、パジラス
没年月日 1684年3月11日
死没地 プナキェーン記念公園
(旧共和国宮殿)
出身校 マサス中央総合大学、パジラス
通称 国祖
称号 アクース連邦n代目大統領
配偶者 シェイナス・マルムカ
親族 父親:
母親:
子:シェイナス・マルムカ二世
サイン

イスラグィヴェシャルク・マルムカマユィ語:Jslagyvéśark Malmka)とは、アクース連邦の政治家、科学技術学者。前任大統領であったチュガ・ザデン平和的孤立主義路線を終結させ、革命以前のアクース連邦の路線を決定させた。また、アクース人で最初に不老不死技術を受けた人物としても知られる。

生涯

幼少期

 1618年02月05日、惑星パジラスの小都市サジューにて、学者の両親の下に生まれる。幼少期は偏食のせいで健康的とは言い難かったが、学業はよくできた。

少年期



青年期

 1634年、惑星パジラス最大の大学、マサス中央総合大学の科学技術学部に入学。6年後、同大学を主席で卒業。国内最大手の企業、アクース星間交通で技術者として働き始める。

第一次使節団

 1640年後半、ニーネン=シャプチがアクース連邦の領土であるシャーマ星系とマテロース星系を発見、1641年には両国間で学者集団を交換。この集団は第一次使節団と呼ばれる事になるが、そのメンバーの中にマルムカも含まれていた。

帰国、政治活動

 1658年に帰国したマルムカは、国内の変わり様に驚いていた。国は鎖国しており、平和的孤立主義の考えのもと、移住してきた外国人は差別されるような風潮も始まっていた。しかしニーネン=シャプチで進んだ技術力なしで国内の発展は無いと考えていたマルムカはそのまま政治活動の道に進むことを決定する。大手野党であった新進歩党に入党、華々しい実績と巧みな弁論術を用いてその名はすぐに広まった。
 1663年には大統領選挙に立候補。最初は泡沫候補と思われていたが、当選。詳細はアクース連邦1664年大統領選挙を参照されたし。

大統領就任からその死

 1664年、大統領に就任。上記の思想のもとに平和的孤立主義体制を盛大に批判、多くの周辺諸国と国交の正常化を働きかけ、66年にはサニェーラ独立国と国交を樹立、67年にはサニェーラの路線敷設を始めさせた。さらに同年タシュトヘム宙圏安全保障条約に加盟、国防体制も整備した。1670年にはサニェーラの路線が完成し、国内に大きな経済的・技術的成長をもたらした。これらの政策により国内の技術水準は大きく上昇、失業者も減少し、72年には存在した外国人排斥法を全て撤廃、国内の外国人嫌悪主義者から非難の対象になるも、これらの政策は基本的には支持されることになった。
 1674年、再任を望まれたマルムカは不死技術を自らに投与し、難なく当選した。詳細はアクース連邦1674年大統領選挙を参照されたし。1680年にはジサ戦争による経済低迷を受けて発足したガニュー経済体制協力機構へ加盟。ニーネン=シャプチロフィルナ連邦共同体ジエール帝国連邦ベリオン共和国とともに保護貿易を開始。アクース連邦は特殊堅木に始まる第一次資源を多く輸出し、経済低迷を抑えた。この功績によってマムルカは更に評価されることとなる。
 1684年、マムルカは不死技術を受けているにもかかわらず訪れる健忘などを理由に政界離脱を表明。多くの民衆は不満げに思ったが、でもまあ仕方ないと言うのが世論の考えであった。大統領任期満了演説中に大統領席が突如爆発し、マムルカは即死。政府要人も死亡、もしくは重傷を負った。民間人の死者は出なかったが国内に大きな不安をもたらす事件となった(チュグルセゴス危機)。のちに外国嫌悪主義極右組織「チュグルセゴスは生きている」が犯行声明を発表。非常大権で臨時大統領となったリュメーヤ・ザデンが同団体をテロ組織認定、暴力による解散も辞さない強行姿勢に出る。これ以来、アクース連邦は混乱の時代を歩いていくこととなるのである。


思想

 第一次視察団のメンバーでもあった彼は開国共栄思想をその思想の根底に根差しており、それ以前の国内の支配的な思想であった平和的孤立主義を全く一掃した人物とされる。


逸話



後世の評価



関連項目

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最終更新:2021年02月08日 16:02