シシャパンマ(2012年5月〜6月)
これまでで最もグダグダな登山となった…
概要
今年も難易度の高い南西壁ルートを選択。前年は1枚目写真5番ルートだったが、今年は2枚目②のルート。エアハルト・ロレタンやヴォイテク・クルティカといった超一流クライマーが登頂した際のルートである・・・。
ルート図 (画像クリックで拡大します)
高所順応に失敗する
ネパール入りが4月末、ベースキャンプ入りが5月10日という、プレモンスーンの登山としては非常に遅い日程で登山を開始する。信じがたい事に、出発前日まで講演会を行っていた。
明後日、いよいよ出発です。明日は、金沢で保険屋さんに向けて日帰り講演。前日までやることが…最高です。
例年では5月末か6月初旬にモンスーンの季節になり天候が悪化するため、残された時間はわずかしかない。
ところが、いきなり序盤にガレ場で膝を痛める。
いきなりますが、偵察中にがれ場が崩れて足をひねりました。
現在冷やしています。高度障害と食中毒と膝を痛めるトリプルパンチです。
その後、主に膝痛を理由にして予定していた高度順応をせず、
6000m以上での宿泊を1度もしないままアタック開始日を迎える。
この時点で事実上、登頂は不可能になる…
ロープを忘れる
アタックステージが始まってからは好天にも関わらず何度も停滞。
ようやく壁に取り付くも、取り付きから500mほど登った6200m地点で、ロープを忘れたという信じられない理由で下山。
ベースキャンプまでロープを取りに戻り(※)、数日間を無駄にする。
いまテラスに座っています上部に3本の垂直のブルーアイスがあり、それを越えようと思っていましたが、
傾斜が思っていた以上にあり、ロープが必要と判断しました。一旦下りてロープを持って再びあがろうと思います。
(※)ABCにもタルチョが張られ、複数のシェルパや撮影スタッフも前進してきているのにロープはBCに置きっぱなしだったようだ。
ABCの様子→
画像
無謀なアタック
幸いにも(?)モンスーンが来るのが遅く、好天が続く。
ベースキャンプで休息してから再アタックをかけるが
当初予定したC1(6700m)まで登れず、荷物をデポしていた6200m地点にテントを張る。
栗城はその位置から頂上アタックをかけると主張するが、
無線でカメラマンの門谷氏に「C1予定地まで登ってからアタックをかけた方が成功率が高い」と説得される。
門谷「えーっとー、その場所から一気にアタックをかけるよりも、その場所に今日ステイして、
明日C1予定地にルートを延ばして、それからアタックという方が実現可能性があると思います。
天気にしろ、体調にしろ、高度順応にしろ、すべてがベストな状況に整っているわけではないので、
すこしずつ距離を伸ばすのが賢明かと思います。」
栗城「…………………、はいっ、そうですね………………」
一度は納得したかに見えたが、翌日にカメラマンの説得を無視して6200m地点から夜間アタックを決行することになる。理由は明らかにされていない。
(6200mから1日で頂上往復は世界トップクライマーの水準で、明らかに実力を超えている。)
しかも、このとき高度障害で嘔吐しており体調は良くない。
今標高6200mの小さな岩の上でテントを張っています。無事にロープはブルーアイスに設置できました。
しかし斜めになったタタミ2畳程の岩にいます。着いてまだ調子は良かったのですが、
足をかばうのに体力を使ったせいかゲーゲー吐いています。SPO2は良いのに身体が重いです。
山を見上げてるときは登りたくてしょうがありません。山に入ると今度は家族や仲間、地上に降りたくなります。
不思議な世界です。膝も吐き気も今日で終わりますように...。全ての神様、応援してくれてる皆さん力を貸して下さい。
翌日、夕方の18:10から、誰が見ても不可能な夜間アタックを開始。
途中でルートを見失って右往左往することになる。事前にルートの確認ができていなかった様子。
出発から7時間後に、C1予定地の近くで「ブルーアイス」を登れなくなり下山を決意する。
ヘッドランプの軌跡が大きく右往左往し、最後に下ってまた登り返すなど、ルートを見失っていることが分かる。
栗城「雪は全くないです。クレバスも開いていて、ブルーアイス、ずっと続いている感じになっています。
えー、これ以上の登攀は危険と判断しました。」
ABC「はい、何よりも無事に帰ってくることが一番大切です。
ブルーアイス、ずっと続いてて凄く大変だったと思います。
無理はしないで下山は了解しました。」
(※)無謀なアタックを強行した理由
順応に失敗した時点で登頂は事実上不可能になり、6200mで高度障害にかかり嘔吐している状況では、重い荷物を持ってそれ以上登ることすら困難。そのため登頂を諦め、
スポンサーやファンに言い訳できるようにできるだけ最高到達高度を稼ごうとして、6200m地点から軽身で登った可能性が高い。(つまりアタックのふり)
滑落して負傷し、シェルパに救助される
発表によると、下山を開始した後に滑落して、背丈ほどの深さのクレバスに落ちて引っかかる。
本人の弁によると「20m垂直に落下し、更にクレバスに落ちたが、自力でクレバスから這い上がった。」
高さ20のアイスフォールから滑落ではなく、
落下どあり、更にクレバスに落下。普通なら死んでます。
僕も自力でクレバスから這い上がるまでは、
正直自分の人生の終わりを感じました。
しかし、アイスフォールから落下後に
運良く浅いクレバスで意識がすぐ回復した時、
物凄い苦しみと恐怖、と同時に生きる力も出て来ました。
真っ暗な氷の中で手足を動かし続けてました。
そして、仲間の無線が意識が飛ぼうとする僕を
励まし続けてくれました。
落下後、5時間半後にクレバスから自力で這い上がった瞬間。
空は青かったです。
一羽のカラスが僕を見つめていました。
その後、1人のシェルパと合流。
ABCから撮影の仲間が位置を特定してくれたおかげです。
シェルパも元々登る予定はなく、
装備も不十分で議論もあったそうですが、
長年やってきた仲間で最大限努力してくれました。
仲間に本当に感謝です。
落下後に何か暖かい物を感じてました。
アイスフォールからの垂直20mの落下は
身体が普通では終わりません。
それでも頭も腰も意識がありました。
空が徐々に青色がかって来た。「朝だ」。このクレバスから自力での脱出を試み始めた。(中略)
自分の背丈ほどのクレバスから出るのに、3時間近くも掛かった。
滑落の原因はブログでも言葉を濁していて詳細不明。
滑落地点でシェルパが上がってくるのを待ち、シェルパと合流してから下山を開始する。
カメラマンが待つABCまではシェルパと共に下山したが、翌日にベースキャンプに戻る時にはカメラマンを先行させ、
一人で帰ってくるシーンを撮らせて「単独」を演出していた。
(この期に及んでまだやるのか…)
本人発表では怪我の様子は…
(上と同じブログ)
事務局からの報告では心配ないような報告ですが、
現在も胸の骨が折れており
右手親指からは肉がはみ出た状態です。
怪我の様子
初めに事務局から「全身打撲、出血、骨折」と発表されるが、下山後に「創傷や打撲」という表現に変わる。
BCに着いてからそのことを知った栗城は「胸の骨が折れており、右手親指から肉がはみ出ている」と訂正する。
さらに「呼吸をするだけでも胸が痛み、立って少しだけ歩くだけもやっと」「右肩が上がらない」と痛みを訴える。
しかし後になって公開された写真と動画では、BCに戻ってくるときに怪我をした右手でストックを持っており、
さらにBCから下山するときに平気で馬に乗り、右腕を上げて元気よく手を振っていた。
実際にどの程度痛かったのかは不明。
帰国後に、「胸と肩は(骨折ではなく)軟骨損傷、右手親指はアイスバイルが骨まで刺さり骨折している」と正式発表。
右手親指の骨折はカトマンズの病院では見つからず、「日本の病院で骨折していることが分かった」とのこと。
(ソースや時系列などあり)
参考
(※)再アタック開始してから公開された本人撮影動画は、6200m地点でスポンサーのインスタント食品を食べているシーンのみで、それ以外の本人撮影映像・写真は一切公開されていない。ロープを取りに行く原因となったブルーアイスの写真や、そこに自分で張ったというフィックスロープの写真も公開されていない。
スケジュール
当初の予定
日本出発が5月直前で、プレモンスーンの登山としては非常に遅い。(→
無謀なスケジュールも参照。)
4月29日 |
日本出発、ネパール・カトマンズ到着 |
5月2日 |
カトマンズ出発 |
5月7日 |
BC(5100m)入り |
5月11日 |
BC(5100m)→ABC(5600m)→BC(5100m) |
5月13日 |
BC(5100m)→ABC(5600m) |
5月15日 |
ABC(5600m)→デポキャンプ(5600m)→ABC |
5月17日 |
ABC(5600m)→7000m地点 |
5月18日 |
7000m地点→BC(5100m) |
5月21日 |
BC(5100m)→ABC(5600m) |
5月23日 |
ABC(5600m)→デポキャンプ(5600m) |
5月24日 |
デポキャンプ(5600m)→C1(6700m) |
5月25日 |
C1(6700m)→C2(7500m) |
5月27日 |
C2(7500m)→山頂(8027m)→C1(6700m) |
5月28日 |
C1(6700m)→BC(5100m) |
6月2日 |
カトマンズ入り |
6月7日 |
日本帰国 |
ABC |
前進ベースキャンプ |
BC |
ベースキャンプ |
C1 |
キャンプ1 |
C2 |
キャンプ2 |
DC |
デポキャンプ (荷揚げし、荷物を埋めておく場所) |
(※)登山用語でABCはアドバンストベースキャンプ(前進ベースキャンプ)の略称だが、栗城発表ではアタックベースキャンプになっている。
地図
おおよその位置関係 (画像クリックで拡大します)
実際の行程表
BC(5100m)⇔ABC(5600m)⇔DC(5700m)の移動は高低差が少なく、
地図上の距離で3,4kmしか離れていないため、
この高度に順応しているならBCからDCまで一日で容易に移動できるが、
何故かBC⇔ABC、ABC⇔DCの移動に必ず丸一日かけておりグダグダ感が強い。
なかなか壁にとりつかずBC⇔ABC⇔DCの移動を繰り返したことから
2chスレでは水平登山と呼ばれた。
( 他にも「水平の記憶」や、短距離・横方向への出発を繰り返すことから「プロ出発家」なども… )
高所順応
土砂崩れで通行止めとなりBC入りが3日遅れる。
順応日程が途中で6200m峰の山頂付近に一泊するだけに変更。
さらに直前になって宿泊を取りやめてBCからの日帰りに変更。結局ほとんど高所順応しないままアタックステージを迎える。
(BC入り前の高度順応はニェラム近郊の丘(4200m)での日帰りトレッキングのみ。)
5月10日 |
BC(5100m)入り |
毎日高山病アピール |
5月11日 |
BC(5100m) |
ステイ |
5月12日 |
BC(5100m) |
ステイ |
5月13日 |
BC(5100m) |
ステイ |
5月14日 |
BC(5100m)→ABC(5600m) |
|
5月15日 |
ABC(5600m) |
高度障害で体調不良 |
5月16日 |
ABC(5600m)→DC(5700m)偵察→ABC |
膝を痛める。さらに高度障害と食中毒。 |
5月17日 |
ABC(5600m) |
ステイ膝痛 |
5月18日 |
ABC(5600m)→BC(5100m) |
テーピング補充 |
5月19日 |
BC(5100m) |
ステイ膝痛 |
5月20日 |
BC(5100m) |
ステイ |
5月21日 |
BC(5100m)→6200m峰→BC(5100m) |
アイストゥース(6200m峰)の6100m地点で下山 |
5月22日 |
BC(5100m) |
ステイ |
5月23日 |
BC(5100m) |
ステイ |
アタックステージ開始
この時点の予定では29日登頂予定だったが、天候が良いにも関わらず何度も停滞する。当日になって急に延期を発表するためグダグダ感が漂う。
ロープを忘れたという信じられない理由で下山。デポキャンプには何故かロープがデポされておらずABCまで戻る。ABCから再アタックをかけるのかと思われたが、翌日にBCまでロープを取りに行くと発表。BCでさらに2日停滞。
5月24日 |
BC(5100m)→ABC(5600m) |
膝痛 |
5月25日 |
ABC(5600m) |
ステイ膝痛 |
5月26日 |
ABC(5600m) |
ステイ膝痛 |
5月27日 |
ABC(5600m)→DC(5700m) |
|
5月28日 |
DC(5700m) |
ステイ膝痛 |
5月29日 |
DC(5700m)→6200m地点→ABC(5600m) |
ロープ忘れてブルーアイスが登れないという理由で下山 |
5月30日 |
ABC(5600m)→BC(5100m) |
ロープ補充 |
5月31日 |
BC(5100m) |
ステイ |
6月1日 |
BC(5100m) |
ステイ |
再アタック
モンスーン到来が遅かったため、天候は持ちこたえる
6月2日 |
BC(5100m)→ABC(5600m) |
|
6月3日 |
ABC(5600m)→デポキャンプ(5700m) |
|
6月4日 |
DC(5700m)→6200m地点 |
C1まで登れず6200mにテントを張る |
6月5日 |
夕方6200m→アタック |
C1まで登ってからアタックになる予定が、6200mから直接アタックに変更 |
6月6日 |
深夜滑落&クレバスはまる(6900m付近)→下山 |
クレバスから這い出る6:52→その場で待機、シェルパと合流13:30→下山開始16:30 |
6月7日 |
夜中も下山→ABC(5600m) |
シェルパと共に下山 |
6月8日 |
ABC→BC(5100m) |
|
(※)標高は発表された値。発表だとアイストゥースが6400m峰になっていたので修正。発表された最高到達地点の標高(6900m~7000m)が正しいかは未検証。
最終更新:2013年02月28日 01:29