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2006.4.22ルカによる福音書(24章13節~35)ヨハネによる福音書(20章19節~29)

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2006.4.22
ルカの福音書(24章13節~35)
ヨハネの福音書(20章19節~29)


さて、ルカによる福音書24章にうつります。

先にイエス、マグダラのマリアに現れる(ヨハネ20-11)を読み、一番はじめに復活されたイエス・キリストに出会ったのはマグダラのマリアであったことを、私達はしりましたが&
ルカの福音書24-11には
使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。とありますよ。まったくこの時代の男の方々は、まだ女性に対する意識が低かった事が伺える発言ですね。



エマオで現れる

13:ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
14:この一切の出来事について話し合っていた。
エマオというちいさな街は、今もエルサレムの近くにあるそうですよ。ちいさな教会のある街。



15:話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
16:しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
いつも主は一緒に歩いておられるのです!しかし・・・



17:イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
18:その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
19:イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
20:それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21:わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

「望みをかけていました」speravamo過去形ですね。2人のがっかり度がじわじわ伝わってきます。このように希望を失っている2人でも、話しかけてきた、不思議な旅人(イエスであると気付かないにしても)に対して、心を開いて語り始めている。私達の所に来るものを退けてはいけない。ともに歩くものとならなければいけないわけなのです。
「どんなことですか。」この質問にもクレオパは驚いたか、もしくはがっくりきた事でしょう。あんなに素晴らしいイエスの事を、この旅人はこれっぽっちも知らないのか?と。しかし、この言葉の中には、「すでに復活したというのに」というメッセージが込められているのです。




22:ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
23:遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

婦人達のことをまったく信用していませんね。当時死後3日が経過するという事は、死んだことがこれでゆるぎない事実となったという事を意味したそうです。キリストによって復活したラザロも、死後4日たっていて死臭を放っていた、死んだのは確実と皆が確信してからの奇跡だったのです。



25:そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
26:メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
27:そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

つまり、ここで旧約聖書から新約聖書への移り変わりを説明されるのですね。旧約時代の予言が忠実に実現されたのだと。
旧約で今も立ち止まっているヘブライ(ユダヤ教)に対して、教皇様が兄弟、長男と呼びかけられるのも納得です。



28:一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
29:二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

そろそろ夕方に~日が暮れますから~私達と一緒にお泊りください。
Resta con noi~♪ 美しい情景ですね。



30:一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

ミサの聖体拝領ですね。ご自分の犠牲、体を裂いてお渡しになったときに・・・




31:すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

はじめて弟子達の目は開けます。難しくてうまく説明が私にはまだできないのですが、弟子達の前から姿は消えましたが主は分け与えられたパン(体)として物理的にも弟子達のところに留まっているのです。




32:二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

心は燃えてもなくならない~物はあげてしまうと自分の手元からなくなってしまうけど、誰かを愛したり、いたわったりする心は人に分け与えても自分の元から無くなることはない。この一文から少しおもむきは変わりますが、この心が燃えるという言葉から、シスターはこんな事をおっしゃっていましたよ。




33:そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
34:本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
35:二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

主が2人とともに残ってくださった事で、2人の信仰は固まりました。
ところでこの2人のうちの1人はクレオパという11人以外の弟子であったことがわかりますが、もう一人の名は書かれていません。なぜ彼の名だけ残ったかというと、おそらく弟子達の中でも信用の置ける人物であったので、「あのクレオパさんが言ったのだ!」「おお、あのクレオパさんが!それなら事実に違いない」といった具合に口承されていったのではないでしょうか。

参考までに:カラバッジョの絵
ブレラ美術館:Cena in Emmaus エマウスの夕食(エマオの晩餐)

>http://www.brera.beniculturali.it/
>http://it.wikipedia.org/wiki/Cena_in_Emmaus_(Caravaggio,_1601)



ヨハネによる福音書(20章19節~29)

イエス、弟子たちに現れる
19:その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

真ん中に立つ=中心、確信。信仰を貫くことは、弟子たちにとって喜びでありながらも大変辛くいことであったのは確かです。いつ告発されるか、いつ殺されるかわからない。「あなたがたに平和があるように」paceavoi!は、一般的な挨拶であったようですが、主ご自身が私達の平和であることを物語る一言です。



20:そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

全ての悪をご自分の体で受け止められた、血も水もその手とわき腹の傷から全て流れ出た。ただ復活の姿を見て、弟子達は喜んだのではなく、その傷を具体的に見て弟子達は、そこに真の平和があることを悟ったのです。



21:イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

これからの使徒たちの歩みが、この言葉から始まります。



22:そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23:だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

息を吹きかける=1)呼吸して生きている証を見せられた。2)命(聖霊)を吹き込まれた。
創世記では神が人の形を創って、命を与えるときに息を吹きかけられました、それと通じる行為ですね。
ところで、最後の「罪の赦し」は、現在の【告解の秘跡】に値する部分です。主のゆるしが司祭を通して私達にはじめて与えられるという構図。
(もちろん赦さない事はないと言えるのですが)
この【告解の秘跡】ゆるしの秘跡~は、キリスト教にとって大切な秘跡の一つです。祈るのみで許されるのではなく、司祭を通して「赦します」という言葉を受けて、赦しを受ける。心理的にも、耳で聞いてああ、自分は赦されたんだ!という確信がもてますよね。一人ではない、共同体の大切さをここでも知ることができます。
この大切な役目を、主イエス・キリストの口から受けた11人の弟子達。おや?
10人しかいないじゃないですか。1人たりないですね。



イエスとトマス

24:十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25:そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

気持ちはよくわかります。私もきっと同じような事を言ってしまうでしょう!



26:さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

なぜ8日の間、(トマスはともかく)弟子達は旅立たずそこにいたのか?シスターがおっしゃるには「信仰が固まっていなかった・・・というよりは、みなで心を固めていた。つまり共に信仰に生きること、これからの事を話し合っていたのでは」とのこと。はじめはユダヤ人が怖くて鍵をかけて閉じこもっていただけの弟子達ですが、きっとこのときには部屋中活気に満ち溢れていて、「私はこうする」「こう語る」「いやいやそれはまだ早い!」なんて論議を戦わせたり、荷造りをしたりしていたのかもしれません。そんな中で、トマスだけちょっと取り残された感じだったのかもしれませんね。



27:それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28:トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

もちろんトマスは触れなかったでしょう!しかし主はこの言葉でトマスを救い、信仰を固める決定的な確信を与えるのです。



29:イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

私達は今、実際にイエス・キリストのお姿を、生きている人間のように真近に見ることはできません。つまり見ないで信じる幸いな人に、トマスやマグダラのマリアのような矛盾との戦いを行わなくてもたどり着ける所にいることはいるわけです。しかしシスターは、それと同時に時折、主は、そのめぐみを実際に御見せくださる。と、色々なお話をしてくださいます。お話を聞いていて思うのは、そんなあたたかなめぐみを与えられいても、自分はその瞬間に気付くことがまだ出来ていないなぁという事。目を覚まして、耳を傾けて、シスターのようにその時を感謝のときに即座に変えられるならば!まだ私は見ていない時の、トマスのようなのかもしれません。まだまだこれからです。



ところで。
ヨハネの福音書20「イエス、弟子たちに現れる」で、赦しについて書きましたが、毎日の祈りの中心「主の祈り」のなかでも赦しのフレーズがありますよね。

主の祈り~わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

日本語だと、私達は神がなさるように、神の業によって、それにならって人をゆるすことができます。と、。(句点)によってはっきり意識することができるのですが、イタリア語だとちょっとちがう感じになるそうで・・・

Padre Nostro~e rimetti a noi i nostri debiti comenoilirimettiamo ai nostri debitori,

句点に当たる部分が、come(コメ)になってるわけです。comeだと、同等比較、もしくは比較(例:Fa'comeme.私と同じようにしろ。)の意味をもつし、cosi・・・come(~と同じように、~と同様に)のフレーズも祈りのはじめに見つけられるので、神様がなさるのと同じようにします。もしくはそれをしてくれたらわたしたちもします。といったニュアンスにもとれるということ。なるほど。しかし子供の頃から心に信仰の根を植えて、その環境下で育ってきたイタリアの子供ならば、微妙な言葉のニュアンスなど、問題にも障害にもならないのでしょう。難しいなあイタリア語。


2006.4.22使徒信条・ヨハネの福音書(20章11節~18)

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