catechismo a milano
2006.3.25 お告げの祝日-festa della annunciazione
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匿名ユーザー
[[2006.3.25
お告げの祝日・ヨハネによる福音書(4章7節)イエスとサマリアの女>2006.3.25
お告げの祝日-festa della annunciazione]]
[[2006.3.25
明日の詠唱>ヨハネによる福音(3.14-21)]]
この日は2人だけでしたが、お告げの祝日にぴったりの
引用で、ヨハネの4.7-38までの箇所を学びました。
Abbiamo letto l`episodio
dell`incontro di Gesu con la samaritana al pozzo, tratto dal vangelo di
Giovanni. In questo episodio Cristo intrattiene un dialogo con la donna
rendendola poco per volta consapevole della sua "sete" e alla fine rivelandosi
come il Figlio di Dio.
3月25日
四旬節 聖母マリア お告げの祝日(festadellaannunciazione)
※12月25日まで丁度9ヶ月の所。そこでお告げを受けるという事は
ちゃんと計算されて割り出された祝日なのですね。
シスターはこの日にぴったりの箇所を用意して私達を笑顔で待ち受けて
いらっしゃいました。なぜぴったりか…
イエスの誕生が予告されたときのマリア様の言葉
「お言葉どおり、この身になりますように」ルカ1.38
このマリアのように無垢な心で主の言葉を受け入れる事によって、
サマリアの女に救いがもたらされる事がひとつ。
そして四旬節は、完全な救いへの道を求める時であるという事。
注目したいのは、過去女性の地位がまだ認められていな
かったにも関わらず、イエスはこの女性を他の男性とはまったく
違う目で人間として見つめ、回心に導いたという所。
”教会は女性をもっと活かすべきだ”といわれる昨今ですが、
聖書の中で、もともとは女性の位置は高く認められていた事を
しっかり認識できる箇所でもある訳なのですね。
ヨハネによる福音書/4章7節 イエスとサマリアの女
7:サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
水を汲みに来る=毎日の苦労
★日々の平凡な苦労の中にあって、私達はイエスに出会うことが出来る。
イエスは自ら尋ねる事により、私達の方から何かを引き出して行きます。
この時すでに女の抱える問題をご存知だった訳です。
8:弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
丁度このときは正午、お昼時だったのでご飯を買いに行ったのですね!
9:すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
シスターは、今でもサマリア人とキリスト教徒の間には溝があるのよとおっしゃっていました…。
“なぜユダヤ人がサマリア人に話しかけるのか?”という疑問は当然だったわけですが、さらに当時は女が一人でいるときに、男性が気軽に話しかける事など出来ないご時世でした。主イエスはそんな中でも平然と彼女に話しかける。サマリアの女もギョッとしたことでしょう。
10:イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
日常の平凡な会話から抜け切れないサマリアの女に対し、主は会話をすぐに高い位置に持って行きます。なぜなら主はすでに彼女の“渇き”をご存知でらっしゃった。しかしまだ、女は生きた水(acqua viva)の意味をわかってはいません。
11:女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
12:あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
まだ会話を平凡な位置に保つ女ですが、ここでは彼女が旧約聖書に出てくる“ヤコブが井戸を掘り水をほとらせる”という話を、すでに知っているという事がわかります。
13:イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
14:しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
水=命 渇き=心の渇き
神だけが永遠に渇く事のない水を与えることが出来る。そういった意味でのお答えなのですが…
15:女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
そうです。まだ彼女は会話を平凡な位置に保ったままでいるのです。いつもの苦労から解放される!という希望から、飲み水としての渇かない水を求めめる発言を続けます。
16:イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
なぜ夫を?
1)先に書いた通り、当時は女性が一人の時気軽に話しかけてはいけなかった。夫を呼ぶという行為を持ち出す事により、これから話す事の重要性を感じさせる。
2)主は知っておられた。この後の会話でわかるのですが、彼女には夫が過去数人いて、現在のひとは夫ではない。“夫”という言葉を用いることにより、彼女の痛い部分、個人的な問題に、あえて触れるように会話を導きます。
17:女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
18:あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
彼女が間違った行為で渇きを癒そうとしている事を、主はすでにご存知だったわけです。
19:女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
ここから女の会話も少しずつ高い所へ引き上げられていきます。ここまでの会話の中で、サマリアの女も、主がいままで彼女に“水”を求めてきた今までの男性とは訳が違う、違うまなざしである事がわかってきている。
20:わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
高い位置に行きたい!しかし、まだ彼女は形式(場所や方法)にとどまっています。礼拝に必要なのものは神殿や場所ではないことを次の言葉で主は説明するのです。
21:イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22:あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
23:しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24:神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
御托身(3月25日)の秘儀にもかかわるフレーズです。
言われた事はまさに“今がそのときだ”という事を知らせる前触れです。“その時とは私である”という自己宣言につながってゆきます。
25:女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
26:イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
一番盛り上がる箇所です。会話によって、主は女の真に求めるものをじわじわと引き出してゆき、この時点で、彼女は平凡な日常に関する会話から、すっかり引き上げられています。EDUCAREという単語につながるラテン語のEDUCEREは、“引き出す”という意味だそうです。さすがシスターです。
27:ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
シスターによると、“ほんとは皆聞きたかったんでしょう。”でも聞けなかった…との事。
28:女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
水がめを置いたまま=もう水をくむ必要がない。
彼女の心の渇きはいやされた。
29:「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
30:人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
彼女が行ったすべてというのは、人に言えるような内容ではないのだけれど、それを告白してまでも人に伝えなければ!という姿が人々を動かした。「罪人として」彼女は人々に話しかけた。
心理を求める心=人を動かす
31:その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、
32:イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。
33:弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
34:イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
弟子達がいなかった間にサマリア人の女に対して行った事=食べ物。
35:あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
36:刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
37:そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
38:あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
サマリア人の女は、その信頼のすべてをかけて、人々を主に導く。
39:さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
40:そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。
41:そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
42:彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
「来て見て」そして「信じる」。主に出会ってはじめて、その個人的な出会いが愛をそだてる。
例えば教会の門をくぐって入る(扉を開く)という行為に関しても、門自体がキリストご自身と考えられる。
人は主に心をひらく事によって、人生を立て直すことが出来る。主はどんな者に対しても、呼びかける。ユダに対してさえ最後の会話で「友よ」(マタイ26.50)と呼びかけている。それに対して、心をひらかなかったユダは最後まで渇きをいやされる事がなかったのだが。
この説明の後に、
26日日曜日の詠唱
ヨハネによる福音(3.14-21)をざっと読みました。
「真理を行う者」というくだりからも、サマリアの女の
章とつながりがありますね。
四旬節の意味が少しずつわかって来たような気がしてきました…。