catechismo a milano
2006.5.27聖霊とは?平和の王(イザヤ11章1節-10)主の僕の召命(イザヤ42章1節-9)
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匿名ユーザー
27.5.2006
平和の王 (イザヤ書11.1-10)
主の僕の召命 (イザヤ書42.1-9)
貧しい者への福音(イザヤ書61.1-9)
詩篇72
聖霊~神の霊~Spirito Santo
明日5月28日は主の昇天L'Ascensionedelsignoreです。
イエス様はご復活あと、全ての弟子に現れ、彼らの前で天に上げられます。
この祝日はその昇天を祝う日。
福音を、沢山の幸いを私達にもたらし、天に登り消えてゆく姿。
霊Spirito Santoに導かれてゆくその姿を心に描きながら
今日はイザヤ書の中に聖霊を見てゆきます。
平和の王(イザヤ書/ 11章 1節 -10)
1:エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
平和の樹のイメージ(エッサイ(ダビデ王の父。詩篇も見てみてくださいね)から来る系譜)の絵画は色々な所で目にすることができますね。
シスターの解説によると
株(樹の一部分、残り)=旧約聖書
若枝=新約聖書
イザヤの時には救い主=イエス・キリストはまだ現れていません。
しかしすでにその訪れを具体的に書き残している。旧約と新約のつながりをここに
はっきり感じることができます。
2:その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
3:彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。
先日習った聖霊の7つの賜物がここに出てきます。
(教会によりその後具体的に7つの言葉に現されているので、そのままの訳ではなくなっています。日本語訳の際の言葉選びも色々な遍歴があったことと思われます。)
人が行う裁きは、目に見えるものによって判断されます。
その裁きは罰を下すために行われるもの。
しかし神の裁きはまったく異なる物です。目に見えないところ(主によって)で行われるもの。その裁きは人を救うためのものなのです。
4:弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
5:正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
弱い人のために。神のあわれみこそ、神の正義である。
神の救いのための裁きは、力や暴力によってではなく、言葉によって行われます。
6:狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
7:牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
8:乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
9:わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
10:その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
蝮(マムシ、蛇)は創世記の中で、いちばん卑しいものとされました。その蛇さえも一緒に生きるものとなる世界。
今の世の中では考えられない世界がこの章で語られています。まさに楽園のイメージですが、これこそが神の望まれた世界。
創世記に描かれているエデンの完全な調和ある世界
それを壊したことこそ人の罪
しかし、聖霊の導き、与える力によって私達はそこにもどるように歩まなければならない。=聖霊の賜物によってそこに戻る事が実際に出来る。
シスターは常に、私達の歩みは戻るための歩みcamminodiritrunoallacasadelpadreとおっしゃいます。楽園に戻るための歩み。長い?歩みですね。
主の僕の召命(イザヤ書 / 42章 1節 -9)
1:見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
2:彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
彼=主イエス・キリスト。その御姿をもって人々の心に訴えかける。
3:傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
弱い物を踏みにじることなく、すべてを救う救い主。
4:暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
暗くなる~=現在の教会のイメージ。
2000余年もずっと、何が起こっても消える事のない灯火。
島々=全ての国、全ての人々は福音を待ち望んでいる。
5:主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。
先の平和の王 (イザヤ書 /11章1節-10)の最後の節が思い浮かびます。
息を与え~霊を与える。
主は人間を動物と同じように作られたのではなかったですよね。
まず土の塵から形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた
(この塵という言葉をbigbang宇宙のはじめに起こったと考えられる大爆発にあてはめると、科学的な立証にも基づく記述と言えるetc&といった話がシスターがされましたが、長く長くなりますのでここでは省略を。)
神の息とは、つまり聖霊SpiritoSantoに他なりません。
直接神が息を入れたのは、人間だけ。聖霊に従って生きるかそうしないかで、
人間だけは動物のようにもなれ、天使のようにもなれるのです。
6:主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。
7:見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
いつのまにか盲目になってしまった私達に光を。
檻(自分自身の殻に閉じ込められているともとれる)
あらゆる惑いにゆれる弱い心を、一つの方向に導いてゆく。
8:わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
9:見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
イザヤのこの章は、メシヤ(救い主)に捧げる賛美。
創世記のとき、まずはじめに息を吹き込んだ人間。罪をおかし、楽園から追放されはしたけれども、聖霊は私達をまだまだ救いの道に導き、力づけてくれるのです。そしてその聖霊の恵は、まさにメシヤを通して、私達にいっぱいいっぱい与えられることとなる!
メシヤを目にする時代にいなかったイザヤは、これから起こるすべてのことをすでに見通していたのです。
ではさらに次のイザヤ書へ...
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