catechismo a milano
5章 1節 -12) ホレブに向かったエリヤ(列王記上19章9節-14)
最終更新:
milano
20.5.2006
聖霊の七つの賜物(たまもの)
I sette doni dello spirito santo
山上の説教(マタイによる福音書/5章1節-12)
ホレブに向かったエリヤ(列王記上19章9節-14)
山上の説教
(マタイによる福音書 / 5章 1節 -12)
有名なおそらく最も有名なイエス様の説教の一つですね。
真福八端beatitudineシスターが笑顔でよくおっしゃるこの、8つのまことの幸福の基は、イエス様ご自身の言葉から来ているのです。
ここで示されている人間の幸福に生きる姿とは、イエス様ご自身のこと。
人の子としてその時が来るまで、人間のまったく普通の生活をし、私達の罪をすべて受けて、それでもまっすぐ歩き続けた姿~聖霊の賜物を受け、神の言葉に従い歩むべき道を歩み貫いた姿。これこそ人の誠の生きるべき姿。
~何も考えず、どうやって生きるかまよったままでは、人間はcadavereambulante(骨と皮ばっかりで中身がないまんま)でしょ!~というシスターの言葉。
一人一人が幸いなる人間になれる。神の言葉に従って生きてゆけば。
山上の説教を始める
マタイによる福音書 (5.1 -12)
1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。
幸い
3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
その人たちのものであるこの節だけ、現在形で書かれている。と、いうことは、
今すぐにも天の国はその人たちのものということですね。
他の節は慰められる(であろう=未来)満たされる(であろう=未来)
心の貧しい人とは、自分の貧しさを知る謙虚な心を持つ人という意味合い。
貧しい人は、からっぽの手を広げて、ほどこしを受けて、人にたよって生きます。
と書くと、寂しい気分にもなりますが、決してそうではありません。
『主の祈り』の中にあるように今日の糧を今日お与えくださいという、
その時必要な物を必要な量だけ受け取りたいという謙虚な考え方。
花瓶であれば、水が注ぎ口まで満たされていると、もうそれ以上入らない。
(花だって入らない!)でしょうとシスターはおっしゃいます。
自分の欲や、物でいっぱいになっちゃった心の中には神が入り込む隙間は
ありません。
4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
悲しみは、求めるものではありません。
悲しみを乗り越えて、それを受け入れることで与えられる幸い。
イエス様はオリーブ山の祈りで血の汗(汗が血のしたたるように)を
流し苦しみもだえながら祈り、それでも定められた道を力強く歩みます。
シスターが悲しみが幸いに変わるときとは~
>バングラデッシュのある一家に産まれた障害をもつ子どものお話。
はじめは悲しみをもたらしたであろうこの小さな命を、受け入れ
守るために、ちいさな兄弟達はこの子をかばい、両親を助け
この子の笑顔ひとつで大きな喜びがもたらされるように変わった
家族を見たとき。
この子は神様に祝福された子。
この子の存在で、さらに強い絆で結ばれる結果となったこの家族は
慰められた、幸いな人たち。
5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
柔和な人=赦すことの出来る人。赦さない人はずっと心の中にもやもやした
ものを抱えているけれど、赦す力のある人は、深い平和を受け継ぐことが
できます。聖霊の七つの賜物のうちのlafortezza勇気によって、赦す勇気、
力を得ることができます。
地=人の心と考えると、柔和な人は、何のみかえりも求めず、人をやさしく包み込みその優しさで人の心を受け継ぐ~奪う人。ととることもできます。
6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
義=正義。正しい事こそ神の望み。正しいことは神の定め。
神の愛に飢え渇く人は、その心を持って全ての人々を愛する事が出来る人。
神がその愛によって心を満たしてくださる。
わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい(ヨハネ15.12)
実を結んでその実が残る~愛が成就してその愛の恩恵を受けた人がさらに
それを誰かに与えてというサイクル。
愛情に満ちた家庭で育った子どもは、愛の経験により、自然に他の人にも
愛を注ぐ事ができるようになります。
神の愛を受ける事によって、満たされ、その愛を活かして他の人を愛する事が
できるようになります。
7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
憐れみmisericordia(misero貧しい(人々に)cordum注ぐ)
同情、哀れみcompassione(con~とともに passione、patire苦しむ)=共に苦しむ
あわれみ深い人とは、人と共に苦しむ事ができるひと。
相手の悪が自分にぶつかってくると、自分は苦しい。苦しいと感じることの出来る人は、相手の悪に対して共に苦しみを感じることができるひと。
8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
透き通った目で、どんな事があってもそれは神が望んだ事だと
受け入れることの出来る人。
自分の欲望を抑え、聖霊の恩恵を活かして、自由な心を手にする人。
9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
pacificare和解させる、平和な状態に戻す=costruirelapace平和を造る
PACE平和 のためなら何を捨てても良い。平和はいちばん大切なもの。
戦争は常にちいさな悪から始まる。
その人たちは神(われらの父)の子=平和の兄弟。共同体。
10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
前にも説明があったとおり、神の正義のため迫害される人。
この世だけではなく、天国の概念があれば、死をもってしても
正義を貫いて歩んでゆける。
11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
ある日、シスターが何気なく(Bormioで、とおっしゃったような?正しいでしょうか?)耳にしたおばあちゃんとちびっ子の会話。
夕暮れ時、おうちに帰ろうと言う所。おばあちゃんと孫のお散歩。心和む風景。
しかしちびっ子はおばあちゃん、お家にかえろう!帰って扉を閉めて、誰も入ってこれないようにと。
むむ。
扉を閉めて鍵をかければそれは安心だが。
ちいさな子どもが扉を閉じて、家族だけの安全を確保しようとは。
何が不安なんだろう。
それともなんとなく言っちゃったんだろうか。
>平和を実現する、心を開いて。
こどもたちが鍵をかけなくても安心といえる世界はどこに。
平和はいちばん大切な事。たしかにそうですよね。
列王記上19.9-14
さて、先週シスターが見てこられたという(2週目)
「IL GRANDE SILENZIO」(大沈黙と訳すのでしょうか・・・
セルジオ・コルブッチの同名のウエスタン映画があるますが、
決してそれではありません!)という映画の最後に流れるフレーズ
それがこの 列王記上19.4-14です。

Copyright by
PhilipGroning オフィシャルサイトhttp://www.diegrossestille.de/deutsch/index.html
この映画は、監督:Philip Groningが企画し、
その提案をシャトゥーズの修道院(La Grande
ChartreuspressoGrenoble)
に持ち込んだのが1984年、15年の月日が流れ~1999年のある日修道院からの
「準備が整いました」という電話を受け、撮影を開始したという
根気強い!監督の粘り強い!撮影が実を結んだ2時間40分(!)の映画だそうです。
この修道僧たちは、祈りの時以外はずっと沈黙(これがタイトルに活かされている)
週に一度、日曜日の食事以外、他の修道僧と食事を一緒に取る事もなく、
一切が沈黙に支配されている。深い深い沈黙と祈り。
祈りを通しての神との深い出会いがなければ気が狂ってしまうような環境に身を置いているのです。
「彼らのような修道僧、このような深い祈りの場所が世界に点在している事によって、
世界は救われている支えられている」のでは。とシスターはおっしゃいます。
この点在という言葉&ポイントポイントに存在するという感覚。
この深く深い祈りを行う修道院が、世界に柱のように存在し、
祈りの天幕を張っているようなイメージをもちました。
この修道僧たちは、日々祈りの天幕で、
あらゆる危機から私達を救ってくれているのかも。
(5月31日に観にいってきました。上映館が少ないのがもったいない。
大変印象深い構成の、ドキュメンタリーではありますが
絵画のような、美しい映画でもありました。)
深い祈りに身を置く修道僧は、神の平和をいつも祈りの中に。
祈りの天幕がこどもたちの心にも響くことを。
聖霊はどんな所にも、風のささやきの中に。
エリヤを救う声は、苦境、悪境の中でもそよかぜのように優しく
やってきます。
ホレブに向かったエリヤの章の一部です。
時のイスラエルの王アハブが信仰したバアル。
そのの預言者達を主の火の奇跡と共に
捕らえ殺したエリヤは、追跡の刃を恐れ逃げます。
主の御使いによって導かれ、命からがら
神の山ホレブの洞穴に。そのとき主の言葉を受けます。
エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところがイスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはわたしの命をも奪おうとねらっています。」
主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に強い風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところがイスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはわたしの命をも奪おうとねらっています。」
>この後主はエリヤに具体的な行動を指示する言葉を残します。
(イタリア語)
il Signore passo'.Ci fu un vento impetuoso e gagliardodaspaccareimontiespezzare le rocce davanti al Signore,ma il Signorenoneranelvento.Dopoilvento ci fu un terremoto,ma il Signore noneranelterremoto,Dopoilterremotoci fu il fuoco,ma il Signore non era nelfuoco.Dopoilfuoco ci fuunmormoriodi vento leggero.
火の後に、静かにささやく声。イタリア語だと、un mormorio di vento
leggeroホントニささやくような軽い風、そよ風。
pentecosteのイメージは強い光や激しい風ですが、実際の聖霊は静かにささやく、そよ風のやさしさを持っています。
カトリックにある三位一体の父、子、聖霊という3つのうちのひとつ聖霊とは何なんでしょうか。三位一体=共同体=一致。この公式から、カトリックの信仰は、共同体として一致することから生まれると言えます。神を独り占めにできますか?そんなとはできませんよね。つまり、たった一人で信じるということは出来ないのです。
大沈黙の中で祈る修道僧たちは、皆其々の祈りを信じ、一致しています。
(聖アゴスティーには海岸で砂に穴を掘って、海水を穴に注いでいる子どもの姿を見て、海のすべてが砂の穴に収まる訳がないと思い、三位一体のすべてを、頭に入れて解明しようとすることなど、到底無理だと悟ったそうです。やっぱり難しいんです。)
聖霊はエリヤの勇気を常に支え、けっして一人にしてほおっておく事などはありません。
もちろん私達に対しても!
そして孤独の中祈りを続ける修道僧に対しても。
神はどんなちいさなことでも、決して見落とされることはありません。