catechismo a milano
2006.4.29 ヨハネによる福音書(6章1節~15)・詩篇23・使徒言行録(5章34節~42)
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匿名ユーザー
2006.4.29
1:ヨハネによる福音書(21章1節~14)
2:ヨハネによる福音書(21章15節~19)
3:ヨハネによる福音書(6章1節~15) 詩篇23
4:使徒言行録(5章34節~42)
ヨハネによる福音書(6章1節~15)
この章をシスターが説明してくださったのは
金曜日のミサの中でこの章に触れられ、先に説明があった
ヨハネ21章で具体的に示される
弟子達の役目~全世界へ行って福音を与えることについて
すでにここでどのようにして、それを行えばいいのか
イエスご自身が奇跡をもって、示されている場面だからです。
水、芝、自然の姿を映しながら、シスターは
色々なイメージと具体的な例をお話してくださったのですが
ここだけではとっても書ききれません。
ヨハネによる福音書(6章1節~15)
1:その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
ヨハネ21にもでてきましたが、ガリラヤ湖=ティベリアス湖です。
2:大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3:イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
4:ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
過越祭は神によってイスラエルの民に自由がもたらされた事を
記念する重要な祭。神との契約により、皆で食卓を囲み過ぎ越し
イスラエルの民が神により自由を取り戻したその日を祝います。
詳しくは?復活祭1
5:イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6:こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7:フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
イエスは救いを求めている人に対して
いつでもまず質問をされます。この場合も実際に
この大勢の群集を前にしてどうすればよいのか
途方に暮れるフィリポをはじめとする弟子達がいます。
8:弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9:「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10:イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
食事のまえに、
やわらかく、爽やかな芝の上に人々を座らせます。
ゆっくりと、くつろいで食事が取れるように。
詩篇の中にこのイエス様のやさしさが満ち溢れる
素敵な節があるとのことでしたので、探してみました。
一部下に記載します。ミサの時にこの歌は、そういえば聞いたことがあります!
1:詩編 / 23編( 1節~3節)
【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
Salmi - Capitolo 23
Il buon pastore [1]Salmo. Di Davide. Il Signore
e'
il mio pastore
:non manco di nulla;
[2]su pascoli erbosi mi fa riposare ad acque
tranquille mi conduce.
[3]Mi rinfranca, mi guida per il giusto cammino,
per amore del suo nome.
主は日々の糧をおあたえくださる。
パンの形としてご自分を私達の中に残してくださる。
ヨハネの21でペトロは羊飼いになることを、イエスに約束しましたね。
大勢の群集を導く者に選ばれましたね。
11:さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
持っているものを主にまかせる事によって、およそ5000人(男だけの数なので、女子供をあわせれば
さらに多かった。)が満腹するほどの食事が得られました。
ペトロを中心とし、弟子達は重要な任務を任されるのですが
大勢の飢えた人々を前にどうすればいいのか迷うことがあるでしょう。
そんな時にも主を信じ、主に持てるものを(そのとき尽くせるすべての力をつくして)
まかせれば、すべてがうまくいくのです。シスター達のお仕事も、おなじように
飢えた人々、病気を抱えた大勢の人々を前に、困難の中でも最善を尽くす。
尽くす力を尽くして、主の手に任せることを常に意識されるお仕事です。
12:人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13:集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
めぐみを無駄にしてはいけません。しかし、同時に、主の愛、めぐみは
涸れる事のない泉のように満ち溢れるものである事が
残った食べ物の量からも察せられます。12という数字は=大量である
ことを示します。弟子達の数も12ですね。どこからこの籠を見つけたのでしょうか?
この籠にあふれる主の恵を持って12人の弟子は福音を伝えてゆく
ともとれるかもしれません。
14:そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15:イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
王という人間の世界の頂点に立つものではないこと。
どんなに民衆が望んでも、もう主はご自分の国がこの世の
物ではない事をご存知です。
見えるもの、具体的に見える神の恵み(7つの秘跡を例に説明
していただきました)を与えられ、神の存在を信じる。
しかし、その恵さえ忘れ、それでもなお主を求める事が
実際の信仰と呼べる物なのではないかと
多くの例を引き合いに出しながらシスターは説明されます。
主のめぐみを求める のではなく
めぐみの主をもとめなければ ならない。
21章でペトロに私を愛しているかとおたずねになりながら
主の愛と許しは、(裏切られたとしても)
ペトロに対して尽きることなく注がれていたのです。
弟子達がそれぞれの使命を胸に、福音を伝えるために
旅立った。その伝道の記録が使途言行録です。
この章では、ガマリエルというファリサイ派の教師が
イエスの使徒に対する判断を慎重に行う部分。
そして、同時に
神から出たものは滅ぼす事ができないという見解を
(現在の教会が実際に示すように)明確に説明している
場面です。
34:ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
35:それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
36:以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
37:その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
38:そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
39:神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
40:使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
41:それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
42:毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。
シスターのいる聖マリア・バンビーナ修道院も、創立者BartolomeaCapitanioは
若干26歳の若さで創立からわずか8ヶ月目にしてこの世を去ったそうです。
しかし創立後から脈々と170年の歴史を積み重ね現在に至っている。
神から出たものであったから、この先も滅びる事無く聖マリア・バンビーナは続く。
そう考えるとすごいですね。私達も今、神から出たものの中で学んでいるという
事になるわけです。これはやっぱりすごい事だ。
ここでこれからも皆さんと一緒に勉強できる事を心から感謝いたします。
創立に関して、このページに書いてあります。
http://www.suoredimariabambina.org/origini.htm