catechismo a milano
2006.5.13祈りについて、ルカ(11.1-13)
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匿名ユーザー
祈るときには
聖霊の七つの賜物のなかのひとつに
la Pieta'
ピエタ~神を敬う、祈りの精神を持つ
という賜物がありました。
そして山上の説教(真福八端~Beatitudine深い幸福)の中の有名な
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
という所からも、心を謙虚にして
自分の貧しさを知る人は幸い
という言葉が見られます。
さて、それでは心を謙虚にし
どのように神を敬い 祈りを行ったらいいのか?
それをこの章で見ていきます。
祈るときには
ルカによる福音書
/11章 1節 ~13節
1:イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
聖書の中には何度も、祈る主イエス・キリストの姿がでてきます。
(ゲッセマネの祈りなど)
祈る主をいつも後ろからじっと見詰めていた弟子達には
徐々に「もっと深く主と一致したい」
と思う心が芽生えます。
この心が祈りを行う上で大変重要とシスターはおっしゃいます。
祈ること。キリストが行ったように祈る。キリストの道を歩む。
そして祈ることで神の内に生きる(神との一致intimita')事ができる。
一致というと難しく響きますが、妻と夫、友人同士のあいだで
日常言葉を交わすように
神に話しかけ、求め、言葉を交わすことが、祈りと言ってもいいのではないでしょうか。
祈りも言葉と同じように、習ってゆくものなのですね。
2:そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
神を父としてみる、父と呼ぶ。
この祈りはラテン語だとパーテルpaternosterというそうです。
そしてイタリア語で、paterというと祈り全体を表すときに使う言葉になったそうですよ。
それだけ基本で重要な祈りが「主の祈り」なのです。
御名が崇められますように=皆が貴方が父であることを意識するように
父なる神の愛の元にいることを意識するように
御国=神が創世記に作り上げた楽園。人が壊してしまった国。
平和の国、正義の国、愛の国、自由の国。
3:わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたち(わたしではなく)共同体のために必要なパン(糧)。
それを今日の分必要なだけ聞くという謙虚さ、素朴さ。
(ヘブライ人が天から授かったマンナ(マナmanna)出エジプト記16の
エピソードでも、必要な分だけ毎朝集めるようになっていた)
また、今日の分は今日、明日はまた明日という考えにより
今日の苦しみは今日まで。毎日新しい力が神により与えられる。
という希望の糧ともとれる。
4:わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
自分達は罪人であるという意識を持つべき。
聖パウロも人は善を行おうとしながら、望まない悪を行ってしまう
(内在する罪の問題 ローマの信徒への手紙7.7~など)
と書いています。あぶないあぶない。。。!
ゆるすこと=赦す心を持っていれば、私達はより自由で、落ち着いて、清められた心でいられる。
また、このフレーズのイタリア語から説明していただきましたが、
perdonaci i nostri peccati,
perche' anche noi perdoniamo ad ogni
nostrodebitore,
このperche'は、~なので という意味であるけれども
...赦してください。わたしたちも(そうしたら)赦しますので といった感じ
affinche'~するように、するためにの意味もある。(文法はともかく)
だから、「この神の許しをいただいて、私達も許すことができる」私達が罪をゆるすことが
できるようになるために、私達の罪をお許しください。という言い方が正しいかと。
神の赦しを受けて、赦す力が与えられる。ゆるしもまた、神の贈り物なのです。
誘惑にまけないよう=いつも祈るけれど、そして誘惑にも負けてしまうけれど...
それでも祈ることで赦しを求める事が出来る。
5:また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
いつも主は、物事を説明するときに、たとえ話を用いられます。
6:旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
7:すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
冷たい人だっ。子供を起こさないように取りに行けばいいじゃないかっ!
と思ってしまうかもしれません。
しかし、面白い話をシスターに聞きました。
シスターがパレスチナに行ったときのこと。
ある民家を実際に訪れたときに目にした光景...
パレスチナの皆さんのお家は一部屋で、食事も寝るのも同じ場所であった
そうです。そして食べ物を収めているディスペンサーは部屋のいちばん置くにあるのが基本形。
夜寝るときにはお父さんが入口にいちばん近く、子どもと妻は真ん中または
奥にという配列。
┌───┤入口 ├───┐
│ 父親 │こんな感じでしょうか。
│ 子供 │だから、パンを取りにいくには
│ 子供 │お父さんは子どもや妻を
│ 子供 │本当にまたぐか、飛び越さなければ
│ 母親 │ならないというわけです。
└───────────┘
┃ 食料庫 ┃
┗━━━━━┛
8:しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
しつように頼む。時々神は祈りをささげたからといって
すぐに目に見える形で答えてくださらないかもしれない。
しかし、それでも私達が本当に心から求め、頼むならば
必ず答えてくださる。
9:そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10:だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
「言っておく」という強い表現。io vi
dico神の子である主が言うのだ。
だから必ずそうなる。
神に聞く、扉をたたく、神を探す。すべての事が神への信仰からくるもの。
11:あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12:また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
主は説明をするにあたり、わかりやすく比較するため
このような表現をを用いたのだろうか。
魚に対して蛇、卵に対してさそり。
しかし、たとえば与えられたものがその時蛇に見えても、
実際は魚であることを気付くときがくる。
神によって、賜物として、そのとき苦しい出来事が与えられたとしても、
たとえその恩恵がみえなくても
今わからなかったとしても
実際はパンなのである。
神が子らに本当に悪い物をお与えになる事があるはずがない。
13:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
私達人間は、罪を持って生きている。完全なものではない。
しかし、父や母になり得るものとして、また父や母になった以上は
神である父の与える愛情、恩恵、よいものを子らに与えることができる
力をもつこともできるのだ。
まして天の父は求める者に対して聖霊を与えてくださる。
聖霊の賜物を求める人になる事が大切。
ところで神は、私達が祈らなかったとしても、
私達の必要な物はすべてご存知なのです。
つまり祈りは神様にとって必要ないのか?
いえいえ!
私達が神をのぞみ
愛し、信じ、受け入れる
そして私達が見つけた神を
求め、存在を知るから探し、
この地上の世界のもので満足せず
より高い理想を求めるため生活に祈りを取り入れ
神との対話を祈りを通して感じる
ことが必要になってくるといいます。
弱い心を悪に導かれぬように。
何度もシスターの言葉に出てくる
満ち満ちた人生を送ることができるように。