catechismo a milano
2006.4.1復活祭について2・マルコの福音書(14章1節~25)
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匿名ユーザー
イエスは神の子ですが、人と全く同じ痛みを感じる体、感覚をお持ちでした。なのでこの章では、弟子(友)に裏切られる
苦痛これから起こる事への苦悩も何もかも、人と同じように感じられていたのでしょう。ゲッセマネで血の汗(汗が血のしたたるように…とありますが、人が緊張興奮の頂点にあると、毛細血管が破裂して実際に血の汗が出るそうですよ!とシスターはおっしゃっていました…)をかき、涙をながされた事からも伺い知る事ができます。
イエスを殺す計略
1:さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
2:彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
司祭や律法学者などは、イエスをねたみ、煙たがっていました。しかし自分達の立場を守るために、民衆の反感を買うのを避けたいとも思っていたのです。
ベタニアで香油を注がれる
3:イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
大勢の人々の前で、「女」は自分の尊敬を表そうという気持ちから高価な油をイエスに注ぎます。「油を注ぐ」というのは、特別な人を聖別(聖なる使用にあてるため、人や物を儀礼的にきよめ、世俗的使用から区別すること)するジェスチャーでもあるそうです。
4:そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。
5:この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
6:イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
まったく不思議な事に、「女」には直感的にイエスがどういった人物であるかがわかったのです。彼女は自分が知らないうちに、預言者であったとも言えます。
それに対して3年間イエスと共にいたユダには、そのことがわかりませんでした。自分が期待していた(パレスチナ解放のための改革)事と違うことをなさる…心は離れるばかりでした。
7:貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
今も「教会は贅沢をしている、教会の豪華な振る舞いに費やすお金を、今貧しい人にわけるべきだ」という声がありますね。しかし、必要なときに時期を逃さず心を表すという事は必要な事であると、ここでは考えられます。貧しい人々はその時のその場の施しだけで、全てがよくなるわけではない。いつも一緒にいるものとして、考えること。いつもその気持をもち続けるというのは、大切重要なことですね。
8:この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
9:はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
埋葬の準備。すでに全てがその瞬間に向かって動いていることが、全章に語られています。
ユダ、裏切りを企てる
10:十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
11:彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
その時を知っていて、決めるのはイエスご自身であることを、ユダはまだ解っていません。
過越の食事をする
12:除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
過越しの食事については、旧約聖書の出エジプト記12章で。12人の弟子とイエスは、共同体として一緒に食事を取る。
13:そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:
その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
15:すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
不思議な話です。イエスが具体的におっしゃったことがすべて実現され、重要な食卓の準備が整って行きます。
なぜ食卓が2階に…普段ペタペタ歩いている地上からはなれて、イエスとともにもっと高い位置に上げられるという意味合いがあるとの事。
ところでこの広間は、エルサレムのサンセポルクロ近くにまだ実際にあるそうです!過去パオロ6世(1963~1978年在位)がこの場所でミサをたてる事を希望されたそうですが、かなわなかったという逸話があるそう。
16:弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
17:夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
18:一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
“はっきり言っておく”は、in verita' vi
dico.“真実を言う”という事だそうです。本当のことをおっしゃる。本当に裏切り者がいる…いきなり言われたら大変ショックです。
19:弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
勿論、弟子達は謙遜と自己疑心からこう言ったともとれますが、弟子達の皆が皆、3年間一緒にいて、多くの奇跡を目撃しながらも、イエスに対して疑いを少しでも抱いていたという事が、実際にこの後、ピエトロさえもイエスを3度も“知らない”と言う事からも考えられます。結果的には信仰のために命を落とす聖人達であったとしても…。
20:イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
21:人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
イエスでさえも、3年をかけて果たせなかった事が…私達も時折なしえないことがあったとしても、人間としては当たり前。なんて考えることもできますね。と、シスターは笑顔でおっしゃいましたが…!!
主の晩餐
22:一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
パンを裂く=後に裂かれるご自分の体をあらわす
私達はこのあと何が起こるか知っていますが、このときはまだ誰もその時を知りません。そう思うと大変な言葉です。
23:また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
24:そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
25:はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
契約の血(ワイン)を皆で飲む。
ミサで聖体拝領をクリスチャンの皆さんはされるのですが、ミサに参加するという事は、自分もまた、キリストと同じように血を流す者にならなければならない…という事を思い出す事。
過越し祭は旧約聖書では小羊を生贄としていた。
その小羊が新約聖書で真の神の小羊(イエス・キリスト)
となります。
小羊を食べる→真の神の小羊の体と血を拝領する。
過越し祭は、主がイスラエルの民を奴隷から自由に導いた時を記念する日。
新約聖書では過越し祭にイエス・キリストがパンを
ご自分の体として裂いて弟子達に与え、ワインをご自分の
血として与える。
パスクワ(復活祭)の核心に迫ってきた感じがします。
ところで日曜日のミサは、時差の関係から全世界で日曜日中ずっと、必ずどこかでミサが開かれている(キリストという真の神の小羊による生贄がささげつづけられている)という事になるそうです。