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2006.5.13聖霊とは?コリント1(11.23-27)ガラテヤ(5.13-26)

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2006.5.13

5月13日は、ファティマの聖母の日です。
(ポルトガルの小さな町ファティマで3人の子供の前に聖母出現が起こったはじめの日)
1917年5月13日マリア様は子ども達に「世界が平和になり戦争が終わるように毎日ロザリオをとなえなさい。」とおっしゃいました。ロザリオの唱え方は前回シスターにおそわりましたね。
ところで1981年5月13日は、先の教皇様ヨハネ・パウロ2世がサンピエトロ広場で銃撃されるという事件が起こった日でもあります。この時の銃弾は、現在このファティマの聖母の冠の中におさめられているそうですよ。

復活祭の主日を過ぎ、6月4日日曜はペンテコステ(聖霊降臨祭)となります。
今回読んでいった章には、その聖霊について理解を深める箇所が多く出てきます。
先のマリア様の言葉の中の「世界平和」に関しても、聖霊の働きを感じる事によって、実は答が見えるのかもしれませんね。

   コリント信者への手紙1(11.23-27) 
   ガラテヤの信徒への手紙(5.15.13-145.16-26)
   聖霊への祈り



コリントの信徒への手紙一 /11章23節

この章では「パンのテーマ、聖体の秘跡」についての具体的な説明が見られます。

主の晩餐の制定

23:わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
24:感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」"Questoeilmiocorpo,cheepervoi; fate questo inmemoriadime"と言われました。

記念する
=あった過去の出来事を記念するのではなく、今現在ある恵の働きがあることを記憶する。意識する、再確認するという意味での記念。

25:また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
26:だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

また、「このように行いなさい」という言葉から、キリストの犠牲そして恵を受け、復活したキリストを自分達の内に留め、そしてミサが終わって教会を後にするときに、キリストを見本として生きること、一日の仕事の中に活かして行くことが重要とされることがわかりますね。
「毎週日曜日のミサで行われる秘跡が、復活祭である。」とシスターはおっしゃいました。この秘跡により、復活したキリストが、私達とともにいてくださることを具体的に聖体という目に見えるもので、感じる事ができるのですから。
ということは、毎日仕事の前にミサに行かれるかたは、毎日が復活祭です!



ガラテヤの信徒への手紙
5章1節

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

出エジプト記の過越祭の規定を、思い出してみてください。
過越しpassaggioの祭は、主が奴隷の身であったイスラエルの民を、自由に導いた日を記念する日でしたね。しかしその後、救い主としてのキリストがこの日に行った最後の晩餐をへて、犠牲となってくださった事から、生贄の羊はもういらなくなりました。
しかし、その生贄、犠牲による恵をミサによって具体的に受けていても、
人は肉によって罪をおかし、すぐに罪の奴隷となってしまう弱さをもっています。
◎霊によって生きることと=自由 ◎肉によって生きること=奴隷 このことを念頭に次の節にうつります。

5章13-14節

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召しだされたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

「十戒」は、自由をかためるための律法。私達は神の言葉に従って、造言や悪いものに流されることなく、起動を修正しながら歩みを進めてゆけます。すべての人がこの言葉に従って互いを愛し、尊敬しあいながら歩むのなら、起動修正は、ほんのわずかですむことでしょう。

5章16-26
霊の実と肉の業

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立しあっているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法のもとにはいません。肉の業はあきらかです。それは姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きていけるなら、霊の導きにしたがってまた、前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

ここでわかるのが、聖霊は、「こちらにおいで!」と導くだけではなく、
私達が歩む力を与えてくれると言う事。聖霊に心を開いて歩いてゆけば、
その歩む力はますます強くなってゆく。ここに列挙されている具体的な肉の業は
実際明らかに「よくないこと」として私達の頭にインプットされているのですが
現実に身近にあることです。それに溺れる事は容易いのですが、聖霊はそちらに行かない強い意志、傾く体を真直ぐに、透き通った目で物を見、歩む力を与えてくれるのです。難しい事をするときにはいつだって助けが必要です。そして助け、支えてくれる聖霊を信じて歩めば、難しいことがクリアできるのです。






さて、ここまでコリント信者への手紙とガラテヤの信徒への手紙の中に
聖霊をみてまいりました。
ここで、祈りのなかの聖霊のあたたかなイメージ
をみてみましょう。

   聖霊への祈りへ。




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