マルコによる福音 7.31-37
そのとき、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、
ガリラヤ湖へやって来られた。
人々は、耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきて、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群集の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。
これは「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、
はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを
話してはいけない、と口止めされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど
人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方の
なさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、
口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
主イエスは、奇跡がそれが起こったことへの驚きや称賛にとどまらないように
群集から離れたところでなされたり、口止めをされます。
私たちの信仰が、そこだけにとどまらないように。
耳が聞こえ
話ができる。~今日のイザヤ書にもまったく同じことがありましたね!
それは病気の症状を治すだけではなくて
はっきりと話すことができること~
自らの言葉を正しい言葉を話せること。
時に私たちは言葉で人を傷つけたり、心にもないことを
言ってしまったりするけれど、それらの曲がった言葉でなく
本当の言葉を発することができる恵み。
耳を傾けて心に留めること
雑音の中から真の言葉を受け止めること。
よく聞く人が、正しい言葉を話す人だといいます。
(語学の勉強でもよく言われますが...。)
この二つを行えるよう
これらの奇跡を行った主イエスに
この恵みをいつも求めなければいけないのですね。
Duccio
"盲人を癒す"london nationalgallery
ところでこの夏、日本にいたのですが
横須賀のカトリック三笠教会に大変たいへん言葉では言い表せないほど何度もお世話になりました。
8月27日の福音(ヨハネ6.60-69)の中で、弟子たちの多くが
イエスの話にぶつぶつと文句を言う場面。
「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である...」
というイエスに多くの弟子が離れ、12人が残る。
そしてペトロが大変馴染み深い言葉を発します。
「主よ、わたしたちはだれのところへいきましょうか。
あなたは永遠の言葉を持っておられます...」
この永遠の言葉について、そのとき研修にきてらっしゃった
イエズス会の増田神父様が、大変わかりやすい解説をされていました。
本当に大変わかりやすかったです!それはこんな感じのものでした。
永遠とは、時が際限なく続くことではない。
人にはいつか死が訪れる。しかし、死は一つの区切りであって
終わりではない。終わりのないだらだらと続く人生に意味を
求めることができるだろうか。
死において、人はそれまで生きてきた人生に、ここぞとばかり
取り繕ったり手を加えることはできません。
人生の中で、人は多くの出会いを体験しますね。その中で
ある人に発した言葉、態度、行動というのは、期せずして
そのある人の人生を変える可能性があります。
私たちがその人の前からいなくなっても、または私たちの体が
なくなったとしても、
私たちがこの世で取った行動、言葉はこうして永遠に生き続け
神の国(この世の完成)に影響を与え続けるのです。
ペトロは永遠の言葉を持つイエスに、こうして仕え(つかえ)るようになりましたね。
ところで仕えるとは?
仕えると言うと私たちは従える、手下になるという意味を考えますが
そうではありません。
~ここで神父様は愛という言葉についての考えを話されました。
愛という言葉は巷にあふれかえっていますが、しかし愛という言葉
程、実態のないものはないですね。私はあなたを愛しているのだ~!
と念力で相手に伝えることは不可能です。
しかし、1549キリスト教の日本への布教が始まって以来、カトリック用語の
整理が何度か行われましたが、はじめの宣教師たちは
愛caritasu を、ごたいせつにと訳していたそうです。
私はこの人を愛している=私この人を大切にしている。
このように置き換えるとなんとも具体的になってきます。
たとえば親は子供を愛している。大切にしている。日常的に何があっても守り、何があっても受け入れていますね。
自分にとって大切な物を守る。もっとも具体的な行動、逃げ場のない言葉ですね。
ペトロの仕えるというのは、手下になって動くというのではなく=大切にする
愛するということ。
自分の時間、エネルギーを、命のすべてをその人にささげるという事を指していると言えます。
~完全にメモをしていないのでずいぶん違ってきてしまっていますが
こういった風なお話をしてくださいました。
ペトロのように、主イエスに仕えて、その完全である主の恵みである
言葉を発し、耳を開く。
私たちの言葉ひとつが続いてゆくものだとしたら...
ちょっと気をひきしめなければいけない気持ちになってきます。
ところで、ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へという行程は、大変ふしぎなのだそうです。いつかこのページに、カレンダーだけじゃなくて地図もつける日がやってくる?かもしれない予感がいたします。