駅に向かう途中のゴミ箱に、律と私の二人で買った参考書が捨ててあった。
「皆見て!」
唯とムギがそれを見て、不安そうに表情を歪めた。
「それ、りっちゃんの……」
「駅に向かったってことかしら?」
「わからない……わかんないよ!」
「澪ちゃん落ち着いて」
ムギが私の肩に手を置いた。
落ち着いていられるわけがなかった。
律が落ちた。
律が落ちちゃった。
私たち皆で通うはずだった大学に、律だけ落ちた。
律はそんな自分を情けないと思ったのか、番号が掲示された番号をしばらく見て突然走り出してしまった。
私はまさかと思ったけど、まさかは当たってしまっていた。
律が――。
律の悲しそうな顔が浮かんで、体が震える。律の涙や声が頭に残響する。
やめてくれって頭に懇願したって、嫌でも律の顔は甦る。律の優しい声も悲しい声も全部浮かんでくる。
ずっと一緒にいたから。何年も一緒だったから。
律がどんな想いになってるかなんとなく想像はついてて、それが余計に胸を縛りつける。
「もしかしたら先に帰っちゃったのかもしれないわ、家に電話してみたら?」
「そ、そうだな……」
私は今すぐにでも律を探して回りたい衝動に駆られつつも、携帯電話を取り出して律の家に掛けた。
先ほど律の携帯に掛けてみたがそっちは電源が切られていた。
数度のコールの後、誰かが出た。
「も、もしもし律か!」
『えっ澪さん?』
聡だった。律が出るわけがないと薄々感づいてはいた。
『どうしたんですか?』
「聡、律は帰ってきてるか?」
左手で携帯を耳に当て、右手を胸の前で握り締めた。
痛いのをこらえるのと、律がいてほしいという願いを込めていた。
『んー……靴はあるからいるんじゃ』
「よ、よしっわかった! ありがとう。切るぞ」
私が電話を切る前に、ムギと唯は切なそうながらも笑みを零していた。私の言葉で伝わったらしい。
聡が何か言おうとしていたが私はすぐに切って、二人に告げた。
「律は家に帰ってるみたいだ……」
「よかったね澪ちゃん!」
「あ、ああ……」
このまま律が何処かに失踪してしまいそうな気がしたけど、そうでもなかった。
嬉しいけど、やっぱり悲しい。
複雑だ。喜べない。
「じゃあすぐに行こうよ! 電車そろそろだよ」
唯がそう言うと、駅に向かって走り出した。
その背中を見つめていると、ムギが私に尋ねてきた。
「澪ちゃん……さっきの、本当によかったの?」
さっきのとは、律を追いかける前に私がやった行動の事か。
確かにせっかくのことだけど、迷うことはなかった。
私がそうしたかったから。
「うん。律がいなきゃ、やっぱり……」
ムギや唯には悪いけど。
私は誰よりも律といたいんだ。
「……そうよね、ごめん。唯ちゃん追いかけましょ」
「う、うん」
私たちも走り出した。
律が捨てた参考書は、私の鞄の重みとして加わった。
「皆見て!」
唯とムギがそれを見て、不安そうに表情を歪めた。
「それ、りっちゃんの……」
「駅に向かったってことかしら?」
「わからない……わかんないよ!」
「澪ちゃん落ち着いて」
ムギが私の肩に手を置いた。
落ち着いていられるわけがなかった。
律が落ちた。
律が落ちちゃった。
私たち皆で通うはずだった大学に、律だけ落ちた。
律はそんな自分を情けないと思ったのか、番号が掲示された番号をしばらく見て突然走り出してしまった。
私はまさかと思ったけど、まさかは当たってしまっていた。
律が――。
律の悲しそうな顔が浮かんで、体が震える。律の涙や声が頭に残響する。
やめてくれって頭に懇願したって、嫌でも律の顔は甦る。律の優しい声も悲しい声も全部浮かんでくる。
ずっと一緒にいたから。何年も一緒だったから。
律がどんな想いになってるかなんとなく想像はついてて、それが余計に胸を縛りつける。
「もしかしたら先に帰っちゃったのかもしれないわ、家に電話してみたら?」
「そ、そうだな……」
私は今すぐにでも律を探して回りたい衝動に駆られつつも、携帯電話を取り出して律の家に掛けた。
先ほど律の携帯に掛けてみたがそっちは電源が切られていた。
数度のコールの後、誰かが出た。
「も、もしもし律か!」
『えっ澪さん?』
聡だった。律が出るわけがないと薄々感づいてはいた。
『どうしたんですか?』
「聡、律は帰ってきてるか?」
左手で携帯を耳に当て、右手を胸の前で握り締めた。
痛いのをこらえるのと、律がいてほしいという願いを込めていた。
『んー……靴はあるからいるんじゃ』
「よ、よしっわかった! ありがとう。切るぞ」
私が電話を切る前に、ムギと唯は切なそうながらも笑みを零していた。私の言葉で伝わったらしい。
聡が何か言おうとしていたが私はすぐに切って、二人に告げた。
「律は家に帰ってるみたいだ……」
「よかったね澪ちゃん!」
「あ、ああ……」
このまま律が何処かに失踪してしまいそうな気がしたけど、そうでもなかった。
嬉しいけど、やっぱり悲しい。
複雑だ。喜べない。
「じゃあすぐに行こうよ! 電車そろそろだよ」
唯がそう言うと、駅に向かって走り出した。
その背中を見つめていると、ムギが私に尋ねてきた。
「澪ちゃん……さっきの、本当によかったの?」
さっきのとは、律を追いかける前に私がやった行動の事か。
確かにせっかくのことだけど、迷うことはなかった。
私がそうしたかったから。
「うん。律がいなきゃ、やっぱり……」
ムギや唯には悪いけど。
私は誰よりも律といたいんだ。
「……そうよね、ごめん。唯ちゃん追いかけましょ」
「う、うん」
私たちも走り出した。
律が捨てた参考書は、私の鞄の重みとして加わった。
■
「本当に澪ちゃんだけで行くの?」
律の家の前で、唯はいつになく悲しそうに言った。
律と話すのは私だと宣言したからだ。
「うん。多分だけど、話してくれるの、私にだけだと思うし……」
ムギと唯に何も話さないかと言ったらそういうわけじゃない。
ムギも唯も律にとっては大事な友達であるのに変わりはないし、大学に落ちたからってそれが変わることはないだろう。
だけどそんな『友達』という関係だからこそ、律は今自分を責めているんじゃないかって思うから。
一人だけ落ちてしまった事を激しく後悔しているんだって、手に取るように分かる。
律の気持ちを一番知ってるのは、私だ。
幼馴染で、恋人の私だ。
「……その自信はどこからくるの?」
ムギがちょっとだけ苛立ったような口調で言った、気がした。ムギらしくなかった。
でもそれだけ自体を深刻に見ているんだなって思った。
その自信は……この自信は、どこからくるのかって。
言葉にするのは難しかった。
こうだから、という理由がない。
理屈じゃなかった。
「私は……私は、ずっと律を見てきたから……誰よりも律を理解してるつもりなんだ。何年も一緒にいたし、ずっと一緒だったし……」
やっぱりまとまらなかった。
だけど。
「私になら、なんとかできるんじゃないかなって……」
ムギは何か言おうとしたけど、押し留まった。
「私たち……待ってるからね」
唯がそう言った。ムギも遅れて頷く。
「ああ……時間かかっちゃうかもしれないけど」
幼馴染で親友で恋人で。
律の気持ちなんてこれ以上ないくらい知ってる。
でも今の律の気持ちを考えると、何を言えばいいのかわからなかった。
慰めるとか、元気を出させるとか。
わかんないけど。
ただ律には笑ってて欲しいだけなんだ。
泣いたまま塞ぎこんでる律なんて、見たくないんだ。
「じゃあ行ってくる……」
律の家の前で、唯はいつになく悲しそうに言った。
律と話すのは私だと宣言したからだ。
「うん。多分だけど、話してくれるの、私にだけだと思うし……」
ムギと唯に何も話さないかと言ったらそういうわけじゃない。
ムギも唯も律にとっては大事な友達であるのに変わりはないし、大学に落ちたからってそれが変わることはないだろう。
だけどそんな『友達』という関係だからこそ、律は今自分を責めているんじゃないかって思うから。
一人だけ落ちてしまった事を激しく後悔しているんだって、手に取るように分かる。
律の気持ちを一番知ってるのは、私だ。
幼馴染で、恋人の私だ。
「……その自信はどこからくるの?」
ムギがちょっとだけ苛立ったような口調で言った、気がした。ムギらしくなかった。
でもそれだけ自体を深刻に見ているんだなって思った。
その自信は……この自信は、どこからくるのかって。
言葉にするのは難しかった。
こうだから、という理由がない。
理屈じゃなかった。
「私は……私は、ずっと律を見てきたから……誰よりも律を理解してるつもりなんだ。何年も一緒にいたし、ずっと一緒だったし……」
やっぱりまとまらなかった。
だけど。
「私になら、なんとかできるんじゃないかなって……」
ムギは何か言おうとしたけど、押し留まった。
「私たち……待ってるからね」
唯がそう言った。ムギも遅れて頷く。
「ああ……時間かかっちゃうかもしれないけど」
幼馴染で親友で恋人で。
律の気持ちなんてこれ以上ないくらい知ってる。
でも今の律の気持ちを考えると、何を言えばいいのかわからなかった。
慰めるとか、元気を出させるとか。
わかんないけど。
ただ律には笑ってて欲しいだけなんだ。
泣いたまま塞ぎこんでる律なんて、見たくないんだ。
「じゃあ行ってくる……」
律が部屋にいるとわかっていて、私がここを訪れるのは何千何万回目だ。
そして『律の様子がいつもとは違う』という状態で律に会いに来たのも、何度目かだ。
だけど、頭の中はぐるぐると色んな事が渦巻いていた。
律が考えている事は、確かにわかるよ。
だけどそれを考えるだけど、階段を踏み切る足が崩れ落ちそうなほどに苦しかった。
痛かった。
律はあんなに気さくで活発な奴だけど、とても責任を重く感じて一人で背負ってしまう質だった。
だからあいつが何を思って私たちを置いて一人で帰ったかなんて想像に難くない。
だからこそ辛い。
階段をゆっくりと上がっていく。
律は足音だけで私とわかってしまうだろう。
だから私が律の家を訪れ階段を上がると、部屋から『澪ー?』と愛くるしい声が聞こえる。
そんなにわかりやすいのかとは思うけど、私も律の足音がわかるのでお互い様だった。
それも、相手のことを理解してる証拠なんだって知ってる。
でも今日は、律の声は聞こえてこない。
甘えるように名前を呼ぶ声は、今日は響いてこなかった。
それもまた、私の不安をさらに助長させる。
「律……?」
ドアの前に辿り着き、ノブを掴みながら声を出した。
返事はない。
私はすぐに入れなかった。踏み止まってしまった。
律に何を言えばいいのかわからなかったからだ。
慰めの言葉を言うだけなら簡単だった。
テレビや漫画で見たような励みの言葉なんかスラスラ言える。でもそんなの空想の世界だけだ。
そんなに簡単に傷ついた心を癒すことなんてできない。私の言葉でないのに、誰かに響くわけもない。
実際誰かが深く傷ついて、それを励ますなんてこと、簡単にできるわけがないんだ。
高校時代に喧嘩して、律が部活に来なくなった時もあった。
でもすぐに仲直りできたし、落ち込み気味だった律を笑わせられるのもすぐだった。
あの時はちゃんと律に素直になれたからこそだったと思う。
律ときちんと話して、想いを伝えれることが大事なんだって。
だけど今は、素直な言葉は出てこない。
慰めたい。立ち直らせたい。また律に笑ってほしい。
だけど私が『落ち込むな』なんて言ったって、律はそれを望んでいるわけがない。
私が律ならそんな言葉聞きたくない……落ち込まない方がおかしいだろって。
それも恋人にだ。
『立ち直れ』だなんて馬鹿馬鹿しい。そんなに簡単に立ち直れたら受験に失敗なんてしないんだよ。
私は奥歯を噛み締めた。
――どうして律が。
律は頑張ってただろ……なのになんで落ちてしまったんだ。
そりゃ受験する人は誰だって頑張っていただろう。落ちたい人なんて誰もいない。
だって落ちることは未来を潰すことだから。失敗は誰かとの約束を破ることだから。
自分と誰かの笑顔を潰すことだから。
私たちも、そうだった。
四人で一緒の大学って、決めて。一緒に通える未来を楽しみにしてた。
でも。
私は頭の中の笑顔が崩れていくのを感じた。
その未来は、少しだけ先になってしまった。
律の頑張りが、足りなかったのかもしれない。
落ちた理由がなんであっても、落ちてしまったのには他の誰かに勝てない要因があったんだ。
じゃなきゃ落ちるわけがないんだ。
だけど、律の頑張りが他の誰かの頑張りに劣ってたわけがないんだ。
律はいつだって皆の事を考えていたし、皆で一緒の大学に行こうって言った時すごく喜んでた。
そんな未来のために律が努力を怠ったなんて思えない。
律はそういう奴なんだ。ずっと見てきたからわかるんだ。
律は誰かのために何かを頑張れる人だってこと。
私はドアを開いた。
私は鞄をいつも置く場所に置いた。
掛ける言葉にやっぱり迷う。
律はまるで死んでるかのように静かだった。
――……!
「おい律!」
私は勢いよく駆け寄って布団を思い切り剥がした。
律はその布団を思った以上に強く掴んでいたのか、引き剥がせなかった。
それでも力を込めると、布団は吹っ飛ばせた。でも代わりに私は律の上に勢い余って倒れこんでしまった。
起き上がると私は四つん這いで、律を押し倒したような形になっていた。
律の顔が、目の前にあった。
息ができないほどに喉が詰まった。
律の顔は散々泣きはらした跡と、そしてまだ出続ける涙で濡れていた。
そしてどん底に突き落とされたような色で染まっていたのだ。
「律……」
やっと発せた言葉がそれだけだった。
「澪……」
私の名前を呼んでくれた。
だけど数秒視線が交わっただけで、律はすぐに目を逸らしてしまう。
「……ごめん」
それだけ言った。
私はさっきまで頭の中に色んな言葉や想いが入り混じっていたのに、それが全部真っ白になってしまっていた。
最初から言葉なんて決まっていなかった。
だけど頭の中の感情や気持ちは全部吹き飛んで、律の表情にただ狼狽するしかなかった。
だから、咄嗟に浮かぶ言葉に気持ちを委ねるしかなかった。
今私が表情を崩したら、ますます律を苦しめる。
私は笑って見せた。
「どうして律が謝るんだよ……」
私の出来る限りの優しい声色。
でも律は。
「……本当にごめん」
「だからなんで律が謝るんだって」
律の目から、大粒の涙は止まらなかった。
「……私、約束破っちゃった……」
やっぱり律は、皆との未来を壊した事に責任を感じていた。
仕方ないと思う。
誰でも律の立場なら、自分を責めるだろう。
当然私であってもだ。
それだけ私たちが目指していたものは、大きなものだったんだから。
「ごめん……本当にごめんっ」
悲痛な叫び。
律は涙を見せまいと片腕で目を遮った。
その姿に、思わず私も泣いてしまいそうになる。
何やってんだ。
律を笑わせに来たんだ。泣いてるんじゃないかって思って、案の定泣いていて。
それをどうにかしたくて、笑ってほしくてここに来たっていうのに。
まだ二人で笑い合いたいのに。
誰かが泣いてて、自分が笑うなんてできやしないんだ。
同情じゃない。
共鳴だ。
律の気持ちが私の気持ちなんだ。そこにいる律の気持ちや想いは、全部私に返ってくる。
律の想いがわからないなんてことはない。
何年も一緒にいるんだ。表情や仕草で心が覗けてしまう。
だから、律の気持ちがこんなにも胸を締め付ける。
「……だからっ、謝るなって」
私が告げた時、目を遮っている律の腕に、水滴が落ちた。
一粒。二粒。
「律は……律は悪くないんだ……っ……頑張ったんだよ」
涙の所為で喉が詰まり、咳き込んで、言葉がスラスラ言えない。
私、泣いてた。
「……でも不合格だった」
律は目を隠したまま言う。
「やっぱり私、口だけの馬鹿だった……」
「馬鹿じゃない!」
私の叫びは部屋にこだました。律は驚いたのかゆっくりと腕を退ける。
目が合った。
「律は馬鹿じゃない! 頑張ってた……私が一番知ってる!」
律が自分を責める。わかる。
でもそんなに自分を追い詰めないでほしかった。
律が自分を責めるのは、私が悲しい。悔しい。
律がそうなっちゃうのが、嫌だ。
「馬鹿なんかじゃ、ないよ……律は……」
ずっと律を見てきたんだ。
追いかけてたんだ。
一緒に色んな事をしてきたから。
だから。
「でも……でも落ちたんだよ。澪だってわかってるだろ……」
律は手を伸ばし、私の涙を指で拭った。
なんで私が涙を拭われてるんだ。
何しに来たんだよ、馬鹿澪。
「私はもう皆とはいられない。いる価値もないよ……」
吐き捨てるように。それでいて細くなっていく語尾と一緒に律は目を逸らした。
いる価値もない。
そんなこと。
「ないよ……そんなこと、ないよ律」
「あるよ。裏切ったんだぞ」
価値だとか、理由だとかそんなの。
「そんなの……関係ない」
関係ない。
価値とか理由に縛られた関係でもなかった。
ただ一緒にいたい。
そんな気持ちで今まで一緒にいたんだ。
「律……私、大学辞めてきた」
私がそう告げると、律は目を見開いてこちらに視線を向けた。
合格発表で律が走り去ってしまった後、私は大学の合格手続きの窓口で合格を破棄してきたのだった。
唯もムギも最初は止めてきたけれど、私は迷わなかった。
律がいないんなら意味がないときっぱり二人へ言い放ったのだ。
別に唯やムギと一緒にいるのが楽しくないわけじゃなかった。二人とも大切な友達だ。
だけど、律は――律は友達じゃなかった。
律は私の幼馴染で、親友で、恋人だ。
だから特別だったんだ。
四人でいるのは大事な夢だったけど、そこに律がいなきゃ嫌だった。
とにかく、嫌だったんだ。
依存だと罵られてもいい。
そうしたいという想いがあったから。
「私、やっぱり律がいなきゃ――」
その時だった。
台詞は遮られ、律は勢いよく体を起して私を押し倒したのだ。
ちょうどさっきまで私が律を四つん這いで見下していたのとは、真逆。
今度は律が四つん這いで、仰向けになった私を見下していた。
律は眉を寄せて、声を荒げた。
「馬鹿! 何やってんだよ!」
「な、何って」
「なんでなんだよ! 折角合格したのに! 澪はあんなに頑張ったのに!」
「だから律と通いたかったんだよ! 今まで一緒に勉強してきたのも、公立の推薦捨てたのだって全部律と一緒がよかったから!」
私がそう叫ぶと、律は何かを言いかけて押し留まった。
そうだった。
私は……私は律と離れたくなかった。
考えていた公立の推薦も、律と離れるぐらいならって蹴って。
それすらも簡単な決心で。
律は唇を震わせて、弱弱しく言った。
「私みたいな奴のために……絶対馬鹿だ」
「馬鹿馬鹿言うなよ。私がそうしたかっただけなんだ」
さっきから何度も反芻してた。
律と一緒にいたい。一緒じゃなきゃ嫌だ。
これからもずっと。
「律は私と一緒なの、嫌なのか?」
答えはなんとなくわかっていたけど、かまをかけた。
律は涙を腕で拭う。
「嫌なわけ、ない」
「ならいいだろ」
「そうじゃない……そういうことじゃないんだ」
いつまでも悲しそうなまま見下す律。
もっと簡単に、気持ちを伝えることはできないのか。
私は一瞬だけ考えて、その一瞬だけで答えを出した。
「律」
見つめ合う視線はいつだって優しかった。
だからなんだって許してくれる。
私だけの想いじゃないって、知ってるから。
「……――」
律の後頭部に両手を回す。
少しだけ力を込めて、抱き寄せるように。
唇を重ねた。
突然だから抵抗されるかと思ったけど、穏やかに律はそれを受け入れた。
もう何度目の、キスだけど。
でもいつもよりも想いを込めた。
「……っ」
少しして顔を離し、律は仰け反った。
律の顔は真っ赤だった。
「……なあ、律」
「……」
「私、律の事が大好きなんだ。だから大学も辞めた」
面と向かって好きだというのは、久しぶりだった。
「大学なんかよりも律が一番大事でさ……私だけ大学に通うなんて、考えられなかったんだよ」
「……唯やムギは、どうすんだよ」
さっきよりも少しだけ顔色のいい律が、それでも不安そうに囁く。
「あの二人は辞めないよ。私たちを待っててくれるんだってさ」
ムギは私が辞めるのを少しだけ止めてくれた。
唯はあんまり何も言わなかったけど、それは律と一緒にいてどうにかできるのは私だけだって思ってくれたからだろうか。
自惚れすぎか、私。
「……ごめんな、澪」
「なんだよさっきから」
律の涙は渇いていた。いや、多分泣きたい気持ちでいっぱいだろう。
だけどなんとか私の気持ちが伝わって、少しは落ち着いてくれたのだろうか。
そうであってほしい。
「澪が公立辞めて一緒の大学行こうって言ってくれた時、嬉しかったんだ。バンド続けられるのもあるし、何より澪と一緒なんだって思うと幸せで……」
律は諦めも含んだ――それでいて自嘲するように息を吐く。
そんな優しくも悲しい瞳を見つめることしかできなかった。
「だけど、やっぱり甘えてたんだ……どうせ受かるって思ってたんだきっと……頑張りは足らなかった……夢に本気じゃなかったんだ……私は」
律は夢には真面目だった。
皆で一緒にいられる未来を待ち望んでたのは皆同じだ。
「結果このザマさ……何が軽音部の部長だ。ドラムだとかリーダーだとか……調子に乗った癖に失敗して……失敗したら、全部意味ないのに」
言いたいことは山ほどあるのに、迷走して声にならなかった。
「夢はぶち壊し。澪にも皆にも迷惑かけて、澪は大学を辞めちゃって……全部、全部私が悪いよな……ごめん」
落ち着いていたのに、また泣き出しそうになる律。
いつもお調子者で元気な律。その癖こういう時だけ一人で背負いこもうとする。
そしてその『お調子者で元気な律』を、律は今否定した。
悩んだ時律が後ろ向きになるのは、随分前から知っている。
だけど今日はなんだか違った。
いつまで経っても泣きやまない。
そんな違和感を背に、私は告げた。
「……放課後ティータイムのドラムとか、部長だとかそれ以前に……私にとっては『田井中律』なんだ」
もし音楽をやってなければ一緒にいなかったか。
部長じゃなければどうとか。
そんなことない。
律がなにをやってようとどうであろうと、私は傍にいる。
「そこにいるだけで、私は嬉しいよ」
言葉が終わると同時に、私の頬に水滴が落ちた。
そして『律の様子がいつもとは違う』という状態で律に会いに来たのも、何度目かだ。
だけど、頭の中はぐるぐると色んな事が渦巻いていた。
律が考えている事は、確かにわかるよ。
だけどそれを考えるだけど、階段を踏み切る足が崩れ落ちそうなほどに苦しかった。
痛かった。
律はあんなに気さくで活発な奴だけど、とても責任を重く感じて一人で背負ってしまう質だった。
だからあいつが何を思って私たちを置いて一人で帰ったかなんて想像に難くない。
だからこそ辛い。
階段をゆっくりと上がっていく。
律は足音だけで私とわかってしまうだろう。
だから私が律の家を訪れ階段を上がると、部屋から『澪ー?』と愛くるしい声が聞こえる。
そんなにわかりやすいのかとは思うけど、私も律の足音がわかるのでお互い様だった。
それも、相手のことを理解してる証拠なんだって知ってる。
でも今日は、律の声は聞こえてこない。
甘えるように名前を呼ぶ声は、今日は響いてこなかった。
それもまた、私の不安をさらに助長させる。
「律……?」
ドアの前に辿り着き、ノブを掴みながら声を出した。
返事はない。
私はすぐに入れなかった。踏み止まってしまった。
律に何を言えばいいのかわからなかったからだ。
慰めの言葉を言うだけなら簡単だった。
テレビや漫画で見たような励みの言葉なんかスラスラ言える。でもそんなの空想の世界だけだ。
そんなに簡単に傷ついた心を癒すことなんてできない。私の言葉でないのに、誰かに響くわけもない。
実際誰かが深く傷ついて、それを励ますなんてこと、簡単にできるわけがないんだ。
高校時代に喧嘩して、律が部活に来なくなった時もあった。
でもすぐに仲直りできたし、落ち込み気味だった律を笑わせられるのもすぐだった。
あの時はちゃんと律に素直になれたからこそだったと思う。
律ときちんと話して、想いを伝えれることが大事なんだって。
だけど今は、素直な言葉は出てこない。
慰めたい。立ち直らせたい。また律に笑ってほしい。
だけど私が『落ち込むな』なんて言ったって、律はそれを望んでいるわけがない。
私が律ならそんな言葉聞きたくない……落ち込まない方がおかしいだろって。
それも恋人にだ。
『立ち直れ』だなんて馬鹿馬鹿しい。そんなに簡単に立ち直れたら受験に失敗なんてしないんだよ。
私は奥歯を噛み締めた。
――どうして律が。
律は頑張ってただろ……なのになんで落ちてしまったんだ。
そりゃ受験する人は誰だって頑張っていただろう。落ちたい人なんて誰もいない。
だって落ちることは未来を潰すことだから。失敗は誰かとの約束を破ることだから。
自分と誰かの笑顔を潰すことだから。
私たちも、そうだった。
四人で一緒の大学って、決めて。一緒に通える未来を楽しみにしてた。
でも。
私は頭の中の笑顔が崩れていくのを感じた。
その未来は、少しだけ先になってしまった。
律の頑張りが、足りなかったのかもしれない。
落ちた理由がなんであっても、落ちてしまったのには他の誰かに勝てない要因があったんだ。
じゃなきゃ落ちるわけがないんだ。
だけど、律の頑張りが他の誰かの頑張りに劣ってたわけがないんだ。
律はいつだって皆の事を考えていたし、皆で一緒の大学に行こうって言った時すごく喜んでた。
そんな未来のために律が努力を怠ったなんて思えない。
律はそういう奴なんだ。ずっと見てきたからわかるんだ。
律は誰かのために何かを頑張れる人だってこと。
私はドアを開いた。
私は鞄をいつも置く場所に置いた。
掛ける言葉にやっぱり迷う。
律はまるで死んでるかのように静かだった。
――……!
「おい律!」
私は勢いよく駆け寄って布団を思い切り剥がした。
律はその布団を思った以上に強く掴んでいたのか、引き剥がせなかった。
それでも力を込めると、布団は吹っ飛ばせた。でも代わりに私は律の上に勢い余って倒れこんでしまった。
起き上がると私は四つん這いで、律を押し倒したような形になっていた。
律の顔が、目の前にあった。
息ができないほどに喉が詰まった。
律の顔は散々泣きはらした跡と、そしてまだ出続ける涙で濡れていた。
そしてどん底に突き落とされたような色で染まっていたのだ。
「律……」
やっと発せた言葉がそれだけだった。
「澪……」
私の名前を呼んでくれた。
だけど数秒視線が交わっただけで、律はすぐに目を逸らしてしまう。
「……ごめん」
それだけ言った。
私はさっきまで頭の中に色んな言葉や想いが入り混じっていたのに、それが全部真っ白になってしまっていた。
最初から言葉なんて決まっていなかった。
だけど頭の中の感情や気持ちは全部吹き飛んで、律の表情にただ狼狽するしかなかった。
だから、咄嗟に浮かぶ言葉に気持ちを委ねるしかなかった。
今私が表情を崩したら、ますます律を苦しめる。
私は笑って見せた。
「どうして律が謝るんだよ……」
私の出来る限りの優しい声色。
でも律は。
「……本当にごめん」
「だからなんで律が謝るんだって」
律の目から、大粒の涙は止まらなかった。
「……私、約束破っちゃった……」
やっぱり律は、皆との未来を壊した事に責任を感じていた。
仕方ないと思う。
誰でも律の立場なら、自分を責めるだろう。
当然私であってもだ。
それだけ私たちが目指していたものは、大きなものだったんだから。
「ごめん……本当にごめんっ」
悲痛な叫び。
律は涙を見せまいと片腕で目を遮った。
その姿に、思わず私も泣いてしまいそうになる。
何やってんだ。
律を笑わせに来たんだ。泣いてるんじゃないかって思って、案の定泣いていて。
それをどうにかしたくて、笑ってほしくてここに来たっていうのに。
まだ二人で笑い合いたいのに。
誰かが泣いてて、自分が笑うなんてできやしないんだ。
同情じゃない。
共鳴だ。
律の気持ちが私の気持ちなんだ。そこにいる律の気持ちや想いは、全部私に返ってくる。
律の想いがわからないなんてことはない。
何年も一緒にいるんだ。表情や仕草で心が覗けてしまう。
だから、律の気持ちがこんなにも胸を締め付ける。
「……だからっ、謝るなって」
私が告げた時、目を遮っている律の腕に、水滴が落ちた。
一粒。二粒。
「律は……律は悪くないんだ……っ……頑張ったんだよ」
涙の所為で喉が詰まり、咳き込んで、言葉がスラスラ言えない。
私、泣いてた。
「……でも不合格だった」
律は目を隠したまま言う。
「やっぱり私、口だけの馬鹿だった……」
「馬鹿じゃない!」
私の叫びは部屋にこだました。律は驚いたのかゆっくりと腕を退ける。
目が合った。
「律は馬鹿じゃない! 頑張ってた……私が一番知ってる!」
律が自分を責める。わかる。
でもそんなに自分を追い詰めないでほしかった。
律が自分を責めるのは、私が悲しい。悔しい。
律がそうなっちゃうのが、嫌だ。
「馬鹿なんかじゃ、ないよ……律は……」
ずっと律を見てきたんだ。
追いかけてたんだ。
一緒に色んな事をしてきたから。
だから。
「でも……でも落ちたんだよ。澪だってわかってるだろ……」
律は手を伸ばし、私の涙を指で拭った。
なんで私が涙を拭われてるんだ。
何しに来たんだよ、馬鹿澪。
「私はもう皆とはいられない。いる価値もないよ……」
吐き捨てるように。それでいて細くなっていく語尾と一緒に律は目を逸らした。
いる価値もない。
そんなこと。
「ないよ……そんなこと、ないよ律」
「あるよ。裏切ったんだぞ」
価値だとか、理由だとかそんなの。
「そんなの……関係ない」
関係ない。
価値とか理由に縛られた関係でもなかった。
ただ一緒にいたい。
そんな気持ちで今まで一緒にいたんだ。
「律……私、大学辞めてきた」
私がそう告げると、律は目を見開いてこちらに視線を向けた。
合格発表で律が走り去ってしまった後、私は大学の合格手続きの窓口で合格を破棄してきたのだった。
唯もムギも最初は止めてきたけれど、私は迷わなかった。
律がいないんなら意味がないときっぱり二人へ言い放ったのだ。
別に唯やムギと一緒にいるのが楽しくないわけじゃなかった。二人とも大切な友達だ。
だけど、律は――律は友達じゃなかった。
律は私の幼馴染で、親友で、恋人だ。
だから特別だったんだ。
四人でいるのは大事な夢だったけど、そこに律がいなきゃ嫌だった。
とにかく、嫌だったんだ。
依存だと罵られてもいい。
そうしたいという想いがあったから。
「私、やっぱり律がいなきゃ――」
その時だった。
台詞は遮られ、律は勢いよく体を起して私を押し倒したのだ。
ちょうどさっきまで私が律を四つん這いで見下していたのとは、真逆。
今度は律が四つん這いで、仰向けになった私を見下していた。
律は眉を寄せて、声を荒げた。
「馬鹿! 何やってんだよ!」
「な、何って」
「なんでなんだよ! 折角合格したのに! 澪はあんなに頑張ったのに!」
「だから律と通いたかったんだよ! 今まで一緒に勉強してきたのも、公立の推薦捨てたのだって全部律と一緒がよかったから!」
私がそう叫ぶと、律は何かを言いかけて押し留まった。
そうだった。
私は……私は律と離れたくなかった。
考えていた公立の推薦も、律と離れるぐらいならって蹴って。
それすらも簡単な決心で。
律は唇を震わせて、弱弱しく言った。
「私みたいな奴のために……絶対馬鹿だ」
「馬鹿馬鹿言うなよ。私がそうしたかっただけなんだ」
さっきから何度も反芻してた。
律と一緒にいたい。一緒じゃなきゃ嫌だ。
これからもずっと。
「律は私と一緒なの、嫌なのか?」
答えはなんとなくわかっていたけど、かまをかけた。
律は涙を腕で拭う。
「嫌なわけ、ない」
「ならいいだろ」
「そうじゃない……そういうことじゃないんだ」
いつまでも悲しそうなまま見下す律。
もっと簡単に、気持ちを伝えることはできないのか。
私は一瞬だけ考えて、その一瞬だけで答えを出した。
「律」
見つめ合う視線はいつだって優しかった。
だからなんだって許してくれる。
私だけの想いじゃないって、知ってるから。
「……――」
律の後頭部に両手を回す。
少しだけ力を込めて、抱き寄せるように。
唇を重ねた。
突然だから抵抗されるかと思ったけど、穏やかに律はそれを受け入れた。
もう何度目の、キスだけど。
でもいつもよりも想いを込めた。
「……っ」
少しして顔を離し、律は仰け反った。
律の顔は真っ赤だった。
「……なあ、律」
「……」
「私、律の事が大好きなんだ。だから大学も辞めた」
面と向かって好きだというのは、久しぶりだった。
「大学なんかよりも律が一番大事でさ……私だけ大学に通うなんて、考えられなかったんだよ」
「……唯やムギは、どうすんだよ」
さっきよりも少しだけ顔色のいい律が、それでも不安そうに囁く。
「あの二人は辞めないよ。私たちを待っててくれるんだってさ」
ムギは私が辞めるのを少しだけ止めてくれた。
唯はあんまり何も言わなかったけど、それは律と一緒にいてどうにかできるのは私だけだって思ってくれたからだろうか。
自惚れすぎか、私。
「……ごめんな、澪」
「なんだよさっきから」
律の涙は渇いていた。いや、多分泣きたい気持ちでいっぱいだろう。
だけどなんとか私の気持ちが伝わって、少しは落ち着いてくれたのだろうか。
そうであってほしい。
「澪が公立辞めて一緒の大学行こうって言ってくれた時、嬉しかったんだ。バンド続けられるのもあるし、何より澪と一緒なんだって思うと幸せで……」
律は諦めも含んだ――それでいて自嘲するように息を吐く。
そんな優しくも悲しい瞳を見つめることしかできなかった。
「だけど、やっぱり甘えてたんだ……どうせ受かるって思ってたんだきっと……頑張りは足らなかった……夢に本気じゃなかったんだ……私は」
律は夢には真面目だった。
皆で一緒にいられる未来を待ち望んでたのは皆同じだ。
「結果このザマさ……何が軽音部の部長だ。ドラムだとかリーダーだとか……調子に乗った癖に失敗して……失敗したら、全部意味ないのに」
言いたいことは山ほどあるのに、迷走して声にならなかった。
「夢はぶち壊し。澪にも皆にも迷惑かけて、澪は大学を辞めちゃって……全部、全部私が悪いよな……ごめん」
落ち着いていたのに、また泣き出しそうになる律。
いつもお調子者で元気な律。その癖こういう時だけ一人で背負いこもうとする。
そしてその『お調子者で元気な律』を、律は今否定した。
悩んだ時律が後ろ向きになるのは、随分前から知っている。
だけど今日はなんだか違った。
いつまで経っても泣きやまない。
そんな違和感を背に、私は告げた。
「……放課後ティータイムのドラムとか、部長だとかそれ以前に……私にとっては『田井中律』なんだ」
もし音楽をやってなければ一緒にいなかったか。
部長じゃなければどうとか。
そんなことない。
律がなにをやってようとどうであろうと、私は傍にいる。
「そこにいるだけで、私は嬉しいよ」
言葉が終わると同時に、私の頬に水滴が落ちた。